Topaztan’s blog

映画やドラマの感想や考察をつづっています

「主婦」が「趣味」に打ち込む大変さ・マイノリティとしての共感〜『ロスト・キング 500年越しの運命』(ネタバレ感想)

 この映画を観ながら、これは私のことだ、とずっと思い続けていました。歴史上の人物にのめり込み調査する一般人として、また自分の趣味に没頭することのハードルが高い「主婦」として。

 

 物語は、息子の観劇教室に付き合ったフィリッパ・ラングレーが、その演目『リチャード三世』をきっかけにして歴史上のリチャード3世に興味をもち、どんどん調査を進めていって、ついに彼の墓を発見するに至る話です。これは実話を元にしており、映画の制作者もモデルの女性に丁寧に取材したそうです。

 

 この作品は、リチャード3世の墓の発見という華々しい成果も醍醐味ではありますが、それだけではないものがあると思います。おそらくは上記の丁寧な対象への取材を通して生まれた、在野の一般人研究者への温かい眼差しと言いますか。本作は、たとえ何かすごい成果を上げなくても、何かにのめり込み研究をする一般人へのエールであり、特にそのような在野の研究を続けるのが困難な女性への応援歌でもあると感じました。

 そして同時に、障がいを持つ人がその人らしさを無視されがちということにも焦点を当てた作品だと思いました。

 

 以下に詳しく述べていきます。

 

◾️「主婦」が何かに打ち込む後ろめたさ

 

 この作品を見て私が驚いたのは、イギリスでもまだこんなに主婦はこうあるべき、という規範が強いのかということでした。

 たとえば調査に出かけるさい夕飯を用意しないことについて、息子たちは随分不平をいいます。普通用意するだろうと。また主婦はケーキでも焼いてるものだみたいな表現もあります(それを逆手にとって、フィリッパは相手に印象を残す手段としてケーキを焼いて研究者に差し入れします)

 個人的には、12歳前後()の息子2人なのだから、共働きの場合子供たちの夕食くらい自分で用意させたらと思うんですが(冷食レンチンでも)、どうもそういう風には仕込んでなさそうです。息子たちがママにひどい口答えしてもあんまり叱らないし、ちょっと子供に甘いかな〜という印象。もしかしたら、夫婦が別居していること、難病で思うように体が動かせないことで、子供たちに充分なことをできてないという後ろめたさがフィリッパ自身にあるという表現なのかもしれません。モデルの女性がリチャード3世の墓について本格的に調べ始めたのが2004年といいますから、確かに「主婦らしさ」への規範は今よりはるかに強かったのでしょう。

 調査旅行に行く時もそれを夫にひた隠しにし、トマト買いに行ってきたとか、なんかしらの主婦業と絡ませてごまかします。リチャードに対してちょっと不健康な執着なのではというのは、リチャードの幻が言う言葉ですが、彼はフィリッパの潜在意識とも読めます。全体にフィリッパは、大変精力的に調査する一方、こうあるべき主婦、母親像に合致していないということが自分でもとても気になってるし、家族からも言われていて、それがこの映画の大きな特徴になっています。

 

 これは、実は筆者自身が大変当て嵌まる心境で、わかるわかる!!と思いながら見ました。私もフィリッパと同じく、歴史創作物(私の場合大河ドラマ)をきっかけに歴史上の人物(源実朝)について色々調べるようになったもですが、大量の関連書籍も家族には隠すようにしたり、調査のための遠出も目的を明かさずに行ってて、家族には明かしていません。もし明かしたら、そんなものになぜのめり込むのか、主婦としてどうなんだと、家族に思われること必至だからです。フィリッパの夫のように、私の連れ合いもバカにして笑うでしょうし、主婦にふさわしくないと思うでしょう。そして自分自身、一介の主婦のくせになんでこんなに時間を費やしてやってるんだという後ろめたさ、自分の「本分」と関係ないのになという気持ちに常に囚われています。この映画の宣伝で本邦では「歴女」という表現を見かけますが、日本では歴女というと、フットワークが軽くできる独身女性がイメージされると思います。子持ちの「歴女」はまだまだ肩身が狭い状況です。

 

 しかしフィリッパは、しきりに訝しむ夫にリチャードの墓を探し名誉を回復させることは、自分にエネルギーを与えることなのだと伝え、夫もだんだん納得します。そして息子たちにもママに協力するよう働きかけ、ついにはフィリッパが知らないうちに、父子3人で彼女の発掘調査に匿名で寄付するまでに。現実ではなかなかそういうケースは少ないでしょうが、かなり勇気をもらいました。歴史上の人物について調べることが、しがない一介の女性の自分にも生きていく上で不可欠なエネルギーなのだということを、いつか家族に伝えられたらと思います。

 

◾️フィリッパ自身とリチャードが重なる構図

 

 また本作では、明確にフィリッパとリチャードが直結する者として語られ、それも本作の通奏低音となっています。

 フィリッパはME (筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群)という難病(ぱっと見ではわからない)を患い健康人と同じように活動できず、また若くもない女性なので、努力して成果を出しても勤め先に評価されません。また一介のアマチュア女性として、リチャード発掘に関してもたびたび軽んじられます。それは、敗者の王としてその業績が全く評価されず、背中に障がいを持っていたことを性格の悪さに結びつけられていたリチャード3世とオーバーラップします。イギリスの王でありながらフィリッパに通じるマイノリティ性があると言えるのです。

 学生たちに頼まれてリチャード三世発掘プロジェクトのスピーチをする際に、フィリッパが、これは正当に評価されず、実力を発揮できなかった人物の物語ですと語りますが(ちょっとうろ覚え)、この言葉はリチャードを指してもいるし、フィリッパを指している言葉でもありましょう。

 

 作中でたびたび、〜と感じる、という表現をするフィリッパが、冷笑されるシーンがあります。フィリッパに理解ある女性市長からも、「感じる」というような表現を女性がすると聞いてもらえなくなると言われます。しかし彼女のその軽んじられた「感情」、直感が、アカデミア側からは無視されて調査される予定のなかった骨を調べさせ、ついにリチャード3世の骨とわかったのです。

 ちなみに彼女の「感情」を、大学側の女性も男性と一緒に冷笑する描写があるのが興味深いです。同じ「女性」という属性ですが、彼女はアカデミアに所属している強者であり、市井のいち女性であるフィリッパとは理解も階級も異なります。その彼女も、もしリチャード3世の墓が発見されたら面白い、という彼女自身の「感情」を口にしたら、たちまち研究者の男からバカにされてしまうのですが

 

 女性であること、かつ若くないこと、「主婦」であること、アカデミア外の人間であること、障害を持っていることマジョリティの価値観で作り上げられている社会で、何重にも軽んじられる要素満載のフィリッパですが、その脆弱性とみなされる特質のひとつ「感情」で成功を掴むのは、マイノリティの逆襲の物語として痛快なものがあります。

 

◾️「在野の研究者が大発見」の危うさの回避

 

 もっとも一方で、このような「在野の研究者が大発見を!」というのは、結構疑念を呼び覚ます要素でもあります。

 最近ですと、日本では『土偶を読む』という非専門家の書いた書籍が大ヒットした件が記憶に新しいです。硬直した専門家にはできない大発見をしたのだ、ということが『土偶を読む』では主張されていたわけですが、専門家の視点では相当に疑わしいものであり、検証する書籍『「土偶を読む」を読む』まで出版されました。結論ありきの資料の恣意的な選択や、これまで研究で積み重ねられてきた編年や類例研究が丸っと無視されていることなどが指摘されています。

 さて今作でのフィリッパですが、実はそのような素人の危険性についてはかなり回避してる描写です。専門書の著者に地道にアポを取ったり、zoomみたいなので顔を合わせて質問したり、講演会で人脈を築いたりします。専門家の意見や知識を軽んじておらず、むしろ専門家のアドバイスをもとにリチャードの墓の場所を絞り込んでいきます。最後の決め手は彼女の「感情」「直感」でありますが、そこに至るまでの過程が説得力あるものになっているため、荒唐無稽感が薄れています。

 

◼️わが国の「在野の研究家」の扱い

 

 わが国は、正直在野で地道に研究活動をする一般人という存在が相当軽んじられていると感じます。若者しか大学に在籍する風潮にないし、大学に在籍したりアカデミアに所属したりしなければ研究するなんて意味がない、馬鹿馬鹿しいことだという風潮も強い。

 専門家に執拗にくってかかる愚かな素人の一言居士、というのは確かにネットでもよく見られますし、講演会にやってきて長々自説をぶつ素人研究家、というのもよく聞きます。しかしそういう「困った」人々にばかりフォーカスが当たる一方で、普通に学問や研究に興味ある人々までバカにする、わざわざあまり最新知識にアクセスできない人を探し当てては、知識を教えるのでなく嘲笑する、という知識人も見かけます。

 アカデミアとは関わりはなくても、そのような在野で研究する人々の裾野の広がりが、学問を発展させることに寄与するのだと私は信じますし、それが一般の人の生き甲斐になるのは全くおかしなことではないのだ、という認識も是非とも広まってほしいと思います。この映画は、そのような人々が存在するのだ、と世間に知らしめたという意味でも大切な映画だと思います。

源実朝没後七百年記念行事①〜源実朝公七百年祭

 源実朝は、1898正岡子規の『歌よみに与ふる書』をはじめとする近代のアララギ派による称揚による注目以降、生誕や没後の節目ごとに記念の年として様々な催しが行われてきました。たとえば主だったものでは以下の年があります。

 

・大正8(1919):没後七百年記念

・昭和17(1942)生誕七百五十年記念

・平成4(1992): 生誕七百年記念

・平成31(2019): 没後八百年記念

 

 今回は、今まであまり注目されることのなかった、大正8年の没後七百年関連のイベントを取り上げたいと思います。第一回は鶴岡八幡宮の白旗宮で開催された『源実朝公七百年祭』です。

 

実施の背景・サマリー

・鎌倉の好古の活動の気運の高まり(鎌倉同人会など)

・全国的な〜百年祭の隆盛・同じ会場で頼朝七百年祭開催

・宮中の歌人を中心とした集まり・新派歌人佐佐木信綱は出席の形跡なし

 

1.「源実朝公七百年祭」について

 

() 概要

 

 191932日に開催予定の源実朝公七百年祭について、協会発足と協賛会員を募る告知が、『國學院雜誌 = The Journal of Kokugakuin University 25(1)(294) (19191月発行)に掲載されました。

(国会図書館デジタルコレクションより)

 告知の内容は以下の通りです([ ]括弧内は筆者が調べたものを付記)

 

<趣旨>

「『山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二心われあらめやも』と、その誠忠の真情を詠み出でたる源家三代将軍実朝公は、僅に二十八歳の英才を抱きながら、無惨弑害の哀史を残したるは承久元年正月なりき。…(中略)…来三月二日を卜して、公を祀れる白旗宮(鶴岡八幡宮)に於て盛大なる記念祭を行い、以て公が英魂を慰謝し、公が遺風を追慕せんとす」(筆者が現代仮名遣いに改めた)

 

<七百年祭協賛会役員>

会長: 本多正憲子爵

理事:

 里村勝次郎

 矢野豁(とおる)上賀茂神社宮司?]

 清川来吉[1917年に鎌倉町長、後に初代鎌倉市市長]

 副島知一[鶴岡八幡宮宮司

賛襄: 徳川家達貴族院議長]など60

 

<記念品贈呈>

・金槐集(実朝公歌集絵端書)

・壬生硯(実朝公遺品の模造)

・絵端書(白旗宮、実朝公像、同筆跡)

 

<協賛会員>

特別:(会費3円以上を納めたもの)記念品全てを贈呈

普通(会費1円以上を納めたもの)壬生硯を除く記念品を贈呈

 

<日程>

191932日 鶴岡八幡宮内白旗宮にて

午前10時 神前披講

午後1時  講演会

     [場所: 神奈川県師範学校

      芳賀矢一「実朝公の和歌に就て」

      和田秀松「実朝公に就て」]

 

 ちなみに午後の会場の神奈川県師範学校(現 横浜国立大学教育学部附属鎌倉中学校)鶴岡八幡宮に隣接した土地にあり、白旗宮から近い場所にあります。

 

 告知は『歴史地理』(日本歴史地理学会)にも2回ほど掲載されています。

 

(2) 実施状況

 

 本会の簡単な実施報告的なものは『歴史と地理』(星野書店、19194月号)に記載されています。それによると集まったのは数百人で、午前8時に修祓の儀、10時から全国から集めた献詠の歌や、実朝の「山は裂け〜」の神前披講、午後1時より神奈川県師範学校にて帝国大学教授/國學院大学長の芳賀矢一博士、國學院大学講師史料編纂官の和田英松氏の講演が開かれたとのことです。

 最初から最後まで出席した参加者の記述は見つけられませんでしたが、佐佐木信綱の弟子で白樺創刊にも参加した木下利玄が、たまたま七百年歳の準備の様子を見かけ翌日講演会に参加したことを日記に記しています。

(『木下利玄全集 散文編』国会図書館デジタルコレクションより)

 

 この会の実質的な発案者が誰で、どのような経緯で開催が決まったのかはよくわかっていません。発起人は本多正憲子爵、副島鶴岡八幡宮宮司などとする記事もありますが(『歴史と地理 3(1)(星野書店、1919))私の調べた限りでは彼ら自身が語った七百年祭に関する話は見当たりません。

 とはいえ、役員や献歌をした歌人たちの経歴を調べると、ある程度背景が見えてきました。以下にそれを述べていきます。

 

 

2.役員から読み取る発足の背景

 

◼️会長 本多正憲子爵

 

 会長の本多正憲(18491937)は、安房長尾藩第2知藩事、のち子爵。三島神社宮司をへたあと貴族院議員(18901897)に。東京在住ですが鎌倉に別荘を持ち、鎌倉の古文化振興に尽力した人でした。

 彼は「鎌倉同人会」(大正4年発足)の会員であり、「会員の本多正憲子爵は、歴史、美術等に造詣深く、史蹟保存等については常に有益 な意見を開陳し、極めて熱心なので、委員会で、同氏を委員会顧問に推薦し、承諾を得た」(沢寿郎『鎌倉同人会五十年史』(社団法人鎌倉同人会、1965))とあるように歴史美術に造詣の深い熱心な人物とみなされていました。

 たとえば大正7年に発刊された書籍『鎌倉社寺重宝一覧』は、鎌倉同人会会長の陸奥廣吉伯爵と本多子爵が発議し、編纂は本多子爵が担当することになったのことです。(『〜一覧』には寿福寺の実朝像についての言及もあります)

「鎌倉内の社寺の宝物をことごとく調査して、書籍にまとめて置こうとの議が、陸奥氏、本多氏あたりから起り、早速調査にかかる ことに決し、それの編纂は本多正憲氏が担当することとなった。

また、これと併行して、鎌倉の古文書を蒐集して置くことも提唱され、これは帝国大学史料編纂係に依頼して、同所々蔵の古文書で鎌倉に関係あるものを影写してもらうことになった。」(『鎌倉同人会五十年史』)

 

 また鶴岡八幡宮年表によると、七百年祭の年の916日に「神幸会を執行す、本多正憲子爵、土井利与子爵、小笠原清道等の尽力により流鏑馬神事を鎌倉時代の旧儀に復して執行す」とあり、本多子爵が流鏑馬神事復元にも関わったことがわかります。

 

 これらから考えるに、本多正憲子爵が鎌倉の歴史文化に造詣が深く鎌倉同人会でも重きをなしており、彼が実朝の顕彰祭を発議した、あるいは他の誰かからの発議を受けて代表者になったとしてもおかしくないと思われます。

 

◼️鎌倉古文化への関心の高まり

 

 ではそもそもその本多子爵が所属していた鎌倉同人会とはどういうものだったのでしょうか。

 鎌倉は江戸時代には観光地として栄え多くの寺社がありましたが、維新後の上知令(第一次は1871年、第二次は1875)により寺社領が取り上げられ収入が激減。神仏混習の禁止もあって境内も荒廃し、宝物も数多く流出しました。

 そのような中、明治 18 (1885)、横浜の実業家や地元鎌倉の名士、寺社などが発起人とな り、維新以来困窮した鎌倉の寺社の救済、史蹟の保存などに貢献することを目的に 「鎌倉保勝会」が設立されました。この会についての当時の評価を見ますと、寺社にお金は回り、また後述する鎌倉における歴史の講演会に多額の寄付をしたりと、一定の功績はありましたが、史蹟保存という観点からはあまり活動できていなかったことには批判の声が上がっています。

 その後に登場したのが、大正5(1914)結成の「鎌倉同人会」です。これは明治〜大正にかけて鎌倉に東京や横須賀などから大量に流入した「別荘族」で結成されたもので、目的には史蹟の保全が含まれていました。こちらは史蹟保存・文化財保護などの面でも大いに貢献しました。

「彼ら別荘族は、社会的に著名な高額所得者が多く、その存在は鎌倉町にとって単なる多額納税者以上の意味を持つようになり、また、別荘族自身も鎌倉に関わる志向を持ち始める。

 その中の動きの一つが、別荘族の組織化である。まず、明治 41 (1908)親睦融和が目的の 鎌倉倶楽部が設立されると、大正4(1915)に、鎌倉倶楽部のメンバーである医師の勝見正成を中心に、史蹟保存、衛生・教育の普及、インフラの利便性向上などを目的として設立されたのが、鎌倉同人会である。(中略)これは、個々の社会的地位や影響力により、直接国や財界などに働きかけ、町を側面から援助する ことを目指したものであった。従って、実質的には、町政を含めかなりの影響力を持っていた」

(岸本洋一「近代鎌倉の青年団による史蹟指導標の建碑 ―副団長の記録に見る建碑の詳細―」(京都芸術大学大学院紀要1 70-127, 2021-02-03、京都芸術大学))

 実朝七百年祭を鎌倉で大々的に開催した背景には、そのような鎌倉在住者間での好古の活動の盛り上がりもありそうです。

 

 明治41年には、鎌倉で鎌倉をテーマとした日本歴史地理学会の夏期講演会が、8月に11日間にわたって開催(鎌倉保勝会も百円の寄付)。講演会以外にも史蹟や山野、海などに実地に赴いてフィールドワークするイベントが催されました。女性も含めた182人が全国から集まり、主催者側はまさかの大盛況に大変驚いたそうです。これを見ると、研究者ではない一般市民の歴史への関心が、鎌倉のみならず全国的にも高かったこと、鎌倉に住民以外にも鎌倉という地の歴史に関するイベントに集客力があることが証明されたとも言えます。

 

◼️鶴岡八幡宮の関わり

 

 役員の副島知一は鶴岡八幡宮宮司で、献歌会会場も八幡宮内の白旗宮と、本祭は鶴岡八幡宮と深く関わっています。贈呈品の「壬生硯」は実朝遺品のレプリカとありますが、おそらく鶴岡八幡宮で開催されていた「鎌倉懐古展覧会」の目録の中の「三代将軍実朝公遺物」にある「壬生硯」がモデルでしょう。これを見ても鶴岡八幡宮との関わりの深さが伺えます。

 この白旗宮は実朝を祀ったところであると告知文にもさらりと書かれていますし、現在では実朝ゆかりの神社としてすっかり定着しているので見過ごしてしまいますが、実は白旗宮と実朝は創建当初からの組み合わせではありませんでした。これには維新後の鶴岡八幡宮宮司が深く関わっていたのです。

 白旗宮はもともとは頼家が頼朝を祀るために創建したもので、武衛殿と呼ばれていました。明治時代に荒廃しましたが、それを憂いた鶴岡八幡宮筥崎宮司が、私財を投じ義援金を募って、場所を八幡宮の西から現在の場所(薬師堂跡)に移して新たに立派な社を作り、実朝を祀っていた柳営社と合祀したのです(明治20)。柳営社は承久元年に政子が創建したと社伝で言われているもので、あまり目立たぬ小さな社でした。そのせいもあってか合祀後も書籍でも白旗宮は頼朝の神社という説明が多い状況でした。

 それが実朝七百年忌で白旗宮が会場に選ばれたわけですが、そのように当時としては実朝と白旗宮を結びつける言説は世間では流通していなかった状況を考えると、これは八幡宮側からの提案があったのかもしれないとも見えます。

