Topaztan’s blog

映画やドラマの感想や考察をつづっています

光る君へ 第15回まで レビュー

 現在放映中の大河ドラマ『光る君へ』、視聴率は最近10%ほどながら、Xなどを見る限り視聴している人は平安時代好きを中心に好評なようです。考証の倉本一宏先生も、ドラマのような紫式部道長の恋愛関係はあり得ません、でもドラマはドラマとしてお楽しみくださいと宣言した上で、積極的に平安時代の情報を発信しておられ、それも視聴者への大きなサポートになっていると感じます。他にも最近は各種研究家が大河に好意的に絡めて情報発信しており、平安時代という意外に一般的に馴染みのない時代の理解の助けになっていると思います。

 

 かく言う私もそこそこの平安時代好きなもので、初回を観た時にこりゃ傑作だあ!!という手ごたえを感じ、嬉しくてたまりませんでした。初回に、まひろ(紫式部)の母が藤原道兼に殺されるというスーパー虚構をぶっ込まれたのは確かに度肝を抜かれましたが、それ以外の点では現代とは色々異なる文化や考え方をなんとか表現していこうとする意気込みも感じ、好印象。その後何回かはワクワクが抑えられない日々でした。

 ところがしばらく視聴するうちに、あれ…?と思うポイントが増えていき、いつしか観るのがちょっとつらいレベルにすらなってしまいました。回によって多少違いはありますが、最初の数話のようにウキウキして観るぞ!という感じではなく…。じゃあ観なければいいという話ですが、でも全くつまらない訳ではなく、面白ポイントも色々あり、観続けないというのももったいないなあと。なにしろ平安時代、しかも源平合戦など末期でなく道長あたりの時代がドラマの舞台になることは滅多にないので、あっ、あの人物があの人物と喋ってる!とか、あのエピソードの実写が見られるとは!とか、それだけで嬉しくなってしまうのも確かです。

 そこで自分なりに、どこが面白く、どこが引っかかるのか整理してみました。

1.面白い点

◼️当時の社会構造を描こうとしている

 大河ドラマでは歴史上の有名人が主人公になる場合、下層階級を含めた経済社会の全体的な状況について描れないことがよくあります。あたかも社会の上層だけで社会が完結しているような感じで、彼らの飲み食いするもの、着るものはどのように調達されているのか、また勤め人にはどのように給与が支給されるのか…などに気を配って描写されることは少なかったと思います。

 しかし本ドラマは、宮中に仕えた紫式部や最高権力者にのぼりつめる藤原道長が中心であるにも関わらず、そのあたりを意識的に描こうとする取り組みが強く感じられました。

 たとえば平安中期には貨幣経済は衰退しており、給与は布や米などの支給、市では物々交換がなされていましたが、それが随所でさりげなく描かれています。また漢詩の会の後では、出席者の貴公子の肩に衣装がかけられていることで、平安時代に詳しい人ならピンとくる、衣装で支給された「かづけもの」が授けられたことが描写されます。

 上層以外の世界の広がりということで言えば、従者の乙丸、百舌鳥彦、乳母のいとなど、まひろや道長に関わる平民の登場人物がいきいきと魅力的に描かれていることも特徴でしょう。なかんずく散楽のメンバーである直秀とまひろ・道長が深く関わっており、それが物語のキーポイントになっています。今後何らかの役割を果たしそうな、まひろから文字を習う民の子供なども登場し、なんとか、貴族層である主人公クラスの人々と庶民層を交わらせたいという意気込みを感じます。

◼️宮廷の権力構造を描こうとしている

 詮子と円融天皇のやりとりで、早くから「国母」の概念を伝えたり、また入内すれば娘といえど父よりも立場が上になることを描いたりなど、現代人に馴染みがなく、感覚的にも理解しづらい権力関係をわかりやすく描こうとしてることに好感を持ちました。「国母」たる詮子の権力性を入念に描き、かつ詮子の権力への執着を、父や兄との対立と結びつけ、権力がなければ自分や息子が彼らから排斥され命も奪われかねないと危惧する母心に繋げた創作も興味深いです。これは国母になる彰子へ繋げていく重要な要素なのでしょう。詮子は特に兼家と対立的であったという史料は見当たりませんが、彰子は道長としばしば対立し彼のやり方に怒ったことが史料に残されています。それを遡って投影したのかもしれません。

 また娘の入内→皇子を産む→その皇子が東宮へ→天皇に というラインが一族の繁栄につながること、また貴族間においては、血筋がよく裕福な姫の婿になることが重要であること、などが繰り返し述べられ、現代においてはかなり個人的なものになっている婚姻や男女の愛といったものが非常に政治的であることを印象付けています。

