Topaztan’s blog

映画やドラマの感想や考察をつづっています

屏風・衝立類から読む『鎌倉殿の13人』

 2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13』人では、美術の面でも大変興味深く観ました。衣装や小道具はもちろん、屏風や衝立などの室礼もとても印象的でした。その時代にふさわしい、雰囲気を盛り上げるというだけでなく、それを背負う登場人物の様子の描写にも大いに貢献していると感じられたからです。もちろん様々な制約もあったでしょうし、全てが意図的に配された訳ではないでしょうが、それでも絶妙に合ってるなあと思わされることが多かったです。また逆に「この時代にはないだろう」というのも発見し、それも面白く思いました。以下に詳しく述べていきたいと思います。

 

平安末期〜鎌倉時代の屏風の特徴

 

 初めに、鎌倉殿の時代、平安時代〜鎌倉初期の屏風についてご説明します。

 屏風の歴史は古いのですが、914世紀までの作品で残存している古屏風は極めて少なく、10点ほどしかありません。そして我々が見慣れている屏風類とかなり異なります。

 普通、屏風というと一枚の横長の絵を蛇腹に折り畳んだようなものを思い浮かべると思います。しかし古屏風は縦長の絵を何枚も繋いだもので、それぞれに縁取りがあります。鎌倉殿に出てくる屏風も全てそうです。これは画面が絹地であったことからの制約から来ていますが、後に紙地に移行して紙の蝶番が工夫されたことにより、六扇一括縁取りの屏風が生まれたとのことです(渡邉裕美子『歌が権力の象徴になるとき 屏風歌・障子歌の世界』(角川学芸出版2011))

 

 この頃の屏風について、『鎌倉時代の屏風(<特集>屏風)(家具道具室内史 : 家具道具室内史学会誌. (2) 家具道具室内史学会、2010 )に挙げられているものを若干説明を加えて紹介したいと思います。

https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10481178_po_ART0009701116.pdf?contentNo=1&alternativeNo&fbclid=IwAR2aq1RFD92KEJpOCRAs0rVeN8SJVxwbpwohRWrkoVw-bKqaRYyHwVVXJqA

 

・東寺旧蔵山水屏風(11世紀、平安時代) 国宝、京都国立博物館所蔵

 唐代の絵画に倣う擬古的な作風。唐絵屏風と考えられる。

 

e国宝 - 山水屏風

 

・山水屏風(鎌倉時代初期) 国宝、神護寺所蔵

 上記と対照的に、寝殿造の邸宅などを大観的な山水景観の中に散在させる。やまと絵屏風と考えられる 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%AD%B7%E5%AF%BA

(Wikipedia 神護寺の項目より)

 

 

・山水屏風(11世紀) 重文、高野山金剛峯寺所蔵

 山や木々を配し、神泉苑を描いたもの。

 

高野山水屏風(鎌倉時代) 重文、京都国立博物館所蔵

 高野山の山頂伽藍を整然と描いたもの。六曲一双の大きなもので、豊かな自然と人物と共に描かれている。

 

e国宝 - 高野山水屏風

 

・山水屏風(14世紀)重文、醍醐寺所蔵

 やまと絵山水屏風。長閑な景色の中に人物を配する

 京都 醍醐寺 文化財アーカイブス|醍醐寺の国宝・重要文化財

 

 

 これらは鎌倉殿のドラマの屏風を作る上で参考にされたものと思われます。

 

鎌倉殿での屏風・衝立

 

<頼朝>

・公的空間

 頼朝は大人数を謁見する広間では、黄色を基調とし、緑の山と朱塗りの建物を俯瞰的に配した華やかな屏風を用いています。それまで出てきた東国武者の使用してきた屏風にはない華やかさ、大きさで、大倉御所に入った頼朝の権威を強く印象づけます。色紙形も見られ、何らかの歌が書き付けられていると思われます。このような立派な、屏風歌をつけた屏風は相当の権力者でないと発注できないもので、平安時代には天皇や有力貴族しか発注していませんでした(『歌が権力の象徴になるとき 屏風歌・障子歌の世界』より)。まさに美と権力を誇示するためのものだったわけです。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第12話。“13人衆の文官3人も合流。(左から)大江広元(栗原英雄)中原親能(川島潤哉)二階堂行政(野仲イサオ)(CNHK スポニチ Sponichi Annex 芸能

 

 実はこれ、平清盛が使っている屏風と全く同じなのです。この屏風を頼朝が使い始めたのは清盛が生きてる時で、完全に被っていると言えますね。まあ、このような立派な屏風をドラマで2つも用意するのは難しいので使いまわしたという見方が妥当かもしれませんが(とは言え、鎌倉殿の大河ドラマ館ではドラマで使われたふしのない六曲双の山水屏風が大倉御所の再現として展示されていたこともあるので全く無理とも思えませんが鎌倉殿の13人『大河ドラマ館』がオープン  体感展示や撮影スポットも@鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」神奈川・東京多摩のご近所情報レアリア)、しかし一方で象徴的な読み取り方もできます。

 頼朝が清盛に成り代わって武士のトップに立つことが事前に暗示されてるとも読めますし、頼朝がその意欲を持ってる表れであるともいえましょう。そもそも清盛と頼朝は、昔に言われてたほど対照的ではなく、清盛政権と頼朝政権の間にはかなり連続性があることは夙に指摘されているところであります。ドラマでも頼朝の天皇外戚化への執念や、日宋貿易への意欲が描かれており、両者の類似性が見られます。

 

 ちなみにこの屏風には、もう一つ秘密があります。タイムパラドックスというか、頼朝や清盛が絶対使わなかっただろうと言える要素があるのです。

 私は初めこの屏風を見た時は、建物の感じから京の様子を描いたものかと思っていました。しかし調べてみると、上に挙げた高野山塔頭を描いた高野山水屏風に絵柄がそっくりなのです。両方とも六曲一双であり、ドラマ版はこれを模したものと見て間違い無さそうです。もっとも明確な違いもあって、高野山水屏風の方は二扇ごとに縁取りしていますがドラマ版は一扇ごとの縁取りです。高野山〜のニ扇一括縁取りは制作時期的に過渡期的な手法なのでしょうが、ドラマ版時点ではまだそのようなやり方はなかっただろうということでそうなってるのでしょう。

 で、真ん中あたりにある、裳階の上の白いドーム型や金色の宝輪が特徴的な建物。有名な多宝塔と思われますが、これは「北条政子が夫・源頼朝の逝去に伴い創建した禅定院の規模を拡大し、金剛三昧院と改めたときに造営することになったもの」(高野山金剛三昧院HPより多宝塔 | 金剛三昧院の魅力 | 金剛三昧院)…つまり頼朝の死後の建物なわけです。他にも描かれた景観や絵画の手法から、屏風の制作年代は128188年の間、つまり頼朝死後90年くらい経った頃ではないかと推測されています。

 これがわかると思わず笑ってしまいますが、おそらく時系列の整合性よりも、支配者にふさわしい華やかで荘厳な雰囲気を優先させたのでしょう。それによって私的空間との対比も強調されます。

 

・私的空間

 公的空間の華やかな屏風と打って変わって、あまり華美でない感じの衝立です。くすんだ金色が基調になっているので非常に地味というわけではないですが、岩山のようなものや黒っぽい木が微かに見える程度。緑は全くありません。親族を粛清していく孤独感のようなものすら伺えるようです。後白河院が私的空間でも、煌びやかな金粉を使った華やかな色目の屏風や障子を用いていたのと対照的です。その衝立の前で我が子を抱き上げたりもしますが、暗い顔をすることが多かった晩年でした。

 

・亀の前との部屋

 亀の前を囲っていた部屋には、上記の屏風類とはまた雰囲気の違う屏風が使われています。和歌を配した色紙形が印象的に、また装飾的に散りばめられており、京文化を示唆しています。亀の前は政子に対して和泉式部の和歌を引用してみせ、暗にそのような和歌の教養が頼朝との間を取り持ったことを示しますが、屏風歌が貼られた屏風もそれを示していると言えましょう。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第12話。亀(江口のりこ)と源頼朝(大泉洋)(CNHK スポニチSponichi Annex 芸能

 

<頼家>

・公的空間

 頼朝時代のあの高野山水屏風風な屏風を引き継ぎ、父の影を強く感じさせます。父の影を背負い、父と比べられるプレッシャーをこの屏風もまた表してると言えます。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第27話。“13人衆を「端から信じてはおらぬ」と言い放つ源頼家(金子大地)(CNHK スポニチ Sponichi Annex 芸能

 

 

・私的空間

 私的空間では頼朝の屏風は使わず、鮮やかな空色の海に千鳥が飛ぶ屏風。頼家の御家人や父のプレッシャーからの自由を求める気持ちが具現化したかのようです。この空間で自分が選んだ若手を集めて語りかけているのも象徴的です。鮮やかな色目は、頼家の着物ともマッチしていますね。(実は大姫の入内のあたりでも少しこの屏風が出ていますが、大姫の華やかな袿に目が引かれてそれほど目立ちません)

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第27話。御所・頼家の居室。若手御家人を集め、三善康信(小林隆・手前から2人目)を講師に、政について学ぶ源頼家(金子大地・奥)(CNHK スポニチ Sponichi Annex 芸能

 

<実朝>

・公的空間

 実朝に代替わりすると、もはや頼朝のあの屏風を使っておらず、新しい屏風を使い出しています。よく観察せずともパッと見でかなり色調の違う屏風であることから、二代目の頼家と違い、頼朝の影から脱した段階になったことを視覚的に示していると言えます。建物はあまりなく、緑の多い自然の中に僅かな人間がいる作風は、彼の和歌の作風を先取りしているようです。モデルとなった屏風はちょっと見当たりませんでしたが、強いていうなら醍醐寺の山水屏風が雰囲気が似ていますね。

 

画像・写真 | 【鎌倉殿の13人】源実朝(峯岸煌桜)が新たな鎌倉殿となる 32回「災いの種」あらすじ 2枚目 | ORICON NEWS

 

・私的空間

 屏風は使われておらず、衝立になっています。大和絵と和歌三首が配され、より実朝らしい感じです。屏風歌を記した色紙形も大きく、和歌も全文書いており(おそらく)、頼朝の装飾的な屏風歌と違う感じを与えます。頼朝は和歌をはじめとした京の文化に精通している様子が随所に描写され、それが坂東の女性たちを大いに魅了したことがわかりますが、あくまでも和歌はツールの一つ。実朝の場合ガチで好きであることが、この屏風に配する様子の違いで示されているとも言えます。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。源実朝(柿澤勇人)(CNHK スポニチ Sponichi Annex 芸能

 

 他にも全体に、置いてあるものなどがかなり実朝独自色を出しており、メモリアルブック(NHK2022大河ドラマ「鎌倉殿の13人」メモリアルブック』東京ニュース通信社2022)の美術の解説ページにある「頼朝を引き継いだ頼家に対し実朝の居室は個性をしっかり主張」(同書208ページ)という解説も首肯できます。

 

 ちなみに吾妻鏡では、和田合戦で焼失した大倉御所が再建されて移り住んだ際に、新御所に用いられる障子絵の風情が実朝の意に合わないため、その点について識者に聴くためにわざわざ使者を上洛させたそうです(太田静六『寝殿造の研究』吉川弘文館1987733ページ)。実朝が京文化はもちろん、室礼にもとても関心があったことが伺える面白いエピソードですね。こちらに見える障子絵も実朝が指示したものかもと思うと楽しいです。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第41話。鎌倉殿の証しの髑髏に誓う源実朝(柿澤勇人)(CNHK スポニチ Sponichi Annex 芸能

 

九条兼実

 34回で失脚した九条兼実慈円と面会するシーンでは、おそらく京の神社に雪が降り積もってる屏風絵が使われています。これは彼が冬の時代を迎えてることを感じさせます。時刻は夕方で、夕陽の物悲しい橙色に照らされており、そこでも彼が斜陽であることを示しています。

 

北条時政

 時政の背後には初期から一貫して、木の板に山野が描かれた野趣ある衝立があります。ひときわ高い山は、もしかしたら富士山かもしれませんが、シルエットが無骨な感じでかなり異なるので、蓬莱山のようにも見えますし、視聴者にはちょっとよくわからない感じです(美術の人の講演会の話では富士山だったそうです)。オフィシャルな場では屏風も背にしていますが、私的空間では伊豆にいた頃と同じものが。立場や衣装は変われども本質的に変わらない時政を表してるようです。

 

北条義時

 義時は最終章になってから真っ黒な富士山を描いた衝立を背にするようになります。富士は言わずと知れた日本一の山で、北条がてっぺんを取ったことを視覚化しているようです。また彼の衣装も真っ黒でそれに合わせた色彩でもあり、彼の「ダーク化」も感じられます。

 ただメモリアルブックでは「黒義時になった義時のバックに置かれた銀色の富士山。父親と一緒にいたいという義時の本音を、美術サイドで示したものだ」(同書206ページ)だと解説があり、美術としては義時と義政の親子の絆の表現としたかったようでした。私としては、まず富士山がテレビ画面ではどう見ても銀色ぽく見えないこと、義政と富士山を同一視するような見方はドラマでは出てこなかったこと、義政の背後の屏風の高い山があまり富士山らしくなかったことなどから、そのようなメッセージを視聴者が受け取るのは難しいと感じましたが、如何でしょうか。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第43話。源実朝の後継者問題に北条義時(小栗旬・中央)はCNHK スポニチ Sponichi Annex 芸能

 

北条政子

 政子の居室については、メモリアルブックでは「頼朝がいた頃は華やかだった政子の居室は、出家後は質素に。本が増えているのも特徴だ」(同書208ページ)とありますが、室礼的に見るとそんなに大きな変化はあるように見えません。向かって右側に飾られていた着物類や鏡が撤去されていること、書籍が増えていることくらいで、視野のメインに入ってくる屏風は頼朝時代そのままです。

几帳も同じく飾られています。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第27話。政子(小池栄子)は出家し「尼御台」に(CNHK スポニチSponichi Annex 芸能

 

 この変化の少なさはむしろ、政子が頼朝の死後も彼を忘れず偲んでいるさまを表してるという見方もできると思います。そもそも歴史上の政子は頼朝の妻としての立場で「後家の力」を発揮した人物であり、頼朝時代との連続性が視覚的に示されるのは適切なやり方のように思われます(ドラマ脚本上ではさほど後家の力は描かれていなかったように見えますが)。頼朝時代から使っていた屏風があまり華美でなく出家後に使っても違和感ないものであったのも、両方に使用できた理由かもしれません。

 また、これは尼御台所になってからかどうかはちょっとわかりませんが、政子の居室の室礼で気付くのは、障子に大きな橋が描かれているところです。常に様々な立場の人の橋渡しをしている政子らしい絵柄といえます。

 

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 以上、主要登場人物の室礼について述べてみました。他にも大庭景親の武張った屏風や朝廷方の華やかな障子絵など見どころが多かったです。

 映像作品は脚本だけでなく、演出や美術の表現するものに負うところが多いのはいつも感じますが、鎌倉殿は本当にそれを感じました。そして視聴者は、それらが表現するものを総合的に感じ取り、ひとつの物語として受け止めているわけです。ドラマは映画などに比べて脚本ばかりが注目されがちですが、そのあたりをもっと意識して観るとより楽しみが広がるように思います。

『鎌倉殿の13人』とセクシャルマイノリティ表象〜大河での同性間の愛の表現の画期性とその限界

※論をわかりやすくするためにドラマのキャプチャ画像を載せていましたが、本文章が著作権法上の例外事項である「批評」に当たらない可能性があることを考慮し、削除させて頂きました。2022/1/8

※「夢のゆくえ」のところで「画面からは千世がはけて実朝と泰時だけに」→「千世が右隅に行き顔が映らなくなり後ろ姿になり」に訂正しました。2023/2/14



 2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、源実朝が異性に性的に接することができなく、かつ同性に想いを寄せる者であるという描写がなされました。しかも彼が恋する相手は、主人公義時の息子泰時。ガッチリとドラマの本筋に関係する人間関係です。練られた脚本はもちろん、演じた役者さんたちが大変見事に、繊細に演じてくれたおかげで、また凝った演出が行われたこともあって、本当に印象深いものになりました。

 これは大河ドラマでの同性間の愛を描いたものとしては、大変意義のある、画期的なものだと私は感じました。同性間の愛の表現において

・主要登場人物の間で起こっていること

・数話に渡って持続し、丁寧に真面目な真摯な愛情として描かれていること

・匂わせなどではなくはっきりと「恋」という言葉が使われていること

 などの点で、従来の大河ドラマにはなかったものと言えるからです。

 たとえば『鎌倉殿』と時代の近い大河『平清盛』でも藤原頼長の同性愛が扱われました。『台記』で書かれている頼長の同性愛(頼長自身は妻子があったので、現代的な言い方ではバイセクシャル)についてスルーせずに描いたこと自体は評価されるべきことだと思います。ですが彼が平家盛に迫る様子は不気味な雰囲気であったり強引であったりと比較的ネガティヴな文脈で描かれました。確かに当時の貴族の間では、同性同士の性関係は政治的な上下関係を築く手段という側面もありましたが、現代社会への同性愛への眼差しを考えると、偏見を助長しかねない描写とも言えます。(実際当時のネットでは、視聴者がネットスラングでホモォなどの言葉でからかう様子も見られました)

 また「複数回にわたって」というのも重要です。実朝は39回で泰時に和歌を通じて恋心を示しましたが、実はその何回か前から随分伏線がはられていました。39回では泰時は間違いではと言って返却してしまい、二人の関係は一旦途切れたように見えます。しかし和田合戦以降再び二人は繋がりを持ち、深い情や敬意を含んだ陰影に富んだ関係性を築くようになるのです。

 