 いずれにせよ、白旗宮と柳営社が合祀され新しい社殿が作られなければ、実朝を祀るのは鎌倉では目立たぬ荒廃した社殿しかなかったわけで、七百年祭はそこでは行われなかったかもしれません。筥崎宮司の存在なくして、白旗宮での七百年祭はなかったと言えるでしょう。

 

◼️明治以降の「〜年祭」の盛況と頼朝七百年祭

 

 そして白旗宮での開催には、さらに前段の出来事があったと思われます。それは明治33(1900)113日、白旗宮で頼朝七百年祭が執り行われていたのです。

 

 江戸時代までも、何百年祭などと区切って祭を行う習慣は日本にありました。しかしそれは、神社の例祭の拡大版のようなものが多かったと思われます。それが明治以降、例祭があったかどうかにかかわらず様々な歴史上の人物、あるいは出来事のの「〜年祭」開催が一気に盛んになりました。ちょっと調べただけでも驚くほどたくさん出てきます。

 七百年祭が告知された國學院ジャーナルを遡ってみても、そのような〜年祭が数多く見られます。豊臣秀吉三百年祭、加藤清正三百年祭、楠正行五百五十年祭、貝原益軒二百年祭、本居宣長百年祭。他にも歴史的有名人ですと、家康公三百年祭も、1915年に本多忠敬子爵が主催して三日間に渡り大々的に行われています。天皇関係では 桓武天皇の遷都からの年数を記念して、1895年に平安遷都千百年紀年祭が国家レベルで執り行われました。全体に規模が大きくイベント性が高くなっています。

 

 そのような中、実際は頼朝没後七百一年にあたった1900年に頼朝七百年祭が挙行され、その後の年は「桜花爛漫」の413日に時期をずらして、鎌倉町全体の祭として毎年例祭が執り行われるようになりました(『鎌倉大観』より)。頼朝七百年祭で講演をした佐藤善次郎曰く数千人が集まったとのことで、多少誇張があるかもしれませんが、かなり大掛かりなイベントだったようです。ちなみにおそらく195256年の間に例祭は528日に移っており、また1961年の記事で頼朝祭、義経祭、さくら祭りなどを鎌倉まつりに統一するという見出しがありましたので(毎日新聞横浜版 昭和36314)413日の祭は鎌倉まつりに吸収されたものと見られます。

 実朝没後七百年を記念する行事、というのも、このような流れの中から生まれたものと言えましょう。

 

3.献詠会

(1) メンバーについて

 

 七百年祭の献詠会で詠まれた歌と歌人の一部は、『わか竹 第十二巻第四号』(大日本歌道奨励会19194)に記載されています。

(国会図書館デジタルコレクションより)

 

 國學院ジャーナルで掲載された趣旨のところで、会員以外からも広く献歌を募ると書いてあるように、これが全てではありません。実際その後に刊行された様々な和歌の書籍には、このメンバー以外の人が七百年祭で詠んだ歌を載せていたりします。こちらのメンバーは役員も含んでおり地位も高く、その中でも主だった人の歌であることは確かと思われます。以下に歌人の名前と、私が調べた範囲での経歴を付記します。(●は御歌所歌人)

 

・中山孝麿侯爵(1853-1919): 明治天皇の従兄弟。貴族院議員で東宮侍従(18891898)東宮大夫などを歴任。この年の11月に亡くなる。明治37歌会始の講師を勤めたこともある。

鍋島直大侯爵(1846-1921) : 岩倉使節団としてアメリカに留学したり駐イタリア王国特命全権公使とな ったりなど。佐賀藩最後の藩主 1911國學院大学学長。死後に『松風集』という和歌集がだされる。明治37歌会始の講師を勤めたこともある。

・三条西實義子爵: 御歌所歌人。三条西家は、藤原北家閑院流嫡流の三条家に連なる。祖父は明治政府参与で明治天皇の和歌師範も務めた。

・大原重明伯爵(1883-1961): 御歌所歌人。歌御会始講頌などを務め、1950年(昭和25年)の歌会始まで披講、講頌の役をほぼ毎年担った。

・入江為守子爵: 大正3年〜昭和元年まで春宮侍従長。大正4年より御歌所長兼任、『明治天皇御集』、『昭憲皇太后御集』編集事業を完成

・前田 利鬯子爵: 加賀大聖寺藩の第14代(最後)の藩主。明治11年御歌会講師になったのをはじめ、御歌会講頭御人数、御歌会始講頌御歌所参候などを努めた。

・松平乗承子爵(18511929): : 三河国西尾藩主松平乗全の五男。博愛社日本赤十字社の前身)の設立に尽力。宮内省御用係など務める。和歌に堪能で、息子の松平乗統が乗承の歌を集めて『千秋亭歌集』を出版している

・諏訪忠元子爵(1870-1941): 信濃諏訪藩第9代藩主諏訪忠誠の娘婿で家督を継ぐ。東京帝國大學文科大學國文科を卒業し芝東照宮社司。和歌をよくし、御歌所寄人の阪正臣・鎌田正夫に師事。没後『松の雫』という歌集が夫人の編集にて出版される

・本多正憲子爵:(18491937): 省略

・鶴見数馬(18601926): 陸軍少将。東宮武官も経験

・金子有道(18691938): 皇典講究所で学び1896年(明治29年)物部神社禰宜に就任。1916年(大正5年)御歌所編纂部に嘱託として加わり、『明治天皇御集』『昭憲皇太后御集』の編纂に従事

・阪正臣(18551931)●: 御歌所寄人。書家、古筆研究家でもある。鶴岡八幡宮伊勢神宮などに奉仕後御歌所へ。『明治天皇御集』の浄書を手掛ける。

・武島又次郎(18721967): 御歌所寄人。 国文学者で歌人日本女子大学国学院大学などで教鞭をとる。武島羽衣という雅号でも活動。瀧廉太郎の『花』の作詞をしたことでも知られている。

・池辺義象(18611923):御歌所寄人。国文学者で歌人。この祭典で贈呈された『金槐和歌集』に後書きを書いている。

・副島知一(18741959): 國學院大卒。皇典講究所幹事、熱田神宮宮司など経て1917年より鶴岡八幡宮宮司

・千葉胤明(18641953):1892年〜宮内省御歌所勤務。1908年御歌所寄人になり、『明治天皇御集』編纂に従事。後に歌会始点者。

・加藤義清(18641941): 御歌所寄人であると同時に、近衛師団軍楽隊の楽手

平井正: 陸軍中将

・清川来吉(18641957): 医師、政治家。1917年、鎌倉町町長に初当選、以降再選留任を果たし長期に渡り町政を担う。町民多年の宿望であった市制施行や全市史跡地として指定すべく都市計画法施行に尽力。

 

(2) メンバーの分析と考察

 

◼️御歌所歌人中心の会

 

 この顔ぶれを見ますと、「御歌所」(御製・御歌の添削や歌集編纂、新年歌御会始の選、月次歌御会の執行など、宮中の和歌に関する事務を行う)歌人が大変多いことに気が付きます(19人中10)。それ以外でも、歌会始の講師を勤めたり御歌所歌人に師事したりと、ゆかりの深い人たちがいます。そもそもこれが掲載された『わか竹』という雑誌の発行元は大日本歌道奨励会という宮中の御歌所の団体なので、当たり前といえば当たり前かもしれません。献詠会を御歌所の武島羽衣、阪正臣が主催したという記事もあることから、彼らが中心の会と見ていいでしょう。

 この中で歌人実朝について最も言及しているのは私の調べた限り武島羽衣(本名又次郎。以下羽衣)です。彼は『国歌評釈 巻二』(明治書院、明治3233)源実朝」で16ページに渡り実朝を論じ、『日本文学史(早稲田大学出版部、1907)でも実朝を称賛しました。

 七百年祭の年の『わか竹 第12巻第3号』でも「歌人源実朝」を論じた文章を載せています。没後七百年記念号で、大森金五郎、三浦周行などの錚々たるメンバーを揃えた『歴史地理 三十三巻三号』の実朝特集にも、『わか竹』に載せたのと同じ実朝論を寄稿していますし、彼が歌人の中で実朝関係の論者としてかなり認識されているのは確かなようです。その中で武島は実朝を「生れながらにして天才の歌人であった」としており、歌風を二期に分け、定家に学んでいた前期と万葉集に倣った後期に分類し後期を高く評価しています。もし歌人側から七百年祭起案に関してなんらかのアクションがあったとしたら、武島羽衣だったかもしれません。

 

(国会図書館デジタルコレクション)

 

  興味深いのは、この会には『歌よみに与ふる書』などで実朝を称揚した正岡子規が主催した根岸短歌会の参加者など、実朝に造詣の深い民間歌人の歌の掲載がなく、そもそもそのような人たちは呼ばれてすらいなかったのではないかという疑いが持たれることです。それもそのはずで、新派歌人は御歌所をはじめとする旧派歌人を、先行する和歌を模倣するだけで没自己の時代遅れのものだと厳しく批判しており、正岡子規などは旧派の聖典である古今和歌集を「くだらぬ集に有之候」と断じています。旧派歌人の中にはそのような新派の批判に強く反発する者もありました。武島又次郎はその一人であり、「いわゆる新派の歌人が古歌に類せる意味の歌を見てはこれは古くさしとか新しみがないとか罵倒するのは甚だ道理を得ぬ」等と反論し、論戦が繰り広げられていました。明治33年には、信綱が主催する竹柏会がまとめ役になって新派旧派を取り持つ親睦会が何回か開かれましたが、かえってそこで新旧の対立が決定的になり、そのような会合すら否認されるようになりました。

 そういう経緯もあり、武島が主宰のひとりであったであろう献歌会に新派歌人がいないというのは、その意味で納得がいきます。

 

◼️佐佐木信綱不在の謎

 

 しかし佐佐木信綱まで呼ばれた形跡がないのはなかなか不思議です。彼は確かに旧派歌人ではありませんでしたが、中立的な立場で両者の橋渡しをしていました。そして何より御歌所寄人であり、明治天皇御集と昭憲皇太后御集の編纂に携わっています(編纂後大正11年に寄人を辞す)。そして言わずもがなですが、彼は金槐和歌集1890年に父弘綱と共に校訂しており(『日本歌学全書 第5編 金葉和歌集(博物館、1890))、その後も金槐和歌集の校訂本を出していて実朝の文献学的研究で重要な役割を果たしています。彼自身、幼少時から実朝の歌に親しみ、『画題としての実朝』など実朝に関するエッセイも書いており、それらは国語の教科書にも採用されています(新定国文読本などに『実朝の片影』として)

 そして七百年祭の関係者は信綱の知り合いだらけです。入江為守、阪正臣、千葉胤明、池辺義象とは御歌編集者として毎月顔を合わせて活動していましたし、武島羽衣は信綱主催の雑誌にたびたび寄稿していました。午後の講演を行った芳賀矢一とは長年の知己で、信綱は芳賀の推薦で東大や國學院大の講師を勤めたり、共著を出したりしています。芳賀がドイツ留学を経て推し進めた文献学について信綱は大きく影響を受けており、『国文学の文献学的研究』(岩波書店、1935年)には芳賀の著作の影響が色濃く認められます。

 そのように御歌所歌人である上に、金槐和歌集を校訂した経験があり実朝に関する文章を発表しており、七百年祭関係者と知り合いの多い信綱が、記念祭で実朝を顕彰した歌を捧げた形跡がないというのはいかにも不自然です(もちろん、呼ばれたけれど欠席したという可能性も考えられますが) 。先に挙げた木下利玄の日記では、彼は信綱のところにたびたび行っており、もし信綱が参加していればなんらかの言及があるはずですが全くありません。木下自身七百年祭の設営の様子を前日にちらっと見ている程度で午前中の献歌会には行っておらず、午後の講演を聴いただけです。信綱の自伝(佐佐木信綱 作歌八十二年』など)でも、大正83月やその前後に七百年祭の記述はありません。

 

 これは憶測ですが、信綱と元々の寄人たちになんらかの距離感があったためそのような感じになったのではないかということです。信綱と御歌所の関係は、もともと少々複雑でした。彼は少年期に師事した高橋正風から2回も御歌所歌人になるよう勧められていたのですが、都度固辞しました。彼は信念として「どこまでも民間にあって斯道につくすのを天職として終始一貫したい。しかして、新しい歌の道を進んでいきたい」(『信綱文集』(改造社、昭和7))としていたために恩師からの誘いも断ったのですが、高崎の死後、明治天皇昭憲皇太后の御歌の編集のために、山県有朋から民間歌人代表として御集の編纂者に推薦されました。その際寄人になるのが条件だったわけですが、そのような経緯から寄人になることを大いに躊躇いました。

 そのような悶着があったため、彼自身御歌所の行事から距離を置いていた可能性はあります。寄人になるよう入江為守から言われたのが1917年11月で、翌月の『わか竹』に歌を寄人として寄稿しているものの、それ以降『わか竹』に寄稿している形跡がありません(それまでは何回かあり)。また山県有朋の推薦の言葉も、「あなた方従来の寄人だけで不満足というわけでは無いが、御用が御用であるから民間歌人の代表として佐々木を加えられたらよかろう」(井上通泰 明治天皇御集編纂に就て』(教化団体聯合会、1927)p. 15)というもので、個人的にはその言い方ではちょっと角が立つんじゃないかなあとも。御集御歌の選択については「随分はげしく言い争いもした」と信綱は回想しています。

 

 いずれにしろ旧派歌人の集まりという色がとても濃厚で、派閥を横断した実朝を愛する人の集まりという感じではなかったということでしょう。本来なら、新派も旧派も共に実朝を尊敬しその歌に意義を認めているのだから、その死の七百年の区切りを共に偲ぶことができたらよかったと、私自身は思うのですが、はからずも歌壇の派閥の分断が浮き彫りになった祭になってしまったようです。

 

 

4.贈呈品について

 

(1) 金槐和歌集

 

 贈呈品の金槐和歌集は、このようなものが配布されました。

(国会図書館デジタルコレクションより)

 斎藤茂吉の解説によると、類従本系統、賀茂真淵の評などを頭註とし、池辺義象の「金槐和歌集のあとに」を後書きにしています。

 池辺義象は先に挙げたように御歌所寄人かつ献詠会メンバーです。彼は1890年に『源実朝論』を「明治会」通常会にて講演し、実朝を清直剛毅の士として讃えています。

 

(2) 壬生硯

 

 先にも書きましたが、鶴岡八幡宮の回廊で開催されていた「鎌倉懐古展覧会」の目録の中の「三代将軍実朝公遺物」にある「壬生硯」がモデルと思われます。

(国会図書館デジタルコレクションより)

 壬生硯とは聞きなれない言葉ですが、ネットオークションに出品されたものを見ますと壬生忠岑硯」と呼ばれるもののようです。これは江戸時代に松平定信が命じて作らせた日本の博物誌『集古十図』にその形が記載されていて、出品写真と合致します。

(松平定信編『集古十図: 文房 文房一』

国会図書館デジタルコレクションより)

 特徴として、左上を除く三方がカットされた外形、不定形の墨池、右側に筆置きスペースなどがあります。ちなみに外箱の写真もオークション写真にありましたが、木の箱で、載っています。「箱ハ長柄ノ橋ノ杭ヲ以テ作レリ」という鎌倉懐古展覧会目録の記述にも見合ったものです。

 それにしてもその壬生忠岑硯を実朝が愛用していたとはなかなか信じ難いものがあります。これは壬生寺から江戸時代に発掘されたもので、硯のふちに忠岑という刻印があるものです。実朝は特に忠岑と関係ありませんし、忠岑の硯の複製品?となぜ結び付けられたのかよくわかりません。

 明治になって宝物が大量に流出し、筥崎宮司が再び苦労して収集した宝物の多くがこの展覧会で展示されたけですが、それを見ますと、結構あやしげなものが含まれています。今の視点でいうとせいぜい「伝」とつけられるものでしょう。これらを現在の鶴岡八幡宮八幡宮が所持しているのかわかりませんが、しかし当時は少なくとも実朝の遺品と信じられていたようです。

 

(3) 絵葉書

 

 この時配布された絵葉書については、残念ながら全く手がかりがありません。どなたかご存知の方がいらっしゃればご一報ください!!

 

 

 

*********

 

 以上、白旗宮で開催された実朝七百年祭について調べてみました。

 鎌倉に興っていた史蹟や歴史を記念する気運、明治時代に盛んになっていた〜百年祭のイベント、なかんずく同じ会場での頼朝七百年祭の実施、新派旧派の歌壇の確執などなど、当時の世情を色濃く反映したイベントであったことが判明しました。まだまだわからないことが多いですが、今後も情報収集していきたいと思います。

 

 

 

参考文献

 

井上通泰 明治天皇御集編纂に就て』(教化団体聯合会、1927)

岸本洋一「近代鎌倉の青年団による史蹟指導標の建碑 ―副団長の記録に見る建碑の詳細―」『京都芸術大学大学院紀要』2021-02-03

木下利玄『木下利玄全集 散文篇』(弘文堂、1940)

國學院大学編『國學院雜誌 = The Journal of Kokugakuin University 25(1)(294) (19191)

近藤喜博『日本の神: 神道史学のために』(桜風社、1968)

斎藤茂吉源実朝(岩波書店1943)

相良国太郎『鎌倉案内』(1888)

佐々木孝浩『芳賀矢一 「国文学」の誕生』(岩波書店2021)

佐佐木信綱『文と筆』(広文堂書店、1915)

佐佐木信綱『信綱文集』(改造社1932)

佐佐木信綱『ある老歌人の思ひ出: 自伝と交友の面影』(朝日新聞社1953)

佐佐木信綱『作歌八十二年』(日本図書センター1999)

佐佐木弘綱 佐佐木信綱共編『日本歌学全書 第8編 林下集 上,下,拾遺(藤原実定)源三位頼政集(源頼政) 山家集 上,下(西行) 金槐和歌集源実朝)』(博物館、1890)

佐佐木幸綱佐佐木信綱(桜楓社、1982)

佐藤善次郎『鎌倉大観』(松林堂、1902)

末永茂世『倭主礼草・稜威集』(湯浅俊太郎、1908)

鈴木健一佐佐木信綱 本文の構築』(岩波書店2021)

大日本歌道奨励会編「源実朝公七百年祭奉納和歌」『わか竹』第12巻第4号 1919

武島羽衣(又次郎)『国歌評釈 巻2』(明治書院1900)

武島又次郎『日本文学史 ([早稲田大学三十九年度文学教育科第二学年講義録])(早稲田大学出版部、1907)

武島羽衣(又次郎)歌人源実朝」『わか竹』第12巻第3号、1919

恒川平一『御歌所の研究』(1939)

東京高等師範学校附属中学校国語漢文研究会 編纂『新定国文読本参考書 3(目黒書店、1928)

日本歴史地理学会『日本歴史地理学会主催鎌倉講演会記事』(1909)

筥崎博尹 編『鎌倉懐古展覧会目録』(1891)

松沢俊二「「新」・「旧」歌人と初学者たちのニーズ 短歌入門書から見る大正期」『日本文』65 5 号、2016

源実朝金槐和歌集(源実朝公七百年祭協賛会、1919)

宮本誉士「明治の御歌所歌人 明治短歌史における旧派と新派―」明治聖徳記念学会紀要〔復刊第 49 号〕平成 24 11

平凡社編『神道大辞典 三巻 第二巻』(平凡社1941)

三浦勝雄編『鎌倉: 史蹟めぐり会記録』(鎌倉文化研究会、1972)

『歴史と地理』(星野書店、19194月号)

 

源実朝の「夢日記」に書かれていたもの〜『鎌倉殿の13人』小道具の解読の試み〜

『鎌倉殿の13人』の42回「夢のゆくえ」で、将軍源実朝が宋の工人陳和卿と面会し、その内容が以前実朝が見た夢に一致するという、吾妻鏡でも有名な逸話を元にしたシーンが描かれました。

 

<ドラマあらすじ>

 12166月、源仲章が京から宋の国の匠、陳和卿を連れて実朝たちの前に現れます。彼は初対面にもかかわらず、実朝を見て涙を流します。不審がる周囲に対し、彼は前世で実朝は宋の医王山の長老で、自分はその門弟だったと言うのです。