 他にも、

 ・貴族の場合は正月に決定される除目で官職を得る。官職を得られないと1年間碌が得られず厳しい状態になる。

・正式ルート以外にも上級貴族に取り入ることで正式な官職以外で碌を得る可能性がある。

 などの基礎情報も上手に伝えられていると思います。

◼️歴史上の有名な逸話や源氏物語枕草子などのモチーフを散りばめていて、多少知ってる一般視聴者も楽しめる

 世の中で意外に多そうな「ちょっとは平安時代を知ってる」層が、「あ、これ、知ってる知ってる!」と思える小ネタを色々仕込んでいるのも大きな特徴です。

 「雀の子を犬君が逃がしつる」や、女三の宮と猫、雨夜の品定めなど、多少源氏物語に親しんでる人なら知っているような逸話の要素を各所に散りばめて、それらの人々に楽しめるようになっています。「源氏物語」を原文はもちろん現代語訳でも読み通した人は少ないでしょうが、漫画「あさきゆめみし」など様々なコンテンツで描かれたりしていますので、間接的になんとなく内容を知ってる、印象的なエピソードは知ってるという人は多いと思われます。また高校の古文で源氏物語に触れた人も多いでしょう。籠で飼われた雀や紐で繋がれた猫が逃げるのは、慣習によって押さえ付けられても溢れ出るまひろや倫子の生命力のメタファーとも見え、作劇的にも興味深かったです。

 

 またもう少し踏み込んだ知識を持っている人たち、一般的な歴史好きへの「これ知ってる!」サービスにもこと欠きません。「奇行をする花山天皇」「一条天皇の高御座に生首」などのエピソード、また枕草子二十二段「生ひさきなく、まめやかに」で清少納言が世間一般の結婚の幸せを夢みる女性がバカみたいだといい宮仕えを称賛するシーン…などが描写され、あれが実写化された!という楽しみを与えています。ことに定子と清少納言の関係は枕草子から色々ピックアップして映像化されており、次回は有名な香炉峰の雪のシーンもありそうです。

◼️あまり知られていない話も踏まえ、全体的にイースターエッグ探しの楽しみを提供

 上記のような「よく知られている・ある程度知られている」逸話以外にも、細かな史料・物語の要素が巧妙に散りばめられています。それゆえ平安時代に詳しい層にこそ、「よくぞこれを入れ込んでくれた」的なマニアックな満足感を提供するものとなっており、それが本ドラマが平安時代に詳しい層にも受けている要因かと思われます。

 

 たとえば左大臣家が初めて現れる夜の土御門邸のシーンにも、様々な物語や史料の要素が詰まっています。穆子が雅信に、新しい装束が届いたのでお召しになりますか?と訊きますが、これはのちに穆子が婿の道長に、夏冬ごとに夜と昼の装束を一揃いづつ、終生贈り続けた逸話(栄花物語)を想起させる描写です。穆子が道長を気に入って、あんな青二才の道長など…と婿取を渋っていた雅信に強力にプッシュした栄花物語の逸話は有名ですね。ちなみに彼女は婿の道綱に対しても、娘が亡くなった後も同様の援助をしたとされています(道綱は倫子の妹の中の君を正室とするも出産で彼女は死亡。生まれた息子は道長の養子となり、道綱は道長の側近の源頼光の娘を正室に)

 これは夫の装束の調達が北の方の大事な役割であることを示すと同時に、彼女のまめやかでしっかりした性格も示されてるのでしょう。夫の装束を北の方が用意する大切さは、まひろの母が為時の衣装を用意するシーンでも描かれます。

 またそれに対し雅信が、今は倫子の琴を聴いていたい、と応えたのは、娘を溺愛しているさまと、『郢曲相承次第』(宇多源氏の歌謡相承系譜)で雅信が「音楽堪能、一代之名匠也」と言われるほど音楽の名手だったことを表してると思われます。

 倫子が琴を弾いているのは、枕草子にも書かれている、当時の姫君の嗜みの一貫です。後に村上天皇の女御となる芳子に対して、父師尹が課していた教養が、書道と琴の練習、『古今集』の全巻を暗記することでした。これは定子がサロンで古今集の暗唱テストを課した際に話した逸話として枕草子に書かれています。古今集の暗唱については倫子のサロンで赤染衛門が先生としてされていましたね。

 

 第14話でも、淡路守から献上された鯛を道隆一家が堪能するシーンがありますが、そこにもその種の仕込みがあります。道隆がやや唐突に、(このように献上するということは)下国の淡路から、より上国に任じて欲しいのだろうという話がなされますが、それは紫式部の父為時が長徳二年の除目で淡路守に任ぜられたが、三日後に道長が参内して俄かに上国の越前守に任命され直した件を踏まえている、あるいはそれを今後描く布石かと思われます。

 

 また私は漢詩には詳しくないのですが、漢詩も積極的に描写されていて詳しい人がインターネット上で色々解説しており、そのあたりも「詳しい人向け」へのサービスのように見受けられます。漢詩を学ぶことが貴族男性の必須の教養であったこと、女性は漢詩の素養は求められていなかったことが描写され、その上で高階貴子・紫式部清少納言(そしておそらくは定子)が漢詩に堪能であることの異質さが際立たせられています。

