Topaztan’s blog

映画やドラマの感想や考察をつづっています

真面目が肝心…?倫理観と人となりがごっちゃになった世界〜『鎌倉殿の13人』

 今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を視聴中です。このドラマでは人物評価として真面目という言葉がどうもキーワードになっているようです。特にそれが現れたのが47回の「ある朝敵、ある演説」でした。

 そこで北条政子が有名な演説をする時に、歴史的に伝わっている言葉が書かれた原稿を捨てて自分の言葉で御家人たちに語りかけるのですが、その際に弟義時を「生真面目」と評価して御家人の共感を得ようとしているのでした。「この人は生真面目なのです。一度たりとも私利私欲に走ったことはありません」と。

 またその少し前のシーンで、やや唐突に、義時の子供の泰時が「真面目であるがそこがあなたらしくていい」と妻の初に言われるシーンがあり、どうもそこで「生真面目(真面目)」という美徳が親子で共通していることを強調したい作劇であることがわかります。泰時は政子の演説で父親が「生真面目」と評されたことに感じ入ったように目をふせており、それまで何かと対立していたがそのような評価で父親を見直すことで、父親を見直したのではという視聴者の説も出ていました。真面目が肝心、てなわけですね。

 

 さて、自分はこのドラマの「真面目」という言葉の使い方、かなりどうかと思いました。演説のあの場でそのワードを使うことの正当性、そもそも義時と泰時の真面目は一致してるのかという点そしてこれらはこのドラマ全体の持つ問題点と直結してるように思いました。以下にそれを書いていきたいと思います。

 

 

真面目であることと客観的な正義に則ってることは違う

 

 まず政子の「生真面目」発言。義時は確かに生真面目にコツコツと自分が正しいと思うことをやってきたのでその意味で「生真面目」であることには異論ありませんが、その時私は「生真面目だからなんだというんだ」、と思いました。一般の人が「生真面目に」悪を行うことがあるのは、ハンナ・アーレントの「凡庸な悪」という言葉(アイヒマンへの評価としては当てはまらないのは近年指摘されてますが)からもよくわかります。決められたことや正しいと思うことを生真面目に遂行することと、その人の行いが客観的に見て「正義に則ってる」かどうかは全く関係ありません。そもそも日頃生真面目な人だって、急に悪いことしたりもするでしょう。その人の人となりの評価と、個々の行いの倫理的評価は全く別なのです。そこをごちゃっとさせて「この人は生真面目だ」という評価で人々に行いを正当化させ納得させようとするのは、なんか子供が悪さをして学校に呼び出された親が「でもこの子はいつも真面目なんです」と庇ってるようで、そういうことじゃないんだが感がハンパありませんでした。

 

 では義時のこれまでの行動は、客観的に見て「正義に則ってる」と言えるでしょうか。政子の言う「生真面目」さは、正義に繋がってるでしょうか。政子は「私利私欲に走っていない」といいましたが、本当でしょうか。

 

 残念ながらそれは否です。いや、私利私欲を何と捉えるかで変わってきそうですが。義時個人がいい思いをするためには確かに行動してないのでその意味ではそうでしょう。しかし彼は「北条の繁栄のため」に行動しています。それが鎌倉全体のためと頑なに信じてるので、公共心がないとはいえませんが、北条ファースト、北条一強主義による鎌倉盤石説は、正直特に根拠はありませんし、周囲にそれを納得させてもいません。そもそも将来的に北条の敵になりそうだという理由で和田一族を排除したり、鎌倉から将軍が御所を京に移動させるという案を出したからと言ってただちに実朝を排除したり、それらに客観的な正義があったのかは甚だ疑問です。何よりそんな論が御家人を納得させる「正義」と結びつくとは到底思えません。「そうか、鎌倉の盤石のために、北条第一であらねばならないな!北条に逆らうものは殺されてもしょうがないな!さすが正義感ある人だ!」とは絶対にならないでしょう。当時の御家人たち(ドラマ内でも)にとっては所領や命を保証してくれる事こそが何よりの正義です。現代的な価値観からしても、またドラマ上、歴史上の価値観からしても、彼に行動に特に正義を感じられないのは結構な問題です。

 

 

義時と泰時の真面目さの違い

 

 泰時も真面目といわれ続けています。しかし泰時の真面目さは、今に通じる倫理観、ヒューマニズムに基づいており、それを重視した言動をしているという点で義時と大きく異なります。泰時は常に、人を無闇に殺してはならない、客観的な正義に基づかない先制攻撃はいけないと主張し続けています。それは若い頃の義時とは共通していますが、後半の義時とは違います。

 その倫理観という点で泰時と義時は対立していたのに、泰時は「それもこれも義時が真面目だったからだ、私利私欲に走ってないから良いのだ」という評価軸を示されたからといって直ちに自分と同じだと納得するのは、大変奇妙なことです。ホロコーストに加担していたのが真面目な役人だったからといって、その役人を素晴らしいと思ってしまうのと同じ違和感があります。