「この光景、以前夢に見たことがある。そなたは私の前に現れ、同じことを言った」

 実朝が興奮気味に、いつも書いてるという夢日記を皆に見せて、6年前の建暦元年(1211)に自分が見た夢と一致してると語ります。

「何か言いたいことがあるのではないか? 船にまつわることで」

 と陳和卿を促すと、彼も頷き、

「大きな船を造りましょう。誰も見たことがない大きな船を。それで宋へ渡り、交易をするのです」

 と語ります。

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 このシーンは、吾妻鏡ではただ6年前に夢に見た内容と同じことが起きたので信仰心を深くした、とのみ描かれており、船のことはこの時点では触れられていません。また実朝が夢日記をつけているというのは創作と思われます。もっとも夢を日記につけるということは同時代に全く例がないわけではなく、高山寺の中興開山として知られる明恵上人(1173年~1232)が、19歳の頃より、59歳にいたるまで約40年にわたって自ら見た夢を記録した「夢記」があり、本ドラマはもしかしたらそれを参考にしたのかもしれません。

 

e国宝 - 明恵上人夢記

 

 さてこの夢日記の小道具、綴じた紙に色々書きつけてあるのですが、一体何が書いてあるのでしょう

 美術さんが頑張って作ってくれた日記をぜひとも解読したいなでも誰かやってんだろうなと思いましたが、でも私の検索技術では発見できず。

 もしかしたら解読した人が既にいるかもですが、私も自分で読んでみようと思います。

 

◾️右ページ1個目の日記: 吾妻鏡承元四年(1210)八月十六日を元にしたもの

 

 途中からなので日付は分かりませんが、ぱっと見のキーワードとして「鬼童丸」というのが読み取れます。そうすると、吾妻鏡の承元四年(1210)八月十六日に、鶴岡八幡宮放生会で相撲の取り組みがあり、鬼童丸という参加者があったという記述が想起されます。そう思って見てみると、

 

次廣瀬四郎、與鬼童丸〔西濱住人〕兩度召决之、遂無勝負、人以爲壯觀

(吾妻鏡 : 吉川本  第2 (国書刊行会1915)) より以下、吾妻鏡の引用は同書による

 

<現代語訳>

次に広瀬四郎と西浜の住人である鬼童丸を召して二度対決させたが、ついに勝負がつかなかった。人々はこれを壮観だと評した。

(五味文彦本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡7  頼家と実朝』(吉川弘文館2009))

 

 という吾妻鏡の記述がそのまま書いてあるのがわかります。

 このページは建暦元年(1211)6月のあたりなので、前の年の相撲のことを夢に見た、という設定なのでしょう。

 ちなみにこの時の相撲の会には、泰時の郎党岡部平六が出場しています。

 

◾️右ページ2個目の日記: 吾妻鏡建保四年(1216)六月大十五日を元にしたもの

 

 これが実朝たちが話題にしている夢の話でしょう。全文、読み取れるだけ書き起こしてみます。

 

六月三日丑刻寝中高僧一人入御夢之中顎口髭⬜︎長高僧頗涕泣中云貴客者昔爲宋朝醫王山長老于時吾列其門弟云々夢中所思再会前世門弟殊喜悦次所申修造唐船可令渡唐御行交易可宜如此夢奈何光新⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎

 

<試訳>

 六月三日の丑の刻に寝ていた時に、夢の中に高僧が一人やってきた。口髭顎髭が長い。高僧は泣き出していわく、あなたは昔、宋の医王山の長老で、私はその門弟でしたと。夢の中で前世の門弟と再会できてとても嬉しい。唐船を造って唐に渡り交易するのがよいでしょうという。この夢をどうして

 

 すみません、漢文に詳しくないのでなんとなく訳してみました。

 

 ドラマ当日の、建保四年(1216)六月大十五日に陳和卿に会った時の吾妻鏡の原文を見てみますと、かなり被っているのがわかります。被っているところを太字にしてみました。

 

召和卿於御所、有御對面、和卿三反奉拝、頗涕泣、將軍家憚其礼給之處、和卿申云、貴客者、昔爲宋朝醫王山長老、于時吾列其門弟云々、此事、去建暦元年六月三日丑刻將軍家御寢之際、高僧一人入御夢之中、奉告此趣、而御夢想事、敢以不被出御詞之處、及六ケ年、忽以符号于和卿申状、仍御信仰之外無他事云々

 

<現代語訳>

()和卿を御所に召して(実朝が)対面された。和卿は三度拝礼すると、たいそう涙を流した。将軍家(源実朝)が和卿の礼に困惑されたところ、和卿が申した。「あなたは前世の昔、宋朝の医王山の長老で、その時に私は門弟になっていました」。このことは、去る建暦元年六月三日の丑の刻に実朝が眠られていた時、高僧が一人が御夢の中に現れてそれと同じ内容を告げた。そして(実朝は)この御夢のことを全くお言葉に出されなかったところ、六年が過ぎてにわかに和卿の申したことと合致した。そこで信仰されるばかりであったという。

(五味文彦本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡8  承久の乱(吉川弘文館2010))

 

 長い口髭と顎髭があるとか、船を造って交易するという意見が追加されているのがわかります。

 追記: ちなみに吾妻鏡121163日前後を見ると、62日に実朝急病、御所の南庭で陰陽師による属星祭→63日寅刻に夢告あって霊験あり、それは前日の祭のおかげであると実朝は信じて陰陽師に馬を賜る、という記事があります。こちらの、寅刻の病が癒える霊験の夢告と丑刻の高僧の夢は、時間的にバッティングはしてないので両立し得ない話ではないですが、おそらくこれをドラマ小道具の夢日記に盛り込むと結構煩雑になるので、こちらは削除されたのではないかと思われます。あくまでも63日の夢は高僧の件のみにフォーカスさせたい、という意図を感じます。

 

◾️右ページ3個目の日記: 吾妻鏡建保二年(1214年)二月大十四日を元にしたもの

 

 吾妻鏡で似たような記述を探すと、1214年2月14日の夢で同じようなものがあります。

 

二月大十四日己酉、霽、將軍家被催烟霞之興、令出杜戸浦給、長江四郎明義儲御駄餉、於彼所有小笠懸、壯士等各馳()其藝、漸及黄昏、待明月之光棹孤舟、自由比濱還御云々

 

<現代語訳>

「将軍家(実朝)が、よい景色を見たいと思いたたれ、杜戸浦に出かけられた。長江四郎義明がお食事を用意した。その場で小笠懸が行われ、壮士らがそれぞれ射芸を披露した。やがて日暮れになって、明月の光を待ち、一隻の船で由比ヶ浜から帰られたという。

(五味文彦本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡8  承久の乱(吉川弘文館2010))

 

 「將軍家被」が「夜夢云」になっている以外吾妻鏡通りですね。何気ない、御家人たちとの楽しい交流の一コマです。日付がだいぶ先のことなので、将来起こることの夢を見た、ということになります。完全に予知夢だったのか、それとも夢に見たことが楽しかったので、実朝が企画して同じことをさせたのか色々想像が広がります。

 

 個人的には、夢に見たことを企画したにしては、2年半以上も経ってるので不自然と言えば不自然だなあと思うので、予知夢だった説を取りたいです。もし予知夢だとするなら、実朝は1214年にたまたまこのことが起きて、日記を見返してハッとして、自分の夢が予知夢だったこと気づくという経験をしたとも考えられます。そうだとすればなおさら、夢の高僧の件を予知夢だとすんなり受け止めたことに納得性が高まります。

 吾妻鏡での実朝は、しばしば予知夢や予言をするシャーマン的な存在として描かれています。それはドラマの中では活かされず、彼の夢へのこだわりや夢を信じる心は、現代的な眼差しでやや嘲笑的に描かれていました。ですが小道具を通じて、ドラマの実朝ももしかしたら本当に予知夢ができるタイプかもしれない…それが陳和卿を信じる気持ちの後押しをしたのかもしれない、と密かに示唆していると考えると、ドラマもまた違った見方ができるかもしれません。

 

◾️左ページ2個目の日記: 吾妻鏡建保元年十二月三十日を元にしたもの

 

 あまり読めないですが、

 

六月九日夜夢云以昨日供養經……義村遣三浦被沈海底云々

 

 と書いてあるのが見えます。

 

 吾妻鏡で似たような記述を探すと、12131230日の夢に行き当たります。

 

以昨日供養經巻、仰左衛門尉義村、遣三浦被沈海底云々、依有御夢想告也

 

<現代語訳>

昨日供養した経巻を左衛門尉(三浦)義村に命じて三浦に遣わし、海底に沈められたという。夢のお告げがあったからである。

(五味文彦本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡7  頼家と実朝』(吉川弘文館2009))

 

 

 吾妻鏡では夢のお告げによって、おそらくは和田一族の供養のために、実朝自ら写経した円覚経の経典を三浦の海に沈めさせたとありますが、夢を見た時期は明記されていません。読者はなんとなくその供養のあった日に近いなのかなと思ってしまいますが、この夢日記からすると、和田合戦よりだいぶ前に見た夢にインスパイアされたということに。

 供養のためにお経を海に沈めるという、何か不穏な、心ざわめく夢告が最後に置かれているのも、実朝の夢日記らしい構成のように感じます。

 

 

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 以上、小道具の夢日記を解読してみました。

まとめると、以下のようになります。

吾妻鏡の逸話を巧みに使い、高僧の夢の当該部分だけれなく、全体にいかにもそれらしいものを散りばめて、説得力あ夢日記になっているのが判明したかと思います。担当の方の調査力想像力に本当に感服です。もっとも自分のことに「御」とか「給」をつけるのかな?とは思いましたが、私は古文に詳しくないので、もしかしたらそこはOKなのかもしれません。

 

 

ちなみに、日記の元のなる吾妻鏡はおそらく吉川本から主に採ったのではと筆者は推測しています。

 というのも、承元四年(1210)八月十六日の記事の鬼童丸、吉川本が出る前の吾妻鏡では「鬼童」と書かれているのです。

 明治29年の『校訂増補吾妻鏡(大日本図書)は北条本を底本に諸本を用いて校訂したもの、明治36年の『国史体系 吾妻鏡』は北条本を底本にし諸本を用いて校訂したものですが、両方とも当該部は「鬼童」とあります。それが『吾妻鏡 : 吉川本』(国書刊行会、大正4)では「鬼童丸」となっていたのです。吉川本は明治44年に東京帝国大学史料編纂掛に貸与されるまでは吉川家に秘蔵されており、近世にはその存在が知られてなかったもので、構成や本文テキスト共に独自性が高いものです。(なお寛永版を底本として吉川本や国史体系を対照して校訂した『日本古典全集 吾妻鏡(大正15)でも「鬼童」です)(「其門弟」の「其」が、同様な出現です)

 

 本ブログの現代語訳で採用している五味文彦本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』シリーズは、黒板勝美編『新訂増補 国史体系』(国史体系刊行会、昭和7)を底本にしていますが、この本は北条本を底本にし、吉川本・伏見宮本・前田本など、明治以降発見された諸本含め厳密に対校したもので、現在広く『吾妻鏡』のテキストとして用いられているものです。ここでは「鬼童丸」とされており、吉川本の記述が採用されているのがわかります。しかしこちらは前後を見ると「与鬼童丸」となっており、『校訂増補吾妻鏡』および小道具の方では「與鬼童丸」となっているのと異なるので、小道具の方は『校訂増補吾妻鏡』の方を参照したと思われます。

 

 

参考文献:

 

五味文彦本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡1  頼朝の挙兵』(吉川弘文館2007)

五味文彦本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡7  頼家と実朝』(吉川弘文館2009)

五味文彦本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡8  承久の乱(吉川弘文館2010)

国書刊行会吾妻鏡 : 吉川本  第2 (国書刊行会1915)

「神奈川県立の図書館」HP 「かながわの歴史文献55  1.史書 #1 吾妻鏡

藪本勝治『日本史研究叢刊44 吾妻鏡』の合戦叙述と〈歴史〉構築』(和泉書院2022

 

知られざる源実朝小説・戯曲①〜岡松和夫『実朝私記抄』

 源実朝を扱った文芸作品は、有名なものとしては太宰治『右大臣実朝』、小林秀雄『実朝』、吉本隆明源実朝』などがあります。以前書いたブログでも書きましたが、戦前〜戦後しばらくは実朝が文学界に大きなプレゼンスがあった時期であり、今でも読み継がれる作品はその頃に書かれました。しかしその後プレゼンスは低下していき、彼をテーマとする、文学好きなら誰でも知るような著名な作品は出てこなくなりました。

 しかしどの時期においても、戦前戦後でもまた現代でも、一部の実朝マニア以外にはあまり知られていない小説や戯曲が、幾つも発表されています。本ブログでは、それらの知られざる作品を少しづつご紹介していきたいと思います。

 

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 最初に取り上げるのは、個人的におすすめの、岡松和夫氏の『実朝私記抄』です。

 

 岡松和夫氏(19312012)は、国文学者であり小説家でもあった人で、1976年に芥川賞を受賞するなどしています。こちらの作品は「短歌研究」19981月号〜20003月号に連載され、20005月に単行本として出版されました。

 

 執筆年代的に、まだ坂井孝一氏や五味文彦氏が打ち出したような「新しい実朝像」が提唱される前であり、そのため東国武士から和歌や仏道への傾倒を理解されなくて浮いてるとか、政治的に母や叔父に比べて権力がなく無力であるとか、官位上昇を諌められるとか、その辺りは昔からの通説通りです。しかし全体に大変考え深く、優しく穏やかな、でも自分の考えは曲げない芯の通った将軍として描かれています。

吾妻鏡は実朝を書く時の第一の資料だろうが、政治の角度から主として記述されているので、高い官職を求めて昇進にこだわる実朝が愚かしく見えてきかねない。愚管抄を書いた天台座主慈円も、実朝を評して「おろか」という言葉を使っている。

 しかし、実朝はそのような批評を超えている。そして、実朝のような将軍の立場なら誰も考えない渡宋を願い、それを実行しかけた」(岡松和夫『実朝私記抄』(講談社2000) p. 260)

 という言葉に、本書の姿勢が現れています。

 

 特に本書の実朝の特徴として大きいのは、栄西との交流に大変比重が置かれているということでしょう。本書では実朝は幼少時から栄西と交流し、結婚後も早速御台所を栄西に引き合わせています。実朝は栄西から宋のことを様々に聞き、早々に宋や仏教への傾倒を強めます。彼は栄西の著した『興禅護国論』も愛読しているという設定です。唐船建設は、陳和卿に会ったあたりに急に思い立った話でなく、そのような少年の頃からの栄西との交流を通しての気持ちが高まった結果として描かれており、宋だけでなくいずれは天竺への行きたいとまで熱望します。実朝は自分を密かに将軍にして僧侶と思い定めており、最後の方にはそれを義時にも告げてもいます。一般に為政者、芸術家としての視点で見られがちな中で、実朝自身の内面を深く仏教に結びつけた視点は珍しいと言えます。

 

 また御台所(作中では定子という名前)と仲睦まじい様子があたたかい描写でなされます。定子も没個性ではなく、蹴鞠を嗜んでいる活発な女性です。それに興味を持った実朝が、定子と女官たちと共に蹴鞠をする会を開いてあげたり、海に関心のある定子を実朝が海辺遊びや船での遠出に連れて行ったりという描写もあります。彼女に関するエピソードの多くは吾妻鏡にはなく創作ですが、私は個人的に持っている実朝御台所についてのイメージととてもそぐわしいものを感じました。大変身分ある京の女性であるにも関わらず、吾妻鏡などの記述からみるとかなり鎌倉に馴染んだらしき様子であり、新しい環境を楽しみ受け入れる積極的な女性だったのではという想像をしているからです。そのような彼女に冗談を言って笑ってくれたので喜んだりする実朝の描写もまたかわいらしいです。

 彼女は実朝と共に栄西とも接触しており、それが実朝の死後、渡宋の夢を受け継ぎ、建仁寺の僧で栄西の弟子、明仁道元の渡宋を援助することに繋がります。実朝の夢を定子が継承して次世代につなげる様子はかなり胸熱です。

 道元に関しては、彼の創建した興聖寺の建設にも定子が大いに助力したと本書では述べられていますが、これは実際、興聖寺法堂を実朝御台所が寄進したのではという説があり(寄進者として伝えられる「正覚尼」が、御台所の法名「本覚尼」の書き間違いではなどとしている)、本書ではその説を採用しているのだと思われます。また定子は、実朝の命を受けて渡宋の準備をしていたものの、彼の暗殺を知って出家した葛山景倫とも会って、実朝や道元について色々話したのではないかと、筆者は空想しています。実朝の死後、彼の志が定子を通じて様々に花開いたのではとする描きぶりに、筆者の実朝に対する眼差し、実朝の人生が後々世にも有意なものであってほしいという祈りのような気持ちがひしひしと感じられます。

 

 筆者は吾妻鏡をよく読み込んでるようで、実朝の様々な側面を汲み上げています。たとえば実朝がふらりと出歩くタイプであることもそうです。歌作のために急に出かけたり(お供する者たちからは不評)、自ら作った大慈寺に皆が集まってる様子を見ようと侍に変装して見に行く、なんてことも。お忍びで一人で山内に出かけて周囲を慌てさせた、という吾妻鏡の逸話を彷彿とさせるエピソードですね。

 また二所詣の様子も細やかに描いてます。何人くらいで行ったのかとか、どこでどう寝るかとか、食事の手配はとか、吾妻鏡には出てきませんが確かにどうだったんだろうと読者は考えますよね。私は以前勤めてた会社でそういう手配系をよく担当してたので、二所詣の担当事務方は結構大変だっただろうなと勝手に想像しています。筆者も具体的に旅路を想像しながら書いたのではないでしょうか。

 

 通説通りの描写が多いと書きましたが、義時黒幕説は否定しています(三浦の黒幕説も否定しており、公暁単独説をとっています)。義時は実朝を理解しづらいと思い、唐船について反対したり官位について広元を通じて意見したりし、実朝のための命をかける御家人はひとりもいないと考えますが、でも完全に見限りはしなかったと繰り返しています。実朝には言い表しがたい魅力があり、色々思うところはあれど嫌ったり排除したりというところまでいかなかったという描写です。公暁の陰謀に薄々気づいていながらあえて対策を取らなかったりしますが。実朝の方も、叔父にどこか気ぶっせいなものを感じ、なかなか親しく、あるいは持ち上げるように如才なく振る舞えないのですが、でもなんとか自分をわかってもらおうとコミュニケーションを取ろうとしています。拝賀式の際に最後に交わした会話も宋へ行く件であり、「今の自分には冒険が必要です」というものでした。

 

 泰時は義時よりも実朝に親和的な関係であるようにも描かれており、『鎌倉殿の13人』で二人の関係性が好きになった人には殊に嬉しい描写です。泰時は実朝より9歳歳上ではあるけれども、実朝と同じいわば鎌倉の新人類(古いな今でいうZ世代か)ともいうべき感じで「新時代の子」という表現がされています。義時からすると戦乱を知らない世代、ちょっと自分とは感覚が違う世代という感じです(この世代間の感覚の違い、ジェネレーションギャップ的なことは作中でよく描写されます。実朝の唐船計画に、若い御家人たちもこぞって賛同し共に夢見る様子にもそれが描かれます)。泰時は実朝の思いつきの外出にも特に止めもせず黙って従い、実朝が口にする栄西の話にも好意的に同調します。実朝にとっても、泰時は北条の後継者なので私的に何か話せる相手ではないものの、兄のような相手とも書かれています。二所詣で泰時が供奉した際、宿泊先で、夜、おそらく襖越しに語り合う二人の描写は印象的です。

 

 政子との関係は、はじめ良好だったものの徐々にこじれていったとしています。しかしこじれたとはいえ、それほど険悪な感じでもありません。通じない母心に苛立ったり、でも穏やかに意見したり、などの描写は、世によくある、現実的な母親と将来の夢に突っ走る若者の関係のようです。そもそも政子との関係に限らず、全体に人物評、人物間の関係に、白黒の判断をはっきりつけず、揺れ動く細かな心情を描く静かな筆致は、いかにも文学的です(ある意味プルースト的な描写とも感じます)。それが多少難解にも感じられますが、生身の人間同士の描写として、大変リアルなものがあるなとも思いました。