◼️「平安時代らしさ」を醸し出す人物たち

 上記のこと以外にも、平安時代らしいと感じさせる人物たちの登場がまたドラマの「それらしさ」を増します。兼家・雅信・頼忠の個性豊かな重鎮貴族の演じぶりもドラマに雰囲気と重みを与えていましたが、他にも以下の人物たちがとりわけ時代を感じさせるものがありました。

 

安倍晴明

 本ドラマの大きな魅力のひとつは、なんといっても安倍晴明の描かれ方でしょう。かなりフィクショナルにも関わらず説得力を持って描かれており、違和感がないどころか、実際の晴明の雰囲気を、ひょっとしたらいくばくかでも再現しているかも…と思わせるものがあります。

 ドラマ晴明は史実よりもかなり若い年齢に見えますが(史実では花山天皇即位の永観2年(984年)時点で63歳)、中年のややくたびれた感じの人物造形で、今までエンタメで描かれてきた青年的な晴明に比べてその意味でも新鮮です。夜に天体観測をするために日中はやつれて不機嫌気味、権力者の後ろぐらい相談にも乗ればオフィシャルな相談にも乗る、何かの重要な物事の実行日を占って決める、など、超自然的な存在というよりも現実社会を生きる生身の人間としての晴明を描いていて、目が離せません。このドラマ第一話の初めに登場したのが、大勢の陰陽寮の役人(?)たちと天体観測をする晴明というのもなかなか象徴的です。

 従者の須麻流も、セリフは少ないながら大きな存在感を持って晴明の傍に侍していて印象的です。眼差しや表情で時には視聴者の感情を代弁し、時には共犯的な感情を示し、他のエンタメでよく親友として描かれる源博雅とはまた違うバディ感を醸しだしています。また彼は、花山天皇退位の折の、牛車が通り過ぎたことを告げたという有名な式神の報告(大鏡)の役割も担っており、超自然的存在と見える「式神」が生身の人間に置き換えられてることも、上述の「人間・安倍晴明」の描写と合致します。

 

 それではこのドラマの晴明は完全に世俗的かというと、そうでもありません。星を読んで予言したりするなどの神秘性も持ち合わせていますし、兼家が晴明の言葉を密かに怖がることも描写されており、現代人の視聴者が見ても「敵に回したらなんだか超自然的な怖いことが起きそう」という感じを受ける存在に。金を積まれれば動くこともあり、兼家らと丁々発止のレスバトルをする様子は、一歩間違えば宮廷を泳ぎ回るだけの単なる政治屋にも見えてしまいますが、そうではなく異世界と交信できる存在ともと思わせられ、そのバランスが絶妙です。平安時代という、呪術と宗教と合理性の糸が複雑に織りなす世界を体現する存在として、このドラマ随一でしょう。

 もっとも、これまでのドラマの描写では晴明は天皇か右大臣家のためにしか働いていないような感じですが、古記録では兼家の属する九条流(藤原師輔の子孫)との関係よりも、むしろ実資の属する小野宮流と近しかったことが読み取れます。『小右記』では実資の元に晴明が頻繁に出入りして私的に奉仕し、妻の出産や子供が病気になった時の祓えなどを勤めていたことが記されています。花山天皇にも色々奉仕活動をしていますが、一条天皇期に入ると晴明は天皇道長に大変重用されるようになり、彰子の入内の日を占ったり道長に期日の吉凶の件で助言したりしています。一条天皇期の様子を遡らせて兼家らとの関係に反映させているのかもしれません。

 

藤原実資

 ロバート秋山氏がキャスティングされた時、どんな実資になるのか見当もつきませんでしたが、蓋を開けてみるとピッタリな感じで驚きました。ふくよかな体型で平安貴族の装束が似合い、絵巻物で描かれる貴公子はこういう感じだったのかなと思わせます(貴族は外をそれほど出歩かないのでもう少し色白だとは思いますが)。また有能ゆえに融通が効かなそうな頑固な雰囲気、時には正論を吐くも、上位者の前では内心閉口しつつ一応その場は合わせることもあり…などが、小右記などから伺える実資を彷彿とさせます。

 もっとも他のキャストで女性に人気という設定の男性キャラクターがみな今風の痩せてヒョロリとした体型の人ばかりなので、ドラマ内で整合性取れてないな…とは思いますが、彼の存在が平安時代のリアルの風を吹き込んでるのは重要と感じます。

 ドラマ内でもよく日記を執筆している姿が描写され、小右記の執筆が視覚化されているのも歴史好きには嬉しいサービスです。くどくど愚痴ると、聞かされるのにうんざりした奥方に日記に書けば?と言われるというのも面白い趣向です。

 

2.引っかかる点

 

