Topaztan’s blog

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寿福寺紀行〜実朝五輪塔参拝記

 今年10月に、念願の実朝様の五輪塔(寿福寺)にお参りしてきました!その様子をレポしたいと思います。

1.寿福寺と実朝

 実朝・政子の五輪塔があることで有名な寿福寺は、源義朝の旧邸があった土地に建てられたものです。頼朝は鎌倉入りした時に、はじめそこに邸宅を構えようとしましたが、岡崎義実が頼朝の菩提を弔う寺を建てていたのと土地が狭かったので計画が変更されました。その土地を、頼朝没の翌年、正治二年(1202年)二月に北条政子の祈願により栄西に寄進して、寺院を建立したのが寿福寺の始まりです。その後義朝の旧邸や政所を壊した建材が寄進されたりして徐々に堂宇を拡張していきました。

 寿福寺は幕府の仏事の中心の場ではなかったようですが、政子や実朝の信仰を集め、実朝もたびたび参詣しています。たとえば建暦二年(1212年)には寿福寺に赴いた実朝は、栄西から仏舎利三粒を受け取っています(吾妻鏡より)。

 寿福寺の建物は1247年の火災で完全に消失してしまったので、実朝様が参拝した堂宇は残っていません。その後焼失と再建を繰り返しましたが、現在あるのは外門・山門・仏殿・方丈で、鎌倉時代栄西像、古写本喫茶養生記などを所有しています。

 

 実朝・政子の墓と伝えられる五輪塔は、背後の源氏山の山腹にある墓地にあります。実際には彼らの墓であるというのは大変疑わしく、その様式から鎌倉末期ー南北朝のもので、墓ではなく供養塔であろうという見解が『鎌倉市史』で述べられています(鎌倉市史編纂委員会 編『鎌倉市史』[第1] (考古編),鎌倉市,1959)

 

 では、実朝の体が実際に葬られた墓はどこか?という問題がありますが、吾妻鏡には殺害の翌日、1月28日に勝長寿院の傍に葬られたとあるのでそれが確かなのでしょう(首がなかったために髪と共に)。勝長寿院は頼朝が父義朝の菩提を弔うために現在の大御堂ヶ谷の場所に1184年に建立を開始した寺院で、後に鶴岡八幡宮永福寺と共に三大寺院と呼ばれる大きな伽藍になりました。実朝もたびたび参詣したり歌をそこで詠んだりしています。実朝の死後は政子によって追悼のための五仏堂が建てられたり、法華堂が建てられたり、三回忌、十三回忌が営まれたりしており、実朝の墓所としてオフィシャルな場所だったことが伺えます。勝長寿院は17世紀あたりには衰微し現在は廃寺となっており、あった場所は住宅街になっていて石碑のみが残っています。

2.寿福寺への道

 

 まず、JR鎌倉駅西口を出ます。時計塔のある広場に出ます。そこから線路沿いの細い道を通っていき、踏切で左へ。(東口からも行けます)

 最初に行き当たる道を右にずーーっと進みます。住宅街という感じで、おしゃれなカフェなどの店がちらほら。ここは今小路という名称ですが、それは江戸時代以降のことで、鎌倉時代は武蔵大路と言われた路の一部だそうです。

 

◾️巽神社

 

 途中、道路右脇に巽神社という由緒ありそうな神社を発見。

 明神造の石鳥居。とても低かったのですが、それは古態を残してるのかなあ?

 残念なことに、墨で板に書かれた由緒が読めないーー!!鎌倉市さん、整備してくれないですかね…

 調べたところ、このような由緒の神社とわかりました。

 

・祭神: 奥津日子神・奥津日女神・火産霊神

・社殿: 現在の社殿は天保6年の建立で、大正の大震災で全壊、大正14年に修復。石鳥居は文政7年(1825年)

 (以上 鎌倉市史編纂委員会 編『鎌倉市史』4,鎌倉市,1959年)

延暦二十年(801年)に坂上田村麿が葛原ヶ岡に勧請したのが起こりで、その後永承四年(1049年)に源頼義がこの地に遷したということです。 寿福寺の巽(東南)にあるのでこの名が あるといいます。むかしは寿福寺の鎮守だったそうですが、貞享年間(17世紀後半)の浄光明寺玉泉院の管理下になりするところとなったとのことです。

 

