7/14に衝撃的な終わり方をしたMCUドラマシリーズ『ロキ』、皆さんはどうご覧になったでしょうか?
最終話はマルチバースの扉を開く展開、唐突な終わり方とシーズン2を予告する手法など、驚きの要素が満載でした。またシリーズを通して見ると、TVA職員メビウスとの強い絆が芽生えたり、ロキの女性版変異体シルヴィが大きくクローズアップされ、彼女との恋愛感情を仄めかす関係が展開されたりしたのも、かなり予想外でした。様々な変異体ロキが現れたりと、サプライズの連続だったと言えます。ロキ自身、ドラマの最初と最後では大きく変化しました。
しかし一部のファンからは、従来通りのロキ像を求めるあまり、「変わってしまった」ロキに失望する声も見られました。従来通りとは、裏切り、いたずらし、そして兄ソーと関わる、というようなものです。何より新キャラシルヴィにあまりにフォーカスしすぎ、肝心なロキの尺が短くなり掘り下げが足りなくなったという声も多く上がりました。
シルヴィの件はともかく、私自身はロキの変化自体については大変説得力のある展開であったと感じました。そもそもこのドラマの始まる前から、運命を超えてロキが「変われるか」というのが焦点でしたし、主演のトム・ヒドルストンも配信前インタビューで、ソー抜きにどこまで成長できるか描きたかったと語っています。
そもそも、従来通りのロキがいい、といっても、映画ではロキについて充分描き尽くされたと言えるでしょうか?撒かれた種は全て刈り取られていたでしょうか?
実はそのあたりを振り返ると、映画においては、家族、とりわけ兄ソーへの感情の変化は見られるものの、それ以外のロキの心情や思想の変化については情報が乏しいことが見えてきます。とりわけ1作目『ソー』(2011)で彼を取り巻く環境や心情が描写されたのですが、それ以降はロキはサイドキックに徹して心理描写は少なめでした。彼がどんな人物でどのように成長したか描かれるには、やはりドラマを待たなくてはならなかったのです。
ドラマで描かれた成長
・『ソー』で描かれた、抑圧され話を聞いてもらえない状態からの癒しと自己肯定感の回復、自己受容
・『アベンジャーズ』で描写された、ファシスト的な考え方からの脱却
・自己受容できたからこそ他者を受容することができ、その安寧を願うことができるように
以下に、映画でのロキ描写とドラマでのロキ描写を比較し、どのような点が取りこぼされていたのか、それがドラマでどのように取り上げられていたのか検証していきます。
1 .ドラマまでのロキの描写
■『ソー』(2011): 話をきいてもらえないロキ…名誉アスガーディアンとして過度にアスガルド的価値観を内面化し、父からの承認を望む
こちら拙ブログでも分析していますが、『ソー』においてロキは公的にも私的にもソーより低い立場に置かれ、臣下からも嘲られ、様々な抑圧を受けていました。
それを象徴するのが、3回に渡って描かれる、発言させてもらえない/発言を遮られるシーンです。彼は基本的にまともに話を聞いてもらえない存在であるのが強調されます。彼が出自の件でオーディンを問い詰めた時も、オーディンはソーに対するようなまともにぶつかり合う態度を取らず、はぐらかすような返答をするばかりでした。
まともに話を聞いてもらえないということは、まともなコミュニケーションを周囲と取れないということです。ヴォルスタッグに「銀の舌」と揶揄されてるので、彼の弁舌が冴えるシーンもあったことが推測されますが、兄やその仲間内では嘲られるものでしかありませんでした。そして彼は彼らから不信の目で見られ、私は兄を誰よりも愛してると言ったその後に、仲間内で「ロキはずっとソーに嫉妬していた」と言われたり、ソー追放やヨトゥン侵入の裏にロキがいるのではと疑われたり、全く信用されない人物です。
そうこうするうちにアスガルドでは殺すべき化け物とされており、兄もそう思って疑わない異民族出身であることが判明したために、それとこれまでの抑圧やソーとの扱いの差が結びついて、ロキは爆発しました。
しかしその爆発の仕方は独特でした。