 さて2で述べたように、平安時代について少し知ってる層・深く知ってる層にもそれぞれ楽しめる史料や物語の引用の目配せを配し、また当時の社会を庶民も含めて全体として描こうとすることに大変好感を持ちました。上記のことはまた、現代社会と隔絶した当時の人々の行動原理や社会背景への理解を促し、登場人物の言動について納得性を高めるという効果にも繋がります。

 ですがそういった工夫が随所にあるにも関わらず、物語単体で見るとおかしなところが目立つ、というのが、話の進行に従って気になりだしました。物語への没入感を妨げる「これって不自然じゃね?」「なんでこういう展開なのかよくわからない」という点が増えてきたのです。それは平安時代の知識に関することもあれば、人間一般の言動としてというのもあります。また「わかってる人がわかってればいい」的な説明不足も目立ってきました。

 つまり言い方を悪くすると、知的スノビズムを刺激する情報を大いに提供するけれども、それに引き比べて物語のリアリティやわかりやすさに対する工夫への熱量は感じられない、ということです。

 

1)リアリティの欠如・不自然な描写

◼️顔を見せすぎな女性たち〜平安時代といえば女性は顔を見せないという「常識」に逆らう描写

 平安時代にどんなに疎くても、「高貴な女性は顔を恋人や夫以外の異性に見せない、御簾で仕切ったり扇や何かの布で顔を隠す」という原則を知っている人は多いと思います。しかしまひろを初め、作中の貴族女性は驚くほど顔を見せまくりです。街中を、市女笠を従者に持たせるか、もしくは一人で軽くかづきを掲げて、顔をみせて歩き回るまひろ。男性陣の前に完全にあらわになった桟敷で打毬の見物をする姫君方…いくら映像映えのためとあっても、当時の慣習としてありえなくないか?という違和感が拭えない表現が多すぎです。

 それを言うならお歯黒や平安的化粧は??などと言う人がいると思いますが、それらは「わかってるけどお約束としてやらないしそこまで求めない」、という認識を、大方の視聴者も制作者も持っていることであり、また実現可能性としても低いものであります。お歯黒や平安風の化粧をドラマで視聴者に違和感ない、美しいものとして実行するのはかなり難しいのではないでしょうか。『平清盛』でお歯黒やいわゆる麿メイクがなされたのは話題になりましたが、貴族階級の陰湿な感じを演出する目的のメイクが多いように見えました。美しく見せたい人物ならば、たとえ公卿や皇族といえど普通のメイクにされていたのです(例: 以仁王)。

 それに比べて御簾で仕切るなどで顔を見せ合わないやり方は、映像表現としてそんなに難易度は高くありませんし、やらない意味がよくわかりません。そして、じゃあこの世界では女性が顔を見せるかどうかが重要なマターではない、全く問題にならないという価値観で統一されているのか、というと、そうでもないのがまた認識を混乱させます。一貫して男女間で御簾を全く使わない、市女笠もかぶらない、というなら、かえって整合性があるというものですが、場合によっては使うし、なんなら重要な小道具として登場することもあるのです。ききょうやさわは市女笠を被り虫垂れぎぬを下げていますし、初めて倫子を訪う道長が御簾を掲げて部屋に入るシーンは、御簾が二人の隔ての象徴的であるように描かれています。

 御簾はこのドラマ世界では、女性と男性を遮るものというよりは、天皇とそれ以外の男性を隔てることを可視化するものとして主に機能しているようです。たとえば天皇が大臣たちと会う時は、必ず御簾で隔てられます。花山天皇が御簾越しに安倍晴明と話していて、晴明の言葉に思わず御簾から走り出てくるシーンがありますが、これは御簾という重要な身分の隔てもかなぐり捨てるくらい花山天皇が動揺したという演出でしょう。

◼️物語に都合のいい駒としての庶民

 上記で社会構造を描こうとしており、庶民が生き生きと描かれていてキーパーソンである、ということを述べましたが、そうは言っても庶民は結構都合のいいように使われてるなという印象もあります。

 たとえば直秀。散楽のメンバーであり、幼い頃から通って見ていたまひろに好意を持った男です。彼は神出鬼没に出現してまひろと三郎の情報をそれぞれに与えて間をとりもつことに尽力し、最後は右大臣家を揶揄した芝居を作ったかどでとらえられ、鳥野辺で仲間と共に処刑。視聴者の涙を誘いました。しかし彼の行動は、冷静に考えてみると不思議なことだらけです。

 まず、自分が好きな女性が好きな別の男性とのとりもち役をかってでる男っているのだろうか?ということ。平安時代の文学にそのような人物が出てきたということは管見の限り知りません。

 そして彼がなぜ、どのような点でまひろを好きになったのかもよくわかりません。彼は貴族階級への憎しみがあるわけで、貧しいといえどまひろは庶民ではなく、かなり隔絶した存在です。にも関わらず好きになり、あまつさえ右大臣家の子息へのあんまり将来性なさそうな恋を応援。なんだか少女漫画でたまにでてくる、主人公の女性の恋を応援してくれるかっこいい登場人物(自分もほのかに好きだけど身を引く)のようです。あんまり現実味がありません。

