Topaztan’s blog

映画やドラマの感想や考察をつづっています

新成人への教訓の数々とロボトミーの恐怖〜『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』

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 『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』を、1/7に鑑賞しました。その後吹替版も鑑賞しました。

 本作は多くの人が述べているように、様々な要素が詰まったとても素晴らしい映画だと思いました。他のバースのスパイダーマン達との邂逅と励まし、親友たちとの硬い絆と別れ、ヴィランを倒すのでなく救おうとする姿勢、そして全てを失って、ひとりのヒーローとして、スパイダーボーイでなくスパイダーマンとして歩み出すピーターの姿など、熱く感動するポイントが盛りだくさんでした。また先輩スパイダーマンたちやヴィランたちの物語に敬意を払い、彼らが単なる賑やかしでなく物語の根幹を担ってるのも、シリーズを見てきた者には大変胸熱でした。アクション面でも、月を背景として次々とかっこよくスパイダーマンたちがスイングするとか、これこれ、これが観たかったんだよ!と叫びたくなるようなダイナミックなシーンがたくさん観られました。

 それと同時に、私は非常に「青少年向けのメッセージに満ちた映画だな」という印象を持ちました。もっと言えば、これから大人の社会を自力で生きていこうとする青少年に向けた教訓が詰まった映画だなと。


 これまで明確な悪人以外は、ピーターの守り手としての大人が多かったMCUです。しかし今作では悪人とは言い切れないにしろ、世の中に出たら覚悟しなければならない様々な理不尽を行う大人たちが出てきましたし、その理不尽に屈しないためには何が必要なのかも、丁寧に描かれていました。これは従来のMCUスパイダーマンシリーズではあまり感じられなかった傾向なので、かなりおどろきました。ある意味、スパイダーマンズ大集合やマルチバースが開いたことよりも、私には新鮮でした。

 今作でピーターはおそらく、大学入学の年齢である18歳に近づく、もしくはなるわけですが、この年齢はアメリカでは選挙権のある成人年齢でもあり、それはこの「大人としての心得を伝える」映画作りと無縁ではないように思います。いわば新成人として、大人と子供のちょうどはざかいに立っているピーターへの、社会人としての心構えを次々に語りかけてる本作は、青少年が大きなターゲットである本作にまことにふさわしく、意義深く感じられました。


 その一方で、ちょっとどうかなという点も感じました。

 まず、倫理的な問題から。ヴィランを外科的に、半ば強制的に治療しようとする姿勢が良いものであるという映画づくりに、かなり違和感を持ちました。犯罪者に厳罰ではなく治療をというのは、方向性としては極めて現代的であり、アメリカでは既に様々なプログラムが実施されています。しかしその一方で、その考えは注意深く取り扱わないと危険なものです。

 また作劇上気になった点として「ここでなんとしてもこの出来事を入れたかった」「このセリフを入れたかった」的な制作上の都合を感じてしまう展開がいくつかありました。なのでせっかく熱く盛り上がれる映画でありながら、そういう制作上の都合が透けて見えて、スッと冷静になってしまうことが数回あったのも確かです。


 では以下に詳しく見ていきます。


メッセージ〜権威に対しても、理不尽には抗議しよう〜


 本作の重要なターニングポイントは、充分な実力がある3人組がMITをはじめとする大学から入学拒否された件です。これがきっかけで、自分の正体がバレたせいで親しい人に迷惑かけているという苦しみが頂点に達し、ピーターはストレンジの元に向います。それまでにも大衆に住所や居場所がばれて加害されたり、警察に不当に拘束されるなどの出来事がありましたが、大学に入れないという人生を左右する出来事がとどめをさしました。しかしストレンジから、自分の魔術を頼る前に大学に交渉しないのかと叱られてしまいます。そこでMITに合格したフラッシュを頼って大学の実力者を見つけ直談判に行きます。


 これは「大学などの権威の下した結論でも、理不尽ならば抗議すべき」というメッセージといえます。高校生なら、このように大学から言われたら、そうかそうなんかと疑わず受け入れてしまうかもしれません。しかしMITの言い分は、スパイダーマンの正体の暴露に伴う騒動によりというもので、考えたらかなりおかしな話です。ピーターたちが悪いと断じてる訳でもなく、どこか逃げを感じる書き方です。

 この件には、いかに権威があるところから発されたメッセージでも、理不尽には断固立ち向かい、訴え出るべきだという強いメッセージを感じました。これは特に、学校の理不尽な校則などにも従うべしという圧力が強く、権威に従順な人間を仕立てる日本の教育に慣れた青少年に伝えるべき内容だと思いました。



メッセージ〜プロフェッショナル相手でも契約時は自分できちんと確認し詰めよう〜


 予告編でも出てきた、魔術を実行中のストレンジにピーターがあれこれ注文をつけて失敗させてしまうシーン。あれは現実世界で言うと、契約書などをちゃんと自分で確認せずに何かをすると大ごとになるぞ、という警告といえます。

