Topaztan’s blog

映画やドラマの感想や考察をつづっています

ヴァルキリーを王にしたのは誰?ムジョルニアは誰が持てる設定なの?〜演説好きソーを中心としたヒーローショー『ソー: ラブ&サンダー』

 『ソー: ラブ&サンダー』を7/10に観てきました。同じタイカ・ワイティティ監督が監督した前作『マイティー・ソー バトルロイヤル』(2017)も大好きだったので、どういう風になるか—特に予告編にあったジェーン版マイティ・ソーやヴァルキリーがソーと共に冒険するお話がどう描かれるかを楽しみにしていきました。


 さて、観た結果はと言いますと…コミカルなシーンが多いという点は確かに前作と共通するといえば言えましたが、同じ監督の作品とは思えぬ大きな変化を感じました。全体に旧ソーのための映画で、対象は子供たちという感じになっていました。前作は、子供も楽しめるでしょうが、大人こそニヤリと笑ったり楽しんだりできるシーンも多く、政治的なメッセージなども感じられ、大人向けという感じだったので、かなり驚きました。言うなれば遊園地などで行われるヒーローショーの拡大版のように感じたのです。

 ソーと一緒に子供たちが戦うシーン(養女にしたらしきゴアの娘も後にソーと一緒に戦う)は、観ている子供たちは大喝采でしょう。子供たちが自分たちとその子らを重ね合わせ、自分もヒーローのようになれる!と感情移入しやすいように作られていることは間違いなく。またヴィランの悪堕ちのきっかけも、善性に戻るきっかけも、ともに「我が子への親の無償の愛」ということで、子供たちにも大変わかりやすいものになっています。そもそも映画が、コーグがおそらく子供たちにソーの物語を語り聞かせるというスタイルをとっており、彼の語りで枠構造が作られていることからもそれは明らかです。ソーが裸にされるシーンも、子供なら屈託なく「すっぽんぽんにされた!」と笑えることでしょう。

 そして今まで、ソー映画と言いながらも弟ロキとの複雑な心情の絡みが重要なポイントでしたが、今回はそういうこともなく、ストーリーのシンプルさもあって思う存分ソーの戦闘シーンが観られました。その意味でも子供たちには楽しく親しみやすいかと思われます。武器に人格があったりや武器に話しかける様子も、子供向けのコンテンツによくあるモノの擬人化のパターンです。

  

 そのように、「子供が楽しめる、夢を感じられる」コンテンツになったのは大いに喜ぶべきことですが、しかし大人の目線で見ますと、なかなかストーリー的に厳しいものがありました。まず様々な設定が今までの作品と整合性が取れなかったり、あるいは作中でも理由がはっきりしなかったりと、観ている最中に既に色々気になってしまうという作劇上の問題点があります。よく「何も考えずに頭空っぽにして見ると楽しい」という表現がありますが、それが苦手な人には向かないでしょう。

 そして「画面に映ってる時間が長い割には、ジェーンとヴァルキリーの扱い薄いな…?」ということがありました。女性2人を物語の中核に据えるなら、もっとしっかり深掘りされるかと思いきやそうでもなく、ヴァルキリーに至ってはソーの引き立て役的に。確かにカッコいいシーンは多いんですけど、物語上はどうかなあと思いました。


 以下に疑問に思った点を詳しく述べていきます。


1.ジェーン〜病名すらはっきりしない「癌」とムジョルニアを持てた経緯の軽さ

 

 ジェーンは末期癌であることが早々に示されますが、なんの癌なのかはっきりしません。まずそこでモヤモヤするのですがそれはまあ置いておいて、それが現代の医学では治らないことが示されます。

 セルヴィグ博士から化学療法は効かないと言われ、北欧神話の本をパラ読みして得た知識で、持ち主を健康にするというムジョルニアのパワーを試すことに。するとあら不思議、欠片になったムジョルニアは元に戻ってジェーンの手に渡り、彼女をマイティ・ソーにしたのでした…

 いやいやいや。自分が元気になりたいからムジョルニアを持ちたいというのは、かなり利己的な動機ではないでしょうか?ムジョルニアを持つ資格云々はどこへいったのでしょう?