 このままいけば、実朝と泰時の関係は、実朝の死後もなんらかの形で影響を及ぼすのではないかと期待されました。御成敗式目」などのような政治的事績、あるいは泰時の成長の大きな契機になるのではないかと。実際、政治思想において泰時は実朝に近く、彼から大きな影響を受けているという複数の研究者の指摘もあり(五味文彦著『源実朝 歌と身体の歴史学角川学芸出版2015 など)、歴史的な視点でも妥当性のある見方です。

『鎌倉殿の13人』いよいよ最終回「三谷脚本」は史実とどう折りあったか 時代考証に聞く<下>: 読売新聞オンライン

 

 ところが実朝の死後、二人の関係の影は突然消えてしまいました。実朝暗殺の45回の時点では、泰時は実朝の死に大変ショックを受け、間接的に実朝を見殺しにした父義時に対して父への宣戦布告的な、父からの自立を匂わせる表現もありました。しかしその後の回では泰時は実朝を思うような台詞をひとつ口にしますがそれきりです。父との関係も、数話前に戻ってしまったように生ぬるい「ケンカ」というべきもので、自立的な雰囲気は消えました。そのかわり、泰時は初との絆が強調され始めます。最終回で御成敗式目を見せているのも初です。泰時の在り方が同性愛の文脈から急速に夫婦愛、親子愛の文脈に引き戻されているのが見て取れます。

 

 その他にも、そもそも制作者側(除く俳優)が実朝と泰時の関係にふれたがらないという問題を常々感じていました。総集編での二人の関係描写を完全カットした扱いにも如実に現れています。せっかく大河史に残るような大変意義深い同性愛表象を行ったのに、制作側がそれに対して及び腰で、最後はなかったことにするような態度が見えて、非常に残念でなりませんでした。

 以下に、その画期性及び意義と限界について、感じたことを書いていきたいと思います。

 

数回にわたって丁寧に描かれる実朝と泰時の絆と成長

 実朝と泰時の関係は、実朝役が大人の俳優に代わった34回から既に描かれ始め、実朝の死に至るまで続きます。各回を詳しく見ていくと、二人の間の恋情やお互いを大切に思う気持ちと成長が、ひそやかに、しかしじっくりと紡がれていることに驚かされます。史実の実朝は泰時と恋愛関係にあった証拠はありませんので(和田朝盛を寵愛していた節は見受けられます)、むしろここまで二人をそういう関係で描くことには強い意志を感じさせます。

 

34回 理想の結婚

泰時を目で追い、妻について尋ねる実朝・単に未知の結婚に対する不安感だけではないことがほのかに示される

 御台所選びを勧められるも気乗りのしない実朝。それは一見歳若いせいかと思われますが、泰時への態度で何か違うのではと思わせます。

 夜、身の回りの世話をする泰時を見つめる実朝。礼を言いつつ、「そなたは妻はいるのか」と伏し目がちに問います。妻という言葉を言いにくそうに言い、語尾が微かに震えています。続けて「仲はいいのか」と相変わらず浮かない顔で問う実朝に屈託なく答える泰時。結婚を祝う言葉を述べられて悲しげに目を伏せて微笑み、彼が立ち去るのを一瞥しまた目を伏せる様子から、何かただならぬ感じが漂います。純粋に好奇心や世間話で質問してるのではないことは明らかです。

 その直後、場面が変わって泰時が義時に、実朝は顔色が最近優れぬがなかなか気持ちを話さないので周囲が察する必要がある、と話します。これは実朝の悩みの対象が泰時と分かると大変皮肉なシーンでありますが、何食わぬ顔で対応していた泰時も、実は実朝の沈んだ感じを読み取っていたのだとわかり、泰時の実朝への優しさを感じます。

 またこれはある意味視聴者へのメッセージのようにも見えます。言外の意味やシチュエーションを読み解いて察してほしいというそして実際注視して見れば、まだほのかなものではありますが、泰時を気にする気持ちと結婚を忌避する気持ちが絡み合っているのがわかるのです。

 

 年代的には元久元年の出来事で実朝は12歳なのですが(一応前年に元服しており結婚可能な年齢ではある)、あえてこの時点で大人の俳優を投入したということは、上記のような繊細な感情の動きを大人の演技力で表現してほしいからではないかと感じます。

 後日、馬の稽古があると実朝に告げて去っていく泰時。彼が近づくとはっと見上げ、嬉しそうに返答して彼の後ろ姿を見送る姿は、いかにも幸せそうです。泰時と少しでも会話する時間が大切なものだということが伝わってきます。

 

35回 苦い盃

婚姻後も泰時を相変わらず目で追い、妻について再び尋ねる実朝・理想的な妻を迎えても泰時への想いがますます募る様子

 お雛様のように美しく高貴な姫を迎えた実朝ですが、婚姻の席でも盃をなかなか口にしようとはせず周囲から不審がられます。飲み干したあとも浮かない表情。不穏な劇伴が流れます。

 その次の実朝のシーンは、三善殿と和歌の講習ですが、筆が進んでいません。それを三善殿は御台所を迎えて気もそぞろなせいでしょうと言い、実朝は目をふせて苦笑します。そこで視線を画面右手の縁側の方にやると、はっとした表情を浮かべる実朝。そこには泰時が座っていて、雅な劇伴が流れます。しばし休憩にしたいと告げる実朝ですが、筆を置く間も惜しんでじっと泰時を見つめ続け。彼が本当に心奪われて気もそぞろになっている相手が誰かがわかるのです。婚姻の場との見事な対比です。

 政子と義時のシーンを挟んで、再び実朝たちへ。縁側に立って泰時に再び妻について尋ねます。名前も覚えていて、どんな女性か知りたがる実朝。泰時の答えをなんとも言えぬ悲しげな表情で聴きますが、まるで惚気のようだと泰時に顔を向けて冗談めかして言う時は、オフィシャルな上司の顔に戻っています。二度も泰時の妻について訊くとは、かなり異例なものを感じさせます。

 気晴らしに泰時を伴って義盛邸に赴きますが、そこでも泰時を意識してるのがわかります。ここに来ると不思議と心が落ち着くという言葉に、分かる気がします、と返す泰時を、とても嬉しそうに見つめて頷く実朝。なんてことない会話なのですが、ちょっとしたことでも意見の一致を見るのがとても嬉しいのが伝わります。その後義盛の子について泰時が質問した時も彼の方に顔を向け、彼を見続けているのがわかります。

 そして歩き巫女の言葉。集団での占いで「雪の日に出歩くな」という言葉に代表されるように彼女の慧眼が示されたあと、実朝と二人だけの時に、彼の「悩み」を普遍的なものだとする慰めを与えます。ここで現代人の我々は、なにがしか感じるものがあります。

 

36回 武士の鑑

 この回は絡みなし。(実朝自身ほとんど出番なし)

 

37回 オンベレブンビンバ

 引き離されることによる不在の泰時への想いの顕在化

 二人が直接逢うことはありませんが、示唆的なシーンはあります。

 義時の希望で近習が泰時から時元に交代。時元が御台所に紹介されている間も扇を弄びながらソワソワし、「江間泰時は?」と聞きます。お役替ですと言われた時の、ショックというか放心状態の実朝の顔が印象的です。ここで泰時への思慕を確信した人も多いようです。泰時も交代に不満ですが、自分のやり方を側で見ておけと義時に言われます。時元は実朝の乳母子ながらコンプレックスと対抗心を募らせており、とても泰時と盛綱のような関係ではなく実朝の孤独が際立ちます。

 小骨があって魚が食べづらそうな実朝に、小骨を取りましょうと提案する千世ですが、咄嗟に身をひいて、いやいい、お腹がいっぱいだと断ります。さてそれまで近侍して色々お世話して、小骨を取ってあげていたのは??という疑問すら浮かぶシーンでもあります。

 

38回 時を継ぐ者

 この回は絡みなし。

 

39回 穏やかな一日

ついに想いの告白と間接的拒絶・しかし泰時も深く思い悩む・義時の専横と実朝への恫喝的態度が明確に

 この回は実朝の和歌を大胆に活かした素晴らしくも大変切ない回として、視聴者に大きなインパクトを残しました。私も鎌倉殿屈指の名作回だと思います。

 実朝はここで初めて泰時への恋心を和歌で告白します。これまでの実朝の描写の積み重ねに気付いていた者はやはりそうか、という気持ちにさせられ、気づかなかった者にも、今回のはっきりとした描写で恋してることがよくわかるようになっています。

 この回の年代は承元二年〜建暦元年までの4年間を1日に圧縮して描いたものなので、実朝が和歌を贈った年代を特定するのは難しいですが、強いて言うなら、吾妻鏡で義時の郎党を侍に準じることを拒否したのが1209年なので17歳ほどでしょうか。『源氏物語』の光源氏も雨夜の品定めや夕顔との逢瀬の時の年齢が17歳、藤壺とちぎって藤壺懐妊、最愛の人となる紫上を引き取るのが18歳であるのを考えると、当時のその年代の成熟度がわかるというものです。生涯慕う人に恋文を贈るには充分ふさわしい年齢と言えます。

  

 裁きの場で義時に遮られ、御所の庭で自分はいてもいなくてもいいのではと落ち込む実朝を、泰時がそんなことはないと慰めます。その時の泰時はとても美しく撮られていて、実朝の目から見た姿を視聴者も見ているようです。実朝の表情も実に雄弁に気持ちを物語っています。

 そして別のシーンでウキウキと和歌を渡し、返歌を楽しみにしていると告げて去ります。 

 切的の矢の腕比べの場も彼の恋心が爆発しています。夢中で泰時を応援し、彼が射る番になると居住まいを正す実朝。成功すると強い嬉しさを抑えようとしてでも抑えきれない感じで喜びます。しかし盛綱と抱き合って喜ぶ泰時を見て、すんとなり。盛綱を侍に取り立てたいという義時の提案を、分不相応だといつになく厳しい口調で退けたところでも、実朝の感じた嫉妬ややるせなさが伝わってきます(取り立て拒否は前述した吾妻鏡の記述を参考にしていると思われます)。しかし和田義盛の件を持ち出してある意味正論をぶちかました実朝は義時の逆鱗に触れ、自分はもう鎌倉に不要でしょう引退しますと恫喝されてしまいます。この頃から、北条一強体制の理不尽や義時の専横ぶりが目立ってきます。

 

 一方和歌の返歌に悩む泰時。そこへ源仲章がやってきて、恋の歌であると読み解きます。

 「春霞 たつたの山の さくら花 おぼつかなきを 知る人のなさ」

「これは恋する気持ちを読んだもの」「切なきは恋心」と言われて自分宛の恋文だと気付いた泰時は、さっと歌をしまって去ります。

 そして夜、「鎌倉殿は、間違えておられます。これは恋の歌ではないのですか」と、返歌もつけず笑顔で返してしまうのです。大変ショックを受ける実朝ですが、無理に笑顔を取り繕って、そうであった、間違えて渡してしまったようだと答え、別の歌を渡します。有名な「大海の 磯もとどろに 寄する浪 破れて砕けて 裂けて散るかも」です。断られた時のための歌も用意しておくほど心の準備をしていたのでしょうが、まさかの返歌なしや間違い発言まであるとは思ってなかったのでは。泰時の後ろ姿を見送る実朝の顔はあえて映されませんが、かえって彼の表現しきれぬ深い哀しみが伝わってきます。

 

 いつの時点で泰時がこれが失恋の歌と気づいたのかは定かではありませんが、自宅でその紙を見つめている時には確実にわかっていたと思われます。もしかしたらあの恋の歌は戯れだったのかも、という微かな期待をしていたかもしれませんが、壮絶な失恋の歌を受け取り、実朝の様子も見て、自分がいかに深く実朝を傷つけたか、否応なしに悟ってしまったのでしょう。慣れない酒を煽り続ける様子から、その罪悪感や、やり場のない気持ちが溢れ出るようです。

 

 ちなみに「春霞〜」の歌を泰時への恋心の歌として提案したのは和歌文化の研究者、渡部泰明氏だそうです。氏の講演によればこの歌に病み衰えた自分を見られたくないという解釈を加えたのは脚本家氏だそうで、この回の冒頭で疱瘡の跡を気にしている実朝と合致して、信憑性と切なさをぐっと高めています(吾妻鏡でも疱瘡のあとを気にして、病後3年間にわたって鶴岡八幡宮の参拝を取り止めた) 。和歌を使った丁寧かつ大変切ない作劇には大変素晴らしいものを感じます。

 

https://youtu.be/m9CxX38fY0I

 

 

40回 罠と罠

族滅によらぬ安寧の世を築きたい泰時像が示され、和田合戦での大量戦死者にショックを受ける実朝につながる伏線

 

 この回は絡みなしですが、幾つかの伏線があります。

 北条の世を盤石にするため和田には死んでもらうと言う義時の言葉に、泰時が誰とも敵対せず安寧の世を築くと反発、謹慎を言い渡されます。後の実朝の和田合戦をへた考え方との一致の布石と言えましょう。

 また実朝は歩き巫女のところに御台所の千世を伴います。前回千世に、女性を性的に愛せないことをカミングアウトして以来、実朝はそれ以外の点では良き優しい夫として振る舞おうとしている様子が伺えます。しかし歩き巫女には、敬いあっているもまだ寂しさのある千世の心情を見ぬかれます。実朝と千世が睦まじい関係でありながら、実朝の心にはまだ誰かがいることを暗示するようです。

 

41回 義盛、お前に罪はない

劇的な実朝と泰時の再会・義時の陰から2人して逃れ出る・大量の戦死者を前に自分で政をする決意をする実朝

 

 しばらく前から燻っていた、義時専横の問題がいよいよ和田合戦という凄惨な戦いという結果に結実し、実朝が政治家として自立を決意する回です。それと同時に、泰時と劇的に再会、彼を政治的なパートナーとしていくことも暗示する回でもあります。

 信頼する臣下を目の前で騙し討ちのように惨殺され、過呼吸になりそうなくらい嗚咽する実朝。彼を後ろから抱き抱えて義時を睨む泰時。御家人への見せしめであると同時に実朝への見せしめであることも感じてるせいであるとも思われます。

 戦場を苦々しい顔で去る義時。若い二人はしばらく義時の背後に隠れた状態にいますが、やがてそこから逃れ出るように、左手(八幡宮)に向けて泰時が実朝を庇うような形で抱えてゆっくり去ります。この構図には、その後主従関係を結んで義時という巨大な存在の陰から脱し、二人して義時へ対抗していくさまを予感させます。

 合戦の後に、泣き腫らした目で戦場を彷徨う実朝の「政とはかくも多くの者の屍を必要とするのか」という呟きは、自分で主体的に政をしなければ、今後も義時の意向でこのような悲惨な殲滅戦が行われることを悟ったことが伺われます。比企の族滅などを経てきた泰時同様、この惨劇をなくした世の中を作らねばならないという決意を実朝も身を持って実感したことがわかります。そこから義時に向かって鎌倉には誰じられる者がいない、上皇を手本とするという宣言につながるのです(ただしそれをなぜわざわざ義時に言ったのかがよくわかりませんが)

 

42回 夢のゆくえ

義時への対抗戦線として腹心の臣下と君主の絆を結び政治活動をし成長していく実朝と泰時・だが実朝の押し隠した想いはなお溢れ出る

 

 和田合戦の反省を踏まえ、義時に対抗しうる権力基盤を作るために泰時にちからを貸してほしいと言う実朝。泰時もそれに応えます。

 確かに表立って義時に苦言を呈する御家人は息子泰時くらいしかおらず(しかも粛正される危険性がない)政治的に極めて正しい選択と言えます。しかし実朝の中にはいまだ泰時への想いがあることは、表情や挙動に見て取れます。

 鎌倉を源氏の手に取り戻す、と言う時は瞬きもせず力強い表情。次に義時に意を唱えることができるのはお前だけだからだ、という理由を述べるところでは沢山瞬きして唇をキュッと引きむすんだり、明らかに何か動揺した心理をあらわしています。これは見間違いようがありません。

 異を唱える〜、それは表の理由であり、また正当な理由でもあるのですが、泰時への秘めた気持ちが存在していることも暗示しているのです。

 そして泰時の方も、ただ単にスカウトを受けることを表明してるのではありません。彼はそれをかなり大変な決意を持って受けること、そして以前の恋の歌を受け取ったことを何かしら意識していることが分かるようになっています。

「鎌倉殿にこの身を捧げます」と言うのです。これはこの手の誘いに対しては、随分と思い詰めた表現です。普通、後の回で三浦義村が口にするセリフのように、身命を賭しておつかえいたしますとか言うのが通常の主従関係というものです。

 これは演技演出面でも強調されます。それまでバストアップを交互に映していましたが、この身を捧げますというセリフの時は横からのアングルで、言い方も力強く言うというより、なんらかの湿度を帯びたニュアンスの言い方に。それを受ける実朝も、単にうむ、というのではなく、おさえがたい幸福感が滲みでてしまっています。

 そこで実朝と泰時はタッグを組んで政治活動を始めますが、なかなか順調にいきません。民を思って減税対策をすれば義時から不備を恫喝的に言い立てられ、宋船を作れば実朝の権威向上を危惧した義時の陰謀によって挫かれて挫折します。泰時の方も、まだ義時に頼る気持ちが残っていて、陳和卿の話に疑いを持つとすぐ義時に相談してしまい、結果的に実朝がはめられてしまう事態を招きます。宋船の失敗の時、桟敷で御家人や親族が全て去ってしまい、生母政子だけが、涙でいっぱいになった瞳で座り込む実朝を抱きしめますが、泰時もまた、桟敷に残ってやるせなく実朝を見つめます。傍に寄ることも叶わず、少し離れたところからですが