 ピーターは、はじめストレンジに親しい友達の将来も潰してしまうので「時を巻き戻してくれ」と魔術を頼みます。それがストレンジの思いつきで、ピーターがスパイダーマンだという記憶を全世界から取り除くという魔術に変更になります。ピーターはそれに特に反対せず従うのですが、術の実際の施行時になって初めて後悔して色々と注文を付け出し、それが大問題になります。

 この、ストレンジの魔法の仕様について始まるまで深く考えない態度というのは、ストレンジへの過度の信頼というか、大人に任せれば、プロに任せればなんとかなる、善処してくれると言う、子供にありがちな幻想の発露と言えます。そう、ストレンジは「なんかうまくやってくれそうなプロフェッショナル」の比喩なのです。しかし現実世界の「プロフェッショナル」と同様、彼は依頼者がきちんと伝えなければ思い通りに善処してくれる訳でもないし、わかりやすく説明を尽くしてくれる訳でもありません。そもそもプロでも問題を見過ごすこともありますし、またプロが慣用だから当たり前と思っていることも、その業界以外では通用しなくなっていることもあります。このシーンには、プロへのリスペクトは必要ですが、自分たちもできうる限りのチェックをすべきだという重要なメッセージが込められているのです。


 最初にも書きましたが、ピーターは今作の年度でおそらく18歳、アメリカで選挙権を持つ成人を迎え、色々大人として判断していかねばならない立場になります。ストレンジも作中で「子供だということを忘れていた」とつぶやきますし、ピーターやMJ、ネッドがまだ親的な存在の保護下にある存在という描写も出てきますが、彼らは大人として自分の行動に責任を持つべき年齢に差し掛かっているのです。

 もちろん一般的な考えでは、世界に影響を及ぼす大事なことならば、ストレンジ側がもっとちゃんと条件を詰めてあげるべきでしょう。そして伶俐なストレンジがそこに気づかないとも正直思えません。本作ではそこをあえてストレンジの賢さ度合いを下げて、上記の危険性を強調したように見えます。ポータルを閉め忘れてサンクタムが凍ってしまってる(そしてその凍った状態を直せない)というやや唐突なシーンは、そういう「あえてストレンジをポンコツ化する」意図の表れでしょう。



メッセージ〜善をなす時もしっかり説明と同意を得よう 


 本作の大きな特徴として、またMCUとして極めて画期的なこととして、ヴィランを殺したり元の世界に返して死ぬ運命に任せるのではなく、ヴィランを「治療」して善の存在にして生かす方向にしようとしました。ドック・オクに対してはそれはすんなり功を奏しましたが、しかし彼以外のヴィランには苦戦し、その過程でメイおばさんが死んだり一般人が負傷するなどの被害が出てしまいます。他のピーターたちの助けも借りて最終的になんとか全員「治療」して元の世界に帰せました。 

 これは「たとえ相手にとってよいことをしようとする時でも、しっかりと説明しよう」というメッセージの表れのようです。その話が出た最初の方で、ヴィラン側がかなり拒否反応を表していますが、それに対してピーターは、結構強気に押し切っています。ヴィランたちは、実際彼に命を握られてるので致し方ないという面が大きいものの、ピーターに半ば保護者的な気持ちを感じながら、彼の「理科の実験」に付き合ってやろうという流れになるのは微笑ましいです。しかしそういう彼らの厚意に甘えて充分説得をしなかったことが、ある意味後々の犠牲につながるのです。


 考えてみると、ドック・オクは装置の一部を解除するだけなのに、他のヴィランは彼らの能力を全面解除するのですから、みんな同じ治療とは言えません。その点でもヴィランたちの不信感には大いに同情すべき点があるでしょう。自分が得たアイデンティティ自体を奪われるという、変化や喪失への恐怖や憤りしかしピーターはそこが分からず、良いことだからみんな進んで協力するものだと信じ込んでしまうのです。

 現実のボランティアなどでも、良いことをするのだから相手は当然それを望んでいるはずだという思い込みは、大変危険なものとしてよくあげられます。善意を施される側の自尊心や、変化への恐怖などをよく考え、言葉を尽くし相手を尊重しながら接することが重要です。私としては、貧しい人を助ける仕事をしていたメイおばさんはそのあたりの機微に詳しいでしょうから、彼女からピーターがそういう話を聞くシーンがあれば、さらによかったと思いました。



■ 問題点「凶暴な犯罪者」を外科的に「治癒」することの危険性


 私はこれは、2つの意味で結構危うい構図だと思いました。第一にこれは犯罪者はみんななんらかの疾患を抱えた者であるという発想につながります。それは疾患を抱えた者は犯罪者になりうるという思考に結びつきかねません。