 そして彼の死にまつわることも色々疑問があります。金を握らせて手荒なことをするなと道長レベルの上級貴族に命じられた結果が、流罪判決→でもやっぱり鳥野辺で処刑 になるののも不可思議な感じです。流罪は普通流刑先まで送り戻ってこないよう監視するという結構費用のかかる刑罰であり、一定の身分以上に適用されるものです。手荒なことはするなであれば、たとえば鞭打ち10回のところを半分にするとか、手の骨折るのを指を一本切るくらいにするとかにするというのが自然な解釈で、道長もまあそう考えたんかじゃないかなと見えますが、なぜ検非違使が流刑→やっぱり処刑 にしたのか謎です(道長への反感という意見もありましたが、上級貴族の命に反抗するのはかなり危険な気もします)

 処刑するつもりのメンバーを鳥野辺に運ぶという意味もよく分からず。アクセスといい、河原で処刑が手っ取り早いのでは?河原といえば、まひろと道長が幼い頃から会ってた河原に全く死体がなく市民の憩いの場みたいな描写もかなり違和感ありましたが、河原は当時は死体を捨てる場所であり、デートスポットではなかったはずです(貴族が川遊びすることはありますが、そのような場所は庶民が出入りできないようなエリアでしたでしょう)。

 そして誰しもツッコミたくなる、素手で墓掘りシーン。まひろと道長の穢れを気にしないほどの強い気持ちと二人の絆の演出のため、なのはわかります。しかし畑などの柔らかい土にちょっとした大きさのものを埋めるのだって素手では大変なのに、草ぼうぼうの普通の硬い地面に数人分の遺体が入る穴を二人で、しかも土仕事などしたことない貴族の若者が掘るのは、大変非現実的。そして手でまひろの着物についた土を払う道長という演出もありましたが、いやその土のついた手で払ってもあんまり意味なくね?と。ものすごく大量の土がついてるならまだしも、軽く汚れてる程度だったので、かえって土ついちゃうがな…とヒヤヒヤ。

 それらの不自然な話は、物語の要請上生じたものであると考えるとわかりやすいです。

 Start: まひろと道長の間に特別な絆を作りたい

 &まひろと道長に庶民へのシンパシー感情持たせたい

 →庶民の娯楽である散楽を2人して幼い頃から見てる設定で、なんかそこでつながり持たせよう

 →まひろと道長がスムーズに付き合うには色々障壁があるので、お助けマンとして散楽メンバーの直秀を使おう

 →まひろと道長が庶民のために頑張ろうと決意する契機にするため、直秀にショッキングな死を与えよう・それには道長が罪悪感を持たせるような理由を作ろう

 →ビジュアル的にも二人の絆を強調するため、二人で直秀の墓を掘らせよう

  

 などという段取りがあったように見えてしまうのです。直秀はそういう物語に都合のいい駒として使われた感があります。(なお、彼がいきなり打毬の会に誘われてちゃんとこなしてるのも不自然です。そういうのは、日常的に乗馬とプレーの訓練ができる有閑階級だからこそできることであって、散楽メンバーにはそのような経験が積めるとは思えません。彼はもしかしたら没落貴族なのかもですが、そのような匂わせもなく、また彼の貴族に立ち混じられることの違和感も表明されないです)

 

 またまひろが仮名を教える庶民の少女の扱いも、かなり「都合いい」展開だなと思いました。

 まひろの市での呼びかけで興味を持った少女は、わざわざまひろの家に行って文字を学びます。結構長く通ったらしく、上達して褒められています。しかしいつしか来なくなってしまい心配していたら、たまたま発見した家で家業の畑仕事を手伝っており、父親はまひろに対して余計なことをするな、貴族のお遊びに付き合うほど暇じゃないと怒ります。

 私はまず、庶民であれくらいの子供はもう労働力としてあてにされているだろうから、呑気にまひろの家に通うのは難しいのでは思いました。しばらくして案の定親が怒るのですが、タイミング遅すぎだろうと。一回行ったら、どこでフラフラしていたんだと怒られて2回目はないのが普通だと思います。それを引き延ばしたのは、ある程度交流があって文字を習うことに成功した、とする方が、その少女の悲劇性(能力はあるのに家庭や社会環境で伸ばせない)を高めるためかと。全体にこのドラマでは、こうした方がドラマチックだと判断されて不自然なシチュエーションでも強行されるシーンが多く感じます。

 