抑圧の一方で、言葉上では愛してるとか息子よなどの言葉を受けたり、幼い頃に受けた平等な扱いの記憶などもあるせいか、オーディンやアスガルドを完全に憎んだり殺したりする方向にはいきませんでした。彼はどうしたかというと、ソーに刺客をさしむける一方で、父やアスガルドの世間に認められるために、ヨトゥンヘイムの王で実の父を誘き寄せて殺したのです。その企みがバレると、今度はヨトゥンヘイムのジェノサイドに出ました。改心したソーもドン引きの暴虐ぶり。これは彼が自分を抑圧する側の価値観を完全に内面化し、それを批判したりそこから離脱するという考え方をせず、彼らの考えを極端に突き詰めた行動をすることでそのコミュニティから認められようとする、「名誉〜」的な立場であると言えます。これは現実社会でも大変よく起こる話です。
ロキは自分こそが王座を継ぐ者にふさわしいと主張しますが、それはあくまでも「ソーと対等になりたかった」、つまり父にソーと同じくらい認められたかったからに他なりません。また疎外されていたアスガルド社会で受け入れられることも含まれるでしょう。なのですぐに、「王座など欲しくない」と言うのです。
しかし物語の最後で、父のためにしたヨトゥンヘイム壊滅の行為を否定されて、絶望の表情を浮かべて自ら宇宙区間に落ちていきます。
■『アベンジャーズ』(2012)
支配欲を前面に出すようになったロキー父に認められる手段だった王/支配者が目的に・ファシズムへの接近ー
『アベンジャーズ』でのロキは、その考え方がソーの時とやや異なるものになっていました。彼は支配することにこだわるようになっており、地球の王になろうとします。「私は王だった」「私は王だ」を連呼しまくり。王座など欲しくないんじゃないのかい。父から認めてもらうことが優先で王座は欲しくないと言ってたロキはもういません。むしろ父からの承認はやや後退し、ソーの「父上も悼んでいた」という言葉への対応を見てもわかります。
彼はソーとの会話で、自分はソーの栄光の影にいた、と言い、その影から脱するために支配者になることが必要と考えているようです。ソーにその考えを嗜められても全く意に介しません。彼はサノスに洗脳されたという側面もあるでしょうが、彼自身元々名誉アスガーディアンとしてマッチョな強権的思想を内面化しすぎており、それがサノスの影響で先鋭化したと見るのが妥当でしょう。
それが一番よく表れているのがシュツットガルトでの演説です。
“Is not this simpler? Is this not your natural state? It’s the unspoken truth of humanity that you crave subjugation. The bright lure of freedom diminishes your life’s joy in a mad scramble for power. For identity. You were made to be ruled. In the end, you will always kneel.”
“これはもっと単純な話ではないか?これはお前たちの本質ではないのか?服従を渇望することが、口には出されない人間性の真実なのではないか?自由という輝く誘惑が、お前たちの人生の喜びを減じ、パワーを求めて狂ったような奪い合いをさせる。自我を求めて。お前たちは支配されるために作られている。最後には必ず跪くのだ。”(拙訳)
ロキは自由への渇望は人間を惑わすもので、人間は実は服従したがっているのだと説きます。そして暗に自分が支配することで、人々から自由を取り上げ、そのかわり自分が最良の選択をしてやると言うのです。
前近代的な為政者が、人民は愚かなので優秀な支配層に支配されるべきだという思想を持つことは珍しいことではありません。しかしロキの演説で特徴的なのは、個人の自由意志と結びつけており、それから人間は逃れて服従したがっているとしている点です。
これはある非常に有名な書物を想起させます。ナチスから逃れて亡命したエーリヒ・フロムが著した『自由からの逃走』(1941)です。そこではファシズムが猛威を振るった背景についての考察がなされており、まさしくロキが述べたようなことが解説されてます。近代社会は,前近代的な社会の絆から個人を解放して一応の安定を与えましたが、民衆は個人的自我の実現という積極的な意味においての自由は獲得できず、孤独感や無力感を感じる状態に置かれました。そのような中で社会的経済的に危機的な状況になると、民衆はせっかく得た自由を放棄し、自発的に外部の権威に服従し一体化することに喜びを感じてしまう心理状態が働くというのです。権威に盲従し自分と権威を一体化する心理は、近年も大変よく見られますね。