 また第二に、本作でそのように犯罪に走らせる疾患は病的な凶暴性とも言い換えることができるように描写されていましたが、過去に人類は、「凶暴性のある精神病患者」とレッテルを貼った者にに非人道的な外科手術を施して矯正しようとした歴史があり、そのようなことも当然想起されるのです。映画『カッコーの巣の上で(1975)では、精神病患者とされた者をロボトミーや無麻酔電気ショックなどで非人道的に「治療」する様子が、現実の精神医療を告発するニュアンスで描かれました。主人公は実は精神病患者ではないのですが、度重なる反抗的な態度からロボトミー手術を施され、廃人のようになってしまうのです。(本作でも、凶暴性を「治癒」されたヴィランたちが、腑抜けのようにボーッとした放心状態になるのもやや気になりました。)

 そのような問題点がないかのごとくの「凶暴な犯罪者の外科治療」礼讃には、いささか怖いものを感じました。尺の問題もあるでしょうが、カウンセリングなどの方法による「治癒」が模索されなかったのも残念です(ちなみにMCUは、『ファルコン&ウィンターソルジャー』や『アベンジャーズ /エンドゲーム』などでのカウンセリングやセラピーの描写を見ても、どうもそういうふうな対話による治療に対しては懐疑的な感じが見受けられます。ジャンルは全く違いますが、アメリカドラマ『エレメンタリー ホームズ』ではグループセラピーが好意的に描かれていたのと対照的です)。

 


問題点「愚かな大衆」の表象がマイノリティであること


 本作では今までスパイダーマンに対して加害する民衆の姿が描かれます。たとえばフェイクニュースに踊らされ、スパイダーマンことピーターを地球の救世主を殺した極悪人と思い込む人々。デモをしたりするのみならず、ピーターやその家にも加害をはじめます。また一見ピーターを応援するように見えて、コンテンツのように消費してそれを相手にぶつけることで加害してしまう姿も描かれます。そしてそれらはは確かに、現実を反映していて極めてタイムリーなわけですが、その一方でそれを目立って行う人にマイノリティが多いことが気になりました。実際にはそうではないのにスパイダーマンに殴られた!と叫ぶのは女性だし、スパイダーベイビー産むのかい〜とセクハラかますのも黒人男性。白人ももちろん加害側にいますが、あえて印象的に愚かな感じに出すのがマイノリティ属性というのがなんとも言えませんでした。



■ 問題点 要所要所で必然性がなく「全てはピーターに何もかも喪失させるため」の装置と感じさせてしまうプロット


 この小見出しにあげたことはプロットとして結構問題だと思いました。

   たとえばメイおばさんの死と「大いなる力には大いなる責任がある」のメッセージの接続。これは少しでもスパイダーマンを知ってる者は、あ、ベンおじさんのエピソードをここで代入したんだなとわかるので、半ば自動的に納得し感動してしまいますが、考えたらこのシーンでメイおばさんがピーターにいうセリフとしては不自然です。

 ベンおじさんのセリフでは、スパイダーマンとしてのピーターを知らずに、半ば一般論として語るのですが、この映画のメイおばさんは、マルチバースの各種ヴィランを元の世界にただ追い返すのでなく、全員改心させてから返すのがピーターの責任であると言ってるようにも受け取れてしまいます。それはあまりにもピーターには荷が重いことであり、それを育ての親が言うのは酷でしょう。ヴィランたちがこの世界に来た責任の一端はピーターにあるといえばありますが、それは彼の大いなる力のせいというより彼の子供らしさのせいであるでしょう。最初の方の捜査官が、監督者なのに子供を危険に晒してと言っていましたが、図らずも彼の言葉が正しかったようにすら感じられてしまいます。それでも、ピーターを大人のヒーローにするために、身近な大人が自分のせいで死んでしまう事件と共にこのセリフを聞かせたいのだという、製作者側の思惑がヒシヒシと感じられました。


 一番「ピーターを追い込むためのプロット」と感じたのは、最初はピーターとスパイダーマンのつながりを忘却させる魔術だったのが、最後はピーターという存在を忘却させるものに変化したことです。マルチバースが開いて、各世界のピーターを知る者がやってきてしまうのを防ぐには、結局ピーターとスパイダーマンのつながりを切ればいいんではないかという疑問が拭えません。あるいは今のピーターの名前をピーター・パーカーではなく別名として世界に記憶させるでもいいかもしれません。そうすれば別世界のヴィランたちが「スパイダーマンのピーター・パーカー」を探そうとしても、この世界に存在しないことになります。そしてそもそも、最初からミステリオを殺したのがピーター・パーカーだという記憶をピンポイントで消しとけばよかったんじゃないかという疑問も当然あります。そんなわけで、魔法とピーターの関係は完全に無理な設定とはいいませんが、かなりこじつけ感はあり、劇中でもう少しフォローというか言い訳があればなあとは思いました。


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 以上のように、疑問に思うところも色々ありましたが、これから大人になる子供たちへの大変ためになるメッセージがたくさん含まれている映画だと感じました。またこれらは既に大人になった我々にも、深く刺さるメッセージだと思います。

 スパイダーマンシリーズファン、アメコミ 映画ファンへのサービス映画としてだけでなく、広く観られてほしい映画だと思いました。