 

 また作中で、時折作者自身の声としての文章が入るのですが、そこで実朝を戦時中の若者と重ねていることをかなり強めに語られており、戦中派の人にとっての実朝像の一端を見る思いがしました。

「筆者は実朝を書こうと決めた時、何よりも数え年二十八歳という若い死を書きたいと思った。病死ではない。実朝は殺されたのだが、その死は自分では殆ど避けようがないものだった。

 そういう若い日本人の運命を歴史上に求めた筆者は、決して古代にその例をさかのぼらせようとは思わなかった。筆者が考えたのは第二次世界大戦中に軍隊に動員された学徒たちである。その青年たちと実朝の運命がはっきりと重なるのだった。

 小説の途中でこのような現代に結びつけた感想など記すべきではないのかもしれない。しかし、筆者は二十歳の実朝を書いている。戦争の頃の二十歳の避けようのない兵役への連想がどうしても起ってくる。

 実朝はどんどん自由を失ってゆき、内面だけを変化させていった」(同書 p. 127-128)

 戦場に出た訳ではなく儀式の最中に暗殺された実朝と、兵役に駆り出されて戦場で亡くなった若者は一見似ていないように見えます。しかしじわじわと自由な発言を許されない環境に置かれ、夢を実現することもなく若くして否応なしに死に至らしめられる、というのは、終戦時に14歳だった筆者として共通のものを感じたのでしょう。先に述べました、実朝の生が無駄であってほしくない、その志を誰かが受け継いでいってほしいという願いは、そような死んでいった若者たちへ手向ける気持ちと重なるのではないでしょうか。

 第二次世界大戦中に青少年時代を過ごした作家たちにとって、実朝は様々な意味でその時代に、また我が身に引きつけて考えざるをえないものがあったようです。視点は異なりますが、中野孝次(1925-2004)も『実朝考ーホモ・レリギオーズスの文学』(1972年発表)で、戦時中の若者の気持ちに実朝の歌がいかに響くものであったかを熱く語っています。

「死がぼくらの空を覆っていた十代の終りに、ぼくらの耳にひびいたのは、そういう語るすべのない地点で呟かれたある人間の声だけだった。た。それが死の前での生をみたすにたる唯一の言葉だった。(中略)ぼくらに生きる力を与えてくれるのは、そういう「兄弟」の声のひびきだ。ぼくは実朝のいくつかの歌のなかに、その種の絶対的孤独のなかにいる人の声調を聞く。」(中野孝次『実朝考ーホモ・レリギオーズスの文学』(講談社2020)電子書籍)

 同書と『実朝私記抄』では実朝や周囲の人物への見方が異なる点も色々ありますが、第二次世界大戦という経験なしには書かれなかった作品という意味で共通しているものを感じます。中野孝次は『ホモ・レリギオーズス』の後書きの中で「自分の戦争体験を表に出し、その自分から見た実朝を語るという方法をとった」と述べていますが、『実朝私記抄』もまた、そのような戦争体験が大きく影を落としたものでした。

 

 

 本書の表紙は中国の仏塔を描いたもので、宋に渡る夢を追い求めた実朝を描いた本書の表紙として大変似つかわしく思います。どの仏塔かちょっと判断できませんが(作中に出てきた天台山や阿育王山、大慈寺とは関係ない様子)、それが逆に、実朝が夢見た(想像した)宋の寺のようでもあり、鉛筆と水彩の夢幻的な雰囲気とマッチしていると思いました。

 

 

参考文献

・岡松和夫『実朝私記抄』(講談社2000)

中野孝次『実朝考ーホモ・レリギオーズスの文学』(講談社2020)電子書籍

・守屋茂「深草興聖寺の開基正覚尼について」『印度學佛敎學硏究』通号 511977

源実朝の幻の消息を求めて〜善光寺「右大臣実朝卿消息」について調査顛末記

1.「国立国会図書館デジタルコレクション」は素晴らしいぞ

 きっかけは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の源実朝論ブログを書くために、国会図書館デジタルコレクションを調べてた時のことでした。

 このデジタルコレクション、マジで宝の山です!昨年202212月にリニューアルされて、全文検索可能なデジタル化資料が5万点から247万点へと激増。特に戦前期の書籍はログインなしで全部閲覧可能なのもたくさん。上記のブログ記事はこれなくしては完成しませんでした。

https://internet.watch.impress.co.jp/docs/yajiuma/1466227.html

 それにしても昨年の実朝様にすっかり魅了されて色々調査考察をはじめ、明治以降の実朝の受容を調べたいと思ったその1ヶ月くらい前に、その時期の多くの書籍が全文検索できるシステムができたって、何という素晴らしいタイミング。運命を感じます。みなさんもぜひ、好きな言葉で調べてみてください。時間溶けまくりますぞ。

 しまったつい国会図書館デジコレの宣伝に熱がこもりすぎた。で、「実朝」でサーチしてたら、驚くべきものを発見。

 

 なんと、大正5年発行の『善光寺別当大勧進写真帳』なる本に、「右大臣実朝卿消息」という写真が、北条政子の御消息と一緒のページに記載されてるじゃないですか。

 さ、実朝様の消息ですとおおおお!????

 しかもなげえっっっ!!!

 もう早速、フガフガ鼻息荒くダウンロードしました。

  さて一体なんて書いてあるのかな誰宛なのかな

 じっ

 じっ

 うむ。全然わからん。

 これは実物を見るしかないのでは…?しかし国会図書館まで出かけるのもなあ家からめっちゃ遠いんだよ

 

 でも、ふと冷静になり。

 これそもそも、本当に実朝様の真筆なのか?実朝関連の書籍とかで全然触れられてるとこ読んだことないんだよなもしかして偽書

 という疑いが頭をもたげてきたのです。

 

 試しに「右大臣実朝卿消息」「実朝 善光寺 消息」でググっても全くヒットせず。

 手元にある実朝関連書籍や、三大実朝特集雑誌(私が勝手に命名)『鶴岡 臨時増刊源実朝号』(鶴岡八幡宮社務所1942年)、『太陽(19779月号no.173)(平凡社)『毎日グラフ別冊 鎌倉八百年 八幡宮鎮座と歌人実朝』(毎日新聞社1992)などを見ても、全くなし。

 ちなみに実朝の自筆書状としてはこちら高野山金剛峯寺所蔵の書状(大田庄に関するもので後鳥羽上皇の側近西園寺公経に送ったもの)が『鶴岡』に載ってました。(同じものが『太陽』にも)

 じゃあ一体この善光寺の消息は何なのか本当に実朝様の消息なのか?今も善光寺にあるのか?そして何が書かれてるんだそもそも??

 

 というわけで、この謎だらけの消息の正体を探る旅に出たのです。

 

2.よく見えない〜善光寺に問い合わせ

 そこで私は自分が何を知りたいのか一回整理してみました。

 

①これが実朝の真筆なのか知りたい。

②もし真筆なら、何が書いてあるのか知りたい。

 

 つまり①が真筆でなければ、別に②を知る必要もそんなにないわけで。ということは一旦②を後回しにして、①について調べよう。

 ①については、どこかに自分がまだ知らないだけで研究が既に行われてるんじゃないかなと考えました。なので Google Scholarでもう一回検索。やっぱりヒットせず。

 で、もし善光寺がまだ所蔵してるのであれば(上記大勧進写真帳発行の大正5年以降,、なくなったりどこかに移転したりしていなければ)善光寺の方である程度把握してるんじゃないかなと考えました。そもそも展示してるかもしれないし。

 ということで、善光寺宝物館HPを閲覧。

 

宝物館・行在所 - 信州善光寺 本坊 大勧進

 

 「当山は昔より永く別当大勧進の両職権を持っていたため善光寺に関する貴重な史料や宝物が多数あり、 その数は三千数百点にもおよびます。宝物館には常時150点ほどが展示され時々入れかえてご覧いただいております。」

 なるほど、そんなに所蔵してるのかで、「宝物演出品目録抄」の項目を見てみることに。

 

・武将関係

能登守平教経指物武田信玄寄進状、尼将軍政子消息文武田信玄位牌、上杉謙信位牌

(下線は筆者)

 とあり、政子の消息の記述はありました!あの写真の消息かどうかはさておき。でも、実朝のは言及なし。むーん「抄」に漏れたのか

 

 では、と、直接確認の電話をしてみました。以前、永井路子がどの吾妻鏡を参照していたのか知りたくて古河文学館に確認電話した時に、おそらくデータベースを検索して丁寧に教えていただいたことを思い出しながら

 

 ところが。

 善光寺の場合、担当者不在のためよくわからないとのこと。がっかり。

 あとから思えば、ここで担当者(学芸員)がいらっしゃれば、話は一発で済んだのだと思います。運が悪かったなあ。

 

3.図書館でそれっぽい本を調べてみる

 じゃあいいや、①については、自分で解説が載ってそうな本を探すわ。

 ということで、善光寺の宝物の解説書や目録的なものはないか探してみました。善光寺大勧進写真集で検索したら、このような本がヒットしました。

 善光寺本坊大勧進賓物集』(1999)

(書影:Amazonより) 

 これはなんか期待できそうですぞ!!

 調べたら、所蔵してる図書館は限られてるっぽい。古書で流通してないこともないけどすごい高い。てことはやっぱり多少不便なところでも図書館で借りるしかないか

 

 ということで、自分ちからやや遠い図書館(でも国会図書館ほどは遠くない)まで頑張っていきました。

 

 そして閲覧ドキドキ無駄足でないといいが

 

 結果は、

 ナシ!!!でした。

 まあ、その本には宝物全てが載ってるわけでも、全目録があるわけでもなく。当時大事だと思ったものが選ばれてたわけで、実朝消息はその選から漏れてたようです。しょぼん。

 序文に、近年まで整理がされてなかったと書いてあったから漏れたのかなあ…

 

 うーむこうなったら基本に戻って、①を確認するのを先にしよう。

 

4.写真集実物を入手・「みを」をパートナーに解読そして急展開

 ということで、研究や解説書を探すのではなく、原文を先に解読してみようとしました。で、古書店で実物を入手!あるところにはあるもんやなあ。

 やっと、実朝様()の文章が読める

 興奮をしずめつつ早速接写してみる。パシャ。

 

 おおおっ、ちゃんと文字が読める!!!読めるぞ!!!!

 しかしここで最大の問題、自分は古文書学をやってなくてこういう字を読めないというのが立ち塞がりました。大学んとき古文書学の講義ととっときゃよかったよ入門書買ったけど、ちょっと読んでから積読山脈に埋もれてるし。

 うーむどうすりゃいいんだ

 で、思いついたのがくずし字解読の「みを」という、2021年リリースのアプリ。写真に撮るだけでくずし字が読める!と話題になりました。めっちゃ助かる!!!

 

https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2108/31/news113.html

 読み込み開始!

 あれ、あんまりわかる言葉にならない…

 明度やコントラストなどをあげてみましょう。おっ、今度はいい感じに読み込んでこんでくれた。

 それでもあんまり文章になってないな所々単語はわかるけども。

 でもこれ、なんか実朝様っぽくなくね??

 「たまふ」とか「ままむすめ」なんて使うかなあ???

 物語っぽいよな継娘って落窪物語かな

 

 さらに手がかりを探して目を凝らします。…え、もしかして「ははきぎ」「帚木」!?

 源氏物語の帚木…ということは継娘は軒端荻か?それなら空蝉というワードもあるか…?

 でもアプリでの読み込みでは空蝉という語は検出されず。ということで、原文も目視で見てみます。すると見つかりました!

「うつてみ」→「うつせみ」「空蝉」やこれ!!ビンゴおおお!!!

 そう仮定して他の部分も原文を見てみると、源氏物語「空蝉」に出てくる和歌とおぼしき箇所が見えてきました。

 もう確実ですね。いや〜「みを」との共同作業でここまでわかるとは。しかし地の文章を見ると、「空蝉」そのものではなく、その要約というか解説のようです。

 実朝様、源氏物語研究してたんか

 んなわけなかろうと思いつつ、ネクストステージへ。

 

5.改めてググったら…衝撃の真実

 で、「実朝」「源氏物語」でググり直してみました。

 そしたらなんとこの消息ドンピシャの解説文がヒット!!!!


滝澤
貞夫「善光寺の『紙本墨書源氏物語事書』の紹介と考察」(『中古文学 vol.40(198711))

 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chukobungaku/40/0/40_54/_pdf/-char/ja

 

 まず正式名称からして全然違った。そりゃあ「実朝」「消息」でヒットしないわけだ。

 

 滝澤氏がこれを書くにあたっての背景を読むと、昭和61年11月18日大勧進で開催された茶道関係者の秘宝展で公開されたのを見たのがきっかけとのこと。これは鎌倉時代初期書写であることが確実な上、紫式部石山参籍伝説を記す現存最古の資料であること、『源氏大鏡』 へと発展して行く前段階の貴重な姿を示していることなど、貴重な史料であるにも関わらず、国文学界にほとんどその存在が知られていなかったらしい。そこで滝澤氏は改めて本文書を調査し、この考察を書いたとのこと。

 

 で、滝澤氏によって判明したことが以下の通り(抜粋)

・紙本墨書源氏物語事書とは、所蔵者が仮に命名した書名であ って、本書のどこにも記されているものではない

大勧進に、いつ どのようにして伝来したのか、その事情も、全く不明

・筆者について

 本書末尾に「右此抜書 富士山之麓蓮台法師 露のやとりして 物の噂せし 次而仏前数巻の諸経 手にとりみるに つれづれのあまり むらさきか心をもちて いま又経裏をひるかへし 雨一(焼孔)一かこち 枕をそはたて 筆毛にまかせ かたはしおもひ出し 無覚束も記之 名は鎌倉辺の主とも云つへし 後見には見しる者もあるへし いつれも反古にもせよかし

永元年梅月日実朝抛筆」とある

 ではこの「実朝」とは誰か?

 高野山の実朝書状と筆跡が異なる・本人の言葉としては不自然な文言であることから、源実朝本人の筆ではない。同名の人物か、源実朝の名を使った偽書であるか。

 

 

 あっ

 

 やっぱり、実朝様のじゃない!!!

 

 なるほどなるほど

 

 でも、色々事情がわかってよかった。

 

 ちなみに国立国会図書館デジタルコレクションで調べると官報 1934(昭和9)130日に国宝指定とありました。国宝?となりましたが、これは旧国宝(1897-1949)の国宝であって、その間に国宝指定になったものは1950年の文化財保護法で一旦全て重要文化財になり、それから改めて国宝がその中から選定されたそうです。その旧国宝指定の官報掲載時に、既に右大臣実朝卿御消息ではなく紙本墨書源氏物語事書の名前になっていました。大正5年から昭和9年の間に調査が行われたのでしょうか。でもまだ「実朝ノ奥書アリ」都あるので源実朝の筆と思われていたようです。

 そしてこの正式文書名でググると、長野市文化財データベース デジタル図鑑がヒット。現在本文書についてわかっていることが記載されていました。(これ、検索窓に「源実朝」と入れても出てこないので注意です。「実朝」じゃないと出てこない。)そしてこちらでは、制作年代が滝澤氏が想定した建永or文永元年ではなく、貞永or文永元年になってました。

6.結論

 私が国会図書館デジタルコレクションで見つけた、大正5年に発行された『善光寺別当大勧進写真帳』掲載の「右大臣実朝卿消息」の正体がわかりました。

 

<紙本墨書源氏物語事書>

 

・昭和9重要文化財指定

・所在: 長野善光寺

・制作年代: 鎌倉時代(貞永元年(1232)か文永元年(1264))

・天養2年(1145)に書写された維摩経の裏に書かれているもので、紙数18枚の巻物になっている。巻末には「富士山麓に露の宿りをしてものの噂をしたついでに、仏前の経巻の裏に書きつけた」という意味のことが記してあり、最後に「永元年梅月日実朝抛筆」とある。

・その「実朝」だが、奥書の中に「名は鎌倉辺の主とも云うべし」とあるが源実朝とは別人。

源氏物語の由来、巻数、作者、内裏(だいり)の名称などの解説、巻頭の桐壺以下3巻のあらすじと、その巻名の出所などの説明が書いてある

・「事書」が大勧進に伝来した事情は不明

 

(参照:長野市文化財データベース デジタル図鑑)

 

詳細検索 | 長野市文化財データベース 頭で感じる文化財 デジタル図鑑(頭感)

 

 いや〜ここまで辿り着くのに結構時間かかりました。というか、善光寺学芸員さんと電話がつながったら多分もっと早く解決していたと思います。

 でもそうならなかったおかげで、謎の文書を解読する面白さを知り、そこから思いもかけない真実に辿り着くことができて、楽しい周り道でした。

 

 他にも「伝 源実朝筆」的なのはちょいちょいあるので、その真実を探す旅を、時間ができたらしていきたいと思います。

 

<了>

『鎌倉殿の13人』における源実朝像の「新しさ」とは何か ー 従来の実朝像・研究動向との比較 <後編>

林勇『少年 右大臣源実朝』(大同館書店、昭和6年)挿絵(国立国会図書館デジタルコレクションより)

前編のつづきです

※2023年5月25日に 16)官位について の項目を追加しました

 

3.ドラマと史料類との異動・考察

1) 時政との関係

・ドラマ

 鎌倉殿就任後最初のうちは時政が実権を握っていましたが、次第に専横を深め、下文に内容を伏せて花押を書かせて、時政夫妻にとって目障りな畠山重忠を討ったりしました。それに危機感を持った義時、政子の動きに対抗するために、牧の方にも扇動されて、実朝を廃し娘婿の平賀朝雅を擁立することを画策。実朝を自邸に呼んで監禁し、出家して朝雅に鎌倉殿を譲る文書を書かせようとしますが、拒否されます。抜刀して脅すも、和田義盛がやってきて押しとどめ、実朝の慰め手になります。そうこうするうちに義時が軍勢を集めて時政邸を囲み、実朝引き渡しを要求。実朝は解放され、時政は出家して伊豆に引退します。

・史料・研究との比較

 ドラマでもあったように、実朝政権初期は時政が主導しています。千幡は時政の名越亭で元服し、翌日将軍家の政所始が執りおこなわれ、別当の時政が吉書を実朝の御前に持参しました。またこの日、実朝は初めて甲冑を身につけ、馬に乗り、それらの儀式は時政が中心となって実朝の介添えをしました。

 その頃の幕府の発給文書が、将軍実朝の命令を奉じたというかたちをとりつつ、奥下に時政ひとりが署判する下知状形式の文書が中心であったことからも時政主導がわかります。(五味 2018)

 ただ、重忠追討のために時政が嘘をついて実朝に下文に花押を書かせたということは史料にありません。また実朝排除の動きはしたようですが、拉致して出家と鎌倉殿の譲位を迫ったという記録もありませんし、義盛がそこに乗り込んだ記録もありません。

 牧氏事件については、牧の方が時政邸にいる実朝を廃して平賀朝雅を将軍に擁立しようとしているとの「風聞」が立ったために、政子は即座に長沼宗政、結城朝光、三浦義村・胤義、天野政景らを派遣して実朝の身柄を義時邸に移した、ということが吾妻鏡に記されています。その風聞が真実かどうか、具体的に「廃する」(原文読み下し文は「当将軍家を謀り奉る」)とはどのようなことなのかは不明です。ただし『愚管抄』では牧の方が「関東ニテ又実朝ヲウチコロシテ、コノ友正(朝雅)ヲ大将軍ニセント」と動いたと記しているので、実朝殺害計画があった噂があったことがわかります。

・考察

 時政主体の政治であったこと、牧氏事件の大枠の流れはドラマは史実に基づいています。ただ細部は色々異なります。

 重忠追討の下文、及び出家する旨の起請文の下りは完全に創作ですが、それを通して「書類に将軍が署名する重要性」を少年実朝が自覚していく過程を印象的に描いていたと思います。重忠の件で勧められるままに署名することの恐ろしさを知った実朝は、出家と譲位の文書に頑として署名しません。

 またこのエピソードは「親族だから信じる」という気持ちを持つことの危うさも実朝に悟らせる機会になりました。もっともまだまだ信じたい気持ちが残っているのは、そういう仕打ちをされてもなお時政にそばにいてほしいと思ったり、出家の件も自分の意志もあるが政子や義時に相談してからという言い方になってることからもわかります。