 まあ『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)で何の説明もなしにキャプテンアメリカがムジョルニアを持てたように、コミックで既に知られている設定は、説明をせずすっ飛ばしてもいいという、製作陣の判断なのかもしれません。しかしそのようなことは、今までMCUで積み上げてきた物語の根幹を否定することでもあり、私自身は興醒めするものでした。

 確かにジェーンと付き合ってた時に、ソーがジェーンを守ってくれとムジョルニアに語りかけ、ムジョルニアが反応するシーンがありました。もしかしたらオーディンがかけた魔力は消滅して資格云々は問われなくなり、ソーのジェーンを守護する魔力(?)が効いてるのかもしれず、ソー1作目の設定はもはやないのかもしれませんが、その割には「自分はムジョルニアをすぐ持てなかったがお前はすぐに持てた、すごい」というようなソーのセリフもあり、ムジョルニアが持ち主をジャッジするという性質の連続性は否定されていないようにも見えます。そもそも守るというのと持てるというのは違うんじゃ…とかも。そのあたりの整合性でかなり引っ掛かりを覚えました。

 またもう一つ大変気になったのが、末期癌患者が現代医学(化学療法)をさしおいて、魔術的なものに縋ってそれで成功するというストーリー作りです。結果的にそれを使うことで消耗が激しく死期を早めてしまうので、一概にそれが良いこととはされていませんが、癌患者が現代医学ではなく民間療法や呪術的な何かに走ってしまうというのは実によくある話で、社会的にも問題になっています。科学者のジェーンがそういう行動を何の葛藤もなくあっさり選択することに、かなりかなり後味の悪いものを感じました。


2.ヴァルキリー〜せっかく王になったのにあまり活躍できずソーの引き立て役の女性戦士

 エンドゲームで唐突に王位をヴァルキリーに譲り、ガーディアンズと旅に出たソー。

 えっっそれはソーの一存で決めていいわけ?と思いましたが、ソーが王として機能していない間、ヴァルキリーが新生アスガルドをまとめてたらしい感じがするので、新しいリーダーとしてはまあ妥当なのでしょう。女性リーダーとしても注目です。

 では今作でバリバリと王の役割をこなしているヴァルキリーが見られるかな…と期待したら、そうでもありませんでした。どうやらアスガルドとしては観光立国にしたいらしく、様々なイベントに出たりコマーシャルに出たりして好感度あげるのも王の勤めらしいことが描写されます。でもどこか浮かない感じ。会議でも退屈そうにしています。

 そのように本人がうっすらいやそうにしているだけでなく、リーダーシップ自体がないような描写もされて、私としてはそこもびっくりでした。

 子供たちが攫われて、民から色々陳情されていっぱいいっぱいになってるヴァルキリー。そこへソーがやってきて皆静まり返り、子供たちを必ず取り戻すというソーの言葉をありがたく聞きます。ヴァルキリーも似たようなこと言ってたのに…?

 船で出発する時の演説もソーのみ。ヴァルキリーは酒樽を運び込むシーンにしか映らず、ソーの演説の時は姿すら映りません。

 女性でもリーダーになれる、ということを示すお話として、ヴァルキリーが王になる設定は良いと思ってたのですが、これではあまりに彼女がかたなしです。

 リーダーじゃなくて戦士に向いてると言いたいのかもしれませんが、彼女が戦士としてすごいということとリーダーシップ取れることとは両立するはずです。実際ソーはそうなのですから。正直、両立できているソーの引き立て役にしかなっていません。ソーの方がヴァルキリーより権威ある存在としてアスガーディアンから持ち上げられてるシーンは正直要らないしノイズでしかありません。

 で、彼女は国王でなく戦士特化して向いてるのかと思いきや、ゴアに刺されて戦線離脱。戦士としても中途半端な扱いです。

 彼女は国王業務は続けるようですが、最後に彼女が映るのは子供に護身術を教えている姿。

 女性戦士シフも同じく武術をヘイムダルの息子に教えていますね。MCUでは女性戦士は少年ソルジャーの面倒を見るという役割が課せられやすいのでしょうか(エンドゲームでもピーターを守るためになぜか女性戦士たちがプチアッセンブルしていましたね)