ロキの演説がフロムを参考にしているか定かではありませんが、そのような心理が極めてファシズムにとって都合がいいのは明らかで、ロキはファシストのような思想を持っていると描写されているのです。
立ち上がってロキを非難した老人はThere are always men like you.お前のような奴はこれまでもいつだっていた、と言い、地球の独裁者と同じだと言います。そしてここがドイツであることを考えれば、当然ヒトラーが想起されるでしょう。こちらのマーベル・シネマティック・データベースでも、この老人がヒトラーを仄めかしていると述べてきます(https://marvelcinematicdatabase.fandom.com/wiki/Adolf_Hitler)そしてそこに、キャプテンアメリカが降り立って戦うのも偶然ではありません。彼はナチスと第二次大戦で戦ったヒーローでもあり、彼は前回ドイツに来た時も支配したがる奴とであったが、合わなかったと言っています。
ドイツのファシズムであるナチスドイツの考え方と同じだと非難されたロキですが、しかしロキはアベンジャーズ最後で物理的に打ち負かされるも上記の思想を手放した形跡はありません。
ドラマではテッセラクトで逃げ出したロキは、実はそういう危険思想の持ち主だったわけです。
また彼は、『ソー』で黙らされていた反動のように、たくさん喋ります。しかしその多くは、一方的な演説やそれに類するものです。会話はあっても相手を尊重し合った会話は少なく、ロキはヴィランとして非難される立場にあって、彼はそれに対抗する様に自身の優位性を闇雲に主張するばかりです。通常のコミュニケーションを通じた人間関係の構築ができた形跡がありません。
兄ソーも、ロキの持ち出した出自の話題にはそんなことは関係ないとばかりスルーし、家族として一緒に過ごしただろうという態度で帰郷を促すのみです。自分を殺しかけた弟に対しても態度と考えると確かにとても寛容で、兄としての愛があると言えますが、ロキの心情を聞き出そうとしたり思いやったりはしません。ソーはロキに対して「自分の弟」という属性以外、あまり気にかけないようで、それは他作品でも最後まで続く態度です。
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ここでドラマへと分岐するわけですが、以下に簡単にこれ以降の映画ロキの描写を振り返ってみましょう。
■『ソー/ ダークワールド』
母の優しさを感じ取りソーとの関係をやや修復するが、政治思想は変化せずついに王座を得る
こちらでも、彼は王座につく望みを捨てておらず、最終的にオーディンに化けて王になります。
この映画内ではファシズム的思考とロキの関係はあまり描かれず、主に家族との関係にフォーカスされています。とはいえ映画の最初の方でのオーディンとのやりとりでは、地球侵略はオーディンに倣ったと言っており、反省するそぶりがないので、おそらく政治思想面ではファシズム的思考は手放していないようです。
コミュニケーションの点では、彼はソーやウォリアーズたちに軽口を叩くものの、裏切ったら殺すと言われるばかりで、やはり対等に尊重し合う関係は築けていません。
ソーと共闘する過程で会話をし、その中でお前を信じられたらとソーに言われ、私の怒り(母を殺された怒り)を信じろと返しています。ソーはこの段階ではロキを信じきれず、母を殺されたという共通体験を通してつながります。
ソーは自己犠牲を払ってソーを守ったロキを見直し、涙ながらに父上にこのことを伝えようと褒めるのですが、それはロキの英雄的な行為をほめたわけで、ロキの特性を受け入れたわけではありません。