 ドラマでは牧氏事件の大枠は描写しつつ、細部を創作したり変更したりていくことにより、実朝の成長段階をたくみに描写していったと言えましょう。

 なお、なかなかイエスを言わない実朝に、時政が抜き身の剣を持って立ちはだかる、という描写は、『愚管抄』の殺害計画があった記述を反映しているのかもしれません。

 

2) 疱瘡

・ドラマ

 「穏やかな一日」は120811年を一日に圧縮して伝えるという特殊な回ですが、そこで実朝が疱瘡にかかったことが最初に示されます。彼が疱瘡の跡を結構気にするシーンが入っており、起き出して鏡を見ながら跡を触ったり、政務につきなながらもつい触ってしまって、医者から触らない!と言われたり。義盛からは、跡がありますねえとデリカシーゼロで言われますが、でもあったほうがサマになりますよと言われて思わず笑ってしまいます。

 政治的には、その間政子が実朝の代行をしたことが語られ、実朝は母上に迷惑をかけたと言って、これからは自分が頑張らねばということを言います。

 

・史料・研究との比較

 承元二年(1208)2月、実朝が疱瘡にかかったため鶴岡八幡宮で神楽が催されたという記事が吾妻鏡にあります。大江広元が神拝を行い、御台所も参宮しましたがなかなか癒えず鎌倉に近国の御家人が詰めかけたのですが、19日に平癒しました。

 しかし疱瘡の跡が残ったために、それを憚って1211221日までの3年間、鶴岡八幡宮に参拝していませんでした。その間は、二所詣(頼朝が始めたもので、将軍が御家人を引き連れて箱根権現、伊豆山権現三嶋大社に詣でて幕府の安泰を祈願する)も行われず、将軍が幕府祭祀に参加しないという特殊な事情が生まれていました(山本みなみ 2022)

・考察

 疱瘡の跡について気にする描写は、鶴岡八幡宮や二所詣という、将軍として重要な祭祀を行えないほど疱瘡の跡を憚っていたという史実を拾い上げた描写だったと思います。参拝に絡めなかったのは煩雑さを防ぐためでしょうか。疱瘡の跡はドラマでは最後まで残る演出になっています。

 三年間将軍として大事な祭祀に関われなかったこと、それを政子が補っていたことは、疱瘡に罹患していた間のこととしてドラマ内で描かれました。そしてそれにより、母に頼らず為政者として奮起しようというきっかけになっている描写は、実朝の成長段階を示す上で効果的な筋書きになっていたと思います。ただ、政子が頼朝の後家として大きな権力を持っていたらしいことまでは描写されておらず、たどたどしく幕府の機構を述べたり、学んで損しちゃった、と言ったりと、かなり拙い感じに描かれてたのが気になりました。

3) 和歌への傾倒

・ドラマ

 政子の口から、実朝について雨垂れを一晩中眺めるような感受性の鋭い少年であることが語られ、「政よりよほどまし」ということで、和歌を学ばせてやりたいと述べます。それを受けて三善康信が和歌の手ほどきを始めますが、和歌を為政者の欠かせぬ勤めと知ってその方向でやらせたい実衣が、京から来た源仲章を師匠として連れてやってきて、康信を追い出します。康信が「花鳥風月を感じるままに」詠むようにすすめるのに対して、仲章はそれは忘れるように言い、代々のみかどが望む国の姿を詠み継いできたものを知らなければ学んだことにならないとし、和歌に長ずるものが国を動かすとも言います。(1204年時点)

 後に政子は、頼朝が遺した書物から自ら実朝が好みそうな和歌を書き写して、実朝の目に触れるところにそっと置かせました。実朝はそれを目にして和歌の素晴らしさに改めて目覚め、政子に伝えに行きます。そこで一番気に入った歌「道すがら 富士のけぶりも わかざりき 晴るる間もなき 空のけしきに」が父の歌であると知り、大変嬉しく思います。(結婚の前くらい)

 その後も基本的には仲章から指導されつつ、不在の折には康信からも指導されて歌道に励みます。「けさ見れば 山もかすみて久方の 天の原より 春はきにけり」を吟じると、言葉の順番を逆にした方がいいなどと言われますが、そこに都から戻ってきた仲章が、藤原定家が添削してくれた実朝の和歌を持ち帰ってきます。同じように康信に言われて順番を逆にした「今ぞさかえむ 鎌倉のさと」という和歌を、定家から元の方がいいと指導されたことが判明、実朝の感覚が優れていることがわかります。

 また、「春霞 たつたの山の さくら花 おぼつかなきを 知る人のなさ」という歌に泰時への恋心を託し、それを間違いではと返されると「大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも」と恋に破れた心を表現しました。また最後には辞世の句のような歌「出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな」を遺した描写がなされました。

・史料・研究との比較

 吾妻鏡には実朝の直接の和歌の師匠の名は確認できません。三善康信源仲章が和歌を教授したという記述もありません

 五味氏は実朝の最初の師となったのは歌人源光行(源氏物語の研究者として知られ、河内本と呼ばれる本文を定めた)なのではないかと推測しています。元久元年(1204)に『蒙求和歌』『百詠和歌』を著していますが、いずれも和歌を付した書物で、幼い子供を諭すために著したとあります。ほかにも「幼稚の児童」に教えるために『楽府和歌』をしるしており、幼い実朝が将軍となった直後であるという点からみて、それらの幼い子供とは具体的には実朝を指しているのではないか、それは政子の指示で作られたのではないかとしています(五味、2015)。指導したなどの記述は見られませんが、著書が影響を与えたことは考えられるでしょう。

 実朝が初めて和歌を詠んだのは翌年元久2(1205)で、412日に12首の和歌を詠んだと吾妻鏡にあります。その4ヶ月ほど前に結婚しているので、御台所を通じた京の情報の影響もあるかもしれません。そしてその年の92日、藤原定家の門人の内藤朝親が実朝の元に、3月に編集が終わったばかりの『新古今和歌集』を持参しました。頼朝の歌が新古今に撰入したことを知って実朝がぜひ閲覧したいと考え、自身も撰入している内藤朝親に指示して筆写させていたものです。実朝の歌には新古今和歌集の影響が非常に強いとも指摘されており、実朝が新古今和歌集を読み込んで独自に勉強したことを伺わせます。

 吾妻鏡では建永元年(1206427日以降)に初めて和歌を学んだという記述があり、初めて和歌を詠み新古今和歌集を入手した翌年が正式な学びはじめの年とされています(「去ぬる建永元年御初学」)

 そしてドラマでも描かれたように、藤原定家とも交流していました。上記の初学に触れた承元三年(1209)75日の条に、夢想のお告げによって二十首の詠歌を住吉社に奉納することにした実朝が、そのついでに定家の添削を受けるため、定家の門弟である内藤知親を使者として、和歌三十首を自撰して送ったというのです。定家はすぐに応じ、全ての和歌に合点を加えて添削しただけでなく、「詠歌口伝一巻」を著して献上しました。知親が帰参したのは813日ですから、かなり早い対応ですね。定家との交流はその後も続き、実朝の求めに応じて『相伝の私本万葉集一部』を献上(1212)するなどしています。

 他にも、承元二年には御台所の侍で鎌倉に下向してきた藤原清綱から『古今和歌集一部』を献上されたり、承元四年には大江広元から『三代集』(『古今』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』)の献上を受けたりと、和歌に関する書籍を色々手元に集めるようになり、様々なルートでも学びも深めていったようです。

 そうして和田合戦後の建暦三年(1213)末ごろ、実朝22歳の時、それまでうたい溜めてきた歌をもとに『金槐和歌集』が作成されました。

 また実朝は和歌を通じて御家人と親しく交流したり、近しい御家人を集めてよく和歌会を開き、和歌の研鑽につとめたりしました。その折りによく好まれた題材が梅でした。

 また政治的な場でも和歌を詠み、和田合戦の折に歌2首を添えて奉納したことが吾妻鏡にあります。金槐和歌集でも為政者としての立場を意識した歌や、上皇に向けたと思われる、かの有名な「山は裂け」の歌が入っています。

 なお、有名な辞世の句的な和歌「出でていなば」は吾妻鏡にのみ採取されていますが、実朝最期の状況に合いすぎていることなどから偽作の可能性が多く指摘されています。実朝の梅好きはよく知られており、京都北野天満宮の梅の種をとってできた梅の木を御所に移して愛でたという記録もあることからも、条件が揃いすぎているという指摘もあります(三木麻子、2012)。大谷雅子氏は『六代勝事記』が創作したものを『吾妻鏡』が踏襲したのではないかとしています。

 坂井氏は、現代では文化としか捉えられていない学問や音楽や和歌も当時の政には欠かせないものであり、政そのものだったと指摘します。順徳天皇が記した『禁秘抄』には、天皇には三つの芸能が求められるとし。第一は学問、第二は音楽、第三は和歌であるとしました。和歌は声に出して詠むことによって神仏と交歓し、世を治め、民をやわらげるものでした(坂井 2022)

・考察

 このドラマで非常に画期的だと思うのが、実朝の和歌好きを、従来の多くの見方である「現実逃避」と全く見做さない点です。和歌を単なる趣味のものとして扱わず、和歌が為政者のたしなみであることが仲章や阿波局の言葉から語られ、和歌が政治のツールとして非常に重要であることが表明されたのは大変進歩であると思います。

 実権を思うように行使できず趣味的なものに打ち込むという描写は、ドラマではむしろ頼家の描写に少しありました。蹴鞠が政のツールであることは示されましたが、頼家にとって逃避的な意味合いも同時に示されていました。

 また従来、実朝の和歌好きは京志向と関連させられることが多かったのですが、ドラマでは京志向と関係なく、詩人としての感性が天性のものであることを強調しています。

 ですがその一方で、政治ツールとしての和歌の位置づけが具体的に描写されることはなく、もう少し踏み込んだ描写があればなおよかったなと思いました。ドラマではあくまでも和歌は実朝の個人的な心情の吐露としての側面が重視され、政治的な側面よりもいいものという価値判断がなされています。ドラマ内で印象的に採用された歌が、「穏やかな一日」「八幡宮の階段」いずれも実朝の恋情の歌や辞世の句であり、後鳥羽上皇に向けたと思われる「山は裂け〜」などがなかったことからも伺えます。為政者としての歌もドラマに実は出てきているのですが、下の句のみです。

 「宮柱 ふとしきたてて よろづ代に 今ぞさかえむ 鎌倉のさと

 八幡宮の荘厳な社殿の様子を寿ぎ、治世の永遠を祈願する為政者としての実朝の意識がわかるとされるこの歌(三木麻子『源実朝 日本歌人051) 、ドラマでは後半しか出てきません。しかし前半に出てくる「宮柱ふとしき立てて」という表現は古事記万葉集などでお馴染みの表現で、上代的なものです。「太柱をどっかりと立てて宮を造営するという古代的な感覚をよく伝える言葉であり、鎌倉の繁栄を宣言する王者としての実朝の意志を読み取ることができる表現」と三木氏は述べています。ドラマ内でこの歌の全体をしてしていたなら、実朝の万葉調の特色を示すものとしても適切だったでしょう。

 

 なお、実朝がはじめ心理重視型の康信から学び、次に知識重視型の仲章から学ぶのは、史料から伺える独学本格的に学ぶ という二段階を踏んでいそうな様子、また実朝の和歌の中に独自の感情の発露の和歌と、技巧を新古今和歌集などから学んだらしき和歌が混在していることと合致してるなあとも思いました。

 ちなみに雨垂れの件は、永井路子北条政子』にも出てきており、それへのオマージュかもしれません。そして実朝が音の感覚に優れていたらしきことは、様々な人が指摘しています。

  また政子が様々な和歌を書き写して実朝の教材とするというのも、政子が指示して実朝に初学者向きの和歌関係の本を作らせたのではないかという五味氏の推測にマッチしているなとも。そしてその中に頼朝の歌があってそれを実朝が一番気に入ったというのも、実際その歌が新古今和歌集に載ったこと、そのことで実朝が新古今に興味を持ち書き写させて取り寄せたという吾妻鏡の逸話をしっかり踏まえて取り込んでいるなあと感心しました。

 

4) 結婚と子供

・ドラマ

 結婚前から結婚に乗り気でなく、牧の方や実衣がどんどんお膳立てをして坊門家から後鳥羽上皇の従姉妹の姫を御台所に迎えます。結婚後も御台所を避けていましたが、ある日ついに自分が異性に性的に興味を持てないことを告白します。それ以降は仲睦まじい関係で、宋船計画が進んでいる時は一緒に連れて行きたがったり、最後にはお前と引き合わせてくれた上皇様に感謝したいとまで伝えます。しかし子供ができることはなく終わりました。

・史料・研究との比較

 実朝の結婚については、吾妻鏡によれば足利義兼(時政の娘で、義時や政子と同母妹が正室)の息女を御台所にすべきではないかとの審議がありましたが、実朝はこれを許容せず、京都に申し入れたのだと吾妻鏡にあります。ですが「いくら将軍の正室とはいえ、十三歳の実朝が時政をはじめとした宿老の提案を拒絶して、自身の意向を押しとおしたとするのは不自然で、逆に、将軍の正室であるからこそ、権力の中枢にある人びとが積極的に関与し、その選定に神経をとがらせたとみるべきと坂井氏は述べており(坂井、2014)、今は同様の見解を示す研究者が多いです。五味氏によれば、「かつて政子は上洛して頼家や大姫の婚姻問題にかかわった経験から、京都から御台所を迎えるように勧めたのはおそらく政子であったろう」(五味、2015)とし、藤原兼子がかかわっていたものと考えられるとしています。実際姫君は兼子の邸宅から出発しています。坂井氏はまた「時政・牧方は後鳥羽の朝廷とのつながりを意識し、その権威を利用するかたちで権力基盤を強化しようと考えたのではないか。一方、将軍の権威が高まれば、将軍に親権を行使しようとする政子たちも同様に地位を上げることになり、政子・義時らにとっても損な選択ではない。つまり、両陣営にとって義兼の息女よりも京都から御台所を迎えるほうが得策だったのである。」(と、時政夫妻と政子の両方の利害が一致したと見ています。山本みなみ氏は牧の方の尽力を重視しています。

・考察

 以前は吾妻鏡の記述のまま、実朝自身が御家人出身の娘を推す周囲の意向を蹴って京都出身の姫を強く望んだように解釈されていましたが、今は周囲の大人たち、時政夫妻や政子らの意向であるという見方が多く、ドラマもそれに従ったといえます。ただドラマでは政子はまだ結婚には早いと見ており、積極的には進めていない描写でした。その「周囲の大人主導」で困惑する実朝を、彼の性的志向に絡めて描写したのは、大変新しい解釈と言えます。

 彼の性的志向は史料からはよくわかりません。ただ子供もおらず、彼のような立場としては珍しく側室も持たなかったようです。実朝が同性愛者だったのではないかという論文は存在します。

https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/TC10001787

 またカミングアウトしてからの仲の良さを示すものとして「2人きりで花を見たかった」と言いながら気晴らしに歩き巫女のところに連れて行った挿話がありますが、これは吾妻鏡にあるふたりで永福寺に花見に行ったという逸話を反映させているのでしょう。

 

5) 和田義盛との関係

・ドラマ

 実朝の武芸の指南役として弓や相撲を教えますが、実朝の浮かない様子を見て、気晴らしに自宅へ誘います。そこで一緒にご飯を食べたり、巴御前とのやりとりを見て癒されたり、近所の歩き巫女のところに連れていったりと、癒しの場を提供します。その親しさから、義盛は周囲からも望まれてると言って上総介の任官を望みます。実朝は一旦受け入れますが、政子に相談すると「義盛は私も好きだけれども、政はそういうこととは違う、もっとおごそかなものだ」と諭されます。

・史料・研究との比較

 義盛とは史実でも良好な関係を築いていたようで、ドラマと同じく義盛邸に訪問してる様子が吾妻鏡にも伺えます。建暦二年(1212624日に和田義盛の家に赴いた際に引出物として贈られた『和漢将軍影』十二鋪に大いに喜んでいます。その年の818日には藤原朝光と和田義盛の二人に、古物語を聞きたいということで、北面三間所に伺候するように命じました。翌年の正月、実朝は広元、義時、時房に次いで四日目の垸飯(将軍への饗応を通じて御家人の序列を公に示すもの)を義盛に務めさせましたが、義盛にとって垸飯の名誉はこれが初めてでした。

 義盛が上総介をのぞむという逸話も実際にあります。義盛の要求の件についての妥当性の評価は研究者によってまちまちです。当時義盛は左衛門尉だったので当時の昇進ルートとしてさほど無茶な要求ではなかった(岩田 2021)、頼朝の定めを破る無謀な望みである(坂井 2022)、等など。 ただ、義盛の要求は、近年は北条氏からも数名の受領就任者が出たことが影響していそうだというのは共通して認識されています。実朝が政子にその件について相談し、間接的に拒否されているのも吾妻鏡にあります。

 なお、義盛邸や義盛に紹介された歩き巫女などのところへなど、実朝が急に思い立ってふらりと御所の外に行きたがる様子が描かれましたが、実は吾妻鏡でもそのような行動をしているのが見て取れます。実朝が誰にも知らせずに山内辺りを歴覧したので、人々があわてて追いかけたり、実朝が急に思い立って永福寺に近臣を伴って徒歩で出かけたので、後から牛車を遣わせたなどの逸話が吾妻鏡に残されています。

 

・考察

 実朝と義盛の親密な関係は、史実をとてもよく反映してると言えます。

 たとえば古物語を聞くという逸話が、「オンベレブンビンバ」回の、義盛邸で実朝に頼朝の逸話を聴くシーンに反映されているのでしょうし、義盛邸に実朝が赴いて楽しむ話も吾妻鏡にあり、ドラマではそれを膨らませた描写と言えます。

 もっとも、吾妻鏡では実朝は他の有力御家人の邸宅にも色々訪問しているのですが、それらの描写はドラマではないために、義盛へのスペシャルな親しさが相対的に史実以上に強調されているのは間違いありません。

 そして北条氏のみから受領が出るのはいかがなものかと、ドラマでも八田殿に言わせており、そのあたりの北条のみが将軍外戚としていい思いをしている点の不自然さを史実を踏まえて描写して、義盛の要求にも一定の理があることを示唆しています。

 また実朝が、割と思い立ったらすぐに外出したがるという吾妻鏡から伺える性質を、ドラマ上でも描き、鬱屈を晴らすための気晴らしを求めての行動と解釈して表現しており、これもうまい活かし方だなと思いました。

6) 和田合戦

(実朝が関係しない部分は省略しました)

・ドラマ

 和田氏が北条氏の強敵となることを恐れた義時は、和田一族が関係した実朝への謀反の件に絡めて和田氏を挑発します。息子たちは赦免されても甥の胤長は許されず、一族の前で面縛の屈辱を受けて流罪にされ、その屋敷も一族に下げ渡されず押収、胤長の幼い娘はショックで死んでしまい、一族の怒りは頂点に。それでも義盛はなんとか実朝への忠義は貫こうとし一族を抑えようとします。

 戦を止めたい、義盛に会いたいと強く言う実朝ですが、それを受けた政子の発案で義盛を女装させて御所に呼び、直接顔を合わせて諭します。義盛は義時とも話し合い、一旦収まったかに見えましたが、義盛が実朝に引き止められて双六を打つことになり、この帰宅の遅れが和田一族を刺激してしまいます。

 一族の若手の打倒義時の勢いは抑え難く、義盛の帰宅が遅いことを理由に兵が出撃します。それをトウから知らされた義時は、ひとり打っていた碁盤を怒りのあまりぶちまけてしまいます。

 広元は頼朝以来の文書記録を八幡宮に移すと言い政所に戻ります。義時は実朝と御台所、政子らを西門から八幡宮へ逃します。和田勢は御所の南門から突入すると義村軍と戦闘状態に。泰時は西門を守り、なんとか撃退します。和田勢は由比ヶ浜まで撤退して兵を整えます。

