Topaztan’s blog

映画やドラマの感想や考察をつづっています

2/3『オデッサ』感想(ネタバレ・やや辛口)

 2/3(土)森ノ宮ピロティホールで上演された『Odessa』(三谷幸喜脚本)を観に行った。客席は大盛況で、よく笑いも起こっていた。

 私は最後列で観ていてオペラグラスも忘れてしまったため表情がほとんどわからなかったが、セリフまわしや演出で充分理解できたし笑えるところもたくさんあった。だが正直なところ、思ったほどはのれなかったな…という感想を一方で持った。

 ちなみに自分は舞台版『笑の大学』(1996年初演)や『巌流島』(1996年)などの放映を観てから三谷脚本が好きになり、映画も『12人の優しい日本人』(1991年)『ラヂオの時間』(1997年)などを面白く見た人間で、一昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022年)も大変楽しく拝見したクチである。柿澤さん出演の『愛と哀しみのシャーロック・ホームズ』もテレビで拝見し、映像の使い方含めてよくできているなあと思った。なので逆に期待値高めにしすぎたかなという側面があるとも思うが、取り急ぎ感想を述べてみる。一番気になったのは「差別」の扱い方で、それ以外にも色々思うところがあった。

 

ネタバレ注意!!!!

 

<良かった点>

 

◼️役者さんたちの頑張り

 

 英語・日本語標準語・鹿児島弁が飛び交う中で、皆さんとても頑張っておられたと思う。その厳しい条件下において自然なケミストリーがあったのは素晴らしい。とりわけ、2つの言葉が「ネイティブ」である宮澤さん、迫田さんに比べて、1つの言葉しか「ネイティブ」ではない柿澤さんの苦労はいかばかりか。そのような中で膨大なセリフ量で休憩なしハケることなしの1時間45分間、絶妙な掛け合いで魅せていてすごかった。

 

◼️古畑任三郎のような鮮やかな推理劇

 

 この部分はほんと、往年の古畑任三郎を思わせる巧みな展開で、脚本家はやはりミステリーを描くのがとても好きで得意なのだなと思わされた。名探偵すじおくんがどんどんのめり込んで推理していく興奮ぶりもおもしろかわいく、一緒に興奮してしまった。柿澤さんはシャーロックの時といい、探偵役が似合う。そこ、普通は警察が気づかないかな?というところは、田舎の警察が連続殺人事件でてんやわんやであるというエクスキューズで納得。

 もっとも迫田さんが連続殺人の犯人だろうというのは、自分はその話題が出てすぐ気がついてしまった。田舎の警察がてんやわんやの原因が、ある連続殺人、ということだけが提示されており、どうにもそこだけ目立ってしまっている。もう何個か事件や事故を混ぜた方がミスリードが効いたと思う。

 でもヨーグルトの消費期限切れでハッとさせるのは見事だった。これはボヘミアの醜聞』の「火事だ!」のオマージュ、あるいはそこからヒントを得たものじゃないかと思う。全く同じにしてしまうと捻りがないし、そもそもファイア!でびっくりするのは英語ができなくても起きる反応だし、じゃあ現代人がドキッとして素に戻ってしまうのは…と考えた場合、食べ物の消費期限はうまいと思う。

 

<うーむだった点>

 

◼️ 「犬と中国人入るべからず」

 

 一番問題に感じたのは「犬と中国人入るべからず」のシーン。これはこれは上海租界のパブリックガーデンに貼られたという逸話で有名なフレーズ

Dogs and Chinese Not Admitted

からヒントを得たのだと思う。(これ自体は史実ではないことが判明しているが、人口に膾炙している)

 だがこの表現では中国、陶器を示すChinaという言葉は出てこない。英語で身を立てようというすじおがそのあたりを見誤ることは考えられず、不自然さを感じた。またいくら90年代でも、露骨に〜人お断りという言葉を掲げたらその〜人から抗議されてるだろう。中国人に間違えられないように日本語の歌を歌っていた、というのも、まずアメリカでアジア人差別するような人々が中国語と日本語を聞き分けられるとは思えないので全く効果があると思えず、警官側はそれを指摘するのが普通だと思う。