また最後の方でソーがロキの方が王がなんたるかをわかっていたとオーディンに伝えるのですが、かなり唐突で、何を根拠にそう言っているのかよくわかりません。王とは何かという会話をしていないためです。ファシスト的思考から特に脱してないロキを王としてふさわしいというのはなかなか危険だと思うのですが。それとも自分の身を投げ出して誰かを救うロキの行為を指したのでしょうか。いずれにせよ、かなり希望的観測の入った考えであって、ロキの特質を理解した発言とは言えないのではないでしょうか。
■『ソー: ラグナロク』(2017)
ぬるい独裁者としてのロキ・情報の隠蔽や歴史修正のためのプロパガンダ芸術を通した民衆の意識操作 自分を理解できないが家族として愛する兄との和解
ここでは、彼はオーディンに化けて王になっていますが、自分の姿を表すこともなく、またファシスト的な恐ろしい独裁者としてに為政者にもなっていません。民衆とのんびり自作の演劇を楽しんでおり、アスガルドのダークエルフ襲来の復興以外は興味なさそうです。
ではファシスト的思考と完全に離れられたかというと、そうでもありません。むしろラグナロクでは、民衆に事実と異なった情報を含んだ演劇(ソーがロキを褒め称えたり、オーディンが損得感情抜きにヨトゥンの自分を拾ったなどの都合のいいウソを交えた演劇)を上演することで、自身の立場の向上を図るという、かなりファシズムと親和性の高い行為をしていました。情報の隠蔽と為政者に都合のいいストーリーのプロパガンダを通じて、民衆の意識を操作するというのは、ファシストがよく取るやり方です。ナチの例で言いますと、アーリア人優位の思想宣伝のために各種芸術を活用しました。またラグナロクでは、真実を描いた天井画の上に嘘の情報を描いた天井画を作らせたオーディンの行状が暴かれ、そのような為政者の歴史修正については厳しい眼差しが注がれています。
コミュニケーション面では、彼は兄ソーと様々な会話をし、『ソー』の時と比べれば、だいぶ対等に話せている感じで、普通の兄弟のような振る舞いをすることもあります。その意味で、これまでの作品とは随分趣きが違います。
もっともソーは全体に兄として目下の弟に命令的な態度が多く、完全に対等とは言えない感じです。ロキ自身も、ソーからの腹を割って話そうという誘いを拒否するなど、心を開き切ってはいません。ロキはソーのいないサカール社交会で如才無い話術を発揮しており『ソー』1作目で言及された「銀の舌」とはこういうことかと思わせられます。ですがひとたび兄が現れて呼ばれると、その輪を抜けて吸い寄せられるように兄の元に行ってしまい、兄に逆らえない弟感が出ています。
エレベーター内でソーは「お前のことをずっと考えていた」と語っていますが(日本語訳ではお前を大事に思っていたになっています)、その考え抜いた結果、結局はロキを自分と異質なものとみなし、カオスで野蛮なこの星がお似合いだとやや軽蔑的に語った上で、お前はお前、俺は俺だと言います。これが三部作でソーがロキについて得た知見の最終形態でしょう。そこで突き放されたロキは、しかし最終的にアスガルドに、兄の元に戻るのです。上記の裏切りも、サカールから脱しようとする兄を引き止めるものであり、兄の側にいたいという欲求が強いことがわかります。
ソーはダークワールドでのロキのいさおしを認めたように、ラグナロクでのロキのいさおしを認めて「悪いやつじゃないかも」と言います。そして地球でのロキの扱いについては、あまり深く彼の罪を考える様子もなく、彼の思想を確認することもなく、何とかなると言います。上記の知見に加えて、「いいこともするので悪い奴じゃない」という認識が加わり、ざっくりと楽観的になったと思われます。良くも悪くも、ソーはロキに対しては大雑把な対応です。
「理解」「本質の受容」がなくても、兄弟の絆は強いのだというのが映画のメッセージとして伝わってきます。
■まとめ
映画では家族に対する想いや、兄が王位に就くことを納得する描写があり、その点では心情の変化が現れてると言えます。しかしファシスト的発想から逃れられたのか、また地球で犯した罪についてどう思っているのかについては、映画では一言も触れられていないのです。彼の危険思想や罪への向かい合い方は放置されたままです。