 それでも二人は頑張り続けます。宋船の失敗にめげないよう政子に叱咤激励された実朝は、親族を集めて自分に子供ができないことを宣言、宮廷から養子を迎えて自らが大御所として支えると言い渡します。親族の集まりのせいか泰時は後方にいますが、話を進めるようにという実朝の言葉に即座に頭を下げて承り、この件は打ち合わせ済みであることが判明。そしてなおも色々言う義時に、執権殿は自分の思い通りにしたいだけなのですと皮肉を言い、「鎌倉は父上一人のものではない!」と声を荒げます。すぐに義時に一喝されますが、泰時なりに一生懸命、北条から源氏の手に取り戻すという実朝を支えようとしているのがわかるのです。これまでオフィシャルな人々の前で父に大声で噛み付いたことはないので、大きな進歩です。まだ「だからそのために自分は〜する」とまでいきませんが、後の「鎌倉を父上の思い通りにはさせない」まであと一歩です。

 

 また興味深いのは、実朝の公的な配偶者の千世と泰時が同列に配される、やや緊張感のあるシーンがあることです。宋に渡る夢を実朝が語るシーン、初めは千世だけが映り夫婦水入らずのように見えます。しかしカメラが左に移動すると、なんと泰時が座っていて、実朝は泰時に語りかけます。千世が右隅に行き顔が映らなくなり後ろ姿になり。宋に一緒に行ってほしいと誘う言葉に嬉しそうにお辞儀する泰時ですが、その画像にかぶせるように、今度は実朝が寂しそうにしている千世に向かって語りかけ、一緒に行ってほしいと言って千世の手を取るところで終わります。ここで泰時は、ぽつんと座って真顔でまたたきして二人の様子を見つめます。このシーンは、実朝にとって公的に愛する配偶者と、密かに愛する臣下とが同列に扱われるシーンであると同時に、実朝が無自覚に二人を天秤にかけるような仕草をしてしまい気持ちを傷つけてるシーンにも見えます。泰時は千世と実朝が結ばれていないことを知らず、自分をいわば差し置いて夫婦で親密にしてるところを目の当たりにして、微笑ましいどころの気持ちでないのが明らかです。また泰時が複雑な気持ちになるということ自体が、彼もまた実朝に一般の主従以上の気持ちになっていることを示しています。

 

43回 資格と死角

実朝泰時の政治的成長〜ついに義時と拮抗しうる成長を見せる実朝・政治家としての信頼の中に自分への私的な想いが入り混じっているのではという苦悩(おそらく)・しかし実朝との関係という秘密を有したことで父からの自立の萌芽

 

 前回の終わりあたりから如実に明らかになってきた実朝の成長。不安げに大人の顔色を伺って、何かあるとしょげていた少年の面影はありません。義時に対してすら、優しくでも有無を言わさぬ言い方で、なみいる御家人たちの前で圧倒していく姿は圧巻です。信頼する、そして密かに慕う忠臣泰時とタッグを組んで政治を行ってきた自信が彼をここまで成長させたのでしょうか。

 泰時も、長老格の人々がそんな実朝を押さえつけようとするのを、なんとか跳ね除けようと頑張ります。養子の話をまだ可能性なのだからベラベラ喋るもんじゃないと言う実衣に、周囲に話すことによって後に引けなくしているのですと援護射撃したり、親王将軍の話を御家人たちを集めてする時に、実朝の話を遮って高圧的に話そうとする義時を鎌倉殿が話してると言って嗜めたり。

 

 そのように二人して成長していく実朝と泰時ですが、政治上の主従としてうまく歯車が回っている良好な関係であるというだけでなく、実朝はいまだに泰時を想っていることがわかります。どんどん官位があがりついに左大将にまでなった実朝。お祝いを言う泰時を、ちらりとおさえがたい嬉しさを込めた眼差しで見つめます。

 そして泰時にも相応の官位をやりたいと述べますが、ちょっとそわそわして普通の心情ではないことが見て取れます。実朝は泰時への感情が絡むと少し挙動不審気味になるようです。もちろん腹心の部下の地位が上がることは自分の権力基盤が強化されることになるので、政治的にも正しい判断です。

 微笑みつつ畏れ多いことでございますと言う泰時ですが、その官位取得に北条のライバル源仲章がいっちょがみして讃岐守にしましょうと言い出したので義時が若輩者だと言って大反対。夜になっても泰時の元に押しかけてきてやめろと言います。泰時も自分も辞退しようと思っていたと告げます。

 

 さてここで気になるのは、なぜ彼は讃岐守を辞退しようとしたかということです。史実でも辞退したわけなのですが、このドラマなりの色付けがあるように思われます。

 客観的に見れば文句なく、また後ろ暗くなく素晴らしい昇進であることは、初たちの口ぶりでわかります。義時が反対するのは仲章の件があるのでわかるのですが、泰時の理由は明言されていません。仲章の件は泰時は知らなかったわけですし、推察されることとしては、それが実朝の愛によるものなのではと密かに感じてるのではということです。たびたび描写される実朝の想い、泰時も敏感察知していると思われます。そして泰時自身も、実朝に普通の主従以上の感情を持っていることがたびたび示唆されています。そのような、極めてプライベートな関係を政治に持ちこんでいるような落ち着かなさを泰時は感じてるのではないか…というのは無理のない推察です。

 しかしもはや泰時は義時にそれを告げません。なんでも父に伝えていた、父の子供としての存在ではなく、父対して秘密を持った、独自の自我が芽生えていることを感じさせるのです。泰時は幼い頃から義時が育てた初と結婚し、政治的に父に対立する意見を述べるとしても、その理由も義時はよくわかっています。そのように義時にとって透明な稚魚のようだった泰時が突然不透明な存在になったわけです。泰時は父が官位辞退を主張する理由を注意深く聞き出そうとしており、自分たちの関係性がばれていないか危惧しているようでもあります。

 子供は思春期以降恋愛などを通して親に秘密を持って、親離れを果たします。実朝との秘めた関係が彼の親離れの一歩になったように見えるのです。

 

 

44回 審判の時

実朝を案ずるあまり実朝の想いを前提にした「わがまま」を申し出る泰時・それを嬉しく思うも拒絶する実朝〜そこから辿りつく自己の政治的正当性を揺るがす「真実」

 

 実はこの回から少々「実朝と泰時」のストーリーがおざなりにされ始めます(全体に色々唐突になっていくのですが)。その最たるものが、実朝が御所を京に遷す話をいきなり義時にしだすことです。普通そんな大事なことはこれまでの流れからすると真っ先に泰時に相談すると思うのですが、その形跡がなく不自然に。史実的にもあり得ないこの実朝の意向、義時に実朝を見限らせるフックを与えたいという作劇上の動機が、これまでの流れをぶつ切りにしているように見えます。

 

 それでも、公暁の動きを察知して不安になった泰時が護身用の懐刀を「太郎のわがまま」というパワーワードで表現するというチカラ技で、二人の特別な絆を際立たせているのはさすがと言えましょう。自分を案じて武装を勧める泰時を、心配性だなあというふうにおかしそうに眺めながら、でも少しの嬉しさを交えて、神域に刃物を持参してはならないと言う実朝。それにたいし「私の願い」でも、「私のわがまま」でも、「太郎の願い」でもなく、「太郎のわがまま」という、プライベート感いっぱいの、愛されていると確信している者だけが言える言葉を発して、なんとか生き延びてほしいと希うのです。普通このような切羽詰まった願いを主君にする時は、どうかわたくしの願い、お聞き届けくださいとかなるものです。この「普通の主従」らしからぬ感じは、「夢のゆくえ」の「鎌倉殿のためこの身を捧げます」を想起させます。泰時もまた、実朝に普通の臣下以上の大きな情を感じていること、実朝の愛を常々実感していることがよく分かるのです。

 このシーンは劇伴も静かな美しい音楽で始まっており、緊迫したシーンであるにも関わらずどこか甘やかな雰囲気があるのを助長しています。

 しかしこのように必死すぎる泰時の態度が、義時も言っていた公暁襲撃の確らしさを実朝に確信させ、その理由に迫らせることとなり、間接的に実朝の死を近づけてしまうことになるのです。

 

45回 八幡宮の階段

神罰を恐れず(あるいは覚悟で)「太郎のわがまま」を神域に所持した実朝・しかし最期は鎌倉殿という為政者としての立場を貫く

 

 とうとうやってきた暗殺の時。結局この回で二人は顔を合わせることはなく、暗殺の現場にも泰時は間に合いませんでした。しかし二人の絆は最後まで描かれました。

 実朝襲撃を危惧した泰時は、その計画に父もターゲットになってることを知って慌てて義時を探しますが、仲章と交代していたので一安心。しかしではと実朝を守りに行こうとすると、父に阻まれます。

 

 現れた公暁に対して実朝は驚いた顔をし、一旦懐刀を抜きかけます。そう、前回「太郎のわがまま」と言われた刀で、持参するかどうかは前回明示されませんでしたが、ここではっきりと持ってきたことがわかります。日頃から非常に信心深く、夢のお告げを信じるようなタイプの実朝が、神威を畏れず泰時の情のあかしともいえる懐刀を神域に所持したのは、まさしく彼への深い愛のゆえでしょう。

 

 しかししばし公暁と見つめあったあと、その懐刀を手から滑り落とす実朝。そして少し微笑んで頷き、公暁の刃を静かに受けます。その微笑みは、二人で源氏による政治をしようという提案が結局公暁の心に響かなかったのだな、お前の復讐心の方が勝ったのはもっともだという表情にも見えます。またここで死ぬのが己の天命だったのだ、所詮は兄やその家族皆殺しの上に成り立った、偽りの鎌倉殿という立場だったのだという諦念のようにも見えます。いずれにせよ、鎌倉殿という公の立場としての心情であり、その責任を実朝なりに取った形となりました。

 死に際して、私的な情の象徴である懐刀を所持しつつも、それを行使せず公的な立場を優先した実朝。その実朝の耳に最期に届いたのが、泰時の悲痛な鎌倉殿!!という叫び声だったのは、彼にとってささやかな幸せだったのではないでしょうか。

 回廊から走り出てきた泰時は、ただひたすら鎌倉殿としか叫ぶしかなく、実朝が殺されると、ほかの武士たちが公暁に駆け寄る中、あまりのショックに呆然となってふらふら後退ります。以前も幼い頃から一緒だった頼家を暗殺されてしまいますが、今回もまた目の前で何もできず殺されてしまうのです。

 

 その後父に自分を止めて実朝を見殺しにした件を問い詰め、鎌倉を父の思い通りにさせないという「宣戦布告」をします。これまで何度かあった父の行動への個別の反抗とは一味違う、父自体に立ち向かっていくのだという強い決意を感じさせます。実朝の死が、いよいよ泰時を覚醒させたのでしょうか。「夢のゆくえ」で「鎌倉は父上一人のものではない」と声を荒げた泰時や、「資格と死角」で、実朝との関係で初めて父に対する秘密を持ち、一個の個人として自我を持ったかのように見えた泰時と呼応しているように見えます。

 

実朝の死のショックが泰時を覚醒させる。しかしその覚醒が「なかったこと」にされる作劇〜後世に影響を及ぼさない存在としての実朝

 

 このように、丁寧に丁寧に描かれてきて、いよいよ泰時の父離れと政治家としての独立に結実するかと思われた実朝と泰時の関係性ですが、大変意外なことに実朝の死後は消滅してしまいました。

 

 親王将軍の下向について議論している際、反対する義時に対し「実朝様の悲願です!」と声を荒げる泰時の姿に、実朝を偲ぶ強い気持ちが現れていてましたが、それ以降はぱったりとなくなります。そしてむしろ、義時の子供としての姿が強調されるストーリーラインに。初との仲良しぶりも再び挿入され始めました。

 同じ鎌倉殿の頼朝と頼家の扱いに比較した場合、重臣への「影響のなさ」の不自然さがよくわかります。頼朝は忠臣義時に対して絶大な影響を及ぼし、彼は何かというと頼朝を引き合いに出して自分の行為を正当化します。頼家はなかなか思うに任せぬ政治運営の捌け口のように蹴鞠に取り組み、若手にも習熟させますが、その若手である時房が蹴鞠の名手になり後に後鳥羽上皇と交流したり政治的に渡り合う契機になるという、大きなレガシーを残しました。頼家は登場人物が重要な局面で口にしたり、また彼の死の真相が物語が大きく動く契機になったりと(公暁、政子)、登場時間に比してかなり重要な影響を及ぼします。

 

 ところが実朝だけは、その手の影響やレガシーが皆無。あれほど繊細に描かれた関係及びそれに伴う「覚醒」が「ないもの」とされたのは、かなりな衝撃でした。御家人の死が主要登場人物の成長を促すきっかけになっている(畠山重忠の死が義時の義政からの自立の契機になったり、和田義盛の死が実朝の親政の決意に繋がったり)のと比べても、その死の扱いの軽さがわかります。

 

「義時の最愛の子供」として成長しない泰時像という基本プランと、実朝との関係描写とのクラッシュ

 

 今までの流れを振り返れば、実朝との関係により自立した大人になった泰時が、実朝のレガシーを受け継いで独立した政治家になり、義時を圧倒するようになっていき、承久の乱では父を救う存在になるというのが、自然な流れのような気がします。

 

 しかしながらそれを阻むプランが、脚本の最初の段階で存在したらしきことが、脚本家の話でわかってきました。泰時はあくまでも義時の子供としての存在が重要であるという基本方針が存在したようなのです。

 (三谷幸喜の言葉 ~「鎌倉殿の13人」の作り方~ (202212/17放送)より)

 

 ドラマの全体像として、「義時と泰時の親子の物語」にしたいという骨子があったわけです。(去年8歳になるお子さんが生まれたことでそのような題材に関心を持つようになったとのことです)

 ではその内容はどのようなものでしょう。これだけを見ると、成長した子供が自立して父を超える、あるいは象徴的な父殺しをするという、父と息子の物語としてかなり王道なものなのではと予測してしまいます。しかし実際にドラマを見ていると、どうもはなからそのような展開は考えられていなかったようです。何回も似たような反抗をして、実朝の死の後の反抗でいよいよ本格自立するかと思いきやそれが消滅しまた元の木阿弥の父を尊敬する子供枠になりを繰り返し、父殺しの沙汰ではありません。

 政子の演説のあたりで、やっと成長らしきものが少し描かれます。御家人にハッパをかけるシーンで視聴者に「成長した!」と騒がれ、最終回の承久の乱で活躍したあと父上のやり方はもう古い的なことを言って、突然義時から認められるのです。確かに彼は京で戦後処理などで経験を積みましたが特にその描写もなく。やっと大人になったかなというところで物語が終わりました。

 

 そのように成長がじっくりと描かれないという点について、演じた坂口氏はかなり意識していたようです。成長という言葉に注目してインタビューを読むと、興味深いことがわかってきます。

 

北条泰時役・坂口健太郎さんインタビュー2022.12.18

特集 インタビュー 北条泰時役・坂口健太郎さんインタビュー ~物語の光のような存在として~ | NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」

 

>今回三谷さんが描かれた泰時像にすごく愛らしさを感じていたんです。(中略)きっと彼が成長するのは最終回以降だと思うんです。

>父上の背中を見て学んだことを思い出しながら、新しいリーダーになっていくのではないでしょうか。

>でも実朝に関しては、実は結構名君なんだろうなと感じていたし、きっと実朝がつくろうとしていた鎌倉は素晴らしいものだっただろうと思うんですよ。(中略)そんな彼から後々三代執権になる泰時が吸収したものも多いだろうなとは思っていて、史実はどうであるかはわかりませんが、さまざまな酸いも甘いも経験して泰時は成長していったのだろうなと感じました。

 

 つまり泰時はドラマ内では成長しない存在であることが明言される一方、父から学んだこと、実朝から吸収したこと、実朝と経験したことを踏まえてドラマの後に成長していったのではないかとしています。メモリアルブックなどでも、泰時の演じ方を「最後まで子供っぽさを残した」と表現しているのとも合致します。

 ちなみに泰時は承久の乱時点で37歳、18歳の子ども時氏もいて、宇治川の合戦では彼を死地に向かわせる覚悟を見せたほどです。史実の泰時がそのように成熟した人であることを踏まえると、脚本家のこの子供という属性へのこだわりがいかに強いか伺えます。

 

 どのようなつもりで実朝との同性愛的な関係性描写を入れたのか、脚本家は全く意図を説明していないのでわかりません。上記のような丁寧な作り込みからして、ある程度は重要なファクターとして扱っていたと思われます。しかし実朝との絆、それを通じた成長や自立した人格形成や父との本格対決の決意などは、いつまでも父の子供属性であり続けるという当初のプランとある意味正面からクラッシュするものでした。また同性愛に結びついたストーリーラインを、本筋の物語の直接の原動力することへのためらいもあったかもしれません。

 結局両者を上手に止揚することなく、同性愛描写の方を扱いかねて放棄したように見えてしまいます。締め切り時間に間に合わなかったのか、興味がそこまでなかったのかわかりませんが、唐突な切り捨て感は否めません。この大河での同性愛表象の限界と言えましょう。

 

真摯な同性愛描写の現代的意義〜現代のセクシャルマイノリティとイコールではないが、共感できるものとして

 

 さてここで、唐突に切り捨てられたとはいえ途中まで丁寧に描かれた本大河の同性愛描写がどのような意義があるのか、当時と現代の同性愛事情を踏まえて考察したいと思います。

 

・種類が違えども社会的抑圧が存在してカミングアウトできない苦しみ、孤独感をオーバーラップさせる

 最初の方でも書きましたが、当時の同性間の愛や性交渉を取り巻く環境は現代と同じではありません。寺院ではよくあることでしたし、都の貴族の間でも、特に院政期はそういう関係は盛んで、政治的意味合いも強いものでした。院政期の政治史を考える時、男色を抜きにしては語れないという見方もあります。(五味文彦著『院政期社会の研究』(山川出版社1984)など)。もちろん政治的損得を抜きにした恋愛感情もあったことは『台記』にも描かれていますが。宗教的には男色は「邪淫」として、地獄に堕ちるという設定であることは源信の『往生要集』(985)にも書かれていますが、123世紀の当時どれほど倫理的拘束力があったかは定かではありません。また関東の武士の間でどうだったかはあまりわかっていないようです。