 翌日義時は、曾我・中村・二宮・河村が和田勢に加勢にやってくるので御教書を出して幕府方に着くように言うように実朝に迫ります。渋る実朝に、このままでは鎌倉が火の海になると脅して、なんとか御教書を出させるのでした。

・史料・研究との比較

 建暦三年(1213)5月の和田合戦については『吾妻鏡』と『明月記』に詳しい記述があり、後者を前者の記述の参考にしているのはよく指摘されています。簡潔な記述は『愚管抄』にもありますが、それは吾妻鏡や明月記の流れとかなり異なります。

 まず吾妻鏡と明月記の流れを見ていきます。

(1) 合戦まで

 胤長の屈辱の件やその娘の件は吾妻鏡にあり、吾妻鏡をかなり踏襲しています。一族の若手がいきりたつのをなんとか義盛が宥めるというのもその記述通りです。

 ただ吾妻鏡などでは、実朝が義盛と直接会って話し合ったとはありません。そのかわり、実朝が真意を確かめるべく、出仕をやめていた義盛に二度にわたり使者を派遣し、その聴き取り内容対して再度使者を派遣して挙兵を思いとどまるように伝えます。つまり史実の実朝も、和田一族の反乱の気配を知ってすぐに鎮圧しようとするのではなくなんとか思いとどまらせようと努力しています。

(2)合戦の経緯

⚪︎義村の裏切り

 ドラマでは直前に義村から裏切りを聞き取っていますが、史料ではそれを察知していた形跡がありません。実朝や政子らの身柄を押さえて自らの正当性を確保しようとしていた義盛は、義村に御所北門攻撃を担当させて起請文を書かせていたのですが、義村が翻意したためにその北門から実朝らが脱出してしまい、目論みを達成することができませんでした。和田勢は御所南門、義時邸、広元邸の三ヶ所に攻撃を仕掛けます。

⚪︎実朝らの避難

 和田軍集結の話を聞き、その時碁会をひらいていた義時、宴会を開いていた広元は急ぎ御所に駆け付けます。

 政子と御台所は鶴岡八幡宮別当坊に避難。明月記では実朝は広元といっしょに御所の北にある頼朝の墓所法華堂に逃れました。『吾妻鏡』では政子と御台所が逃れた後も実朝らは御所に残りますが、和田勢が御所に火を放った後その火災を逃れるため、実朝、義時、広元は頼朝の墓所法華堂に逃れました。

⚪︎戦いの推移

 吾妻鏡によればその日一旦由比ヶ浜に引いた和田軍は、翌日南武蔵の横山時兼や波多野盛通らが参戦、味方を得て再び攻勢に転じます。

 辰の刻と巳の刻に軍事動員のための御教書が御家人に出されます。兵を出して近くに陣取っていたものの、幕府につくようにとの連絡にも様子見をしていた曾我・中村・二宮・河村の輩たちに再度催促の将軍花押つき御教書をつかわせたところ参戦。次いで義時、広元の連署に将軍の御判付き御教書を武蔵国など近国の御家人に出します。

 その後若宮大路で戦っていた泰時は法華堂に遣いを出し、多勢の勢いではあっても敵を破りがたく重ねてどうすべきか考えてほしい、と伝えます。実朝は大いに驚き、防戦の事について評議が行われ、広元が政所から召され、将軍の立願の願書を執筆し、その奥に実朝が自筆で歌二首を加えて鶴岡八幡に奉納しました。

 

・考察

 和田合戦は、吾妻鏡や明月記での描写を全て映像化すると大変煩雑、矛盾したものになるので、基本的な動き、人々の心情は概ね吾妻鏡に添いつつ、時折明月記に添い、全体に適宜改変している印象です。

 たとえば吾妻鏡に見える合戦前の二度にわたる使者派遣での義盛真意確認&説得は、義盛が女装して御所に赴き直接実朝や義時と会話することに統合されています。和田勢集結の話を聞いたのは義時が碁会を開いていたという逸話は、義時が義盛を懐かしんでひとり碁を打っているシーンに活かされていました。(義盛の帰宅の遅れから一族が判断を誤り出撃してしまう、というのは吾妻鏡の記述と異なりますが、もしかしたら仁田常忠のエピソードを転用しているのかもしれません。)

 また戦が始まると実朝たちが御所から逃れたのですが、吾妻鏡では実朝、義時、広元は法華堂に逃れ、政子たちは鶴岡八幡宮に逃れていますが、ドラマでは政子たちと西門から八幡宮に最初から一緒に逃れたことになっており、逃げた先が変更されています。また逃げるタイミングを放火前に軍集結の話の時点にしたのは明月記に従ったものと思われ、またそちらの方が合理的でもあります。

 将軍御教書が戦いの途中で出されたということは吾妻鏡にありますが、ドラマでは実朝が躊躇いかなり揉めた感じに脚色されています。また御教書は2回に分けて別方面に発信されているのですが、近隣に様子見で陣取っていた御家人向けの話だけに絞り、しかも彼らは和田に加勢するためだったと変えていて、御教書発信の必要性&緊急性を印象付けています。実際はどちらに付くか迷っていた状態でした。

 また若宮大路で戦う泰時からの苦境の連絡とその対応が表現されていません。これが表現されていれば、おそらく戦勝祈願のために実朝が和歌を奉納するという政治的な和歌の活用シーンが描けたのにとは思いますが、私の見るところ、尺の都合もさることながら、義盛の最期で実朝と泰時が劇的に再会する時のために、それまでは2人の接触は文書レベルでも避けたのかなと思いました。

 

7) 義盛の最期と実朝

・ドラマ

 義時が和田方との戦闘について、広元が和田勢を追い詰めたと嬉しそうに義時に告げます。すると何か考えた義時は、実朝に戦場に出て投降を呼びかけて欲しいと言います。実朝も義盛を説得できると乗り気になり、実朝は鎧を狩衣の上から身につけた姿で姿を現し、義盛に呼びかけ、お前に罪はない、これからも支えてくれと呼びかけます。息子たちを従えてそれを聴いていた義盛は感極まり、自分は実朝の鎌倉一番の忠臣だと一族に語りかけますが、義村が合図して一斉に矢を射掛け、義盛は全身に矢を受けて絶命。義時はこれが鎌倉殿に取り入ろうする者の末路であると大声で言います。

 幕府勢が一気に和田勢に攻めかかる中、義盛を騙し討ちにされた実朝は泣き咽び、泰時に連れられて鶴岡八幡宮に避難するのでした。

・史料・研究との比較

 吾妻鏡では、実朝が戦闘の場にいたとはありません。実朝は御所から法華堂に脱出してから終始そこにとどまっています。

 また義盛の死についてですが、吾妻鏡によれば酉の刻、義盛の息子の和田義直が伊具馬太郎盛重に討ち取られると、義盛は歎息し、年来鍾愛の義直の所願を頼んでいたのに、今となっては合戦に励んでも無益、と声をあげて悲哭し、東西を駆け回った末、ついに左衛門尉大江能範の所従によって討ち取られたとあります。ドラマのように大勢に矢に射られて死んだ記述はありません。その後息子の義重・義信・秀盛らも討死し、豪傑朝比奈義秀らが蓄電するなどして、幕府方の勝利となりました。

 義盛の死後、実朝は何度か供養をしています。たとえば建保三年(1215)11月、義盛以下の死者が御前に群集した夢を実朝が見たため、翌日急遽仏事が行われました。

・考察

 全体におおよそ吾妻鏡(たまに明月記)に添った描写だった和田合戦ですが、この義盛最期に近づいたところからそこから大きく離れ、大変ドラマチックなものになっていきます。

 (2)合戦の経緯 でも書きましたが、吾妻鏡によれば合戦翌日は泰時もなかなか破り難いとの連絡を法華堂に送るほどですから、幕府方は義盛や義直の死の前はドラマの広元が言うような楽観的なムードではなかったと思われます。またその日、和田勢に南浦和御家人が加勢したことがドラマでは割愛されており、実際以上に和田勢が劣勢な印象の作劇と言えます。義盛の死を契機として和田勢が敗れたことはドラマも吾妻鏡も共通していますが、ドラマではそれ以前にすでに勝敗が決していたような感じにしていたのが違いとして挙げられます。実際のところは幕府は「紙一重の勝利」だったと坂井氏は指摘しています(『考証 鎌倉殿をめぐる人びと』)

 実朝が戦場に姿を現して説得するも、その目の前で寵愛していた忠臣義盛が惨殺されるという非常にショッキングで印象的なシーン、吾妻鏡の記述とは全く異なり、完全な創作です。確かに大混戦の戦闘の只中に、大事な鎌倉殿をわざわざ引っ張り出すことは、実衣の言っていたように大変危険なことです。源平合戦のような、御家人をまとめて一丸となって敵と闘うという、武家の棟梁たる資質を示す華々しい戦闘の場ではなく、いわば臣下同士の戦いの色彩が濃い反乱な訳ですから、鎌倉殿の命を危険にさらすことはあまり意味があるとは思えません。それに万が一和田勢に実朝の身柄という錦の御旗を確保されたら一発逆転されてしまいます。

 またドラマ上でも史実でも、和田勢が御所に攻め込んだというだけでなく、火を放って全焼させてるので(御所に火の手が上がった、燃え尽きてしまうのだろうかとは実衣の言葉で表されていますし、燃えている遠景も映っています)、義盛に大変同情的だったとは言え、罪はないとまで皆の前で断言するのもちょっと不思議な発言と言えます。

 そのあたりの整合性よりも、舞台のようなシチュエーションや極端な言葉によって、実朝の未熟さと因果応報的な展開を視聴者に見せつけ、実朝に不満を持つ義時との対立構造を印象づけたいという制作側の意図を感じました。ドラマ上では勝ちが決まりかけていた段階で敢えて実朝を戦場に引っ張り出して義盛と対峙させた義時像にも、実朝の未熟さを知りながらそれを白日の元に晒してやろうとするような悪意を感じてしまいます。万が一にもちゃんとした対応をしてくれればそれはそれでオッケー、予想通り贔屓の引き倒しのような対応をするのであれば、それを口実に義盛を討ち、北条以外の御家人を贔屓にしようとする実朝に打撃を与えられると踏んでいるようです。そして後者の展開になりました。

 で、そのドラマチックな展開に対してヒントを与えたのではないかと私的に思っているのが、『愚管抄』の記述です。愚管抄では

「義時ガ家ニ押寄テケレバ、実朝一所ニテ有ケレバ、実朝面ニフタガリテタゝカハセケレバ、当時アル程ノ武士ハミナ義時ガ方ニテ、二日戦ヒテ、義盛ガ頸トリテケリ」

 と、なんと実朝は義時邸にあり、義時は実朝を正面に立てて戦ったというのです(五味 2015)最初から最後まで実朝は戦場にいなかったとする吾妻鏡&明月記とは真っ向から対立する記述です。最後に実朝が陣頭に立つというシーンは、ここからきたのかもかと思いました(なお、愚管抄の作者慈円は、実朝が武を怠ったという非難を一貫してしてる人物であるにも関わらず、そのように実朝が陣頭に立ったことを書き記してるので、慈円の主観でなく当時ある程度流布していた話ではないかという意見もあります(藪本 2022))

 そのように、合戦の当初の推移よりもかなり吾妻鏡などの記述からは離れ、ドラマとしてやや強引な描写になってしまいましたが、実朝(泰時も)の受けたショックの測り知れなさを劇的に表現することで、和田合戦以降の実朝の積極的な将軍権威拡大政策の理由づけ、道筋をつけるものとしては、物語上大変有効な作劇だと感じました。

8) 政治への取り組み姿勢

・ドラマ

 最初は時政からじいにおまかせください、と言われ、その通りにしていたら畠山討伐の下文によく読まずに花押を書いてしまうなどの失敗をします。

 「穏やかな一日」では、疱瘡からの回復後、心機一転頑張って政に取り組もうとします。しかし高野山の所領についての訴えについて、自分なりに意見を述べようとするも義時ににべもなく遮られて発言させてもらえません。自分はいてもいなくても同じなのではないかと悩みますが、泰時から励まされます。

 しかし和田合戦の衝撃を契機に、やはり御家人に任せず自分の政をしようと決意し、自分でなんでも裁断するという後鳥羽上皇を手本にしようとします。

 泰時を側近に据え、三善康信の協力も得て自分の政を推し進める体制づくりへ。しかし、日照り続きなので年貢を減免しようと、たとえば将軍御領だけでもという案を出すも、実施してみると他の領地の領民から不満が出てしまい、義時がお前たちがしっかりしないからだと実朝の近臣を恫喝します。

 しかしそれにもめげず、泰時に上皇から贈られた聖徳太子の肖像を見せて、自ら徳を高めて良い君主にならねばならないと言います。

 その流れで陳和卿の話からヒントを得て船を創って宋へ渡航させ、仏舎利を得てこようと計画します。自分もいずれ宋にわたってみたい、共に来てほしいと、泰時と御台所に言います。しかし陳和卿の話は上皇からの差金で、実朝の権威を高めようとするものだと知った義時は設計図を書き換えさせて進水に失敗させます。

 またそれにもめげずに政子からの知恵で京から後継者を迎えて大御所になる構想を持ち、自らの地位を高ていく実朝。実朝の政治への意欲は最後まであり続けました。

・史料・研究との比較

 坂井氏も五味氏も、実朝18歳の承元三年(1209)から親裁を始めたという認識で一致しています。

 五味氏は実朝が承元三年四月に従三位となり、公卿として政所を開設する資格を得たことに注目し、親裁権を行使しはじめたとします。発給文書も鎌倉殿下文から「別当」が四名から五名、「令」一名、「知家事」一名の各家司が署判する将軍家政所下文に変わり、政務の中心機関である政所を基盤にした親裁の形式も整いました。

 坂井氏は実朝の親裁ぶりに注目します。1208年の時点では、御家人の恩賞に関する訴えが義時に進上され広元が実朝に取り次いだという記述がありますが、承元三年の高野山大塔料所備後国大田庄の年貢対捍問題をめぐる訴訟においては、そのような記述はなく、実朝が直に裁断した様子があります。その訴訟の場で、高野山の寺家の使者と地頭三善康信の代官が、「御前の近々」にもかかわらず口論におよび、ともに追い立てられたというのです。実朝は、しばらく訴訟の審理を中断するようみずから直接に命じました。審理が「御前の近々」であったこと、実朝が「直に」命令を下したことは、実朝の意思によって裁定が下される将軍親裁がおこなわれたことを意味していると坂井氏は述べます。それ以降、実朝が「直に」裁断した記事が増えていきます。

 坂井氏は以下のように述べます。「以上の事例から読み取れるのは、実朝が御家人たちの主君「鎌倉殿」として、また武家政権の首長「将軍」として、強い自覚と意志をもって訴訟に臨み、御家人たちに接していることである。三善康信三浦義村のような頼朝期以来の有力御家人が訴訟当事者であっても、いっさい怯むことなく自身の信じるところにしたがって裁許を下している。

「しかも、そこにはある種の「公平性」が認められる。問注所の調査を受けておこなった審議では荘園領主側の主張を退け、現地の牧士と奉行との喧嘩事件では権力を濫用した奉行の御家人を更迭し、御前での弁論の激しさが度を越せば荘園領主側・御家人側双方に審理の中断を命じている。こうした「公平性」は主君にとって、また統治者にとって不可欠の資質であろう。  一方、実朝が「鎌倉殿」「将軍」として下した命令を拒否、もしくはなおざりにした御家人にたいしては、みずから譴責を加えて謹慎させるという断乎たる姿勢もみせる。ただ、それも頑なで機械的なものではなく、土屋宗遠を宥免した事例にみられるように柔軟性をもちあわせてもいた。御家人たちにたいするこうした姿勢の背景には、頼朝時代の先例や頼朝の命日を判断の根拠にもちだした点からもわかるように、敬愛する亡き父頼朝を範とする思いがあったと考える。伝統文化の吸収にあたって後鳥羽を範とした実朝は、将軍親裁を遂行するにあたっては頼朝を範としたのである。」(坂井 2014)

 また2019年に田辺旬氏が明らかにしたことですが、政子の仮名奉書がいくつか実朝将軍期から発給されており、いずれも御家人の所領支配や相続に関わることで、東大寺や京都有力寺社などの幕府以外の権門あてあることが判明しています。よって、政子も実朝と共に政権の重要な決定権を持っていたことが伺えます(源実朝 虚実を超えて』)

 「和田合戦後の建暦三年後半以降は、義時・広元も実朝に協力して幕政を安定させてきた」というのが坂井氏の見立てであります(坂井 2014)

 また五味氏は政所発給の下文に着目して、実朝の時代を三期に分ける見方を示していますが、その中で第三期にあたる12161219年に最も将軍権力が増大したとしています(吾妻鏡の方法』151154ページ) 。つまり10代で既に親裁を開始し、1216年からは更に将軍権力が強化されたという見方です。

 いずれにしろ、和田合戦以降に無気力になったということは現在の研究成果では否定的になっています。

・考察

 従来型の実朝像は、特に文芸作品においては、最初はいい判断をしたりするものの和田合戦の後に政治に興味を持たなくなったり、厭世的になったと言う『右大臣実朝』のような見方をするものが多いものでした。学習漫画などでは、最初から北条氏に実権を握られて和歌などの京文化に耽溺したり無気力になったりする人物として描かれる傾向にありました。

 しかしドラマでは、和田合戦以前から政に自分なりの意見を持って取り組もうとしていました。義時にその意志をへし折られそうになりながらも頑張り続け、和田合戦以降に、自分の政を行うために権力を高めなければならないという意識を改めて強く持ち、次々と施策を打ったり身辺を泰時などの味方で固めたりする様子が描かれました。悲しげ、苦しげな時はあっても、一貫して為政者として無気力であったことはなく、まさに「新しい実朝像」と言えるでしょう。そして和田合戦以降ますます将軍権力を強化しようとする動きであること。これらは最近の研究成果とも整合性のある実朝像です。

 最近の研究成果との整合性といえば、政子とのタッグでもを感じました。上で述べたように、政子が源氏の家長として鎌倉幕府管轄以外の権門に対応していた可能性、次期将軍交渉役になったのもその延長線上にあるかもしれないとの指摘がある通り、政子が対朝廷に対して従来よりも太いパイプを持っていた可能性が考えられます。そのような近年の研究動向をふまえると、政子からの提案を受けて実朝が京から後継者を迎える話をする、という展開もあながち荒唐無稽ではありません。また実朝の下文に連ねて政子の名前を付す形式は、実朝の権威を政子の権威で補助しているようにも見えます。坂井氏は親王将軍という発想が政子や義時から出たのではという見方があるが、二人の地位からしてありえない、としています。親王をという発想は確かに実朝由来かもしれないですが、京から後継者を迎えようという発想を持ったのは上記のような政子の活動からも自然だったと言えそうです。

 ただし、政治への意欲、取り組みはそのように研究成果を反映させてると言えるものの、実朝が主体性を発揮させる時期は後ろにずらされています。和田合戦という強烈な事件で、父とも兄とも慕う義盛を惨殺されることを契機として政に目覚める、とした方が確かにわかりやすい、というのと、義時との確執を全面に出したいという思惑の両方が合わさって、そのようにしたのでしょう。

 そのため、実朝が有力御家人に関わる案件でも毅然として突っぱねるという逸話が、和田合戦以前に起きてるために実朝が義時にやり込められる逸話に変えられてしまっていました。

9) 政治内容について

・ドラマ

 和田合戦以降なんとか善政をしようとするもなかなかうまくいかない様子が描かれます。日照りの際に、まずは将軍家領に限って減税を試みようとしますが、他の御家人の民から不満が出てしまい、義時に近臣が一喝されます。また自分自身の徳を高めようと宋に船を送って仏舎利を得ようとしますが、義時らの反対にあう上に進水失敗します。

 一方で政子の助言に従って大御所になる構想を立てました。政子はそれにより「あなたが鎌倉の揺るぎないあるじとなる」と言い、実朝自身も「父上も見なかった景色を見る」と言っているので、引退するということではなく、天皇上皇のようないわば院政をしく構想であることが示唆されています。

 

・史料、研究との比較

 吾妻鏡では基本的に善政をしいた政治家として描かれています。特に和田合戦あたりまでは、頼朝の正統派な継承者として描き出されているとの指摘もあります(藪本 2022)