 とにかくヴァルキリーは、女性リーダーとしても、戦士としても、結構中途半端に描かれていたなあという印象です。

 もちろん派手に戦うシーンはあるし、なんか歩いてるだけでかっこいいし、女性の恋人を持っていたことが示唆されたり女神の手にスマートにキスするシーンはあるし、雰囲気的には「素敵」に撮られてはいます。ファンも増えたことでしょう。ですがストーリーとして見ると、意外と見せ場がない状態で、女性のエンパワメントという視点でも肩透かしな印象でした。


3.ソー〜ツッコミ不在の中ひたすら演説するヒーロー

 

 ソーはこの映画内でひたすら人々に向かって演説しています。助けた星の人々、クィル、アスガルドの民たち、攫われた子供たち…それらは、皮肉を言われることはあっても、ほぼ受け入れられています。特にアスガルドの民や子供たちには大いに受け入れられ喜ばれています。今までソーがこんなに演説することはあったでしょうか?ちょっと思い浮かびません。

 そしてそれがやや出過ぎな印象を受けます。ヴァルキリーを差し置いて民に演説する姿には、ヴァルキリーを王にしたのは君じゃないのか!?と問いただしたくもなります。なんか企業で、一応社長から引退して若社長を代わりに据えたけど、結局自分が表に出たがる会長みたいな感じ。

 全体にソーは、ジェーンやムジョルニアへの未練を示すシーンでコミカルに情けなく描かれる以外では、強く皆から慕われる存在として描かれ、真っ向から否定されるシーンはありません。以前の作品だったら…たとえばIWとかだったら、クィルはソーの頓珍漢発言にもっと突っ込むだろうと思うのですが、控えめに皮肉を言うだけです。(ガーディアンズの扱いも非常に軽く、クィル以外は空気のような扱いでそれもがっかりでした)

 ふんわりとソー全肯定な雰囲気の中、演説しては受け入れられるを繰り返すソー。主人公としてはかなり単調な感じの描かれ方です。

 葛藤や成長、という点は、「色々親しい人を失ってきたソーが元カノへの気持ちを再確認して愛を告げる」というところになにがしかありそうですが、正直それもよくラブコメで描かれている筋書きではあります。そもそも別れた理由が、相手を失うのが怖かったからというのも、あまり説得力持って描かれていませんでした。彼が愛する人を失い続ける経験として例に挙げられているのは、父、母、ウォリアーズ3、ロキですが、父母以外はジェーンと別れた後の経験です。その辺りがふわっとぼかされて、ざっくりと「愛する人を失うことを恐れるソーが勇気を出して愛する人と向き合った」ストーリーに置き換えられているのが、なにかを誤魔化されたようで、その「成長」もなんだかなという感じでした。

 あとそういえば、彼は神殺しの犯人を野放しにするゼウスに腹を立てて殺してしまいますが(ポストクレジットで生きてることが判明)、ろくに根回しや交渉もせず意見を聞かない相手をさっさと殺すというのは実に脳筋な感じがします。あんまり教育的にもよろしくないし、成長したソーを示すとは言い難いシーンだなと思いました。


4.アスガルド人の子供たち〜少年兵を突撃させていいのか!?『ジョジョ・ラビット』の倫理性はどこへ


 そして本作最大の疑問点。子供を兵士にしていいのか!?という問題です。子供が喜ぶからと言って、また神様のパワーを分けたからといって、明らかに恐ろしい強さを持った、大人のアスガーディアンでも苦戦する敵に子供を戦わせていいのでしょうか。

 ヒーローショーならばまだいいでしょう。またアニメでもギリギリいいかもしれません。

 しかし実写という、かなり生々しいコンテンツで子供を突撃させるとなると、否応なしに生身の少年兵を想起してしまいます。ジョジョ・ラビット』(2019)で、武器を持たされてアメリカ兵に突撃させられるドイツの子供たちの悲劇をエモーショナルに描いた監督が撮った作品とはとても思えません。