また、オーディンからの「愛してるぞ息子たち」発言や、牢獄でのフリッガの優しさ、ソーとの共闘などを通して、家族からの「愛」は確認できましたが、『ソー』で描かれたような抑圧的な環境でまともに話を聞いてもらえないという状況から端を発した、他人と敬意を持った、真摯なコミュニケーションを行うことをしたことがなというのも克服されていません。パーティーなどで如才無さを発揮したりできても、刹那的なものです。
考えてみると、様々な交友関係や恋愛関係を持ったソーに比べて、ロキは家族以外とほとんど深い関係を持ちませんでした。またいたずらの神と言われていますが、彼からもその本質を誰も認めたり共感したりはしてもらってませんでした。
彼は『インフィニティ・ウォー』で、死を覚悟した最後の名乗りをしますが、そこではI“, Loki, prince of Asgard... Odinson... the rightful king of the Jotunheim... god of mischief.”とあり、彼の中での優先順位がよくわかります。アスガルドの王子であること、オーディンの息子であることなどが、いたずらの神であること(自分の本質)よりも先に置かれているのです。
2 .ドラマ『ロキ』でのロキの成長〜自己受容と思想の変化
■話を聞いてもらえる・尊重してもらえる関係の構築…初めて「家族だから」という理由でなく、彼自身の特性を受け入れてもらえ、好きになってもらえる関係に
さてドラマで、ロキは、そのような今までの映画にはなかったような大きな出会いを果たしました。捜査官メビウスです。彼との関係性は、本ドラマでもっともよく練られたもので、綿密に張り巡らせたセリフ同士の関係性により、非常に立体的に描き出されています。彼との出会いと絆が、今まで全く描かれることのなかった、家族外の他人との真摯な敬愛を含んだ関係の樹立なのです。
メビウスはおそらくMCUで初めて、「いたずら好き」なロキの特性を好意的に認めた人物です。考えてみると彼は家族からもコミュニティからも、その神性を全く褒められていませんでした。
メビウスはまず、ロキのファンだと言います。彼のファンが出るなんて、今まで予想できたでしょうか?メビウスはロキのB.D.クーパーに化けたいたずらをとても褒めてやりますし、ロキが自分を「いたずらっ子だ」mischievous scampと表現したのを受けて、自分が大事なコントローラーを擦り取られた時も、mischievous scamp.いたずらっ子め、とつぶやくのみです。
ロキが「私が賢い」というと、うん、知ってる、と返します。その時の表情はどこか痛ましげで、ロキが今までそういう対応をされてこなかったのを知っているようです。
初めロキは、そのようにやけに自分を持ち上げるメビウスに不信感をあらわにします。彼が褒められ慣れていないのが如実にわかってつらいシーンです。君はこんなに多才なのに、なぜ支配にこだわるんだと言われた時は、思わず微かに口元を綻ばせ、ますます胸が痛みます。
しかし彼は、ロキの罪に対しても容赦はしません。こんなことはいたずらでは済まない、とNYの襲撃やシュツットガルトでの目玉抉りなどを次々と示します。彼が人を傷つけることを楽しんでいたのか、執拗に尋ねるのです。彼は答えをしぶるロキから、最終的に、それらは仕方なく行っていたことであることを引き出します。彼は良いことでも悪いことでも、真正面からロキにぶつかって、彼の本音を引き出します。
これらは、TVAを悩ますロキの変異体のことを知りたいという動機から出発していますが、メビウスの態度はそれにとどまるものではなく、どこか優しく、共感的で、ロキの殻を少しずつ破っていくのです。
そもそもロキの内面をちゃんと知ろうという態度が、MCU内で初めてのことです。ソーをはじめとする家族は、ロキについてはもう充分知っているという態度で、詳しく知ろうとしませんでした。これは家族というものが一般的に持つ欠点とも言えます。家族については、大切だし愛してはいるけども、わかったつもりになって決めつけてしまい、内面の変化について知ろうとしない、受け付けないというのはよくある話です。
メビウスは、私のことを知りもしないでというロキに、これから学びたいと返します。ロキの記録は全部持っているにもかかわらず、こう返せる態度こそが、ロキとの信頼を築けた基礎にあるのでしょう。