 記述の少ないと言われる時期も、雨乞いなどで実績をあげており、寺社の建立や参詣などにも熱心です。以前はそういった宗教関係の事績は政治的な行為と見做されず、現実逃避的にすら受け止めてられていました。しかし最近では、当時は祭祀行為も重要な政であり、「古代・中世の社会では、神社・仏寺の経営が順調になるよう策を施し、神仏の威光を輝かすことは国土安泰・五穀豊穣を実現するに等しく、統治者の責務であった」(坂井 2014)ことがわかってきました。

 そして減税免税などの施策は明らかに良い施策として描かれており、それに対する批判的な記述はありません。

 課税関係の記事はいくつかあります。

 まず将軍就任後、建仁三年(1203年)1119日に、関東御分国と相模・伊豆両国の百姓に今年の年貢を「将軍御代始」ということから減額し、「民戸を休めらるるの善政」を実施しています。その翌年、駿河以下三ケ国の内検(仮調査)を実施する予定だっのを、撫民のため四月十六日に延期と決めています。この辺りはまだ政子の計らいによる善政と思われます(五味 2015)

 12053月には諸庄園の年貢についてきちんと納めるように宗掃部允孝尚を奉行として命じています。

 12111227日には来春に駿河・武蔵・越後の将軍家知行国の大田文を整えるように政所の行光、清定に命じています。大田文は課役賦課の原簿となるものでした。

 和田合戦のあった建暦三年(1213)、西国にある幕府の関東御領に朝廷が賦課してきたのですが、広元らは臨時税をすべて拒否するよう進言ました。これにたいし実朝は、まったく収めさせないわけにはいかないが、突然の課税では現地の雑掌も負担しがたいであろうから、今後については前もっておおよその課税額を決めてから命じてほしいと朝廷に返答するよう指示。御家人の都合を勘案した案を朝廷に提示するよう指示しています。

 建保二年(1214)の五月中旬から六月にかけて旱魃が続いて諸国の民が嘆き愁えたので、実朝は63日、栄西の言に従って祈雨のために八戒を守り法華経を転読し、義時らも般若心経を読むなどしました。すると二日後に雨が降り、実朝の懇ろな祈りが通じたと思われたといいます。またさらに実朝は、613日、鎌倉殿直轄の荘園である関東御領の年貢三分の二を、この秋より毎年一ヵ所ずつ順に免除するという徳政を実施しました。

 また実朝は交通インフラ関係にも尽力しています。御台所の女房が盗賊にあったことをきっかけに「駿河国以西の海道の駅家等の結番・夜行番衆、殊に旅人の警固を致すべし」と命じ、駿河以西の東海道の安全確保をはかりました。その1年後に、その命令が充分実施されていないことを受けて実行するよう再度きびしく指示。また、頼朝がその帰り道に落馬したので修理すべきでないという議論が起きた相模川の橋について、二所詣や庶民の往来の妨げになるとして修理を命じた有名な逸話もあります。

 課税・減税やインフラ整備といった、現代人にもわかる施策もしっかり行い、かつ中世人ならではの祭祀的な政もちゃんとしていたというのが全体的な実朝の政治活動の印象です。

 もっとも治世の最後の方には民の負担になるようなことを計画して諌められたり(京から高僧を呼ぶなど)、あるいは実際に都人への贈り物などで民に負担がかかったことなどのマイナス点が述べられますが(それに対比するように義時の徳のある行動も述べられます)、それらは実朝暗殺事件という「幕政史上稀に見る不祥事」を正当化・必然化し、かつ源氏から北条氏得宗家への権力移行が必然であったという理由づけをするために意図的に悪く描かれたものだという指摘があります(藪本 2022)

 

・考察

 実朝の政については、残念ながらドラマでは全面的にかなり否定的で未熟さの表れのようになっていて、肯定的に描かれがちな史料との違いが明白になっています。

 ドラマではおそらく吾妻鏡にある1214年の関東御領の減税の件を、吾妻鏡にはない批判的な文脈に改変して参照したと思われます。減税を良い政治ととらえず、対象ではない民衆が文句を言うからダメだとし、対案として他の場所にも減税を広げて減税率を変えるなどの考えを出さない考え方は、かなり今日の日本で見られる考え方で興味深いところです。

 吾妻鏡では雨乞いなどで実朝の超自然的なパワーが描かれていたりもしますが、それも全く触れられていません。将軍の勤めである二所詣や、民の利便、臣下の往来などを考えて様々な交通整備などの施策がなされた様子も全く描写されておらず、義時に阻まれて以降は、宋船と後継問題くらいしか実朝の政治に触れられていないので、為政者として撫民をする実朝像が描かれない状態です。

 近年は実朝の政治家としての力量が評価される傾向にある中で、ドラマでは熱意はあるが力量がない政治家として描かれてしまっており、そこは大変残念でした。

 

10) 宋船と実朝

・ドラマ

 聖徳太子の肖像を一緒に見ている実朝と泰時のところへ、都から帰ってきた源仲章が陳和卿を伴ってやってきます。陳和卿は実朝を見て突然涙を流し、前世では医王山の長老、自分はその門弟であったと語ります。実朝は驚き、自分が以前その光景を夢で見たといい、つけていた夢日記を人々に見せます。陳和卿は誰も見たことのないような大きな船を作って宋と交易しましょうと言い、実朝も同意します。

 船の建造に関して、実朝は聖徳太子に倣って宋に使者を送ろうとしていると義時らに伝える泰時。余計なことをと言う義時に対し、それは将軍の権威が高まることなので北条には厄介だろうと義村は皮肉を言います。義時は御家人の負担の大きさを気にしてるのだと言います。そこへ泰時が、夢日記を盗み見た仲章が仕組んだものではないかと言い、上皇の差金だと義時らが気づきます。

 義時や時房が御家人の負担を理由に中止を勧めますが、実朝の思いのこもったものだと三善殿が擁護。もう造船をやめると投げやりになる実朝に、泰時が船に御家人の名前を記して鎌倉殿と御家人の絆の証にしたらと提案します。

 政子は迷いながらも実朝を後押し。そうこうするうちに造船計画を阻止しようと義時は設計図を密かに書き換えさせます。船の進水式の日、案の定重みが多すぎて船は進水させられず、由比ヶ浜で虚しく朽ちていくのでした。

・史料・研究との比較

 

 吾妻鏡の描写を見ますと、建保四年(1216)実朝に拝謁した陳和卿が、実朝は前世では医王山の長老、自分はその門弟であったと涙ながらに語りました。実朝は、今まで誰にも話したことはなかったが、建暦元年(1211年)63日、同じ内容の夢想の告げを得たと応じます。実朝は前世に住んでいたという「医王山」、中国の育王山阿育王寺を参拝したいと思い立ち、宋人の技術者でもある陳和卿に、中国式の構造の巨大な唐船を建造するよう指示。さらに、結城朝光を奉行に任じ、付きしたがう人員「六十余輩」を定めました。義時と広元がしきりに諫めましたが実朝は聞き入れることなく造船の決定を下しました。ちなみにそれが源仲章を通じた上皇の差金というのは史料にありません。

 ちなみに実朝の聖徳太子信仰については、早くから吾妻鏡に記述があります。12101015日には「聖徳太子十七箇条憲法、幷守屋逆臣跡収公田員数在所」などに関する記録を進覧させ、同年1122日には持仏堂で「聖徳太子御影」を供養したという記事があります。なので1216年に太子像を見ているという描写は整合性があります。もっともドラマの描写ですと上皇からの影響のように見えてしまうとも言えますが。

 鎌倉殿自ら宋に渡るという話についての評価は様々です。坂井氏の考察では、それまでも和田合戦の予知夢を見るなどの神秘的なパワーを見せており、その流れで自らの超自然的なカリスマ性を高めるための意図的なパフォーマンスではないかと見ています。(坂井 2014)

 五味氏は吾妻鏡の記述を割とそのまま受け止めています。五味氏は、実朝渡航計画はかなり真剣に考えていて、そのための準備をしていたと見ています。実朝は自分がいなくとも幕府はやっていけると考えていたとしており、121日には諸人の愁訴が積もっていることを聞くと、年内にその裁判を行うように奉行人らに指示を与えているが、それは国内の政治に目鼻をつけ、大陸に向かおうと思っていた証拠ではないかとしています(五味 2015)(筆者的には、確かにその年の12月まではそういう記述があるものの、翌年〜船完成まではぱったりそういう記述が見当たらないので、それは留保すべきかなと思います)

 吾妻鏡では出帆に失敗しそのままになったという記述で一般にそのように考えられていますが、異伝もあります。『吾妻鏡』成立時期と似た時期に無住が編んだ『雑談集』(1305) 、第6巻「錫杖事」に、実朝修造の「唐船」による入宋使節派遣の記述があります。それによれば船は葛山景倫を中心とする渡宋使節を載せて由比ヶ浜から出港し、筑紫に差し掛かったところで実朝暗殺の知らせを受けて中止しました。同様の記事が他にもあります。『紀州由良鷲峯開山法燈円明国師之縁起』(1280年に原本が成立)によれば葛山景倫は、実朝の命にて宋に渡るべく鎮西博多津に下って宋船の順風を待っていたところ、実朝逝去の知らせを受けて出家したとあります。(以上、源 2019)。つまり吾妻鏡記述の時期よりも後、実朝暗殺の少し前くらいに実朝の命を受けて唐船による渡宋計画が実行されつつあったが、暗殺によって九州で頓挫したという伝承があるのです。それらを比較検討した結果、将軍あるいはその使者が唐船で南宋に渡ろうとしたこと、船は由比ヶ浜から出帆を果たしたということは史実だろうとする論文があります(大塚紀弘「唐船貿易の変質と鎌倉幕府(日宋貿易仏教文化吉川弘文館2017)

 従来は「にわかに信じがたい」伝説という見方(山本幸司 2001)が多く、坂井氏も五味氏も特に史実としては取り上げてはいませんが、そのように、時期は違えど実朝が作らせた船が由比ヶ浜を出て九州あたりまで行ったという逸話が様々な伝説となっているのは確かです。

・考察

 『右大臣実朝』『北条政子』などで、陳和卿は胡散臭い人物として描かれています。ドラマではそういう文芸作品の陳和卿像を引き継いだのかもしれません。ただ、それらの文芸作品では胡散臭さを実朝が理解して利用するくらいの勢いでしたが、ドラマでは素直に信じて騙されたような感じになっており、理性的で政治的な実朝像としては描かれませんでした。またそれらの作品では陳和卿自身が食い詰めたために鎌倉殿を次のカモにした的な描かれ方でしたが、今回は上皇の差金ということになっていたのもポイントです。

 またドラマでは、宋船プロジェクトには結構色々な要素が詰め込まれていますが、全て充分描写されてはいなかったように思います。

①宋との貿易をする(陳和卿の言葉)

②実朝は聖徳太子が隋に対してしたように、実朝も宋に使者を派遣しようとしている(泰時の言葉)

③いずれ宋に実朝自身が渡って医王山に行き、お釈迦様の骨を頂いてくる、それを通して為政者として徳を高めたい(実朝の言葉)

 という目的が語られ、その結果の効果として

④実朝の権威が高まる(義村、上皇の言葉)

 という話があります。

 ②と③は実は宋船プロジェクトに関わる史料にあるものであり、①は最近の研究で可能性があると指摘されています。

 しかしなぜか登場人物の間では、その後③④ばかりが話題にされ、宋との貿易や国交による利益がどうとかいう話は全く出てきません。清盛の描写で、宋との貿易で富を築いた様子が描かれるのに、不思議な感じです。そして③④が強調されるあまり、なんとなく、実朝だけのために宋船プロジェクトが進んでる印象なのです(だからこそ、泰時がそういう印象を御家人に持たれないように御家人の名前を船に記す案を出すわけですが)。八田殿が自分の普請仕事の総仕上げ的に関わっていますが、あくまでも八田殿個人の話です。御家人が不満を持つ御所の修復案件のように、宋船プロジェクトもまた、御家人たちに関わりない実朝個人の趣味的なこととしてあるという感じになってしまっており、せっかく出てきた幕府全体に関わる①②の話が活かされず、ちょっとどうかなと思いました。

 また気になるのが、夢や宗教的なものの扱いがドラマ内で変化しており、ドラマ前半と違って実朝のケースは周囲が現代的な反応をしているのが気になりました。当時の人にとって夢は決して馬鹿にしたり疑ったりするようなものではなく、内心各人がどう思うにしろ、夢を真面目に取り扱い夢のお告げ通りに何か事業をなすことが当たり前であるという社会的な共通認識があったと思われます。それは吾妻鏡にも様々な人が夢に従って何かを成した話が多く書かれていることからも伺え、義時や政子も例外ではありません。

 ドラマでも、最初の方で何回も出てきた頼朝の後白河院の夢は、コミカルに描かれはしたものの頼朝の中ではかなり真剣に受け止められるものでしたし、義経が御館の幻を見るシーンも厳粛なものでした。また梶原景時が神という概念を引き合いに出して頼朝や義経を見ている考え方も真面目に受け止められるべき描写でした。それが大姫の描写からだんだん怪しくなり、実朝に至っては完全に疑わしいものという扱いでした。それもちょっと一貫性がないなと感じました。

11) 義時との関係

・ドラマ

 義時との関係は最初は良好で、義時も少年将軍を支える気持ちでしたが、徐々に隙間風が。

 時政に実朝が拉致された事件の後、全てなかったことにして時政を赦してくれと実朝が頭を下げたあたりから不穏な感じになります。実朝が頭を下げても冷ややかに見つめたまま。

 実朝が疱瘡の後、心機一転政に取り組もうとしても主体的に発言させず、自分が主体で政治を行おうとします。政は宿老が行い実朝にはただ見守っていただく、とたびたび政子に言い、宋船のことをきっかけとして上皇の言いなりなので政から退いてもらうとまで言います。

 それに対して、政子は実朝を守ろうとし、京から将軍後継者を呼んで養子にし、実朝はそれを補佐する大御所になるプランを提示。義時は反対するも、親王が下向することになって反対もできなくなります。

 そして実朝が御所を将来的に京に遷すと述べたために内心実朝を見限り、公暁の実朝暗殺計画を知りながらそれを阻止しようとする泰時を押しとどめて、実朝殺害を幇助するのでした。

・史料・研究との比較

 義時と実朝の関係では、官位の件で大江広元を通じて諌めたり、宋船の件で反対したりと、対立している様子が従来注目されてきました。また従来の実朝のイメージは北条氏に実権を握られていて無気力だったというもので、その意味でも義時とは敵対的だったという見方が強かった模様です。拝賀式でその場を体調不良で離れたというのも、彼の陰謀を疑わせるものでした。戦前の教科書類や文芸作品などを見ても、それが通説であったことがわかりむす

 しかし最近の研究では、常に完全に同調していた訳ではなく、親裁を始めた最初の方は軋轢もあったものの、特に治世後半、親王将軍を迎えると決まってからは歩調を合わせているという解釈の傾向にあります。

 また拝賀式の件は、後でも述べますが吾妻鏡のように自分から言い出したのではなく、愚管抄に書かれていたように中門にとどまれと実朝に言われてくたというのが真相のようです。北条氏を顕彰する意図の強い吾妻鏡ではそれは書きにくかったという見方が示されています。義時黒幕説はかなり下火の見方です。

 また吾妻鏡をよく見てみますと、義時はよく正月の鶴岡八幡宮や二所詣の旅に供奉しています。官位のことや宋船修造を諌めた逸話の後の時期の、建保五(1217)126日〜25日の二所詣にも義時が供奉していますし、宋船の進水式も義時が監督しています。その年、出家した大江広元の跡を継いで、陸奥守兼任に実朝から推挙されました。諌めたからと言って、関係が悪化してるようにも見えません。

 そもそも実朝の少年時代からよく義時邸や義時の山荘に実朝が訪ねており、その最長のものとしては、建保三年(1215)822日〜118日の75日間、地震や鷺の怪異を避けるために義時邸に移り住んだことが挙げられます。その間は義時は別のところに移り住んだようですが、義時は10月に桑糸五十疋を実朝に献上しています。

 なお、ドラマでは御所を京に遷す計画を語って義時に見限るきっかけを作っていた実朝ですが、史料ではそのような動きは認められません。

・考察

 ドラマは、吾妻鏡に見えるいくつかの軋轢を大きく捉え、後半になるに従ってその軋轢が大きくなるという、最近の史料から伺える方向とは逆のベクトルで描いていたと思います。諫言を何度かしていたのは吾妻鏡では確かなので、「いつも仲良し」ではなかったものの、治世後半になるに従って険悪にとはならなかったと思われます。

 義時はドラマでは「西の連中の言いなりにならない」ことを目指していて、そこが上皇寄りの実朝との確執の中心でした。義村なども「西の連中に乗っ取られるぞ」という懸念を示しており、そのような考えが坂東の御家人の一般的なメンタリティのように描かれています。ところが吾妻鏡などで見られる義時は、決してそのように朝廷に敵対的ではありませんでした。

 当時、御家人である武士が、院や中央貴族など複数の主に仕えることは一般的であったといいます(岩田 2021)。そして承元三年の武芸を奨励するようにという諫言の内容も、よく読むと武芸に励み朝廷を護持することが鎌倉幕府繁栄の基礎であるということを述べており、軍機権門として朝廷を支える幕府像を説いているものでした。

 また吾妻鏡には述べられていませんが、義時自身も官位が上がっており、実朝の官位上昇の恩恵に浴しています(岩田 2021)吾妻鏡には時房が三位を願ったったことが書かれ、実朝から了承されています。実朝が朝廷に接近して認められ官位をあげることは義時をはじめとする北条氏の実利にもかなっていたわけです。そもそも頼朝死後にも引き続き三幡の入内を推進したのは政子や時政であろうこと、北条氏は家格上昇のために自分たちを王家の縁威に位置付けようとしたという見方も指摘されており(元木 2019)、北条氏が朝廷に接近し家格をあげることを忌避するとは考えにくいことです。

 義時が実朝に実権を持たせず、武家の都を作ることを主張し、それを妨げる実朝を排除するというストーリーラインが本ドラマの中心としてありますが、そのような「朝廷と距離を置いた武家政権を作ることを主張する」「実朝を排除しようとする」義時像は、実は共に現在は否定されているかなり古い見方であります。実朝暗殺の黒幕は義時であるという説は古くからあり、明治時代の中学生向けの教育書籍にも既にそのような記述があります。明治大正に作られた歌舞伎でも義時が実朝暗殺の黒幕でしたし、永井路子の『つわものの賦』でも、北条黒幕説が通説のようになっていると語られています。安田元久氏の『人物叢書 北条義時(吉川弘文館1961)でも、やはり義時が黒幕であるとしています。その上、同書ではかなり本ドラマに近い、武士階級の政権を強固にしたいという思想を持った人物として描かれているのも興味深いところです。義時の目的を武士社会独自の政権の発展、武士領主層の繁栄であるとし、その政策のために北条の独裁的体制を作り上げたとしています(安田 1961)(ただし皇族将軍は自らの傀儡にするために義時が発案したとあります)

 またドラマ義時は頼朝自身が武士の都を作ろうとして都から距離を置いたことを再三述べ、自分はそれを継承しているのだ的なことを言いますが、実はドラマでも頼朝についてそのような描写はありません。平家を倒すのも君側の奸を倒して後白河院を支え、あるべき世に戻すという趣旨のことを言っています。そして史実でもまた都への反発的なことはなく、むしろ頼朝は王朝の権威に依拠して主従関係を維持していたとの指摘があります(元木 2019)。東国武士伝統の父子関係の上下よりも王朝の権威である官位を重視し御家人の序列化を図りました。そして娘たちの入内工作を図り、天皇外戚になることを望みました。

 そのような意味でも、義時の「頼朝の御意志」で武家の都を作る的な考えはかなり不自然で、いったいどこから来たのか視聴者としては悩むところです。武家の世を作りそのてっぺんに北条が立つ、というのは、ドラマでは兄の宗時であったはずです。

 