 ファンタジー映画の系譜で言えば『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』(2002)でも、否応なしに武器を取って戦闘に参加させられる年端も行かない少年たちが描写されましたが、それは明らかに残酷なこと、異常なこと、恐ろしいこととして描かれていました。

 どうせおとぎ話なんだから、どうせ傷つかないお約束なんだから…そういう「どうせフィクションなんだから何やったっていいだろう、楽しめればいい、野暮なこと言うな」感で、実写で少年兵を扱われるるのは、現実の諸問題を鑑みるにかなり厳しい感情を持ってしまいます。

 


5.ゴア〜作劇の都合でシリアス度が下がってしまった悲劇のヴィラン


 ゴアは本作では数少ない、シリアスな問題を抱えているキャラで、作中で死んでしまいます。しかし上記と関係しますが、そのように「どうせおとぎ話なんだから」という作劇が重要シーンに入ってしまった結果、ゴアの苦悩や死もまた相当にフィクショナルに、軽く見えてしまうという効果が生まれてしまったように見えます。

 そもそもコーグの語りによる「ソーの人生ダイジェスト」で触れた親しい人たちの死自体が、かなり茶化したものであり、特にウォリアーズ3やロキはひどいものでした(浅野忠信のホーガンが「誰?」で済まされたのも不愉快でした。最近話題になっている「ハリウッドでの日本人差別」につながるものを感じます)。ロキの死は『アベンジャーズ  インフィニティ・ウォー』では厳粛に描かれ、その後のソーの行動に深く影を落としたのですが(もっとも『アベンジャーズ  エンドゲーム』ではその影はさっぱり消えましたが)、何度も死んだよね〜というお笑いのネタになっていました。なので、今作では厳粛に描かれたゴアの苦悩や死の話も、次回作ではお笑いネタにされるだろうな〜というメタ的な印象すら持ってしまいました。

 またゴアは神を殺す剣を持ったことで身も心も蝕まれたようですが、それにしても子供を攫って人質にするというのはかなり卑怯度が高いように見えます。自分が子供を失う悲しみを知っているのに他人の子供は平気で奪うんだ?と思いましたが、まあ剣のせいで人格歪んだと思えば…。彼が大人でなく子供を攫う理由も映画では特に描かれませんでしたが(子供を洗脳して自分の手下にするとか子供ならではパワーを利用するとかの、「子供でなくてはならない」もっともらしい理由が描かれるかと思ったら全然ないので驚きました)、これも剣のせいで弱い子供を狙う卑怯者になったんだの一言で済むかもしれません。他にも子供を無駄に怖がらせたり、剣のせいで(?)だいぶダメなヤツになっています。しかしそのような「剣によるであろう突然の卑怯化」「ダメ人間化」は、「子供向け映画」として、子供に感情移入させるために逆算して作られた造形だと考えると納得いきます。わかりやすい悪役ぶりを入れず、ヴィランにも実は事情があって…ということを中心に描いてしまうと、思い切りヴィランと戦うスカッと感が子供には得られません。子供を怖がらせるとても悪いヤツでした、でも最後には自分の子供のことを思って改心しました、いいパパだったね、というのは子供でもわかりやすいオチでしょう。ちなみに彼はソーを屈服させるために女性戦士たちを拷問しますが、より簡単で効果的であろう子供を拷問しないところに子供向け映画のバランス感覚が見え隠れする様に思われます。


6.その他様々なご都合展開・本筋に絡まない単発コントの連続


 あと全体に強者間のパワーバランスが悪く、どういう原理で強い弱いが決まるかが曖昧なまま進んでいるのもとても気になりました。誰がどのように強いのか、どのように戦うとどういうダメージが発生するのか。ゴアもゼウスも強いんだか弱いんだか、馬鹿なんだか賢いんだかはっきりせず。ゴアは子供たちを無駄に怖がらせる割には、幻でちょいちょいやってくるソーは野放しです。