そしてロキも、メビウスに少しづつ心を開いて行きます。話を聞いてもらう、受け入れられる、何かタスクを任せられる、褒められる、信頼を少しづつ獲得する…という過程を通して、表情がどんどん明るく楽しげになっていき、虚勢ではない自己肯定感が高まっているのがわかります。食堂などで向かい合って話すシーンが多いですが、そこでメビウスのジェットスキー好きなど表の顔以外を知ったり、それについての温かな返事をしたりと、細やかな心の交流も描かれます。メビウス自身、レンスレイヤーにロキと性質が似ていると指摘されており、ある意味似たもの同士であって、そこがお互いに惹かれる理由のひとつではないかと推測されます。
そのメビウスも、最初からロキを信じ切っていたわけでなく、絆は一直線に育まれたわけではありません。まだ最初の方はお互い利用し合おうといしたり腹の探り合いをする傾向がありました。シルヴィを追って消えたロキが戻ってきて、彼女と特殊な絆を結んだ様子を知ると、嫉妬したような感情の爆発を見せましたし、彼も完璧な人間ではありません。そもそも彼は、ロキを子供のように扱う面がありましたが、ロキからそれを横柄な物言いだと指摘されたりします。しかしロキにTVAの実態を教えられ、自ら感じていた違和感と照らし合わせてそれが真実だと分かった時、ロキの元に真っ直ぐ行って、自分の間違いを率直に認めて協力してTVAを倒そうというのです。
またその時ロキの口から、友の言葉を信じるのはどうだという言葉が出ます。メビウスはその前からロキを悪友とよんでいましたが、ここはロキが自らメビウスと自分の間柄を友と初めて認めた瞬間であり、お互いに対等な友人同士になった非常にエモーショナルなシーンです。それだけに、その直後のメビウス剪定シーンは痛ましく、メビウスがロキに「自分に嘘をついている」と言われた返歌のように、自分の気持ちに嘘をつかない言葉をレンスレイヤーたちに命をかけて述べるのには、二人の友情の結実が見て取れて、こちらも大変心動かされるシーンであります。
そのようなメビウスとの絆の深まりは、彼との関係だけでなく、周囲の反応でも描写されています。
はじめレンスレイヤーは「あの変異体」「あの男」「あのロキ」という表現をしていますが、物語が進むにつれ、メビウスがあまりにロキを信頼しているのを見せつけられるためか、「あなたのロキ」というように(第4話)。TVA職員も「あなたの一番のお気に入りのロキ」と表現(第3話)。ハンターB-15も、「あなたのペット(お気に入りという意味もある)の変異体」と嫌味っぽく言います。
明らかに、TVA内でもメビウスがロキを偏愛してると受け止めてるのです。
メビウスはそういう表現をされても嫌な顔せず、「あなたのロキを調査、あなたのロキを調査って、マントラみたいだね〜」と冗談混じりに返します。彼自身、ロキへの好意が周囲に揶揄されるくらい高まっているのを自覚しているらしいことが伺えます。
そして5話でついに、彼らはハグをします。1話で自己紹介する時にメビウスが手を差し出した際は、不信感もあらわにその手を取りもしなかったロキでしたが、次に手を差し出された時は、躊躇いがちにその手を取り(首輪のコントローラーをすり取るためでしたが)、そして最後には、手を取るのでなく自らハグしにいくのです。そして「ありがとう、友よ」と囁きます。
「差し出された手」は、まさしくロキに向かって差し出された好意や助けの比喩に他なりません。それを全く受け入れない状態から、自分で利用するためとはいえ受け入れ、ついには自分から好意と感謝を示すようになれたという、ロキの成長を視覚的にも表していると言えます。この時の、差し出された手を見てからハグしようと決意するまでのロキの照れた表情も、大変繊細で素晴らしいものでした。
このハグシーンは、ドラマを通じてのロキとメビウスの関係の集大成と言えるものでありました。それはその時メビウスがロキの耳元で囁き返すYou’re my favorite.君は僕の一番のお気に入りだ にも表れています。先に周囲がしきりにメビウスがロキを偏愛していることを揶揄する表現をしていると書きましたが、そこで使われるfavoriteという表現を踏まえて、ロキへの気持ちを具体的に伝えたのです。ちなみにこのfavoriteという表現はレンスレイヤーがメビウスに対してよく使っている表現で、メビウスをお気に入りで友人だと連呼しています。しかしTVAの理念に反するとわかれば容赦なく剪定してしまうのであり、ロキとの友情との対比をなしています。