 

 そしてこれは、植民地支配下での差別と切っても切れないフレーズであるのが問題だ。日本も西欧と同じく、いやそれ以上に苛烈な植民地支配をしたわけで、中国人を差別した側だった過去を考えれば無邪気に使えるフレーズではないはずである。

 そしてプールでの中国人差別表現(と見えたもの)に抗議せず自分が日本人であれば大丈夫だろうとする振る舞いも、あまり褒められたものではない。先にも述べたことと関係するが、中国人排斥にはピンポイントで中国人ではなくアジア人全体への排斥が潜んでいることが多い。アジア人といえば中国人という認識は欧米でよく見るし、ニイハオと話しかけられたという経験をした人も多い。それに対して自分は中国人「なんぞに」間違えられたと怒ったり、自分は日本人だと返したり、では日本人なら素晴らしいと言われたと喜ぶなどのSNSでの投稿もよく見かける。内なる中国人差別心が炙り出されている光景だ。『オデッサ』では中国人差別に胸を痛めてるのでそのようなあからさまさはないが、どこか「世界から見るとアジアの中でも日本は違う扱いだろう」という、日本人によく見られる心性と近しいものを感じる。

 

 ちなみに一般的に、欧米でのアジア人差別に対しては、日本以外のアジア人、中国や韓国の人は連帯して戦おうという姿勢を見せることが、日本人に比べて多い気がする。たとえば日本人女性をバカにしたCMを作ったドイツの企業に対していち早く抗議したのは韓国人男性だった。アジア人として連帯しなければ、強烈なアジア人蔑視に対抗できないと多くの人が気づいているためだろう。  

 この舞台の年代は90年代だが、近年は暴力的なアジア人へのヘイトクライムが多発しており、その意味でも「細かい差別はあるが、露骨でひどいアジア人差別はない、すぐそう思ってしまうのは考えすぎ」というメッセージを発するこのエピソードは適切ではないと思った。

 

◼️よく見聞きする差別の事例が羅列されるが…

 

 「〜へ入るな」的な露骨な差別はないにしろ、名前を呼びやすい英語の名前に変えられる、アメリカで生まれ育ってもアジア系の見た目だと結局どこ出身?と執拗に訊かれる…などのアジア人に対するマイクロアグレッションが劇中で語られる。

 しかしそれらは、残念ながら正直よく見聞きする話ではある。非白人が欧米圏で「本当の出身国はどこだ」「自分の国に帰ったら」と言われやすいのもよくあることだ。たとえばプエルトリコ系のオカシオ・コルテス議員が「国に帰れ」と罵倒されたと告発した事件も記憶に新しい。

 だがそのようなアメリカにおける差別、は特に何かに繋がることなく、外国で差別を受けていて自分のルーツに自信を持てない日系人が日本人とのやり取りを通して日本への愛に目覚める、というストーリーのフックになっているだけである。

 

 個人的には、上記のマイクロアグレッションは日本でも外国的ルーツの人、あるいは外国的な見た目の人が受けやすいものだと思うが、例えばそのようなことへ観客の思いを致させるような広がりはない。差別について受ける側にしろする側にしろ、自分ごととして考えるヒントとしての情報が質量共に弱いのだ。

 三谷氏は常々、自分の作品について芸術性や政治性を求めない的なことを繰り返し語っていて、深くは求めないでくださいよというエクスキューズを発してる。ファンも少しそれっぽいスパイスがあれば充分で、それ以上のメッセージ性は野暮だという感じのことを言ってる人たちが多い気がする。だが否応なしに社会性、政治性を帯びるテーマを扱っているならば、もっと掘り下げて欲しいと思う観客が出てくるのは当たり前であると思う。

 

◼️外国で中途半端な生き方をしている日本人について

 

 君は何も成し遂げていない、と犯人に言われて少しへこむすじお君だが、そのように何をしたいのか自分でも決めきれずとりあえず外国で働いてみるか、という若い日本人は、911以前にはよくいたと思う。今も結構いるのかもしれない。だがそのような若者の生き方を現代において批判するというのは、どういう意味があるのかよくわからない。