 なので、鎌倉における同性愛について、よくわからないながらも現代よりは社会的な抑圧性はやや低いかもと推察することができます。もし実朝が一般の御家人でしたら、泰時への恋愛感情もさほど抑圧なく描かれた可能性はあります。

 

 しかしそこに、実朝が鎌倉殿として女性と関係を持ち子供を残さねばならないというプレッシャーがある、という立場が効いてきます。さらにお互い既婚者であるという立場。彼は男性一般として異性愛規範の強い社会通念に縛られるから、というよりも、鎌倉殿であり既婚者であるという社会的立場の抑圧性から、男性のみに惹かれること、さらには泰時に惹かれることへの禁忌性があると言えるのです。

 (ちなみに彼が、現代のセクシャリティのどのカテゴリーに入るかは明確には描かれていません。男性のみに惹かれるので同性愛者であることは確かと思われますが、性的な関係まで望むかどうかは不明なので、ノンセクシャル(性的関係を望まない)であるゲイの可能性もあります(※2021/1/7アセクシャルノンセクシャルに修正))

 

 ですから厳密には彼は現代の同性愛者と同じ抑圧を受けている立場ではないのですが、種類は違えども社会的な規範によって男性への恋心をオープンにできず秘めねばならないことで、現代の同性愛者の立場とオーバーラップするようになっています。

 歩き巫女が実朝の結婚についての逡巡の悩みを聞いた時の言葉もそうでした。

「お前の悩みはどんなものであってもそれはお前一人の悩みではない。遥か昔から、同じことで悩んできた者がいることを忘れるな。この先も、おまえと同じことで悩む者がいることを、忘れるな。悩みというのは、そういうものじゃ。おまえ1人ではないんだ。決して」

 と言った言葉が、ただの一般論を超えて、まさしくセクシャルマイノリティに向けた言葉のように聞こえるように作られているのは偶然ではないと思われます。

 

異性愛者を恋してしまった同性愛者という普遍的な問題を盛り込む

 また実朝の恋する相手が、異性愛者、いわゆるノンケである泰時であることも、多くの同性愛者の共感を得るものとなっています。結局彼は恋文である和歌を「間違えでは」と返されてしまいやんわりとした拒絶を受けますが、同性愛者が異性愛者に恋したケースとしてよくある、また心痛む話であり、大変共感性の高いお話になっています。二人はその数年後、和田合戦の後に主従としての絆を結び、恋愛関係ではありませんが深い情で繋がった関係を築くので、一種の救いもある展開と言えましょう。しかしあくまでも秘めた恋であることには変わりなく、ビタースイートな余韻があります。

 

 以上の作劇により、セクシャルマイノリティがこれまで存在していなかったかのような、あるいは表現されてもネガティブだったり添え物的だったりする表現であった大河で、現代のセクシャルマイノリティも共感しうる表現がほとんど初めてメイン登場人物でなされたことが分かると思います。実際に、当事者の方々がツイッターなどで、実朝の同性愛表現や歩き巫女の言葉に大変感銘を受けた旨を書かれていたのを散見しました。また異性愛者に恋した若いゲイとしての描写として大変自然であるというご意見も見ました。

 また数としても多い非当事者の視聴者にも、メインの登場人物でじっくり描かれることにより、「いなかった」ことにされていた当事者のことについて思いを致す機会にもなったのではないでしょうか。

 

同性愛描写自体の問題点〜美青年同士の愛・妻千世との関係

 

 とはいえその同性愛描写も、手放しで賞賛できるものではないことは述べておきたいと思います。

 まず、物語の型として、美青年同士の悲恋という形式が、美男美女のハッピーエンドな愛というパターン同様、かなり古めかしいということです。そういう昔ながらのパターンにしたことで、同性愛を一般の人が飲み込みやすく糖衣に包んだともいえましょう。また同性愛者の恋愛が悲劇に終わりやすいというパターンも近年批判的に語られているところです。

 

 そして何より、妻の千世の造形が、実朝に対していかにも都合のいい存在として描かれてしまった問題が挙げられます。

 史料的に実朝と御台所は仲睦まじかったようで、ドラマでもカミングアウト後は実朝も千世に色々気遣いをし、千世もそれに応えて、視聴者も二人の睦まじさを賞賛しました。

 しかし仲睦まじくなる最初の段階が、ご都合主義を感じました。最初は実朝は千世によそよそしく、食事の小骨を取ろうという提案や、貝合わせの提案も断ってしまいます。子供ができないという家族の指摘も自分のせいだと千世は言ってくれるのに、実朝はその場でフォローしません。それなのに、実朝が女性を肉体的に愛せないというカミングアウトをした時、すぐに受け入れて寄り添って涙を流すほど彼を「愛してる」描写がなされるのがかなり唐突でした。もし実朝が頑張って歩み寄ろうとして、でも最後の瞬間に身体に触れられないなどという描写が重ねられていたならば、多少は違っていたでしょうがそもそもの理想論として、早くに千世にだけでも自分の性的志向を説明すべきでした(まだ少年なので難しかったとはいえ)

 なので、千世はセクシャルマイノリティにとって「なんでも受け入れる都合のいい菩薩のような存在」として描かれているという指摘は免れないと思います。セクシャルマイノリティ自身が、かつては「なんでも受け入れ適切な助言をくれる存在」としてエンタメで都合よく描かれ、しばしばフェアリーゲイという表現がなされたりしました。しかし最近では、セクシャルマイノリティであると結婚後にカミングアウトされた配偶者のつらさや困難が問題視されるようになってきています。まさに実朝と千世の事例に似ています。そのような中「結婚後カミングアウトされても何も困惑や傷はありません、すぐに受け入れます」と、特に優しさを示してくれなかった夫に言う千世の姿は、現実の辛さをないものとしたり、何を感じても我慢して受け入れるべきだという考えを助長するもののように感じられるのです。

 

https://www.huffingtonpost.jp/entry/samesex-marriage-heterosexualpeople_jp_5d5bad8de4b05f62fbd49d85

 

 

 

まとめ: セクシャルマイノリティ表象を導入はした意義は大きいが、結局それを扱いかねた脚本と、それに向き合わない制作側の姿勢が問題・それに対してきちんと恋愛関係であることに触れる俳優たちの発言が光る

 

 そのようにいくつかの問題点がありますが、しかし大河ドラマで真摯なものとしてセクシャルマイノリティ表象を取り入れたのは大変画期的であることは、繰り返し述べていきたいと思います。しかしまた上記で分析したように、結局本筋に有機的に絡ませることができず、宙ぶらりんにしてしまったことも確かです。

 それは制作者側にセクシャルマイノリティを正面から描くつもりがなかったともいえますし、また物語上「父を愛する子供」の物語にしたかったという、脚本家の当初の作劇上の目標とうまく整合性を取れなかった結果とも言えます。大変残念なことです。残念といえば、制作側がインタビューなどでひとことも二人の特別な関係性について触れておらず、かなり徹底した排除ぶりを見せているのも気になるところです。それは年末の「総集編」で、二人の関係性描写をことごとく取り除いた姿勢にも充分現れていました。

 

 もっともその一方で、演じた役者さんたちは、実朝と泰時の絆に何度か言及しており、そこは大変素晴らしいと感じました。セクシャルマイノリティを演じてもそれを茶化したり無理解だったりする発言をするケースも見られる中、誠実で真面目な発言を繰り返してくれる役者さんたちには、とても頼もしいものを感じます。

 

<泰時を演じた坂口健太郎氏のコメント>

 

・『鎌倉殿の13 完結編 (NHK大河ドラマ・ガイド)(NHk出版、2022)より

源実朝と泰時のナイーブな関係は、演じていて難しいです。実朝の悩みを敏感に察する聡明な泰時でありたいし、一方で実朝の泰時に対しての感情に無頓着である気もするし泰時が実朝の感情に気づいているのかどうかの解釈も含めて、監督と話しながらあんばいを探っています。泰時は政治的にも実朝の支えになっていくので、美しい関係性に見えたらいいですね。(同書24ページ)

 

・公式HPより 北条泰時役・坂口健太郎さんインタビュー  2022.11.06

(Q: 泰時は実朝のことをどのように支えようとしているのでしょうか)

 僕は、実朝の細かな意思表示を敏感に察知できる聡明さを大事にしたいなと思っています。なので、彼からの恋愛的な視線とかも繊細に受け止めたいなと。泰時にはその気持ちにまったく気がつかない無頓着さがあってもいいと思うのですが、僕としては、実朝が持つ多くの悩みを感じられる人でいたいなと思うんですよね。とはいえ、その感情イコール自分への愛情であると敏感に結びつき過ぎないほうがいいとも思うので、その塩梅は難しいのですが。実朝の心の異変に気がつきながら、気がついていないフリをしたほうがこの関係性が切なく見えるんじゃないかと演出と話をし、気を使いながらお芝居しています。でも、2人はすごく親しい友であり、美しい関係性だなと見ている方に思っていただけたらいいなと思いますね。

 

<実朝を演じた柿澤勇人氏のコメント>

・公式HPより 源実朝役・柿澤勇人さんインタビュー  2022.11.27

> あと気になっていたのは、坂口(健太郎)さんが演じる泰時ですかね。まぁ、カッコイイですし()、父親のやり方に反発しつつもわりと純粋な感じを見抜いたうえで、好きだったと思います。

 

・ファンミーティングレポ

TVガイドWeb 2022/12/10

小栗旬新垣結衣、坂口健太郎ら豪華キャストが「鎌倉殿の13人」ファンミーティングに集結! ラストに向けた制作統括インタビューも」

 

https://www.tvguide.or.jp/feature/feature-1920527/

 

(: 泰時についてどう思うか) 続く柿澤さんは、開口一番「ラブです!」と愛を告白!「愛です。大好きな、大好きな人ですね。鎌倉殿は世継ぎをつくらなきゃいけないけれど、実朝は史実でも子どもがいない。そして今回の大河では、泰時のことを好きだと思いながら、将軍としては悩み、悲しい運命だなと思いながら演じていました」

(:司会者が「ラブです」の後に「落として頂いて」と茶化すような発言があった模様。しかしその茶化しに乗らず、そうではないという感じで、愛について述べた)

 

 演じた人がその役に語っている言葉は、それがそのように見えなければ単に「そう思ってるんですね」というだけです。しかし彼らの言葉は、ドラマを見ていて既に充分伝わっているものであり、その裏付けのようになっていてとても納得のいくものでした。たとえば柿澤氏の繊細極まりない演技による「ラブ」(それ以外にも色々ありますが)の表現は、ことに特筆すべき素晴らしさであったと思います。

 また坂口氏は年末に発売されたメモリアルブックやHPのインタビューでも、ドラマでは描かれなかった泰時の成長に実朝が関係しているという想像を大事にしているのが伺えます。

 

 

大河ドラマというコンテンツの保守性と現代の潮流

 

 俳優に比べて制作陣の腰のひけようを色々述べてきましたが、確かに大河ドラマは大変保守的なコンテンツであり、その意味で多少はやむを得ないものがあるということは想像できます。

 たとえば2018年『西郷どん』ではBLという言葉を脚本家が発言しただけで視聴者から非常に物議を醸し、実際原作中にある同性愛描写はドラマではカットされました。BLという表現自体色々消費的な視点を含むものではありますが、多くの場合それが批判されたのではなく、むしろ視聴者が自分たちで消費したいのに公式がそう言うな、隠すべきものだろうという論調だったようです。同性愛はドラマの中で真面目に取り上げるべきイシューであるという認識が、当時は制作側も視聴者の間でも醸成されていなかったと言えます。

 

https://mantan-web.jp/article/20161116dog00m200023000c.html

 

「西郷どん」ボーイズラブ報道に批判続出 「最初からBLって言うな」というファン心理: J-CAST ニュース【全文表示】

 

「西郷どん」17話。原作にあった吉之助と月照のボーイズラブな場面は描かれなかった - エキサイトニュース

 

 今回の鎌倉殿での同性愛描写は、そういった状況を踏まえると、画期的であるだけでなくとても勇気ある決断であったとも言えます。また上記のような過去の反応に比べてれば、かなり視聴者は好意的かつ真面目に受け止めており、その意味で大成功だったとも言えます。

 

 しかしネットでの反応を見ると、実朝の恋心を39話だけのものとみなしたり、その39話の話も恋というより単なる憧れなのではと思いたがったり、という声も結構見受けられました。「恋の歌」とはっきり述べられているにも関わらずです。「太郎のわがまま」の件も唐突に感じたり、そんなに長く恋をしてるわけがないとしたり、とにかく彼の恋を認めたがらない、矮小化したい向きが一定数いたのです。

 そのような保守的な視聴者層に対して、制作陣は「配慮」「忖度」したのかもしれません。しかし昨今のエンタメにおけるセクシャルマイノリティを扱う手つきを見ても、そろそろそのような「配慮」は時代遅れな気がします。

 

 たとえば同じNHKで放送されたドラマで、202211月〜12月に放映された『作りたい女と食べたい女』は、食通して関係を育むレズビアンカップルの話が描かれました。原作は漫画で、実写化の際にレズビアンであることがオミットされるのではと危惧の声がありましたが、蓋を開けると制作陣のメッセージでしっかり向き合っていることが明確に示され、ドラマでもそのように描かれました。

 

「作りたい女と食べたい女』ドラマ制作統括が語る意図「女性同士の恋愛が、自然な形でメインで描かれることに意味がある」」(WEBザ・テレビジョン 2022/11/28)

 

https://thetv.jp/news/detail/1112432/

 

※上記ドラマは、レズビアンカップルであることを制作側が認めたのは進歩だと思いますが、出演者を増量させたのは問題であると思います(2023/6/12追記)

 海外の例で言いますと、私がMCUが好きなので引用させてもらいますが、2021年にディズニープラスで配信されたドラマ『ロキ』で、主体のロキがバイセクシャルであることを匂わせるセリフを一言言っただけで大きな話題を呼びました。セクシャルマイノリティ当事者も非常に嬉しかったというツイートなどを幾つも見かけました(親がいい顔をしないことにショックを受けているという話もあったり)。それに対し監督が声明を出し、MCUの主要登場人物で初めてセクシャルマイノリティであることを言明する意義と、その実現の喜びを語りました(配信開始から1年後には、ロキの俳優であり同作のエグゼクティブプロデューサーのトム・ヒドルストンもこの役柄のカミングアウトは意味のあることであったと言及)。結局彼のバイセクシャル設定はストーリーに全く影響のないもので、むしろ異性愛描写があることがクィアベイティングではないかという批判も巻き起こりましたが、逆に物語内でそれほどなされなかった描写についてすら、そこまでしっかりとした反応がなされたことに制作者としての責任感を感じます。

 

マーベルの人気悪役キャラ「ロキ」は、バイセクシャルであることが明らかに 監督もツイートを投稿- tvgroove

 

 ことほどさように、セクシャルマイノリティの描写を行うということは、異性愛描写を行うこととは訳の違う覚悟と決意を持って行う必要があるということです。中途半端に描いて、ちょっと描いたからいいだろうとばかりに撤収モードに入るというのは、制作者としてかなりどうかと思います。

 今後大河ドラマセクシャルマイノリティを描く際は、描き方やその発信のしかたも含めて、より発展したものであることを望みます。

 

<了>

真面目が肝心…?倫理観と人となりがごっちゃになった世界〜『鎌倉殿の13人』

 今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を視聴中です。このドラマでは人物評価として真面目という言葉がどうもキーワードになっているようです。特にそれが現れたのが47回の「ある朝敵、ある演説」でした。

 そこで北条政子が有名な演説をする時に、歴史的に伝わっている言葉が書かれた原稿を捨てて自分の言葉で御家人たちに語りかけるのですが、その際に弟義時を「生真面目」と評価して御家人の共感を得ようとしているのでした。「この人は生真面目なのです。一度たりとも私利私欲に走ったことはありません」と。

 またその少し前のシーンで、やや唐突に、義時の子供の泰時が「真面目であるがそこがあなたらしくていい」と妻の初に言われるシーンがあり、どうもそこで「生真面目(真面目)」という美徳が親子で共通していることを強調したい作劇であることがわかります。泰時は政子の演説で父親が「生真面目」と評されたことに感じ入ったように目をふせており、それまで何かと対立していたがそのような評価で父親を見直すことで、父親を見直したのではという視聴者の説も出ていました。真面目が肝心、てなわけですね。

 

 さて、自分はこのドラマの「真面目」という言葉の使い方、かなりどうかと思いました。演説のあの場でそのワードを使うことの正当性、そもそも義時と泰時の真面目は一致してるのかという点そしてこれらはこのドラマ全体の持つ問題点と直結してるように思いました。以下にそれを書いていきたいと思います。

 

 

真面目であることと客観的な正義に則ってることは違う

 

 まず政子の「生真面目」発言。義時は確かに生真面目にコツコツと自分が正しいと思うことをやってきたのでその意味で「生真面目」であることには異論ありませんが、その時私は「生真面目だからなんだというんだ」、と思いました。一般の人が「生真面目に」悪を行うことがあるのは、ハンナ・アーレントの「凡庸な悪」という言葉(アイヒマンへの評価としては当てはまらないのは近年指摘されてますが)からもよくわかります。決められたことや正しいと思うことを生真面目に遂行することと、その人の行いが客観的に見て「正義に則ってる」かどうかは全く関係ありません。そもそも日頃生真面目な人だって、急に悪いことしたりもするでしょう。その人の人となりの評価と、個々の行いの倫理的評価は全く別なのです。そこをごちゃっとさせて「この人は生真面目だ」という評価で人々に行いを正当化させ納得させようとするのは、なんか子供が悪さをして学校に呼び出された親が「でもこの子はいつも真面目なんです」と庇ってるようで、そういうことじゃないんだが感がハンパありませんでした。