しかしそのような彼らですが、6話で衝撃的な展開になります。シルヴィに裏切られてタイムパッドでTVAに放り出されたロキですが、思い立ってメビウスを探しにいきます。ところがそこは既に別バースのタイムラインになってしまっており、そこのメビウスはロキを知らないのです。
きつくハグして、また会おう、と言ってくれたメビウスが、君は誰だと言って全く認識してくれないのは大変衝撃で、ロキの愕然とした顔がつらい。しかし彼がメビウスと培った経験を活かして、また友達同士になってくれることを期待したいです。
ロキがメビウスに初めてかけた言葉がWho are you?で、最後にメビウスからかけられた言葉もWho are you?です。悲しい符号…
■自由意思を否定し権威による統率の最終形態である「ファシスト」TVAとの戦い〜これまでのロキのファシスト的思考からの決別〜
そのようにじっくりと描かれた、今までの映画にはないメビウスとロキの関係ですが、もうひとつ描かれたものがあります。ファシスト的TVAとの対決と、それを通した自らのファシスト的思考からの脱却です。
ドラマ第1話では、アベンジャーズに引き続き、王になることに拘るロキが描かれます。自分は王になるべく生まれた、支配者になるのだと言い募ります。そしてシュツットガルトの演説シーンも引用されますが、それを肯定しており、再び人々の自由意志を否定します。その辺りの政治思想はアベンジャーズを正確に引き継いでいます。メビウスはあえてその思想自体を非難せず、自由からの解放の名の元に人を殺傷することを非難します。ロキはひとまず、人を傷つけること自体は悪いことと反省したようで、自分はヴィランだと言います。
しかし話すが進むにつれ、「自由意志の剥奪」という考え自体を否定する方向になります。それはTVAのあり方と大きく関わってきます。
TVAという組織は、視聴者にとって当初大変権威のある「正しい」組織に見えました。ロキがヴィランなだけに、彼の逮捕や断罪は一見正当なものに見えたからです。
しかしよく考えてみると色々おかしな組織です。まず、逮捕の罪状の理由が提示されていません。アベンジャーズの時間旅行が正しくてロキの逃亡が正しくない理由は、TVA以外誰にもその基準がわからない「神聖時間軸」に外れたからなのです。倫理的にどうこうすら関係ないようです。しかも裁判には弁護士もつきません。にもかかわらず即決裁判で断罪されて刑が執行されそうになる様子は、かなりの恐怖政治ぶりです。
TVAの美術の様子は、旧ソ連や東欧共産圏のアヴァンギャルド芸術を彷彿とさせます。それらの社会もまたファシズムに親和性の高い社会であり、それらの社会の、人々の自由意志を奪い国家などの権威が隅々まで統制し、恐怖政治をしくという価値観は、謎の権威で自由意思による行動をことごとく刈り取り人生を奪いまくるTVAの価値観と変わるところがありません。図書館でも厳しい情報統制が敷かれ、権威を疑うようなものにはアクセスできません。そしてシルヴィは彼らを明確に「ファシスト」と呼ぶのです(第3話)。
はじめロキは、TVAに激しく反発します。しかしそれは単に自分の人生をTVAが勝手に決めることに対してであり、自分の自由意志がないことへの反発であって、TVAのあり方そのものに対してではありません。なので当初の計画はTVAを乗っ取り、自らがタイムキーパーに成り代わるつもりであったようです。そして少なくとも自分だけは元のタイムラインに戻ることを望んでいたかもしれません。
しかしシルヴィに出会って、人の人生を奪うTVAが明確に暴力的でひどい思想であることに気づき、壊滅させる考えに共感するようになります。ロキはメビウスに向かって、TVA職員それぞれに人生があったであろうこと、家族もあったであろうこと、にもかかわらずさらわれて洗脳され働かされていることを激しく糾弾して、TVAの暴力性を訴えるのです。