 ゼウスのサンダーボルトも妙に万能感があるかと思えば、武器としてはそれほどでもなかったり。ストームブレイカーの代わりに移動手段としても使えそうなシーンもあり、じゃあゴアはストームブレイカーにこだわる必要ないんじゃないの、とか。そういう様々な決まり事が有耶無耶でご都合展開が目立ってしまうので、物語への没入感が妨げられる感じです。

 また今回はコメディ要素が、あまり本筋に絡まず有機的なつながりを持たなかったので、物語の流れを連結するどころか寸断してしまう印象を持ちました。これは前作『バトルロイヤル』と大きく違うところです。

 たとえばストームブレイカーが人格を持ち嫉妬したり甘えたりし、それにソーが話しかけて宥めるというコメディシーンが何度もありました。ですがその要素は別にあってもなくても物語上問題はありません。

 同じように、モノでありながら人格を持つMCUのモノといえば、ドクター・ストレンジのマントが挙げられます。マントは気難しいストレンジと絆を育み面白いやりとりをしたりしますが、ここぞという時に意志を持って助けてくれたりし、「意志のあるモノ」であることが充分物語の動きに寄与します。そういう側面が今回見当たらないのです。

 最も大きな違いは、マット・デイモンらが出演する「茶番劇」です。『マイティー・ソー バトルロイヤル』では、オーディンに成り代わったロキが、マット・デイモンらの役者たちに、おそらくロキが書いた脚本を元に「ロキの英雄的な死」を演じさせていました。ソーもオーディンもロキの死を嘆き、オーディンは敵国ヨトゥンヘイムで、幼いロキをあたたかな気持ちで拾ったと回想するのです。それらは滑稽でばかばかしいものでしたが、重要な意味を何重にも含んでいました。まずロキの出生の秘密や人生を知らないアスガーディアンに、ロキに都合がいい形で歪曲した情報を提供する、ということで「都合よく修正した歴史を国民に提供する独裁的な為政者」というステレオタイプを皮肉っていると言えます。この歴史修正とプロパガンダは、実はオーディンその人も行っていたことが後半で明らかになり、映画の重要なライトモチーフであったことがわかります。またロキは『バトルロイヤル』前作の『マイティー・ソー ダーク・ワールド』に比べて随分と穏やかで落ち着いたキャラになっていますがが、それは彼の出生の秘密という最大のコンプレックスをこの劇でうまい具合にカミングアウトでき、人々に受け入れられていることがあるかもしれないと思わされます。そのようにコメディ単体としてはもちろん、映画内の重要なファクターとして機能していた「茶番劇」ですが、『ラブ&サンダー』ではどうにもそのような機能が見当たらないのです。同じ劇団が、ソーとロキの目の前で起きたオーディンの死やヘラの登場を演じますが、観客は観光客であって別にその情報を与えることで何か影響があるようにも見えません。映画内でこの劇の要素がリフレインされることもなく本当に単発コメディなのです。

 こういう、面白みはあるけども物語の進行上特に必要ないコメディがあちこちに挟まれているため、そういう単発コメディの連発が好きでない人には物語の流れを寸断されるような感覚を覚えさせるでしょう。


■まとめ


 子供向けの作品と思えばなかなか面白いですし、今までの作品との整合性も気にしなければ楽しく見られると思います。ソー、マイティ・ソー、ヴァルキリーとカッコいいシーンがたくさん用意されているのも眼福でしょう。派手なバトルシーンやコミカルなシーンも多く、肩の力を抜いて楽しめる娯楽大作と言えます。神様が大集合するシーンなども、ワクワク感や壮大さがあって楽しめるでしょう。『エターナルズ』で重々しく登場したセレスティアルズがちょい役で番人のように出てきたりと、MCUの世界観の広がりを感じさせるものもあります

 ですが上に述べたような様々な疑問点、問題点があるので、なかなか素直に楽しめないところも多い印象です。子供も大人も楽しめるような、わかりやすさと各種整合性や深みを同居させたものを作るのは可能だ思うので、おそらくあるであろう次回作(Thor will returnとありましたね)ではその辺りを改善してほしいと思いました。