 

 では義時のこれまでの行動は、客観的に見て「正義に則ってる」と言えるでしょうか。政子の言う「生真面目」さは、正義に繋がってるでしょうか。政子は「私利私欲に走っていない」といいましたが、本当でしょうか。

 

 残念ながらそれは否です。いや、私利私欲を何と捉えるかで変わってきそうですが。義時個人がいい思いをするためには確かに行動してないのでその意味ではそうでしょう。しかし彼は「北条の繁栄のため」に行動しています。それが鎌倉全体のためと頑なに信じてるので、公共心がないとはいえませんが、北条ファースト、北条一強主義による鎌倉盤石説は、正直特に根拠はありませんし、周囲にそれを納得させてもいません。そもそも将来的に北条の敵になりそうだという理由で和田一族を排除したり、鎌倉から将軍が御所を京に移動させるという案を出したからと言ってただちに実朝を排除したり、それらに客観的な正義があったのかは甚だ疑問です。何よりそんな論が御家人を納得させる「正義」と結びつくとは到底思えません。「そうか、鎌倉の盤石のために、北条第一であらねばならないな!北条に逆らうものは殺されてもしょうがないな!さすが正義感ある人だ!」とは絶対にならないでしょう。当時の御家人たち(ドラマ内でも)にとっては所領や命を保証してくれる事こそが何よりの正義です。現代的な価値観からしても、またドラマ上、歴史上の価値観からしても、彼に行動に特に正義を感じられないのは結構な問題です。

 

 

義時と泰時の真面目さの違い

 

 泰時も真面目といわれ続けています。しかし泰時の真面目さは、今に通じる倫理観、ヒューマニズムに基づいており、それを重視した言動をしているという点で義時と大きく異なります。泰時は常に、人を無闇に殺してはならない、客観的な正義に基づかない先制攻撃はいけないと主張し続けています。それは若い頃の義時とは共通していますが、後半の義時とは違います。

 その倫理観という点で泰時と義時は対立していたのに、泰時は「それもこれも義時が真面目だったからだ、私利私欲に走ってないから良いのだ」という評価軸を示されたからといって直ちに自分と同じだと納得するのは、大変奇妙なことです。ホロコーストに加担していたのが真面目な役人だったからといって、その役人を素晴らしいと思ってしまうのと同じ違和感があります。

 

 また彼はこのドラマでは実朝から密かに想いを寄せられ、また腹心の部下として重用されていた描写があり、非常に強い絆で結ばれていました。それもあって実朝殺害に間接的に手を貸した父親に対して怒りを覚え(以前の頼家殺害への怒りもあったでしょう)父親の思い通りにさせないと「宣戦布告」(Yahooニュースより「「ズッ友のはずが」実朝の死で深まる、義時の孤独俺たちの泰時だけが希望に【鎌倉殿】〜■ 父・義時に宣戦布告、「俺たちの泰時」だけが希望に 」https://news.yahoo.co.jp/articles/0140bce8e56a3039a449ab1bbae343f3a3631d08

する行為に45回で出ていました。それが47回で、そうか父親も真面目なんだなということでそれらへの怒りが帳消しというのも何だかなあでありました(そもそも父親への矛先は、46話でだいぶ鈍っていたのですが)。もちろん、父親とは色々そりが合わないし倫理的にもどうかと思っているけど、親は親だし殺されるのは嫌だ、という気持ちになるのはわかります。しかし「真面目」というキーワードで、親の今までの行動への理解を示させる作劇にはかなり疑問を持ちました。

 

 

全体に倫理観よりも人となりが優先される世界

 

 そもそもこのドラマでは、その人物の持つ倫理観よりも、「人となり」が優先される傾向にあります。時代劇ではよく「義」という言葉が出てきますが、このドラマではあんまり出てきません。よく鎌倉時代は初期は舐められたら殺す的なメンタリティだと一般に言われており、また江戸時代的な忠義観も実際まだないわけですが、だからといって彼らなりの「義」がなかったわけではないと思うのですが、何だか自分のメンツ以外何も軸のない人たちのように描かれがちです。

 そのかわり、倫理観どうこうより「真面目である」「愛嬌がある」という人物評価がよく述べられます。そして人となりが良いとされるならば、その行動は総じて許される、あるいは許したくなりますよねというドラマの基本方針が随所に透けて見えるのです。

 

 たとえば北条時政は、あからさまに賄賂を受け取って政治を決める金権政治を行うわけですが、ドラマの中ではさほど断罪されません。妻の言いなりになって特に罪がなさそうな畠山重忠を討ってもです。確かにドラマ内で時政は田舎の親分的な、自分を頼って金品をくれる人に優しくしたいというメンタリティを政治に持ち込んでることで大問題になってる様子が丁寧に描かれています。ただ「愛すべきキャラ」が強く出てしまってて、彼の間違った政治行動の問題に視聴者の意識がフォーカスしにくいという難点があるのです。自分に利益供与する人々にいい顔をするために政治活動をするのはいい政治家ではないというメッセージがあるのはあるのですが、自分の興味ない相手、あるいは敵には冷酷であるという対比が薄く、全体的な描かれ方として「でも良い人なんだよね!勘弁してやって!」という方が圧倒的に強い。

 

 これを現代日本向けのドラマで描くことには、かなり問題を感じます。日本では政治家の「人となり」の方が、その施策の良し悪しよりも興味あることのように報じられたり、持て囃されたりします。菅元首相の「パンケーキ好き」とか記憶に新しいですね。また政府などへの批判について「でもその人たちだってとても頑張ってるんだから批判するな」という声もよくききます。「真面目だから良い人だ」につながる考え方ですね。またネットで度々、ヒトラーが子供と親しくしてる写真が持て囃されて「実はいい人だったのだ」という理解のされ方をしたりします。そのような、倫理観と人となりをごっちゃにする考え方を助長する価値観を、このドラマでは伝えているわけです。

 

 脚本家の三谷幸喜氏はかつて『国民の映画』(2011初演)のパンフレットで「「ゲッベルスはああいう狂気に走った人間なんだけど、愉快な部分もあったんだよ」という描き方はしたくない。あくまで、「こんな愉快な人間だけども、狂気に走ったんだよ」という描き方でなくてはいけない」と書いたそうです。この「狂気に走った」は政治的な行動の倫理観の問題で、「愉快な部分」は人となりと言えるでしょう。2011年の時点では人となりではなく倫理観が重要なのだと表明していた劇作家が逆の考え方を示しているのは興味深いことです。

 

 

最終回でどうなるか

 もっともこのドラマは、最終回で何か予測を裏切るようなことを仕込んでるという噂もあります。なのでもしかしたら、このような「人となりが真面目な人なのだからその行為は正しい」という価値観が否定される可能性もなきにしもあらずです。個人的には、人となりと倫理観ごっちゃなのは義時に限った描写ではないので望み薄だとは思いますが、見守っていきたいと思います。

ドラマ『ロキ』とファシズム

 昨年からディズニープラスで配信されているドラマ『ロキ』について以前分析しましたが、このドラマでは大変興味深いことに、「ファシスト」という言葉が登場しました。

  その言葉を発したのは「シルヴィ」という登場人物です。彼女はTVA(時間変異取締局)に、TVAが定めた時間軸を逸脱した罪、そしてTVA職員を襲いTVAを転覆させようとしている罪で追われる身でした。周囲を警戒するシルヴィに対してロキが「疑り深いな」と言った際に、彼女は「あなたを雇った全能のファシストたちからずっと逃げてるんだから当然でしょ」と返しました。

‘It must have started when I spent my entire life running from the omniscient fascists you work for.’

(ちなみに字幕では「あなたを雇った連中に追われ続けているから」となっており、「全能のファシストたち」という表現がすっぽり抜けています)

シルヴィは少女時代に突然訳もわからずTVAに捉えられ、裁判の際に機転を効かせてどうにか逃れますが、それ以降ずっとTVAに追われ続けてきました。その残酷さ、理不尽さをもって、TVAファシストと表現したわけです。

 また彼女はその後、TVA職員自身すら変異体であるということ、黒幕の「タイムキーパー」たちが彼らの記憶を消して、あたかも元からTVA職員であるかのような記憶を植え付けて働かせていたことをロキに明かしました。これらにより、善の側と思われていたTVAが完全に悪どいことをしていること、TVAが説いていることは嘘であることが判明したのです。彼女の「ファシスト」発言にはそのような背景もあったわけで、第3話は、今までの視聴者の見方がことごとくひっくり返る重大な転換点でありました。


 このように重要な局面で用いられた「ファシスト」という言葉ですが、我々の世界でもだいぶ前からよく目にしている言葉です。今年のロシアのウクライナ侵攻でのプロパガンダで用いられたのはもちろん、以前から様々な指導者のファシスト的な側面が指摘されてきたりと、現代人にとっても決して遠い話ではありません。

 では、シルヴィがTVAファシストと呼んだことにどれほどぼ妥当性があるののでしょうか?あるとすればTVAはどのような点がファシスト的であると言えるのか?またそのような組織を、現在このドラマで描く意味合いはどのようなものがあるのかということを、ここで考察していきたいと思います。


  

.歴史的現象としてのファシズムとの比較


下からの運動の欠如とカリスマ指導者の不在


 ファシズムとは、一般的に使われている割にはなかなか定義しづらい言葉です。時代や地域によってファシズム的体制と見做されるものは実態が様々で、また研究者によっても絶えずその定義が議論されているものだからです。しかし大まかな共通認識は存在します。

 たとえば近年刊行された『ファシズムの教室』(田野大輔著、大月書店、2020年)では歴史的現象のファシズムについて以下のように書かれています。「第一次世界大戦世界恐慌による混乱を背景に、ドイツやイタリアなどで台頭した独裁的・全体主義的な政治運動・体制を指し、議会民主主義の否定、偏狭な民族主義や排外主義、暴力による市民的自由の抑圧といった特徴をもつものである」 またより本質的には、ファシズムは強力な指導者のもと、集団行動を展開して人々の抑圧された欲望を解放して外部の敵への攻撃に誘導するというのが根本的な仕組みであるとしています。


 このような説明を見ると、TVAには、実際の歴史的ファシズムに存在するいくつかの要素が決定的に欠けていることに気付きます。

 まず、民衆自身の内的動機からの関与がありません。TVAはその創始者にして支配者たる「あり続ける者」が一般人を魔法で洗脳して作り上げた組織であり、別に「あり続ける者」が彼らの欲望を解放して敵を攻撃させているわけではないのです。また上記の理由から、TVAは歴史的な経緯をなんら背負っておらず、民族主義自体が存在しません。ナショナリズムの高揚や、特定の民族や属性の排除や憎悪もなく、職員はひたすらTVAへの忠誠を誓って、淡々と変異体逮捕の仕事をこなしているだけです。(例えば古典的ファシズムでは反共産主義が主要なスローガンで、現代見受けられるファシズム的運動にも反共の要素がありますが、当然TVAはそのような政治属性の関連はありません

 その忠誠心にも、多くの職員には熱狂的なものは認められません。確かにTVAにはプロパガンダがあり、建物の中央にデカデカと飾られてるのはタイムキーパーたち3人の彫像ですが、彼らは職員に向かって演説したりすることはなく、彼らの姿や声に接することができるのはごく限られた上層部だけです。むしろタイムキーパーに関して一般職員が詮索することは、たとえ好意からにしろ好まれていないようです。そもそも「あり続ける者」が「タイムキーパー(複数)」という偽の存在を創り出して表向きのトップに据えてること自体が、大衆を牽引する、唯一の強力でカリスマ性に満ちた指導者というファシズムステレオタイプからだいぶかけ離れているといえましょう。


 こうしてみると、一見TVAファシズムを結びつけるには証拠不十分なような気もします。民衆の動員がその内的な動機の代わりに魔法による強制的洗脳による偽の記憶植え付けで、記憶が元に戻ると、あるいはそのカラクリが分かると、たちまち組織に反旗を翻すーというのも、いかにも非現実的な展開です(ちなみに超自然的な力での洗脳あっさりした洗脳からの解放 という展開はMCUで繰り返し描かれており、結構どうかなあと思っています)

 ではTVAファシズムの特徴が全くないのかというと、そういうわけではありません。むしろ多くの点でファシズムを想起させる要素があります。それは上で指摘したように、ファシズム体制を生成する人々の内的な動機の面ではなく、既に出来上がったファシズム体制内の人々の状態の描写に、リアルな特徴が見受けられるのです。


■ 『ロキ』におけるファシズム的体制の特徴1〜権威への服従と個人の責任から解放


 『ファシズムの教室』をみますと、ファシズムの人々への影響としては、どんなに暴力的で非倫理的な行為であろうとも、上からの命令であり皆がしているということでその行為に対する責任が個人に問われることがなくなり、陶酔感の中でそれらを堂々と行なってしまえるという状況に陥るということが指摘されています。本書ではそれを「権威への服従がもたらす「責任からの解放」の産物である」(同書66ページ)と述べています。

 これはまさに、TVA職員が変異体を何の疑問もなくサクサクと「逮捕」(その人が生きている世界からの誘拐と拘束)したり「剪定」したりすることに照応します。たとえばメビウスは日頃の言動からして、強権的ではなく、弱者に寄り添う気持ちを持つ人であることがわかる人物ですが(フランスの教会で出会った少年や、ロックスカートで避難している人たちへの優しい対応など)そのメビウスをして、TVAの「逮捕」や「剪定」は仕方ないことだと思わせていたのです。

 第5話で、シルヴィから変異体の人生を奪うTVAの所業を非難されると、メビウスはこう答えます。

「ずっと自分たちは善人だと思いこんでいた」

「目的が手段を正当化すると思っていると、ほとんどなんだってやってしまう」

 これこそ「権威への服従が責任から解放」している思考形態です。構造的に良心の呵責から職員が逃れられるような仕組みになっているので、メビウスさえも「大いなる目的」に仕える喜びを口にし、冷酷な命令も仕方ないこととして遂行していたのです。多くの視聴者は、人情味のあるメビウスに親しみと共感を持って視聴すると思いますが、それだけに彼の発言には衝撃を受けます。


■ 『ロキ』におけるファシズム的体制の特徴2自由主義的諸権利の抑圧


 山口定はファシズムの指標について、一党独裁とそれを可能にするための画一的で全面的な組織化の強行、自由主義的諸権利の全面的抑圧と制度化、新しい秩序と新しい人間の形成に向けての大衆の動員、などを挙げていますが(ファシズム(岩波書店2006年))、とりわけ自由主義的諸権利の全面的抑圧と制度化」はTVAの大きな特徴であるといえます。民主主義下で保証されている様々な権利はことごとく取り上げられ、特に司法が絡むところは完全アウトで不当なものだらけです。


・不当な暴力的逮捕と辱め

 まず、逮捕される側が知る由もなく、アクセスしようもない理由によって逮捕されるのが大変不当です。そのやり方も、滑稽に描かれるものの大変一方的で暴力的です。ロキは暴力を振るった訳でもないのに警棒で殴られ、首輪を装着されて無理矢理連行されます。しかも連行先で服を焼かれて裸にされ、強制的に囚人服を着せられます。

・不当な即決裁判

 一応裁判は行われるのですが、その「裁判」には、なんと弁護士がつきません。そしてろくに時間を割かれず、一方的に罪状を突きつけられ、認めるか認めないかを高圧的に迫られ、認めようものなら「リセット」を言い渡されます。これはロキでなく一般人であればその異常性がハッキリしますが、紛れもなく自由や権利が権力によって暴力的に制限される警察国家のやり方です。

・裁判なしの処刑

 そればかりか、「剪定」は裁判という手続きをへないでも行われます。ロキと同時期に逮捕されたモルガン・スタンレーの役員の息子は、単にチケットを持っていないというルール違反をしただけで、問答無用で警棒で「剪定」され存在を消されます。

 そしてTVAの正体に気づいたことがバレた職員メビウスも、やはり問答無用に「剪定」されてしまうのです。


2ファシズムを意識したファンタジーとの比較〜主に『1984』との関連


 では、歴史的ファシズムではなくファシズムに関するフィクションとの比較の視点から見てみましょう。

 『ロキ』の監督ケイト・ヘロン氏は、MCUメイキング番組『マーベル・スタジオ アッセンブル』の「ロキの裏側」「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」という雰囲気を出したかったと、ジョージ・オーウェルの『1984』を意識していることを明かしています。『ロキ』の製作総指揮のステファン・ブルサードは、他にも『あなたの死後にご用心!』(1991) や、『ビートルジュース(1988)、『未来世紀ブラジル(1985) などの映画を手本に巨大組織を描いたとしていますが、特に『未来世紀ブラジル』は「1984年版『1984』」とも言われるほど『1984年』から大きな影響を受けているものです。ヘロン監督は『ロキ』を「SFへの大きなラブレターにしたかった」とインタビューでも語っており、上に挙げた作品以外にも、『時計仕掛けのオレンジ』や『ブレードランナー』など様々な時代のSFをインスピレーションの元としてあげていますが、上記のことからしますと、とりわけ『1984』はかなり大きな影響を与えたと言えそうです。『1984』は、現在では一般的に、ファシズム批判のファンタジー小説と受け止められていることが多い作品で、「ファシスト」であるTVAのインスピレーションとなったのも頷けます。


(出典:

https://virtualgorillaplus.com/drama/loki-1984-sci-fi/


https://nationalpost.com/entertainment/weekend-post/massive-genre-nerd-kate-herron-calls-loki-a-love-letter-to-sci-fi/wcm/d35ab7f2-ac38-4377-a47f-24cf23fd6252/amp/

)

 

 もっともここで注意しておきたいのが、『1984』で描かれる体制がファシズム「のみ」をイメージしている訳ではないということです。『1984』は発表当時はむしろ反共のプロパガンダ扱いされました。オーウェル自身はそれに対して「中央集権経済が陥りやすい誤謬、すでに共産主義ファシズムにおいて部分的に実現した誤謬を暴露しようとしたもの」「全体主義というものは、それに対抗して戦わないでおけば、どこでも勝利を収めることがある、という点を強調したかった」と述べており、一定の思想や党派への批判ではないとしています。

 つまり1984』はファシズムにも当時の共産主義にも共通して見られる、全体主義体制への抗議であったわけです。

 それゆえロキドラマのTVA描写ではファシズム以外の全体主義社会の要素も入っています。TVA美術は映画『1984』や『未来世紀ブラジル』の影響が色濃く見られますが、同時に旧共産圏の美術が意識されていることは、プロダクションデザイナーのカスラ・ファラハニのインタビューからも明らかです。

‘(特にどのようなモダニズム建築やデザインを参考にしたかと訊かれて)So many, everyone from Frank Lloyd Wright to Breuer, to Mies van der Rohe to Paul Rudolph—you have a shot in the John Portman building—to Oscar Niemeyer. And then a lot of Eastern European, Soviet-influenced Modernism played a big part in it as well. ‘

‘I was also looking a lot at Brutalism and the Modernism in former Soviet states, that are heavily influenced by Socialism and Soviet architecture, and where scale is such a big driving force of the design.’