 そもそも英語力を活かして働きたいが自分よりうまいやつはたくさんいるし先行きが見えない、というのは、4年もたてば否応なしに本人が一番わかるはずである。言われてハッとするというのがなんとも不自然な感じがした。

 外国で10年以上中途半端な感じで働いている、ならまだ逆にその言葉に反応するリアリティがある。自分自身よくわかっていて、他人から言われることへの苛立ちだ。外国にはしばしば、語学力に自信満々でそこらの観光客や駐在的な日本人を見下しつつ、特に何者にもなれていない鬱屈を抱える、なんて日本人が結構いる。それは外国にいても日本にいても、その人自身の在り方の問題であってそのような描写をするなら問題提起にも意味はあると思うが、やり直しききそうな若者にああいう言い方をするのは、自分自身が中途半端であった恨みをぶつけたようにしか見えない(実際、なんであいつに言われなきゃならないんだ的なセリフがあるが)

 

 

◼️既視感のある笑いの取り方

 

 本作では、お互いの言葉を全く知らない人間同士の間を取り持つ通訳が、片方の窮地を救うためにわざと間違った訳を伝える。いわば意図的な「誤訳」の連続があり、それがいつばれるかスリルを生むわけだが、実はこの「誤訳(間違った解釈)で危機を乗り越えようとするおかしみとスリル」というパターンは、脚本家が好むシチュエーションでもある。

 『笑の大学』では、検閲官の指示をわざと「誤訳」して、コメディを書くなという圧力の危機を乗り越えようとした。お国のためにをお肉のためにと言い換えたり。観客はその思いつきの妙と、それが通るかどうかに手に汗握ったものだ。今回の、嘘の通訳はいつバレるか手に汗握るのに通じる。尋問する側が「誤訳」する方のペースにのまれて、自分の方が楽しんではしゃいでしまう…というのも『笑の大学』で見た光景だ。

 『ザ・マジックアワー』(2008年)では、殺し屋の芝居を役者仲間としてると思い込んで、本物のマフィアの前で奇天烈な言動をする村田の行動を、備後が巧みに「誤訳」してマフィアに伝える。たとえば「カット」という言葉を映画用語ではなく村田の渾名であると「誤訳」したが、やはりそれがどこまで通じるのか手に汗握らせた。

 なので、あ…この笑い、三谷作品でよく見たなあ…という既視感が常に付き纏った。私は買ってないのだが、パンフレットによると『笑の大学』を意識した作品だという。だから意識的に今までのパターンを踏襲した作劇なのだが、バージョンアップしたという感じを受けなかったのが残念だった。確かに蕎麦作りの真似にのめり込んではしゃいでしまうシーンは、日系という自分のアイデンティティを肯定するきっかけの一つであり物語の重要な要素だが、ちょっと無理がないか…とも思った。

 

◼️雨に濡れた犬

 

 あと結構気になったのが「雨の日に捨てられた仔犬のような」を、けなげで庇護したい欲を駆り立てられる若い男性の表現として使ってることだ。

 この表現は果たして英語ネイティブが使う表現なのだろうか?というのが疑問だった。雨に濡れた犬、という表現では英語圏ではまずにおいがイメージされると思う。独特のにおい、場合によってはくさい感じの。そこがと引っかかって入り込めなかった。

 日本語で言うところの、「雨の日に捨てられた仔犬のような」感じを柿澤さんが時折醸し出すのは確かだと思うけど。

 

◼️下ネタが多い

 

 アルマジロのおしっことか、犬のおしっこのポーズとか、痔の手術とか、シモ系で笑いを取るのが目立ってた。まあこれは気にならない人もいると思うけど、私は苦手だった。

 たとえば床に這いつくばってることを正当化するために、苦し紛れに「コンタクトを落としたんです」とか言うとか、色々やりようがあったかと。メガネかけてるじゃない!と指摘されて更に慌てて…とか。

 

 

 

…以上である。とにかく役者さんたちはとても素敵でケミストリーがあったのは繰り返し述べたい。別の演劇でもこの座組で観たいものだと思った。

 

<了>