 神社のつくりは、屋根は瓦の入母屋造で平入り、両脇に屋根が張り出してます。この様式は神社であんまり見たことがありません。そして何より高床になってないので、全体にお寺っぽい雰囲気が。こじんまりとしていますが不思議な雰囲気の神社です。(後で調べたところ、やはり仏教建築の影響が強いそうです(川副博, 川副武胤 著『鎌倉 : その風土と歴史探訪』,読売新聞社,1975)

 

 また『相馬の歴史』によれば、この神社の向かいに相馬師常邸が父の千葉常胤邸の北に隣接してあったということです。(松本敬信 著『相馬の歴史』,東洋書院,1980)。師常邸の場所が巽神社だとする本もあり、要するにこの近辺、今小路より東の一帯が師常邸だったのだろうと思われます。

 

◾️八坂神社

 

 さらに進むと、道路左脇に寿福寺が見えてきました。その手前にも小さな神社がありました。社務所もあり、近所の子どもたちが境内でボール遊びしてたりして、地域で愛されてる神社という感じ

 こちらは由緒書きが読めました。ところどころ旧仮名が使われてるので、戦前とかに建てられたのかな。

 

・祭神: 素戔嗚尊 桓武天皇 葛原親王 高望王

・建九三年、相馬次郎師常の邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まる。その後現在の地に奉遷(?)する。世に相馬天王と称するのはこの故である。

 神幸式は五日、十二日の両日に行われていたが今では十二日のみとなった。中世 御神幸の神輿荒ぶるを以て、

 享和元年、慶応元年に社殿の改築が行われた。明治六年 村社に列格される。

 

 葛原親王桓武天皇の息子で、高望王葛原親王の息子で桓武平氏の祖です。千葉氏は桓武平氏の流れなので、祭神がこのようになったのでしょう。

 『新版鎌倉名所記』によれば、相馬師常が勧請して、巽荒神の場所にあった自分の邸に祀ったのが起りという、由緒書と同じ話と、師常の死後、谷村人がその霊を神とあがめ邸趾に何を建て、相馬天王と称えて村の鎮守としたという2種類の話をあげています。

沢寿郎 著『新版鎌倉名所記』,かまくら春秋社,1974年)

 

このあたりの御家人の屋敷の位置の推定地図はこちら。

貴志正造 編著『全訳吾妻鏡』別巻(新人物往来社,1979)

 

 

3.いよいよ寿福寺

 

 寿福寺です!!門の前は少し広場みたいになっていて、実朝様をしのぶ石碑がありました。古そうに見えましたが、生誕八百年記念で鎌倉同人会が1992年にたてたものだそうです。

 門をくぐると、京都のお寺(光悦寺とか高桐院とか)でよく見る感じの、石畳が真ん中にあって左右に木がある素敵空間が。

 正面の御堂には入れず、遠くから。

 そこから左手に進むと、墓地への道が始まります。

 

 本当は実朝や政子の五輪塔までまっすぐ進む道があったらしいのですが、危険になったためぐるっと大きく迂回する道を通る必要があります。

 民家を横に見ながら歩いて行き突き当たりを右に、山の斜面に作られた墓地へ。

 

 さらに突き当たってT字路に。右か左か特に標識ないのですが、ネットで調べて右に進みました。左手にたくさんのやぐらがあります。

 

 行けども行けどもそれらしきやぐらがなく…やぐらは山の岩をくり抜いて作ったものなので、冷気が漂ってくるので結構怖い。本当は有名な人のお墓もあるらしいんですが、じっくり見る気力が湧かず、ひたすら実朝様のやぐらを求めて歩きました。

 

 あ、ありました!!!

 まずは政子さんのやぐらと五輪塔

 そして実朝様のやぐらと五輪塔!!!!

 感無量です。綺麗な桃色の百合が供えられていました。(お花持ってきたかったけど、誰かが片付ける必要あるので迷うところ)

 何だかホッとしたというか、安心したというか、怖い感じは一切せず、実朝様が狩衣姿で立ってニコニコ迎えてくれたような気すらしました。よくきたね、調査進んでる?て話しかけてくれたような。ハイ、頑張って実朝様の調査進めております!

 

 帰りもウキウキした気分で帰りました。若干道に迷ったのですが、何人かやってきたのでその人たちのおかげで下る道を見つけられました。

 

 寿福寺から鶴岡八幡宮まで近いので歩いていきました。実朝がいた頃の大倉御所は八幡宮のすぐそばにあったので、寿福寺までは近かったんだなあと実感しました。また行きたいです!!

 

<了>