(出典:https://www.theartnewspaper.com/2021/07/10/lokis-production-designer-on-the-modernist-inspiration-behind-the-shows-stunning-visuals)

 確かにTVA美術には、そういった国々の建築やプロパガンダ広告を彷彿とさせるデザインが各所に見られます。

こちらはTVAの裁判所の様子。

 そのような旧共産圏のイメージの利用は、それらの国々や思想への批判というよりも、それらの国々とファシズム国家に共通する全体主義的体質を想起させるものとして使われてると考えられます。

 

 それでは具体的に『1984』などの影響を見ていきましょう。


『ロキ』におけるダブルスピークによる思考統制

 『1984』では、言語の管理統制が徹底しており、政府に都合の悪い語彙は意味を変えられたり使うことを禁じられたりします。作中では「ニュースピーク」「ダブルシンク」などの用語が用いられ、幾つもの語彙群に分類されますが、要するに言語を通して人々の意識を操作しようとする意図があります。『ロキ』のTVAでも同様の仕組みが見て取れます。

 TVAでは「変異体」の人生を奪い、現実から消し去る行為は「剪定」や「リセット」と呼ばれますが、これは処刑する罪悪感をかなり薄める効果がある「ダブルスピーク」の例でしょう。確かに神聖時間軸とされた時間軸から枝分かれした時間の流れは木の枝のようであり、無駄に伸びた枝を刈り取るイメージの「剪定」はぴったりな言葉ではあります。しかし植物を刈り取るこの用語は、人生を刈り取るということの意味合いの残酷さを消し去る言葉でもあります。

 もちろんこのニュースピーク/ダブルスピーク自体、現実のファシズム国家や、あるいはなんらかの思考統制をしたい組織が用いる手立てですが、『1984』によってくっきりと言語化され有名になった概念と言えるでしょう。


『ロキ』における情報統制による思考統制

 TVA創出の経緯を描いたプロパガンダアニメを見せられたロキは、疑わしく思ってその裏付け資料を探すために図書館に行きます。たくさんの書物があり、タイプライターを打ってる老女の司書がいたり調べ物をする女性がいたりと、そこは一見普通の図書館のようですが、しかし司書からはロキの求めた情報は極秘情報であると全て突っぱねられて、自分に関係する資料しか見せてもらえませんでした。

 このような情報統制と捏造した歴史の正史化は、『1984』でも描かれていますし、ファシズムファンタジーではしばしばそれが主題になっています。レイ・ブラッドベリ『華氏451度』などはその代表的な例でしょう。

 メビウスがロキにTVAの喧伝することを信じるのかと問われて、ただ目の前のことを受け入れるだけだと答えるシーンがありますが、TVA職員の中ではかなり横紙破りなメビウスでさえそうなのは、当初の洗脳だけでなくてそのような体制の影響もあります。

 情報公開せず権威への疑問を持たせないというのはファシズムに大変親和性の高い精神性です。


ファシズムファンタジーにあって『ロキ』にはないもの〜監視社会の恐怖

 しかしその一方で、ファシズムファンタジーの要素で『ロキ』ではあまりない要素もあります。

 ヘロン氏が挙げている「ビッグブラザーの監視」は、TVAでは全ての時間軸を監視しているタイムキーパー(実は「あり続ける者」)のことでしょうが、『1984』での監視社会とは結構異なるのです。『ロキ』ドラマでは絶えずTVA職員が相互に見張りあう密告社会という感じがなく、人々は割と自由に話しあっています。たとえばロキとメビウスは、TVAについてかなり際どい会話を社員食堂のようなところでしていますが、別に周囲を気にしている様子はなく、TVA内で言動を細かく監視されてる様子はないのです。

 レンスレイヤー判事のみがギリギリそのような監視をしてる様子がありますが、彼女は半ば権力の側で、一般職員とは異なります。また『1984』にあるような拷問による思想矯正みたいなこともなく、ある意味あっさりと「剪定」されてしまいます。

 それは歴史的ファシズムとの比較の項で述べた、「下からのファシズム」がないということとも相俟って、ファシズム体制描写としてはかなり「甘い」印象です。


3.『ロキ』におけるファシズム描写の意義


視聴者への意義〜描かれる「民衆」

誰でも取り込まれるファシズム組織の恐ろしさ/民衆の責任と残酷さの透明化


 メビウスに代表されるような、賢く良心的な人間でも、ファシズム体制に取り込まれれば当たり前のようにその体制に沿った行動をしてしまうつまり誰でもファシストになりうるということを描き出したのは、本作においてかなりメッセージ性が高いと感じます。メビウスは記憶を操作されたとはいえ自主的に思考することのできる存在です。そのメビウスをして、特に疑いを抱かせずTVAに奉仕させ続けたのは、上記のようなダブルスピークや情報統制などの仕組みの賜物でしょう。官僚的なシステムの一員になってしまえば、個人の資質だけではなかなか抗えなくなってしまうファシズムの怖さが表れています。

 実は視聴者もまた、そのような「取り込まれる民衆」側になる仕掛けがあります。ドラマの作りとして、我々視聴者がTVAファシズム体制であると観取しにくいカラクリが施してあり、よほどファシズムに敏感でなければ、シルヴィが第3話で「ファシスト」と呼ぶまで気づけないように誘導しているのです。

 そのカラクリを見てみましょう。まず、TVAに逮捕される人々がいかにも「悪」の側に見えるというのがあります。ロキが一方的に断罪されて逮捕され、強制的に連行されて裁判にかけられるという流れを視聴者は目撃するわけですが、しかしこのロキがヴィランであるという先入観念を持っていると、TVAが「正しい」側であるようにミスリードされてしまいます。彼が捕らわれたり裁かれたりするのは「正しいこと」なのだと。TVAの裁判官がアベンジャーズのしたことは「正しい」と言うために、ますますその印象が強められます。

 またメビウスをはじめ、職員が概ね善良そうであるという点が挙げられるでしょう。ハンターB-15すら、職務熱心なだけで根は真面目ないい人そうだという印象を持ってしまいます。

 TVA職員を変異体を洗脳して作り上げた、ということは確かに第3話で初めて明らかになる話で、それはそれで酷い話なのですが、第12話で描かれた描写だけでも、本当は既に充分「酷い」と気づくべきだったのです。シルヴィがその変異体の洗脳の話を持ち出す前にTVAをファシストと呼んだのは誠に正しいわけです。「目的が手段を正当化すると思っていると、ほとんどなんだってやってしまう」というメビウスの台詞は、上記の明らかに問題なTVAの行動も「正しい」と感じてきてしまった視聴者にも刺さる言葉でしょう。現実社会でも、我々はしばしば、ある組織が行う首を傾げるような問題行動を見聞きしても「権威ある正しい組織がやってることは正しいのだ」と思い込んでしまいがちです。


 一方で、上で述べたように、『ロキ』には現実のファシズム国家に存在する「下からのファシズム」が全くないこと、またファシズムファンタジーで描かれるような、民衆同士が監視し合い密告し合う社会ではないことなどから、民衆の責任や残酷さというものがかなり透明化されてしまっているという問題があります。これは現実へのアクチュアルな影響という意味ではかなりパンチが弱いと言えるでしょう。民衆の加害性に触れているとはいえ、結局のところ責任は指導者にあり、民衆は巻き込まれただけの被害者なのだという「民衆無罪」的な考えが見え隠れしてしまいます。

 それは「剪定」の示すところも関係してると思います。第4話の最後あたりまでは「剪定」は肉体の完全消滅のように描かれ、かなり残酷な感じでしたが、第5話では剪定されれば異世界に飛ばされ、そこで雲のような怪物アライオスに飲み込まれて初めて本当に消滅してしまうという手順を踏んでることが明らかになりました。アライオスからは逃げ続けることもできるようで、確かに大変な状況ではありますが、剪定イコール惨殺ではないのです(そもそもそのようなまだるっこしい仕組みをが創られた意味あいがよくわかりませんが)TVA職員の「剪定」の残酷さがグッと薄められた設定でした。


ロキというキャラクターへの意義〜「ファシスト」という言葉で明確にされたロキのヴィラン


 ロキ自身がファシズム思想に親和性ある発言を『アベンジャーズ』でしていたこと、『ロキ』ドラマではその思想から脱却できたことを以前のレビューで述べさせていただきました。


https://topaztan.hatenablog.com/entry/2021/07/21/174711


 ロキはエーリヒ・フロムの『自由からの逃走』めいたことを言い、自由への渇望は人間を惑わすもので、人間は実は服従したがっているのだと説きます。そして暗に自分が支配することで、人々から自由を取り上げ、そのかわり自分が最良の選択をしてやると言います。『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』で死ぬまで、映画正史でのロキはその考えをあらためた形跡はありませんた。それがロキドラマで自分の考えが具現化したようなTVAのあり方を目の当たりにし、よくないことであったと認識するのです。

 ロキがファシズム的な考えを持っていたことは、しかし『アベンジャーズ 』をサラリと見ただけでは実はよくわかりません。シュツットガルトでの彼の演説と老人のやりとりは、注意深い視聴者でないと意味がわからないし、重要だともわからない描写です。

 ロキドラマでは、改めてその部分にフォーカスし、ロキの思想のあり方を印象づけていました。そしてそのロキに、大義のために他人の人生をコントロールするTVAを「乗っ取る」と考えさせて、TVAとロキが似たもの同士であることを示しました。その上でシルヴィとの出会いによりTVAの真の姿を知り、悪として認識し破壊するようにするのです。

 シルヴィの言葉「ファシスト」という言葉はロキの思想の問題点を明確にし、現実世界のイシューと接続させる効果があるといえましょう。

 

 

終わりにーーTVAは本当に「ひどい組織」として描かれているか?楽しく消費されるファシズム表象


 さて、多少パンチが弱いとはいえ、そのように誰もがファシズムに取り込まれることへの警鐘や、ファシズム的思想を持った者がそこら脱却できるストーリーが語られたという点で見るべきものがある本作ですが、しかし本当に「反ファシズム」ファンタジーと言えるのか?という疑問が実はあります。私は作品自体というよりむしろそのマーケティングで不安を覚えるのです。

 たとえばミス・ミニッツというTVAマスコットが商品化されており、人気のキャラであるとMCU側も言っています。

(ドラマ中のミス・ミニッツとぬいぐるみになったミス・ミニッツ)

 しかしそれは、TVAファシズム組織であると製作側が認識してるならかなり奇妙なことです。変な話、ファシズム国家のシンボルである鉤十字が商品化されてるようなもので、大変不謹慎な話です。そもそもTVAの美術自体が、何か素敵なものとして作られているのは否めません。

 作品自体でも「あり続ける者」が「悪」であるということがあまり強調されず、曖昧にされているのもその印象を強めます。すごい悪の親玉がいると思って本拠地に乗り込んだら、そいつは割といいヤツそうで、彼なりに理屈があったという、ドラマ上のどんでん返し的な効果を狙った作劇なのでしょうが、ファシズム組織としてTVAを描写した意義を著しく薄めてしまっています。先に述べた「民衆の責任、残酷さの透明化」といい、せっかくファシズムという重いテーマを持ち込んだのに充分活かしきれていない印象です。


 さて、もうすでにロキドラマはシーズン2の撮影が始まっているようで、そこでは相変わらずTVAで働いているロキと盟友メビウスや、シルヴィの姿が目撃されています。シーズン2では、上記の問題がなにがしか解決されていることを望みます。



参考文献


・田野大輔『ファシズムの教室:なぜ集団は暴走するのか』大月書店、2020年

・山口定『ファシズム岩波書店2006年

・川端康夫『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌』岩波書店2020年


その他混同されがちなファシズム全体主義について理解が深まった本として

・牧野雅彦『精読 アレント 「全体主義の起源」』講談社2015年

・エンツォ・トラヴェルソポピュリズムファシズム: 21世紀の全体主義のゆくえ』湯川順夫訳、作品社、2021年

ヴァルキリーを王にしたのは誰?ムジョルニアは誰が持てる設定なの?〜演説好きソーを中心としたヒーローショー『ソー: ラブ&サンダー』

 『ソー: ラブ&サンダー』を7/10に観てきました。同じタイカ・ワイティティ監督が監督した前作『マイティー・ソー バトルロイヤル』(2017)も大好きだったので、どういう風になるか—特に予告編にあったジェーン版マイティ・ソーやヴァルキリーがソーと共に冒険するお話がどう描かれるかを楽しみにしていきました。


 さて、観た結果はと言いますと…コミカルなシーンが多いという点は確かに前作と共通するといえば言えましたが、同じ監督の作品とは思えぬ大きな変化を感じました。全体に旧ソーのための映画で、対象は子供たちという感じになっていました。前作は、子供も楽しめるでしょうが、大人こそニヤリと笑ったり楽しんだりできるシーンも多く、政治的なメッセージなども感じられ、大人向けという感じだったので、かなり驚きました。言うなれば遊園地などで行われるヒーローショーの拡大版のように感じたのです。

 ソーと一緒に子供たちが戦うシーン(養女にしたらしきゴアの娘も後にソーと一緒に戦う)は、観ている子供たちは大喝采でしょう。子供たちが自分たちとその子らを重ね合わせ、自分もヒーローのようになれる!と感情移入しやすいように作られていることは間違いなく。またヴィランの悪堕ちのきっかけも、善性に戻るきっかけも、ともに「我が子への親の無償の愛」ということで、子供たちにも大変わかりやすいものになっています。そもそも映画が、コーグがおそらく子供たちにソーの物語を語り聞かせるというスタイルをとっており、彼の語りで枠構造が作られていることからもそれは明らかです。ソーが裸にされるシーンも、子供なら屈託なく「すっぽんぽんにされた!」と笑えることでしょう。

 そして今まで、ソー映画と言いながらも弟ロキとの複雑な心情の絡みが重要なポイントでしたが、今回はそういうこともなく、ストーリーのシンプルさもあって思う存分ソーの戦闘シーンが観られました。その意味でも子供たちには楽しく親しみやすいかと思われます。武器に人格があったりや武器に話しかける様子も、子供向けのコンテンツによくあるモノの擬人化のパターンです。

  

 そのように、「子供が楽しめる、夢を感じられる」コンテンツになったのは大いに喜ぶべきことですが、しかし大人の目線で見ますと、なかなかストーリー的に厳しいものがありました。まず様々な設定が今までの作品と整合性が取れなかったり、あるいは作中でも理由がはっきりしなかったりと、観ている最中に既に色々気になってしまうという作劇上の問題点があります。よく「何も考えずに頭空っぽにして見ると楽しい」という表現がありますが、それが苦手な人には向かないでしょう。

 そして「画面に映ってる時間が長い割には、ジェーンとヴァルキリーの扱い薄いな…?」ということがありました。女性2人を物語の中核に据えるなら、もっとしっかり深掘りされるかと思いきやそうでもなく、ヴァルキリーに至ってはソーの引き立て役的に。確かにカッコいいシーンは多いんですけど、物語上はどうかなあと思いました。


 以下に疑問に思った点を詳しく述べていきます。


1.ジェーン〜病名すらはっきりしない「癌」とムジョルニアを持てた経緯の軽さ

 

 ジェーンは末期癌であることが早々に示されますが、なんの癌なのかはっきりしません。まずそこでモヤモヤするのですがそれはまあ置いておいて、それが現代の医学では治らないことが示されます。

 セルヴィグ博士から化学療法は効かないと言われ、北欧神話の本をパラ読みして得た知識で、持ち主を健康にするというムジョルニアのパワーを試すことに。するとあら不思議、欠片になったムジョルニアは元に戻ってジェーンの手に渡り、彼女をマイティ・ソーにしたのでした…

 いやいやいや。自分が元気になりたいからムジョルニアを持ちたいというのは、かなり利己的な動機ではないでしょうか?ムジョルニアを持つ資格云々はどこへいったのでしょう?