2)用語や登場人物の説明不足によるわかりにくさ

◼️用語説明などが手薄でかなり不親切設計

 平安時代ならではの用語や文化をちゃんと描こうとしているのは見どころではありますが、一方でその説明がかなり不足してるなあという印象も強く持っています。

 たとえば「妾(しょう)」。

 私が見落としてるかもですが、この言葉は蜻蛉日記の作者道綱の母が登場した時に、ナレーションで「しょう、つまり嫡妻以外の妻のひとり」と説明されたきりです。これを視聴者印象深く覚え続けられれるかどうか、結構難しいところだと思います。そもそも「妾」という漢字すら表示されないので、わかりにくい。それがしばらく経って、まひろが道長と関係を持った後、私を北の方ではなく「しょう」にするのかと問うシーンで出てきますが、そのような重要ワードはも字幕で出すなりする必要があると思います。

◼️婚姻形態についての説明不足・矛盾

 先に挙げた「妾」とも関係しますが、婚姻形態についてかなり混乱させる描写が目立ちます。

 婿取りに関しては、しきりに金と血筋の良い女のところに婿取られるのが良いという考え方が、ドラマのセリフで出てきます。確かにそれは当時のあり方にそぐわしい発言なのですが、その一方で、父親が失職し経済的に窮乏したという設定のまひろに「金持ちの婿が来てくれれば養ってもらえる」ということを父も為宣も信じてるのが、なんとも矛盾しています。

 金回り・血筋・父親の権力 のいずれかがあれば、全部揃ってなくても婿側にメリットがあるので婿取りできる可能性はありますが、まひろは全てにおいて詰んでいます。金持ちな男が万一まひろに懸想することがあるとして、その場合は男が婿取られるのではなく、単に通うだけか、せいぜい「召人」(めしうど)としてその男の屋敷なりに住まわせるになるだけでしょう。そういう立場であればまひろも裕福な男に「養われる」可能性がありますが、婿取りという形態を望むのはなかなか無理があります。

 またまひろが「北の方」にしてくれるのかと11話で道長に言うのも、上記の理由から不自然なことです。婿取り自体が厳しいのに加えて、上流貴族の子息と中流貴族の娘という身分差があるからです。まひろの前の世代は、高階貴子や藤原時姫、道綱母など出自は中流貴族でも上流貴族の妻になったり、場合によっては嫡妻になったりした例があります。道綱母は10世紀中頃に正式な結婚手続きを経て兼家の妻になり、しばらくは先に結婚していた同じ中流貴族の娘の時姫と、どちらが北の方ともつかぬ状態でした(結局時姫が嫡妻になりました)。その道綱母にしろ時姫にしろ、実家がかなり太いという条件があるのは見逃せません。

  

 北の方〜はまひろは本気で言ってるのではないという意見もありましたが、正直色々型破りなまひろがそう思ってる確証もありません。それに婿取る、北の方になる、ことの難しさについ、私が上でしたような説明を何もしていないドラマで、そこまで視聴者に読み取ることを期待するのは大変不親切です。

 

3) 女性描写の違和感

◼️現代人まひろ

 まあこれは過去の大河でもあったことですが、主人公まひろがなんとも現代風なところです。いったいどこでそのような考え方をインストールしたかよくわからない、現代人的な発想の言動をよくしているからです。かぐや姫の解釈で見せた、みかどなど何するものぞという発想、貴族が政をよくすることで平民を幸せにするという考え、平民に教育を施すことで自衛する力を与える…それらは正直、当時の価値観としてはなかなか出てこないものでした。

 これらの考えは源氏物語にも紫式部日記にも、紫式部集にも出てきません。庶民に対する感慨のようなものは、源氏物語の「夕顔」で、裕福でない夕顔の邸に泊まった光源氏が、庶民の立てる物音を聴いて驚くシーンがありますが、それくらいです。

 もしドラマ内で、彼女の考えに影響を与える人物なり考え方なりが提示されればまだしもですが、そんなこともありません。よく観ると、どうも漢文を通じて良い政について父が学び、まひろも聞き知ってるような口ぶりが出てきますが、具体例はありません。

 ききょうが庶民を軽蔑する風を見せますが、こちらは枕草子にそのような記述があるのでまあそうだろうなと思いますが、ドラマでは現代人まひろの優しさ引き立てるために描写されてるような気がします。

◼️愚かな姫君たちと賢い姫君の対比…しかし漢詩の素養などは本人の意識の問題か?

 まひろ(やききょう)と対比される形で、しばしば愚かな姫君が登場します。倫子サロンの姫たち、さわ…倫子は愚かではないけれど、漢文がわからないし文章読むも苦手という設定。ドラマ内の描写だけでは、そのような姫君たちの素養のなさ的なものが、もっぱら本人の資質のように見えます。つまり努力を嫌う怠け者で夢見がちの姫君(マジョリティ)対、しっかりした意識を持ち努力家のまひろやききょうという対比に見えてしまうのです。

 しかし彼女たちの個人的資質ももちろんありますが、バックグラウンドも大きな要因としてあることを忘れてはなりません。ドラマ内で出てくる賢い女性、特に漢文にも通じた女性は、まひろ、ききょう、高階貴子、赤染衛門道綱母(ドラマ内で漢文の素養は示されませんでしたが)、がいますが、いずれも父親が学者であるのです。今風にいうなら、彼女らはそのような特殊な文化資本があったために、充分学ぶ機会があったということでしょう。