 

 また彼はこのドラマでは実朝から密かに想いを寄せられ、また腹心の部下として重用されていた描写があり、非常に強い絆で結ばれていました。それもあって実朝殺害に間接的に手を貸した父親に対して怒りを覚え(以前の頼家殺害への怒りもあったでしょう)父親の思い通りにさせないと「宣戦布告」(Yahooニュースより「「ズッ友のはずが」実朝の死で深まる、義時の孤独俺たちの泰時だけが希望に【鎌倉殿】〜■ 父・義時に宣戦布告、「俺たちの泰時」だけが希望に 」https://news.yahoo.co.jp/articles/0140bce8e56a3039a449ab1bbae343f3a3631d08

する行為に45回で出ていました。それが47回で、そうか父親も真面目なんだなということでそれらへの怒りが帳消しというのも何だかなあでありました(そもそも父親への矛先は、46話でだいぶ鈍っていたのですが)。もちろん、父親とは色々そりが合わないし倫理的にもどうかと思っているけど、親は親だし殺されるのは嫌だ、という気持ちになるのはわかります。しかし「真面目」というキーワードで、親の今までの行動への理解を示させる作劇にはかなり疑問を持ちました。

 

 

全体に倫理観よりも人となりが優先される世界

 

 そもそもこのドラマでは、その人物の持つ倫理観よりも、「人となり」が優先される傾向にあります。時代劇ではよく「義」という言葉が出てきますが、このドラマではあんまり出てきません。よく鎌倉時代は初期は舐められたら殺す的なメンタリティだと一般に言われており、また江戸時代的な忠義観も実際まだないわけですが、だからといって彼らなりの「義」がなかったわけではないと思うのですが、何だか自分のメンツ以外何も軸のない人たちのように描かれがちです。

 そのかわり、倫理観どうこうより「真面目である」「愛嬌がある」という人物評価がよく述べられます。そして人となりが良いとされるならば、その行動は総じて許される、あるいは許したくなりますよねというドラマの基本方針が随所に透けて見えるのです。

 

 たとえば北条時政は、あからさまに賄賂を受け取って政治を決める金権政治を行うわけですが、ドラマの中ではさほど断罪されません。妻の言いなりになって特に罪がなさそうな畠山重忠を討ってもです。確かにドラマ内で時政は田舎の親分的な、自分を頼って金品をくれる人に優しくしたいというメンタリティを政治に持ち込んでることで大問題になってる様子が丁寧に描かれています。ただ「愛すべきキャラ」が強く出てしまってて、彼の間違った政治行動の問題に視聴者の意識がフォーカスしにくいという難点があるのです。自分に利益供与する人々にいい顔をするために政治活動をするのはいい政治家ではないというメッセージがあるのはあるのですが、自分の興味ない相手、あるいは敵には冷酷であるという対比が薄く、全体的な描かれ方として「でも良い人なんだよね!勘弁してやって!」という方が圧倒的に強い。

 

 これを現代日本向けのドラマで描くことには、かなり問題を感じます。日本では政治家の「人となり」の方が、その施策の良し悪しよりも興味あることのように報じられたり、持て囃されたりします。菅元首相の「パンケーキ好き」とか記憶に新しいですね。また政府などへの批判について「でもその人たちだってとても頑張ってるんだから批判するな」という声もよくききます。「真面目だから良い人だ」につながる考え方ですね。またネットで度々、ヒトラーが子供と親しくしてる写真が持て囃されて「実はいい人だったのだ」という理解のされ方をしたりします。そのような、倫理観と人となりをごっちゃにする考え方を助長する価値観を、このドラマでは伝えているわけです。

 

 脚本家の三谷幸喜氏はかつて『国民の映画』(2011初演)のパンフレットで「「ゲッベルスはああいう狂気に走った人間なんだけど、愉快な部分もあったんだよ」という描き方はしたくない。あくまで、「こんな愉快な人間だけども、狂気に走ったんだよ」という描き方でなくてはいけない」と書いたそうです。この「狂気に走った」は政治的な行動の倫理観の問題で、「愉快な部分」は人となりと言えるでしょう。2011年の時点では人となりではなく倫理観が重要なのだと表明していた劇作家が逆の考え方を示しているのは興味深いことです。

 

 

最終回でどうなるか

 もっともこのドラマは、最終回で何か予測を裏切るようなことを仕込んでるという噂もあります。なのでもしかしたら、このような「人となりが真面目な人なのだからその行為は正しい」という価値観が否定される可能性もなきにしもあらずです。個人的には、人となりと倫理観ごっちゃなのは義時に限った描写ではないので望み薄だとは思いますが、見守っていきたいと思います。