 まあ『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)で何の説明もなしにキャプテンアメリカがムジョルニアを持てたように、コミックで既に知られている設定は、説明をせずすっ飛ばしてもいいという、製作陣の判断なのかもしれません。しかしそのようなことは、今までMCUで積み上げてきた物語の根幹を否定することでもあり、私自身は興醒めするものでした。

 確かにジェーンと付き合ってた時に、ソーがジェーンを守ってくれとムジョルニアに語りかけ、ムジョルニアが反応するシーンがありました。もしかしたらオーディンがかけた魔力は消滅して資格云々は問われなくなり、ソーのジェーンを守護する魔力(?)が効いてるのかもしれず、ソー1作目の設定はもはやないのかもしれませんが、その割には「自分はムジョルニアをすぐ持てなかったがお前はすぐに持てた、すごい」というようなソーのセリフもあり、ムジョルニアが持ち主をジャッジするという性質の連続性は否定されていないようにも見えます。そもそも守るというのと持てるというのは違うんじゃ…とかも。そのあたりの整合性でかなり引っ掛かりを覚えました。

 またもう一つ大変気になったのが、末期癌患者が現代医学(化学療法)をさしおいて、魔術的なものに縋ってそれで成功するというストーリー作りです。結果的にそれを使うことで消耗が激しく死期を早めてしまうので、一概にそれが良いこととはされていませんが、癌患者が現代医学ではなく民間療法や呪術的な何かに走ってしまうというのは実によくある話で、社会的にも問題になっています。科学者のジェーンがそういう行動を何の葛藤もなくあっさり選択することに、かなりかなり後味の悪いものを感じました。


2.ヴァルキリー〜せっかく王になったのにあまり活躍できずソーの引き立て役の女性戦士

 エンドゲームで唐突に王位をヴァルキリーに譲り、ガーディアンズと旅に出たソー。

 えっっそれはソーの一存で決めていいわけ?と思いましたが、ソーが王として機能していない間、ヴァルキリーが新生アスガルドをまとめてたらしい感じがするので、新しいリーダーとしてはまあ妥当なのでしょう。女性リーダーとしても注目です。

 では今作でバリバリと王の役割をこなしているヴァルキリーが見られるかな…と期待したら、そうでもありませんでした。どうやらアスガルドとしては観光立国にしたいらしく、様々なイベントに出たりコマーシャルに出たりして好感度あげるのも王の勤めらしいことが描写されます。でもどこか浮かない感じ。会議でも退屈そうにしています。

 そのように本人がうっすらいやそうにしているだけでなく、リーダーシップ自体がないような描写もされて、私としてはそこもびっくりでした。

 子供たちが攫われて、民から色々陳情されていっぱいいっぱいになってるヴァルキリー。そこへソーがやってきて皆静まり返り、子供たちを必ず取り戻すというソーの言葉をありがたく聞きます。ヴァルキリーも似たようなこと言ってたのに…?

 船で出発する時の演説もソーのみ。ヴァルキリーは酒樽を運び込むシーンにしか映らず、ソーの演説の時は姿すら映りません。

 女性でもリーダーになれる、ということを示すお話として、ヴァルキリーが王になる設定は良いと思ってたのですが、これではあまりに彼女がかたなしです。

 リーダーじゃなくて戦士に向いてると言いたいのかもしれませんが、彼女が戦士としてすごいということとリーダーシップ取れることとは両立するはずです。実際ソーはそうなのですから。正直、両立できているソーの引き立て役にしかなっていません。ソーの方がヴァルキリーより権威ある存在としてアスガーディアンから持ち上げられてるシーンは正直要らないしノイズでしかありません。

 で、彼女は国王でなく戦士特化して向いてるのかと思いきや、ゴアに刺されて戦線離脱。戦士としても中途半端な扱いです。

 彼女は国王業務は続けるようですが、最後に彼女が映るのは子供に護身術を教えている姿。

 女性戦士シフも同じく武術をヘイムダルの息子に教えていますね。MCUでは女性戦士は少年ソルジャーの面倒を見るという役割が課せられやすいのでしょうか(エンドゲームでもピーターを守るためになぜか女性戦士たちがプチアッセンブルしていましたね)

 とにかくヴァルキリーは、女性リーダーとしても、戦士としても、結構中途半端に描かれていたなあという印象です。

 もちろん派手に戦うシーンはあるし、なんか歩いてるだけでかっこいいし、女性の恋人を持っていたことが示唆されたり女神の手にスマートにキスするシーンはあるし、雰囲気的には「素敵」に撮られてはいます。ファンも増えたことでしょう。ですがストーリーとして見ると、意外と見せ場がない状態で、女性のエンパワメントという視点でも肩透かしな印象でした。


3.ソー〜ツッコミ不在の中ひたすら演説するヒーロー

 

 ソーはこの映画内でひたすら人々に向かって演説しています。助けた星の人々、クィル、アスガルドの民たち、攫われた子供たち…それらは、皮肉を言われることはあっても、ほぼ受け入れられています。特にアスガルドの民や子供たちには大いに受け入れられ喜ばれています。今までソーがこんなに演説することはあったでしょうか?ちょっと思い浮かびません。

 そしてそれがやや出過ぎな印象を受けます。ヴァルキリーを差し置いて民に演説する姿には、ヴァルキリーを王にしたのは君じゃないのか!?と問いただしたくもなります。なんか企業で、一応社長から引退して若社長を代わりに据えたけど、結局自分が表に出たがる会長みたいな感じ。

 全体にソーは、ジェーンやムジョルニアへの未練を示すシーンでコミカルに情けなく描かれる以外では、強く皆から慕われる存在として描かれ、真っ向から否定されるシーンはありません。以前の作品だったら…たとえばIWとかだったら、クィルはソーの頓珍漢発言にもっと突っ込むだろうと思うのですが、控えめに皮肉を言うだけです。(ガーディアンズの扱いも非常に軽く、クィル以外は空気のような扱いでそれもがっかりでした)

 ふんわりとソー全肯定な雰囲気の中、演説しては受け入れられるを繰り返すソー。主人公としてはかなり単調な感じの描かれ方です。

 葛藤や成長、という点は、「色々親しい人を失ってきたソーが元カノへの気持ちを再確認して愛を告げる」というところになにがしかありそうですが、正直それもよくラブコメで描かれている筋書きではあります。そもそも別れた理由が、相手を失うのが怖かったからというのも、あまり説得力持って描かれていませんでした。彼が愛する人を失い続ける経験として例に挙げられているのは、父、母、ウォリアーズ3、ロキですが、父母以外はジェーンと別れた後の経験です。その辺りがふわっとぼかされて、ざっくりと「愛する人を失うことを恐れるソーが勇気を出して愛する人と向き合った」ストーリーに置き換えられているのが、なにかを誤魔化されたようで、その「成長」もなんだかなという感じでした。

 あとそういえば、彼は神殺しの犯人を野放しにするゼウスに腹を立てて殺してしまいますが(ポストクレジットで生きてることが判明)、ろくに根回しや交渉もせず意見を聞かない相手をさっさと殺すというのは実に脳筋な感じがします。あんまり教育的にもよろしくないし、成長したソーを示すとは言い難いシーンだなと思いました。


4.アスガルド人の子供たち〜少年兵を突撃させていいのか!?『ジョジョ・ラビット』の倫理性はどこへ


 そして本作最大の疑問点。子供を兵士にしていいのか!?という問題です。子供が喜ぶからと言って、また神様のパワーを分けたからといって、明らかに恐ろしい強さを持った、大人のアスガーディアンでも苦戦する敵に子供を戦わせていいのでしょうか。

 ヒーローショーならばまだいいでしょう。またアニメでもギリギリいいかもしれません。

 しかし実写という、かなり生々しいコンテンツで子供を突撃させるとなると、否応なしに生身の少年兵を想起してしまいます。ジョジョ・ラビット』(2019)で、武器を持たされてアメリカ兵に突撃させられるドイツの子供たちの悲劇をエモーショナルに描いた監督が撮った作品とはとても思えません。

 ファンタジー映画の系譜で言えば『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』(2002)でも、否応なしに武器を取って戦闘に参加させられる年端も行かない少年たちが描写されましたが、それは明らかに残酷なこと、異常なこと、恐ろしいこととして描かれていました。

 どうせおとぎ話なんだから、どうせ傷つかないお約束なんだから…そういう「どうせフィクションなんだから何やったっていいだろう、楽しめればいい、野暮なこと言うな」感で、実写で少年兵を扱われるるのは、現実の諸問題を鑑みるにかなり厳しい感情を持ってしまいます。

 


5.ゴア〜作劇の都合でシリアス度が下がってしまった悲劇のヴィラン


 ゴアは本作では数少ない、シリアスな問題を抱えているキャラで、作中で死んでしまいます。しかし上記と関係しますが、そのように「どうせおとぎ話なんだから」という作劇が重要シーンに入ってしまった結果、ゴアの苦悩や死もまた相当にフィクショナルに、軽く見えてしまうという効果が生まれてしまったように見えます。

 そもそもコーグの語りによる「ソーの人生ダイジェスト」で触れた親しい人たちの死自体が、かなり茶化したものであり、特にウォリアーズ3やロキはひどいものでした(浅野忠信のホーガンが「誰?」で済まされたのも不愉快でした。最近話題になっている「ハリウッドでの日本人差別」につながるものを感じます)。ロキの死は『アベンジャーズ  インフィニティ・ウォー』では厳粛に描かれ、その後のソーの行動に深く影を落としたのですが(もっとも『アベンジャーズ  エンドゲーム』ではその影はさっぱり消えましたが)、何度も死んだよね〜というお笑いのネタになっていました。なので、今作では厳粛に描かれたゴアの苦悩や死の話も、次回作ではお笑いネタにされるだろうな〜というメタ的な印象すら持ってしまいました。

 またゴアは神を殺す剣を持ったことで身も心も蝕まれたようですが、それにしても子供を攫って人質にするというのはかなり卑怯度が高いように見えます。自分が子供を失う悲しみを知っているのに他人の子供は平気で奪うんだ?と思いましたが、まあ剣のせいで人格歪んだと思えば…。彼が大人でなく子供を攫う理由も映画では特に描かれませんでしたが(子供を洗脳して自分の手下にするとか子供ならではパワーを利用するとかの、「子供でなくてはならない」もっともらしい理由が描かれるかと思ったら全然ないので驚きました)、これも剣のせいで弱い子供を狙う卑怯者になったんだの一言で済むかもしれません。他にも子供を無駄に怖がらせたり、剣のせいで(?)だいぶダメなヤツになっています。しかしそのような「剣によるであろう突然の卑怯化」「ダメ人間化」は、「子供向け映画」として、子供に感情移入させるために逆算して作られた造形だと考えると納得いきます。わかりやすい悪役ぶりを入れず、ヴィランにも実は事情があって…ということを中心に描いてしまうと、思い切りヴィランと戦うスカッと感が子供には得られません。子供を怖がらせるとても悪いヤツでした、でも最後には自分の子供のことを思って改心しました、いいパパだったね、というのは子供でもわかりやすいオチでしょう。ちなみに彼はソーを屈服させるために女性戦士たちを拷問しますが、より簡単で効果的であろう子供を拷問しないところに子供向け映画のバランス感覚が見え隠れする様に思われます。


6.その他様々なご都合展開・本筋に絡まない単発コントの連続


 あと全体に強者間のパワーバランスが悪く、どういう原理で強い弱いが決まるかが曖昧なまま進んでいるのもとても気になりました。誰がどのように強いのか、どのように戦うとどういうダメージが発生するのか。ゴアもゼウスも強いんだか弱いんだか、馬鹿なんだか賢いんだかはっきりせず。ゴアは子供たちを無駄に怖がらせる割には、幻でちょいちょいやってくるソーは野放しです。

 ゼウスのサンダーボルトも妙に万能感があるかと思えば、武器としてはそれほどでもなかったり。ストームブレイカーの代わりに移動手段としても使えそうなシーンもあり、じゃあゴアはストームブレイカーにこだわる必要ないんじゃないの、とか。そういう様々な決まり事が有耶無耶でご都合展開が目立ってしまうので、物語への没入感が妨げられる感じです。

 また今回はコメディ要素が、あまり本筋に絡まず有機的なつながりを持たなかったので、物語の流れを連結するどころか寸断してしまう印象を持ちました。これは前作『バトルロイヤル』と大きく違うところです。

 たとえばストームブレイカーが人格を持ち嫉妬したり甘えたりし、それにソーが話しかけて宥めるというコメディシーンが何度もありました。ですがその要素は別にあってもなくても物語上問題はありません。

 同じように、モノでありながら人格を持つMCUのモノといえば、ドクター・ストレンジのマントが挙げられます。マントは気難しいストレンジと絆を育み面白いやりとりをしたりしますが、ここぞという時に意志を持って助けてくれたりし、「意志のあるモノ」であることが充分物語の動きに寄与します。そういう側面が今回見当たらないのです。

 最も大きな違いは、マット・デイモンらが出演する「茶番劇」です。『マイティー・ソー バトルロイヤル』では、オーディンに成り代わったロキが、マット・デイモンらの役者たちに、おそらくロキが書いた脚本を元に「ロキの英雄的な死」を演じさせていました。ソーもオーディンもロキの死を嘆き、オーディンは敵国ヨトゥンヘイムで、幼いロキをあたたかな気持ちで拾ったと回想するのです。それらは滑稽でばかばかしいものでしたが、重要な意味を何重にも含んでいました。まずロキの出生の秘密や人生を知らないアスガーディアンに、ロキに都合がいい形で歪曲した情報を提供する、ということで「都合よく修正した歴史を国民に提供する独裁的な為政者」というステレオタイプを皮肉っていると言えます。この歴史修正とプロパガンダは、実はオーディンその人も行っていたことが後半で明らかになり、映画の重要なライトモチーフであったことがわかります。またロキは『バトルロイヤル』前作の『マイティー・ソー ダーク・ワールド』に比べて随分と穏やかで落ち着いたキャラになっていますがが、それは彼の出生の秘密という最大のコンプレックスをこの劇でうまい具合にカミングアウトでき、人々に受け入れられていることがあるかもしれないと思わされます。そのようにコメディ単体としてはもちろん、映画内の重要なファクターとして機能していた「茶番劇」ですが、『ラブ&サンダー』ではどうにもそのような機能が見当たらないのです。同じ劇団が、ソーとロキの目の前で起きたオーディンの死やヘラの登場を演じますが、観客は観光客であって別にその情報を与えることで何か影響があるようにも見えません。映画内でこの劇の要素がリフレインされることもなく本当に単発コメディなのです。

 こういう、面白みはあるけども物語の進行上特に必要ないコメディがあちこちに挟まれているため、そういう単発コメディの連発が好きでない人には物語の流れを寸断されるような感覚を覚えさせるでしょう。


■まとめ


 子供向けの作品と思えばなかなか面白いですし、今までの作品との整合性も気にしなければ楽しく見られると思います。ソー、マイティ・ソー、ヴァルキリーとカッコいいシーンがたくさん用意されているのも眼福でしょう。派手なバトルシーンやコミカルなシーンも多く、肩の力を抜いて楽しめる娯楽大作と言えます。神様が大集合するシーンなども、ワクワク感や壮大さがあって楽しめるでしょう。『エターナルズ』で重々しく登場したセレスティアルズがちょい役で番人のように出てきたりと、MCUの世界観の広がりを感じさせるものもあります

 ですが上に述べたような様々な疑問点、問題点があるので、なかなか素直に楽しめないところも多い印象です。子供も大人も楽しめるような、わかりやすさと各種整合性や深みを同居させたものを作るのは可能だ思うので、おそらくあるであろう次回作(Thor will returnとありましたね)ではその辺りを改善してほしいと思いました。

新成人への教訓の数々とロボトミーの恐怖〜『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』

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 『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』を、1/7に鑑賞しました。その後吹替版も鑑賞しました。

 本作は多くの人が述べているように、様々な要素が詰まったとても素晴らしい映画だと思いました。他のバースのスパイダーマン達との邂逅と励まし、親友たちとの硬い絆と別れ、ヴィランを倒すのでなく救おうとする姿勢、そして全てを失って、ひとりのヒーローとして、スパイダーボーイでなくスパイダーマンとして歩み出すピーターの姿など、熱く感動するポイントが盛りだくさんでした。また先輩スパイダーマンたちやヴィランたちの物語に敬意を払い、彼らが単なる賑やかしでなく物語の根幹を担ってるのも、シリーズを見てきた者には大変胸熱でした。アクション面でも、月を背景として次々とかっこよくスパイダーマンたちがスイングするとか、これこれ、これが観たかったんだよ!と叫びたくなるようなダイナミックなシーンがたくさん観られました。

 それと同時に、私は非常に「青少年向けのメッセージに満ちた映画だな」という印象を持ちました。もっと言えば、これから大人の社会を自力で生きていこうとする青少年に向けた教訓が詰まった映画だなと。


 これまで明確な悪人以外は、ピーターの守り手としての大人が多かったMCUです。しかし今作では悪人とは言い切れないにしろ、世の中に出たら覚悟しなければならない様々な理不尽を行う大人たちが出てきましたし、その理不尽に屈しないためには何が必要なのかも、丁寧に描かれていました。これは従来のMCUスパイダーマンシリーズではあまり感じられなかった傾向なので、かなりおどろきました。ある意味、スパイダーマンズ大集合やマルチバースが開いたことよりも、私には新鮮でした。

 今作でピーターはおそらく、大学入学の年齢である18歳に近づく、もしくはなるわけですが、この年齢はアメリカでは選挙権のある成人年齢でもあり、それはこの「大人としての心得を伝える」映画作りと無縁ではないように思います。いわば新成人として、大人と子供のちょうどはざかいに立っているピーターへの、社会人としての心構えを次々に語りかけてる本作は、青少年が大きなターゲットである本作にまことにふさわしく、意義深く感じられました。