 また高階貴子の漢文の素養があるのは、世代的な「働く女性」としての側面もあります。彼女の世代までは、女性も宮中で重要な実務を担う女官になることが可能で、彼女はまさに内侍として円融天皇に仕え、漢才を愛でられ殿上の詩宴に招かれたりもしました。しかしその後は貴族の女性が出仕すること自体がはしたないことのように思われるようになり、紫式部紫式部日記で宮仕することへの当惑などを綴っていますし、清少納言は逆にそれに抗う考え方を枕草子で述べています。当時は、女性は漢文などを学んで男性に伍して働くのではなく、良い婿を取ることを願って家にいることが良いのだ、という規範が浸透し始めている時期であるという社会的な背景説明なしに、なんだか勉強好きなまひろやききょうは他の女性よりしっかりしてるなあという印象をドラマでは作っています。いわゆる主人公アゲの一種のように感じます。

◼️「働く女性」も手放しでは礼賛されていない

 では本ドラマで「愚かな姫君」ではない、漢文などを嗜む「働く女性」が無条件に礼賛されているかというと、そうでもありません。枕草子二十二段、実はそのまま描かれてるわけではなく、ききょうはやや疑問符のつく描かれ方がされています。宮中に出仕したい理由はききょうは今でいう自己実現のためであり、「子供を夫におっつけてしまおう」と言っており母としての勤めを放棄しているような、ややわがままな感じなのです。実際の二十二段は、確かに結婚に夢見て引きこもる女性を批判していますが、子供がどうとかは語っておらず、むしろ宮中出仕は妻として家を取り仕切るのに役立つという書き方で、別に自己実現のためではありません。

 全体的に女性陣がどうもまひろの引き立て役であるのが多いのが気になります。

◼️シスターフッドへの懐疑的眼差し

 ドラマでは様々な女性同士の関係が描かれますが、心からの絆というのは、定子と清少納言というビッグネーム以外はいまだ描かれていません。

・まひろと倫子

 ちょっと場違いな、ワンランクもツーランクも上のお嬢さん方のつどう倫子サロンに出入りするようになったまひろに対して、色々気配りをしてくれる倫子。御堂関白記で描かれる、フットワーク軽く色々世話をする倫子の片鱗を感じさせる描写です。まひろも姉のように倫子を慕います。

 しかし倫子が道長に恋したところから雲行きが怪しくなり。男性が絡むことで女の友情が壊れるというのもなんかなあ…という感じがしました。

倫子と紫式部については、寛弘5年9月9日、紫式部に「老いをぬぐい去る」という「菊の着せ綿」が倫子から贈られた件で、倫子と式部が対立し嫌味を言う仲だったとしてそこから広げたのかもしれませんが、わざわざ仲良しになってからと言う展開がなんとも意地悪な感じです。

・まひろとさわ

 倫子とまひろの「男が絡むことで女の友情の危うさ」みたいなのは、まひろとさわでもリフレインされます。男性なしで終生生きていこう、気の合う女性たちで暮らしていけたら、という願望を女性が語る言葉を近年よく目にしますが、まひろとさわも、まさにそのような話をして盛り上がります。

 ところが本作では、さわが恋した相手がまひろを好きで…という三角関係的展開になり、さわ激怒。好きな人が自分の親友を好きで傷ついたという筋立て自体、なんだか少女漫画味のある展開でその古めかしさも気になりますが、2回も続けてそのような構図を書いたことで、女の友情なんぞ男を挟めばすぐ壊れるシロモノなんだよ、という考え方が強く感じられ、かなり古臭く感じます。しかもそれを、昨今よくネットでも話題になる「老後は女同士でシェアハウスしたいね」的な話の次に置くことで、大変意地悪な目線を感じます。そんなこと言うなんて現実をわかってない、甘っちょろいよと言わんばかりで。

 この後仲直りするのかもしれませんが、わざわざそんな展開挟まんでも…とは思いました。あとさわがあまりにもすぐにまひろの価値観に馴染みまくって仲良くなるのも結構インスタントやなぁという印象です(ある程度物理的には恵まれてそうな衣装で、父や義理の家族に疎まれてたとはいえ家事まではやってなさそうなのにあっさりまひろと家事してたり)

 

 そもそもまひろには姉がいて大変仲がよかったし、友人たちに物語見せていたりするのを完全にいないことにされているのも非常に不思議というか、このドラマのテイストをよくあらわしてると思います。紫式部は判明していることが乏しく、描くべき関連人物がたくさんいすぎて省きたくなるような人物ではありません。にもかかわらず、そういう女性同士の友情関係をバッサリ切って、さわという架空の女性を、男を巡って仲違いするという話を作ってまで入れているだけというのは、脚本家のスタンスをよく表してると思います。今でいうシスターフッド的なものはあまり描きたくないし、描くにしても懐疑的なものを挟まざるを得ないという感じです。