「ファシスト」TVAのあり方は、ある権威が全ての人の自由意志を剥奪して統制するというロキの当初の考え方を突き詰めていった究極の形態と言えます。自由意志などない、神聖時間軸というあらかじめ定められた運命があると。その思想自体を否定し、自分で自分の運命を切り開くことを強く意志したのが、最終話のロキであり、ようやく自らのファシスト的思考から脱することができたわけです。
黒幕の「あり続ける者」を殺そうとするシルヴィを止めるのも、殺人や復讐で彼女自身が傷つくことやその結果起こることへの恐れであって、自らが彼に成り代わりたい訳ではありません。そこがこのドラマ当初のロキと全く違うところです。しかしシルヴィはなかなか信じず、悲劇が起きてしまいます。「私が信用に値しないから」と自ら悲しげに言うロキは、ある意味今までの裏切り続けた人生の自分からしっぺ返しを受けたようなものであり、大変痛ましいものがあります。
■自己受容から他者の受容へ
ロキはメビウスに受け入れられる体験を通して自分を受け入れていきますが、その体験を踏まえて、他者を受け入れるようになります。これも大きな成長です。
ロキは今まであまり経験してこなかったであろう、「褒められる」ということを細やかにメビウスから受けますが、そのうちロキもメビウスを褒め出します。TVAへの疑問について議論するとき、お前の知性に感心すると言いますが、従来のロキからは出ない言葉です。
そしてその後自分の変異体のシルヴィに出会います。それまで変異体の中でも優秀だと主張してきたロキですが、あたかもメビウスが自分に対してしてくれたのを真似るように、シルヴィの言うことを受け止め、彼女を褒めます。
このシルヴィとの描写はかなり曖昧で、どうとも取れる感じです。初恋に戸惑うティーンエイジャーのようでもあり、バディのようでもあります。特にシルヴィは、ロキの思いに応える様子はあまりありません。ですがこれこそが、もしかしたら重要なのかもしれません。愛してくれる相手に愛を返すだけでなく、自分を愛してない相手にも無償の優しさを与えられるようになったということで、大きな進歩ではないでしょうか。
制作陣はもう一人の自分であるシルヴィを通してロキが自己受容をすると表現しています。シルヴィ(や他の変異体)の能力を見て、自分にも思っていたよりも大きな可能性があることを学んだということだと思われます。ですが人とうまく関われずにいたロキにとって、そのような関わり方ができることもまた、大きな可能性が開けたと考えられるでしょう。
3.総括〜よかった点と課題点のまとめ
以上、上記の点で、とても素晴らしい展開と描写だったドラマ『ロキ』。映画で描ききれなかった成長の姿や、様々な人との関わりで見せた多彩な表情は
もっとも、以下の点で気になることはありました。
・派手な見せ場が少なく地味な印象
ロキの内面の成長を描く事重点を置いた一方で、単純な「見せ場」的なものがロキにあまり用意されていなかったというのはあると思います。派手な魔法、いかにも主人公然とした華麗な戦闘、彼を中心とした事件…といったものがなく、物足りなさを感じた人々が出てきました。また様々な自分の変異体からの学び、を描くことが目指されたため、他の変異体の方が相対的に優秀に見えてしまったという問題もあります。特に第3話の、星の終焉が迫り周囲が敵だらけなのに油断し切った姿は、ドラマ内で見せた賢さを考えると違和感がありました。
・活かされなかったバイセクシャル設定
男女を愛するというセリフのあったロキに、結局女性形態のシルヴィとの恋愛を仄めかす描写をしたのは、これまで主要登場人物にクィアを登場させなかった歴史を持つMCUとしてはクィア描写を避けているという批判を受けてもやむを得ないものがありました。
・過去の掘り下げ不足〜直近の大問題のスルー
サノスに捕まっていたことや、ヨトゥンヘイム出身であったことについては全く触れられていませんでした。そこもせめて少しは触れてほしいところでした。
・日本語訳のニュアンス不足による物語理解の妨げ
メビウスとロキの関係は、先にも述べたように物語の重要な根幹をなすもので、細やかな言葉の積み重ねで描かれますが、日本語訳でニュアンスが伝わりきれないものもありました(例:favoriteの訳など)
これらの点は確かにありますが、シーズン2で改善されることを期待したいと思います。