 その一方で、ちょっとどうかなという点も感じました。

 まず、倫理的な問題から。ヴィランを外科的に、半ば強制的に治療しようとする姿勢が良いものであるという映画づくりに、かなり違和感を持ちました。犯罪者に厳罰ではなく治療をというのは、方向性としては極めて現代的であり、アメリカでは既に様々なプログラムが実施されています。しかしその一方で、その考えは注意深く取り扱わないと危険なものです。

 また作劇上気になった点として「ここでなんとしてもこの出来事を入れたかった」「このセリフを入れたかった」的な制作上の都合を感じてしまう展開がいくつかありました。なのでせっかく熱く盛り上がれる映画でありながら、そういう制作上の都合が透けて見えて、スッと冷静になってしまうことが数回あったのも確かです。


 では以下に詳しく見ていきます。


メッセージ〜権威に対しても、理不尽には抗議しよう〜


 本作の重要なターニングポイントは、充分な実力がある3人組がMITをはじめとする大学から入学拒否された件です。これがきっかけで、自分の正体がバレたせいで親しい人に迷惑かけているという苦しみが頂点に達し、ピーターはストレンジの元に向います。それまでにも大衆に住所や居場所がばれて加害されたり、警察に不当に拘束されるなどの出来事がありましたが、大学に入れないという人生を左右する出来事がとどめをさしました。しかしストレンジから、自分の魔術を頼る前に大学に交渉しないのかと叱られてしまいます。そこでMITに合格したフラッシュを頼って大学の実力者を見つけ直談判に行きます。


 これは「大学などの権威の下した結論でも、理不尽ならば抗議すべき」というメッセージといえます。高校生なら、このように大学から言われたら、そうかそうなんかと疑わず受け入れてしまうかもしれません。しかしMITの言い分は、スパイダーマンの正体の暴露に伴う騒動によりというもので、考えたらかなりおかしな話です。ピーターたちが悪いと断じてる訳でもなく、どこか逃げを感じる書き方です。

 この件には、いかに権威があるところから発されたメッセージでも、理不尽には断固立ち向かい、訴え出るべきだという強いメッセージを感じました。これは特に、学校の理不尽な校則などにも従うべしという圧力が強く、権威に従順な人間を仕立てる日本の教育に慣れた青少年に伝えるべき内容だと思いました。



メッセージ〜プロフェッショナル相手でも契約時は自分できちんと確認し詰めよう〜


 予告編でも出てきた、魔術を実行中のストレンジにピーターがあれこれ注文をつけて失敗させてしまうシーン。あれは現実世界で言うと、契約書などをちゃんと自分で確認せずに何かをすると大ごとになるぞ、という警告といえます。

 ピーターは、はじめストレンジに親しい友達の将来も潰してしまうので「時を巻き戻してくれ」と魔術を頼みます。それがストレンジの思いつきで、ピーターがスパイダーマンだという記憶を全世界から取り除くという魔術に変更になります。ピーターはそれに特に反対せず従うのですが、術の実際の施行時になって初めて後悔して色々と注文を付け出し、それが大問題になります。

 この、ストレンジの魔法の仕様について始まるまで深く考えない態度というのは、ストレンジへの過度の信頼というか、大人に任せれば、プロに任せればなんとかなる、善処してくれると言う、子供にありがちな幻想の発露と言えます。そう、ストレンジは「なんかうまくやってくれそうなプロフェッショナル」の比喩なのです。しかし現実世界の「プロフェッショナル」と同様、彼は依頼者がきちんと伝えなければ思い通りに善処してくれる訳でもないし、わかりやすく説明を尽くしてくれる訳でもありません。そもそもプロでも問題を見過ごすこともありますし、またプロが慣用だから当たり前と思っていることも、その業界以外では通用しなくなっていることもあります。このシーンには、プロへのリスペクトは必要ですが、自分たちもできうる限りのチェックをすべきだという重要なメッセージが込められているのです。


 最初にも書きましたが、ピーターは今作の年度でおそらく18歳、アメリカで選挙権を持つ成人を迎え、色々大人として判断していかねばならない立場になります。ストレンジも作中で「子供だということを忘れていた」とつぶやきますし、ピーターやMJ、ネッドがまだ親的な存在の保護下にある存在という描写も出てきますが、彼らは大人として自分の行動に責任を持つべき年齢に差し掛かっているのです。

 もちろん一般的な考えでは、世界に影響を及ぼす大事なことならば、ストレンジ側がもっとちゃんと条件を詰めてあげるべきでしょう。そして伶俐なストレンジがそこに気づかないとも正直思えません。本作ではそこをあえてストレンジの賢さ度合いを下げて、上記の危険性を強調したように見えます。ポータルを閉め忘れてサンクタムが凍ってしまってる(そしてその凍った状態を直せない)というやや唐突なシーンは、そういう「あえてストレンジをポンコツ化する」意図の表れでしょう。



メッセージ〜善をなす時もしっかり説明と同意を得よう 


 本作の大きな特徴として、またMCUとして極めて画期的なこととして、ヴィランを殺したり元の世界に返して死ぬ運命に任せるのではなく、ヴィランを「治療」して善の存在にして生かす方向にしようとしました。ドック・オクに対してはそれはすんなり功を奏しましたが、しかし彼以外のヴィランには苦戦し、その過程でメイおばさんが死んだり一般人が負傷するなどの被害が出てしまいます。他のピーターたちの助けも借りて最終的になんとか全員「治療」して元の世界に帰せました。 

 これは「たとえ相手にとってよいことをしようとする時でも、しっかりと説明しよう」というメッセージの表れのようです。その話が出た最初の方で、ヴィラン側がかなり拒否反応を表していますが、それに対してピーターは、結構強気に押し切っています。ヴィランたちは、実際彼に命を握られてるので致し方ないという面が大きいものの、ピーターに半ば保護者的な気持ちを感じながら、彼の「理科の実験」に付き合ってやろうという流れになるのは微笑ましいです。しかしそういう彼らの厚意に甘えて充分説得をしなかったことが、ある意味後々の犠牲につながるのです。


 考えてみると、ドック・オクは装置の一部を解除するだけなのに、他のヴィランは彼らの能力を全面解除するのですから、みんな同じ治療とは言えません。その点でもヴィランたちの不信感には大いに同情すべき点があるでしょう。自分が得たアイデンティティ自体を奪われるという、変化や喪失への恐怖や憤りしかしピーターはそこが分からず、良いことだからみんな進んで協力するものだと信じ込んでしまうのです。

 現実のボランティアなどでも、良いことをするのだから相手は当然それを望んでいるはずだという思い込みは、大変危険なものとしてよくあげられます。善意を施される側の自尊心や、変化への恐怖などをよく考え、言葉を尽くし相手を尊重しながら接することが重要です。私としては、貧しい人を助ける仕事をしていたメイおばさんはそのあたりの機微に詳しいでしょうから、彼女からピーターがそういう話を聞くシーンがあれば、さらによかったと思いました。



■ 問題点「凶暴な犯罪者」を外科的に「治癒」することの危険性


 私はこれは、2つの意味で結構危うい構図だと思いました。第一にこれは犯罪者はみんななんらかの疾患を抱えた者であるという発想につながります。それは疾患を抱えた者は犯罪者になりうるという思考に結びつきかねません。

 また第二に、本作でそのように犯罪に走らせる疾患は病的な凶暴性とも言い換えることができるように描写されていましたが、過去に人類は、「凶暴性のある精神病患者」とレッテルを貼った者にに非人道的な外科手術を施して矯正しようとした歴史があり、そのようなことも当然想起されるのです。映画『カッコーの巣の上で(1975)では、精神病患者とされた者をロボトミーや無麻酔電気ショックなどで非人道的に「治療」する様子が、現実の精神医療を告発するニュアンスで描かれました。主人公は実は精神病患者ではないのですが、度重なる反抗的な態度からロボトミー手術を施され、廃人のようになってしまうのです。(本作でも、凶暴性を「治癒」されたヴィランたちが、腑抜けのようにボーッとした放心状態になるのもやや気になりました。)

 そのような問題点がないかのごとくの「凶暴な犯罪者の外科治療」礼讃には、いささか怖いものを感じました。尺の問題もあるでしょうが、カウンセリングなどの方法による「治癒」が模索されなかったのも残念です(ちなみにMCUは、『ファルコン&ウィンターソルジャー』や『アベンジャーズ /エンドゲーム』などでのカウンセリングやセラピーの描写を見ても、どうもそういうふうな対話による治療に対しては懐疑的な感じが見受けられます。ジャンルは全く違いますが、アメリカドラマ『エレメンタリー ホームズ』ではグループセラピーが好意的に描かれていたのと対照的です)。

 


問題点「愚かな大衆」の表象がマイノリティであること


 本作では今までスパイダーマンに対して加害する民衆の姿が描かれます。たとえばフェイクニュースに踊らされ、スパイダーマンことピーターを地球の救世主を殺した極悪人と思い込む人々。デモをしたりするのみならず、ピーターやその家にも加害をはじめます。また一見ピーターを応援するように見えて、コンテンツのように消費してそれを相手にぶつけることで加害してしまう姿も描かれます。そしてそれらはは確かに、現実を反映していて極めてタイムリーなわけですが、その一方でそれを目立って行う人にマイノリティが多いことが気になりました。実際にはそうではないのにスパイダーマンに殴られた!と叫ぶのは女性だし、スパイダーベイビー産むのかい〜とセクハラかますのも黒人男性。白人ももちろん加害側にいますが、あえて印象的に愚かな感じに出すのがマイノリティ属性というのがなんとも言えませんでした。



■ 問題点 要所要所で必然性がなく「全てはピーターに何もかも喪失させるため」の装置と感じさせてしまうプロット


 この小見出しにあげたことはプロットとして結構問題だと思いました。

   たとえばメイおばさんの死と「大いなる力には大いなる責任がある」のメッセージの接続。これは少しでもスパイダーマンを知ってる者は、あ、ベンおじさんのエピソードをここで代入したんだなとわかるので、半ば自動的に納得し感動してしまいますが、考えたらこのシーンでメイおばさんがピーターにいうセリフとしては不自然です。

 ベンおじさんのセリフでは、スパイダーマンとしてのピーターを知らずに、半ば一般論として語るのですが、この映画のメイおばさんは、マルチバースの各種ヴィランを元の世界にただ追い返すのでなく、全員改心させてから返すのがピーターの責任であると言ってるようにも受け取れてしまいます。それはあまりにもピーターには荷が重いことであり、それを育ての親が言うのは酷でしょう。ヴィランたちがこの世界に来た責任の一端はピーターにあるといえばありますが、それは彼の大いなる力のせいというより彼の子供らしさのせいであるでしょう。最初の方の捜査官が、監督者なのに子供を危険に晒してと言っていましたが、図らずも彼の言葉が正しかったようにすら感じられてしまいます。それでも、ピーターを大人のヒーローにするために、身近な大人が自分のせいで死んでしまう事件と共にこのセリフを聞かせたいのだという、製作者側の思惑がヒシヒシと感じられました。


 一番「ピーターを追い込むためのプロット」と感じたのは、最初はピーターとスパイダーマンのつながりを忘却させる魔術だったのが、最後はピーターという存在を忘却させるものに変化したことです。マルチバースが開いて、各世界のピーターを知る者がやってきてしまうのを防ぐには、結局ピーターとスパイダーマンのつながりを切ればいいんではないかという疑問が拭えません。あるいは今のピーターの名前をピーター・パーカーではなく別名として世界に記憶させるでもいいかもしれません。そうすれば別世界のヴィランたちが「スパイダーマンのピーター・パーカー」を探そうとしても、この世界に存在しないことになります。そしてそもそも、最初からミステリオを殺したのがピーター・パーカーだという記憶をピンポイントで消しとけばよかったんじゃないかという疑問も当然あります。そんなわけで、魔法とピーターの関係は完全に無理な設定とはいいませんが、かなりこじつけ感はあり、劇中でもう少しフォローというか言い訳があればなあとは思いました。


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 以上のように、疑問に思うところも色々ありましたが、これから大人になる子供たちへの大変ためになるメッセージがたくさん含まれている映画だと感じました。またこれらは既に大人になった我々にも、深く刺さるメッセージだと思います。

 スパイダーマンシリーズファン、アメコミ 映画ファンへのサービス映画としてだけでなく、広く観られてほしい映画だと思いました。

『フリー・ガイ』〜その一歩が踏み出せない若い人向けの物語だが…〜

 『フリー・ガイ』(2021)をディズニー+で視聴しました。ネットではかなり評判よかったので、とても楽しみにしてました。

 結論から言えば、私にはあまり「刺さらない」映画でした。かわりばえのしない毎日、何か少しでも名をあげることなど一回もなく、無名のまま生まれて死ぬ。そのような平凡な人間のおそらくメタファーである「フリーガイ」が、恋をきっかけに今までの自分の殻を打ち破り、新しい一歩を踏み出すことでめきめき成長するさまを描いた本作は、一般的に考えれば面白くないわけありません(ちなみに彼の別名ブルーシャツ・ガイは、ブルーカラーを連想させます)。私も自分がヒーロー側かモブキャラ側か問われたら、完全にモブキャラ側で、フリーガイに感情移入して然るべきでしょう。ところが残念なことに、最後まで自分ごととして感じることはできませんでした。人生も半分以上過ぎてしまった私のような人間には、少々楽観的すぎ、ありふれた教訓だったからかもしれません。ただ、若者には有効なメッセージを発しているのかもしれないと思いました。


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 主人公(一応)のガイは毎日同じことをして同じことを言うように定められたモブキャラで、自由意志など許されてません。ちょっとでも変わったことをしようとすると周囲からとても奇妙な目で見られたりたしなめられたり。それを自分自身、特に疑問もなく受け入れて平穏な生活をしていました(銀行強盗や殺人が頻繁する生活ですが)。ところがヒーローの女性、モロトフ・ガールに恋したために、気持ちが変わります。ヒーロー側のキャラから、ヒーローになれる条件であるサングラスを奪って、それをかけると見えるミッションをクリアしながら次々にレベルアップし、有名人になります。そして意中の女性であるモロトフ・ガールにアプローチし、最終的には自らの住む世界を救い真のヒーローになります。並行して語られる、リアル世界での主人公であるゲーム開発者の男女も、ガイとある意味シンクロした成長を遂げます。

 この、無名の一般人がひょんなことからすごいパワーを得る、なにもでもない自分が何者かになれるって、もう王道中の王道ストーリーですね。この「サングラスを入手する」というのは、競争のスタート地点に立つ、「何か実力発揮の場を得る」と言い換えることができます。つまり機会さえ得られれば、あっという間に成功するよ、君はその機会を得ようと考えもしてなかっただけで、と、視聴者に語りかけてるのです。

 これは機会自体をシャットアウトしがちな若者にはとても有効なメッセージだと思います。若者は往々にして、極度に周囲の反応を恐れがちです。いつもと違うことをして奇異の目で見られ、慌ててそれを撤回するガイのように。私自身の10代20代を振り返っても、ひどく臆病でハナから色々諦めており、どうせ自分がやったってうまくいかないだろうという決めつけに満ちていました。よく若い頃はなんでもチャレンジするものだとかそういうイメージで語られることが多いですが、考えてみれば若いということはうまくいった経験自体が少ないということでもあり、恐れも当然大きいわけです。

 この映画は、そんなこと気にするべきではないと強く語りかけます。始めの一歩を踏み出しかねてる若者の背中をドシンと押してくれる作品です。


 しかし中年になりますと、様々な経験が増える一方で、新しいことを始めたからといって何か変わるわけでもないし、何か素敵な機会がめぐってくるわけでもないことも、嫌というほど経験します。新しい料理のレパートリーを覚えたからといって、新しいコミュニティに飛び込んでみたからといって、毎日が潤うわけでもありませんし自分を認めてくれる誰かが現れるわけでもありません。新しい趣味を始めたって、長続きしなかったり、長く続けてもパッとしなかったり。あれこれしてみても、結局つまらない、成功しない人生だったと虚しい気持ちで振り返ってばかりのことが多くなる。

 そういう中年には、自分の殻を破って少しでも新しいことやってみようという自己啓発系メッセージはうんざりするものでもあります。うん、色々やったけど、結局モブのままだったよと。しかも映画では、その一歩を踏み出した途端、何の困難もなくとんとん拍子にヒーローの道を歩みます。その様子もあんまり現実みがあるように見えませんでした。まあ現実ではないのですが。


 またそういうメインメッセージの他にもいくつか気になることが。ガイの親友が黒人男性で、白人ヒーローのサイドキックが黒人というのはなんだかなあというのを感じました。その点についてはMCUドラマ『ファルコンアンドウィンターソルジャー』(2021)でも批判されていますね。

 またガイとヒロインの恋愛模倣も少々退屈であった上に、これって結局代理の恋だよね?という感じも。ガイとモロトフ・ガールを結びつけるアイスクリームの好みも、彼女の現実の存在であるミリーの好みを、ミリーを愛するキーズがプログラムしていたせいであります。ガイは結局キーズの分身のようなものというか、キーズをよりよく感じよく情熱的にした存在といえますし、実際に彼女のそばにいながらちゃんと告白せずにプロムラムしたAIに想いを投影するというのもなんだかなあと思いました。お互い理想化した自分同士で恋愛を育んでからリアルで恋愛をスタートさせるというのも、あまり傷付かずに済む恋愛パターンとして若者向けといえばそうなのかもしれません。

 いずれにせよ、若いうちに見た方が楽しめる映画かと思いました。


 ※あと私がこの映画に乗れなかった個人的な理由として、映画の面白さの重要ポイントである、ゲームあるあるを実写でやるということでは、すでに2020年にYouTubeで似たようなことをやっている集団のパフォーマンスを見てしまったというのがあります。予算や規模はこの映画と比べ物になりませんが、あるあるの再現度では引けを取らないというか、むしろ創意工夫の点で上回ってるかもしれません。

https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2008/07/news154.html