 

4)その他作劇上の違和感

 

 他にも細々とした気になるポイントがあります。以下列挙

・完全フィクションなことで連続してエモーショナルに盛り上げる作劇

 まひろの母を道兼が殺害、それについて責任感感じたまひろ号泣、まひろと道長が若くして結ばれる、秀直処刑二人で泣きながら埋葬…と、かなり連続して物語の山場が完全フィクションであるのが気になりました。それらで登場人物が大泣きしたりするシーン見ても「まあ言うてもフィクションだしなあ」という気持ちが拭えず、醒めた気持ちに。確かに、たとえ史料に書かれてることでも完全再現は不可能ですし、大河なんて全てのシーンがフィクションなんだと言われればそうなのですが、それにしても史実や逸話類に全くかすりもしないことで盛り上がれ!とされても、かなりうまい作劇じゃないとのめり込めず。そしてそのような、フィクションであることを忘れさせるような作り込まれたうまい作劇や演出かと言われると、私としては、うーん…という感じでした。

・あとで逆のことをする人物になることをショッキングにするための「布石」があからさま

 主に道長について、史料に描かれる道長とは逆の言動をさせており、のちに「あの道長が若い頃と正反対のことをするようになってしまった!」というショッキングな展開になることを仕込んでるように見えます。娘をたくさん入内させて栄華を誇ったにもかかわらず、入内は女性を幸せにしないと言ったり。

 あまり知られてないことですが、道長は後年検非違使庁を牛耳って、文句が出ています。検非違使について真面目に考え取り組む道長像は、もしかしたら後年ひっくり返されるかもしれません。

・詮子についての脚色の強さ

 詮子については、一般的な歴史好きには、道長を強力に後押しし一条天皇にプッシュした姉として知られています。なぜそこまで道長を推したのか、強い理由づけが必要と脚本家は感じたのか、かなり強めな脚色を行っており、そこが結構気になりました。

 たとえば道長以外の兄弟とうまくいっていないことを何かと描写しており、第一回ですでに父と道長以外の兄を一緒にして自分を道具のように見ている、道長だけに心許せるというような描写をしています。まあそれは全くなかったとも言い切れないのでそういう演出なのだなあと思いましたが、道隆が詮子を邪魔者にしたとするに至っては、かなり厳しい解釈なのではないかと思いました。

 詮子は一条天皇元服後、定子入内の翌年に病が悪化して出家しますが、道隆が詮子を天皇に発言力を行使できる立場を模索した道隆等の思惑で「女院」が創出されたという指摘があります。また詮子は道兼の粟田山荘に行啓しそこに道隆も臨席しており、仲の良さが伺えます。詮子は道長を強力に推したのは甥の伊周に比してであって、道長の他の兄弟と比してではないところに注意が必要です。

 兄弟と仲が悪かった、定子に悪感情を持っていた…このような脚色はどこからきたのか考えていましたが、個人的にはWikipediaの詮子の記述がかなりそれらしく感じました。

 Wikipediaでは兄一家を没落に追い込んだ、という表現がなされており、中関白家と詮子をかなり対立的に描いています。私が読んだ幾つかの本ではそこまで書いてるものはなかったので、Wikipediaが一体どこのソースを使ってそう書いたのか気になります。

・主人公サイドウォッシュされる道長と対比的に悪く描かれる中関白家

 上にも書きましたが、御堂関白記から伺える道長よりもかなり清廉に(今の所)描かれる道長に対して、中関白家はどうも史料や逸話以上に悪く描かれる傾向にあります。

 まひろアゲ描写といい、主人公サイドの人間は素晴らしく描かれ、ライバル的な立場の人間は下げて描かれるというのは、これ、男性主人公の大河でやったら非難轟轟だと思うのですが…なぜか光る君へではあんまり批判されません。

・あまり現実的でない家屋

 また家屋の作り方撮り方も、もう少し工夫が欲しいなあというところも。たとえばまひろと道長の逢瀬はスケスケの廃屋ですが、そこに突っ立って会話する二人のシーンが多く、屋内で突っ立ってというのはなあと。もっともあれだけ屋根も壁もスカスカの空間なら、床には厚く土埃や枯葉などが積もってるでしょうから、座る気になれないだろうなとも。

 スケスケ空間といえばまひろの家もかなり開放的です。あんな状態でしかも庭に川の水引いてるとなれば、湿気が相当ひどいはずなのに、剥き出しの巻物が積んであるのを見ると、紙が痛まないかひやひやします。川から庭に水を引くのを遣水といって当時の作庭にあったものですが、それにしてもなあと思いました。そりゃ為時の装束もカビるというもの。

 

 

 以上です。色々気になる点はありますが、上にも書いたようになかなか王朝文化華やかなりし時がドラマ化されることもないですし、演者さんたちの熱演もありますので、見続けようと思います。

 

 

 

 

<了>