12) 泰時との関係

・ドラマ

 実朝が少年の頃から世話をし、彼から密かに想いを寄せられます。途中で世話役を交代し父の側で働きますが、優しく見守り励まします。ついに想いを歌にして渡されますが(12081211)、和歌を作ったことのない泰時は悩みまくります。そこへ仲章がやってきて恋の歌だと告げ、やっと意味がわかります。しかし考えた挙句間違いではと言って返却し、別の歌を返されるのですが、それは恋が破れたさまを歌ったもので、泰時もさすがにその意味を悟るのでした。

 その後しばらく接触はありませんでしたが、和田合戦で目の前で義盛を惨殺された時、慟哭する実朝を鶴岡八幡宮に避難させるという劇的な形で再会しました。

 和田合戦を契機に親裁の決意を新たにした実朝から、義時に意見できる唯一の者として側近に取り立てられ、彼を補佐しながら共に政を行います。まだ若い二人は未熟ながらなんとか善政に努めようとしますが、義時に阻まれることが多く四苦八苦。しかしなんとか実朝を支えようと頑張ります。政子も実朝陣営に加わり、京から後継者を迎えて実朝自らは大御所となり権力を持つやり方にシフトしようとします。

 泰時もその体制作りに協力する一方、実朝から讃岐守にも推挙されますが義時の思惑もあって固辞します。

 実朝右大臣就任の拝賀の儀では警備を担当しますが、義村の援助で公暁が襲撃する可能性を察知して、実朝に束帯の下に武装することを強く勧めたり、義村を封じ込めるなど措置を次々と行います。しかし襲撃計画に父も入ってることを知って一旦父を探して階段そばから離れてしまい、そこで父たちに止められたために暗殺阻止ができませんでした。

 実朝死後も、親王将軍を実朝の悲願として強く主張しました。

 

・史料・研究との比較

 実朝の身辺の世話を泰時がしていたという記述はありませんが、早い時期から和歌会に出席していました。また12122月には政子と実朝の二所詣に時房らと共に付き従ったり、36日の御鞠始に時房、東重胤、和田朝盛、北条朝直らと共に祗候したりします。

 泰時の名前がよく上がってくるようになるのは、和田合戦が起きた1213年あたりからです。この年は泰時大活躍でした。

 121321日「梅花、万春を契る」の題の幕府和歌会に出席。翌日22日、実朝の側に仕える者の中で芸能に優れた者を選んで結番し、和漢の故事などを講じさせるという学問所番と称した制度が作られましたが、「一番」の筆頭に泰時が選ばれました。また和田合戦で活躍して褒美を取らせるという時に、義盛は主君に逆心を抱いたのではなく義時を恨んで謀叛を起こしたわけで、自分は父の敵を攻めただけであり、賞をいただくべきではないと答えて世間の人びとから感嘆されました(実朝は当然の恩賞であるから受けるようにと重ねて命じました)

 77日の御所の和歌会に参加。826日、広元邸への御行初の供奉人として参加。9月は12日の千人もの参加者のあった駒御覧を進め、22日は秋の草花を見るための火取沢散策に歌道の心得ある者たちのひとりとして供奉。

 1214年は122鶴岡八幡宮参詣に供奉。39日、桜を観に急に永福寺に出かけた時に数名と共にお供しました。主従共に徒歩で行き、帰りは牛車を用意というあたり、ほんと急に思い立ったた感がありますね。7月には大慈寺の供養に供奉。

 建保三年(1215)は元旦の八幡宮参拝の供奉くらいで、その翌年も特に目立った実朝との交流は見えません。(建保三年〜五年あたりは吾妻鏡自体の記述が少ない)

 建保五年(1216) 3月の一切経会の使者を勤め、12月は25日に方違のために内々に永福寺に渡ったさい供奉し、その夜は一晩中続歌の御会が催されました。もしかしたら8月に開催された庚申の夜通しの和歌の御会にも参加していたかもしれません(参加者名は記録なし)

 建保六年1月には泰時を讃岐守に推挙(三月に辞退)722日、侍所司五人が定められ、泰時が別当に任命。913日、明月の夜ということで御所で開かれた和歌の会に参加(78)。

 注目すべきは、将軍権力強化のための政所改革として政所別当9人に増やした後、1218年に侍所別当に義時でなく泰時を据えているところです。義時から侍所別当の地位を譲られたとも考えられますが、吾妻鏡の記述では実朝が設定したことになっています。そして義時が侍所別当であった時にはあった北条氏の特権的なものが外され(北条氏の被官が所司から除れる)、また三浦義村らを指揮して御家人を奉行するようになります(吾妻鏡の方法』)

 また、泰時は実朝から政治的に大きく影響を受けたとする指摘もあります(五味 2015)吾妻鏡の書き方が、頼朝から正当な政道が実朝&泰時に受け継がれたという描き方をしているという研究もあり(藪本 2022)、実朝と泰時はともに良い政を行う名君という共通点があるという吾妻鏡の書き手の意識を感じさせられます。

 

・考察

 泰時と実朝は、実朝の生前は史料ベースでは個人的なエピソードはそれほど多くはありません。

 むしろ吾妻鏡を読むと、ドラマでは登場しなかった数名御家人との、和歌を通じた親密な交流の逸話が印象的に語られています。たとえば「君ならで 誰にか見せむ わが宿の 軒端ににほふ 梅の初花(あなた以外の誰にみせようと思うだろうか、わが家の軒端に美しく咲いて香りを放つ梅の初花を)」という歌を贈った塩谷朝業の逸話や、和歌会の常連で寵愛深く「並びない近習」(建永三年1118日条)と言われた東胤重が下総国に下向し、数ヶ月戻ってこなかったら勘気を被ったとか(義時に相談して和歌を献上したら機嫌が直った)、そして寵愛されること深く、同輩は誰も争わなかったという和田朝盛(義盛の甥)が和田合戦の近くに出家してしまい、一旦御所に呼び寄せたものの結局去られてしまったので「恋慕」が甚しかったとか。

 しかしその一方で、よく読み込むと、和歌を通じた結びつきは泰時も結構強いことがわかってきます。吾妻鏡の中で、和歌会および、実朝が和歌の心得のある者と共に花鳥風月を愛でる外出をした条をピックアップして出席者を書き出してみたら、どの御家人よりも泰時が一番多く名前があがっていることがわかったのです。記載されている名前だけで考えると、もっともコンスタントにそのような会に出席していたことになりますね。北条氏の中では唯一の常連でもあります。また急に思い立って行く、あるいは内々に行く、というような時にいつも同行しているので、北条氏の中ではもっとも気のおけない仲だったのかなと想像してしまいます。目立った逸話がないけれども、地味に結びつきが強いというのは、なんともドラマの実朝と泰時らしい感じですね。(下の表は和歌会出席者を筆者が調べたもの)

 また泰時が1218年に侍所別当に泰時が就任して御家人を統率しようとする姿は、まさに実朝が泰時を取り立てて自らの政を進めていた証であり、ドラマでの描写の理由の一つとなった可能性があります。

 そして減税により撫民政策を共に推し進めようとする姿 は二人に共通しています。

 

13) 実朝暗殺までの公暁を中心とした動き

・ドラマ

 公暁が京から戻りますが、自分が後継者だと思い込んでいたところが、実朝から直々に後継者は京から迎える、その相談相手になってほしいと告げられます。怒って京に帰ると義村に告げるも、千日参籠をしてる間に私が何とかしますと言われます。

 その間に上皇から後継者について知らせが来たので、皆を集めて発表する実朝。そこに千日参籠を抜けて参加する公暁ですが、そこで親王がくだることを知らされ愕然とします。

 しかし三浦が這い上がる最後のチャンスと思い、扇動する義村から父頼家の死の真相も告げられ、北条を憎むように。北条と実朝をうつことを決めます。

・史料・研究との比較

 1217620日、頼家の子公暁阿闍梨園城寺から下ってきて、政子の命により鶴岡別当定暁の跡に入って別当になりました。1011日に鶴岡別当になってはじめて神拝を行ったもののすぐに宿願により一千日にわたる宮寺参籠に入ってしまいます。それから一年あまり公暁の動静は『吾妻鏡』から消え、建保六年125日条に公暁は参籠したまま退出せず、ずっといくつかの祈請を続けていて髪を切ることもない、人びとはこれを怪しんだという記事がみえます。坂井氏は別当としての公的な職務を果たさぬまま参籠を始めたところからみて、鎌倉下向の当初から公暁が何らかの目的を持っていた可能性を指摘し、「おそらく参籠中、園城寺で修行を積んだ僧侶として、実朝を呪詛する祈請をくりかえしていたのであろう」としています(坂井 2014)

 また125日条によれば、公暁は白河左衛門尉義典を、伊勢大神宮をはじめとした諸社に奉幣の使節として派遣しましたが、義典は翌年二月、鎌倉への帰途、公暁の死を聞いて自殺してしまいます。坂井氏は、この義典は実朝暗殺の成功を祈願するための使節であったとも考えられ、建保六年10月、実朝の内大臣任官後のどこかで親王将軍擁立の情報に接し、追い詰められた、切羽詰まった精神状態のなかで呪詛から暗殺へと方針を転換したと考えられると指摘しています(坂井 2014)

 義村の公暁への教唆・協力という動きについては、作家永井路子氏の提唱以来かなり有力な説として流布しましたが、最近の研究では否定される傾向にあります(坂井 2014、山本みなみ 2022)

・考察

 公暁は千日参籠中抜け出したという記録はなく、有力御家人を集めた親王将軍発表の場にいたのは創作です。ただ、坂井氏が指摘するように、途中で諸社に奉幣の使節を派遣したということは、何らかの事情が発生したことを窺わせ、次期将軍が親王に決まったことを知った可能性はあります。ドラマではそれを劇的に表現し、かつその場のやりとりから公暁も実朝も頼家の死の真相を知らないということを示すためにその場を創作したと考えられます。その後二人が真相を知ることで、実朝暗殺のシーンへ向けて物語は大きく動き出すわけです。

 また実朝が抜け出して公暁に会うということも記録になく、可能性としてもあまりないようですが、やはり対面して話し合い、暗殺の引き金を改めてはっきりと引かせてメリハリをつけるために創作されたようです。史実の公暁はずっと実朝に会わず色々計画を進めてたようですが、それですとインパクトに欠けると思ったのかもしれません。

 またドラマでは、三浦がのしあがる最後の機会であるとして公暁を教唆して実朝暗殺に向かわせますが、これは上記のように現在では否定されている考えです。

 

14) 実朝暗殺

・ドラマ

 数名の共謀者と共に大銀杏の影に潜んで拝賀式の帰りを待っていた公暁は、はじめに仲章を義時と思って殺します。仲章が叫びながら走り回りとどめを刺されて絶命すると、今度は実朝に向かいます。

 ようやく階段の下に走り出てきた泰時が鎌倉殿!と叫ぶも、実朝は懐剣を手放して微かに頷き、自ら公暁の刃に倒れるのでした。

 そこで公暁は、阿闍梨公暁、親の仇を取ったぞ!と叫び、源氏嫡流簒奪の企み、ここにと用意した文書を読み上げようとしますが、実朝の遺体の上に取り落としてしまい、血が滲んで読めません。義時が討ち取れ、と叫ぶと兵士が一斉に襲いますがなんとか逃れます。御所に潜入して鎌倉殿の証の髑髏を手に入れ、政子に傷口を手当てしてもらったあとに義村邸にて食事をしますが、義村に殺害されます。

・史料・研究との比較

 史料と言っても『吾妻鏡』『愚管抄』『六代勝事記』『承久記』等で結構記述の相違があります。

 『愚管抄』に迫真の描写がありますが、慈円が実朝のもとに派遣していた弟子の忠快のみならず、公卿の坊門忠信、西園寺実氏、藤原国通、平光盛、藤原宗長らから聞き取ったものであり、その信憑性は高いとしています(五味 2015)。 坂井氏も関係者から聞き取って2年後に書かれた愚管抄が一番信頼性があるとしており、いずれにせよ愚管抄描写が一番現実に近いと思われます

<愚管抄>

 実朝が拝賀を終えて社殿前の石段を下りて、公卿が立ち並ぶ前を、下襲の裾を長く引きながら歩いていた時、法師の格好で頭に山伏の兜巾をかぶった男(公暁)が走りかかり、下襲の裾に乗ると、「ヲヤノ敵ハカクウツゾ」と叫びながら太刀で頭部に切りつけました。実朝が倒れると、男は即座に首を打ち落として取っていきます。

 彼が「ヲヤノ敵〜」と言ったことは「公卿ドモアザヤカニ皆聞ケリ」と記しています。

 続けて同じような格好の者が三、四人飛び出し、松明をかざしていた源仲章北条義時と思いこんで斬り殺しましたが、義時は奉幣の前に実朝から「中門ニトヾマレ」と命じられ、御剣を捧げもったまま中門付近に控えていたため無事でした。現場にいた公卿などは「皆蛛ノ子ヲ散スガゴトクニ」逃げましたが、鳥居の外に控える随兵の武士たちは惨劇にまったく気づかなかったといいます。

 公暁は幕府の長になろうと思うと義村に伝言して義村邸に逃げ込もうとしましたが、義村は追手を差し向け、塀を乗り越えて中に入ろうとしたところで討ち取られました。実朝の首はその後岡山の雪に中より発見されたといいます。

 

吾妻鏡

 愚管抄と比べると、まず大きな違いは義時がどのように実朝の側を離れたかということです。

 前の晩雪が二尺も降る大雪になりましたが、午後6時ごろ御所を実朝の行列が出発します。実朝が八幡宮の楼門を入るとき、義時はにわかに気分が悪くなり、捧げもっていた御剣を仲章に譲って退去し、神宮寺で正気に戻った後、小町大路にある自邸に帰ったといいます。つまり拝賀式の前に自分から体調不良で離脱していたとあります。

 実朝殺害時の描写も微妙に異なります。拝賀の行列の名前の列挙の後、神拝を終えて退出してきた実朝を、石の階の際で窺っていた公暁が剣を取って実朝を殺害したとあります。ある人によれば、公暁は石段の上の鶴岡八幡宮本宮で、父の敵を討ったと名乗りを上げました。仲章殺害については触れられていません。その後随兵たちが馬で駆けつけたが、公暁の姿はすでになく、公暁は後見人の僧侶宅に逃れます。そこで実朝の首を離さず食事をとりつつ義村に幕府の長になることを伝えますが、義村は義時に公暁の件を伝え、殺害します。

 

<承久記> 

 儀式が終わって出るころ、何人かの薄衣を着た女房たちが、中の下馬先の渡り廊下から走るのが見え、そのものたちが石段のところで窺って実朝に襲い掛かります。一の太刀は笏で受け止めて、ニの太刀で切り伏せられます。

 坂井氏は、吾妻鏡の記述する行列の順番に注目し、順番的に仲章に義時が具合が悪くなったから変わってくれと連絡するのは難しいとしています。実朝から中門にとどまれと義時が命じられたというシチュエーションも、北条氏には不名誉な事なので変更されたのだろうとしています。

 ちなみに泰時が駆けつけようとして駆けつけられなかったことは史料には見られません。

 また公暁が大銀杏に隠れていたということは江戸時代の文献初出で、それが鉄道唱歌になって一般化したと見られています。

 https://web.archive.org/web/20190507003240id_/https://www.jstage.jst.go.jp/article/plmorphol1989/13/1/13_1_31/_pdf

13_31.pdf

 

・考察

 ドラマでは、愚管抄の描写はもとより、吾妻鏡の描写でもない、かなりドラマチックな変更をおこなっています。

 たとえば公暁の犯行は、突然後ろから襲いかかって裾を踏んで切りつけ、倒れたところを首を落とすという、あっという間の出来事だったようですが、それがドラマでは、皆が見守る中、階段の真ん中でじっと見つめ合ってからおもむろに殺すという、非常に演劇的なシーンになっていました。

 公暁が大銀杏の影に隠れていた、という有名な逸話は後世の創作ですが、それも使っています。(44回で出てきた地図でわざわざ「大銀杏」のマークがあります)

 公暁が「親の仇をうった」と叫んだのは、愚管抄準拠で史実に沿っていますが、そのあとに正当性を演説しようとしたのは創作です。また公暁は実朝の首を取って、それを離さず見方の僧侶の家でご飯食べたというエピソードが有名ですが、こちらの方は逆にドラマチックさを避けて首ではなく、鎌倉殿のレガリアたる髑髏に変更されています。最期は義村の家で義村本人に討たれる、という変更がなされています。

 また義時が列を離れたタイミングおよび仲章交代自体は吾妻鏡準拠ですが、仲章は突如現れて強引に義時と入れ替わったことになっています。仲章は義時の放った刺客に襲われたものと義時が思い込んでいたが実は生きていたという設定のためです。

 そしてこれは大きなポイントですが、そのように偶然列を離れた義時は実朝暗殺計画を泰時から事前に知らされますが、泰時を止めて暗殺幇助的なことをします。これは昔ながらの「義時が黒幕かもしれない」という解釈の採用であり、最近の研究でわかってきた義時も実朝と協調路線だったこととは相反する描写です。

 ちなみに天候ですが、その晩に大雪が降って二尺積もったという記述はありますが暗殺の時降っていたかどうかは定かではありません。明治時代にいくつか作られた、実朝暗殺をモチーフにしたらしき演劇や歌舞伎の錦絵を見ますと、雪が降ってたり降ってなかったりします。現代の学習漫画でも同じくです。

香朝樓: 「源実朝 中村福助」「禅師公暁 尾上菊五郎」 - Waseda University Theatre Museum - Ukiyo-e Search

 そして先程も述べた、公暁と実朝がじっと見つめ合うシーン。公暁が飛び出してきた時はかなり驚愕した顔をしており、公暁の襲撃が全く予想外だったということが表れています。そこで対峙しますが、泰時からもらった懐剣を引き出して握りしめて、そろそろと抜きかける実朝。しかし儀式の前に邂逅した歩き巫女の「天命に逆らうな」という言葉を思い出して懐剣を取り落とし、微かに微笑んで頷き、公暁の刃を受けます。この「頷く」というのはト書にあったそうです。

 これは明らかに明月記や吾妻鏡の記述と異なります。ではなぜそのようにしたのでしょうか。

 まず、すぐに殺されない、多少は応戦しようとした、という作劇のヒントを与えたと思われるのが、『承久記』の記述です。承久記では笏で最初の太刀を受け止めるという記述がありましたが、ドラマでは笏ではなく懐剣で応戦しようとしかけた形に変えられていました。

 そして「自ら公暁の刃を受けて死ぬ」という描写、これは「死を前もって覚悟していた実朝」という、昔ながらの実朝像の影響が大きいのではないでしょうか。確かに、将軍になって以来北条氏に実権を握られて厭世的になり、宋に行こうともしていた…とか、自分もいずれ北条氏に殺されるのではとかいう形での「死の予感」をしていたという従来の描かれ方とはドラマは違う描き方をしており、その意味で以前から死を意識していたようには見えませんでした。しかし頼家の死を知るタイミングを拝賀式直前にし、それによる自らの地位への疑い、公暁への済まなさ、公暁が自分を憎み殺そうとする気持ちへの理解が発生したため、公暁を前にして「死を受け入れる」実朝になったと思われます。

 もっとも一旦は公暁の説得に成功したと思っていた訳で、だから彼の登場に驚いた顔をしていました。しかし、懐剣を取り落とし頷く姿からは、ああ、やはり私の説得如きでは無理だったのだなあ、それは仕方のないことだ、と感じたような印象を受けました。

 ただそうなると、「出ていなば」の辞世の句を一体いつ詠んだのか?という疑問が生まれます。公暁の登場に驚いていましたが、心の底では殺されるかもしれないと感じていたのでしょうか。「太郎のわがまま」を所持していたのも、少しは襲撃を予想していたのでしょうか。

 ちなみに柿澤氏のインタビューでは、公暁に会いにいく際に実朝が感じていたこととして

>「謝るしかないし、殺されることも覚悟していた。」

>「詳しくは言えないんですけど、あそこに行く前に、実朝はあることをしていると思う」

 と語っており、演じ手の解釈としてはもしかしたら辞世の句はこの時書いたという設定にしたのかもしれません。

「鎌倉殿の13人」寛一郎と柿澤勇人が語る公暁と実朝、対話の舞台裏 寛一郎「公暁には『許す、許さない』の葛藤があった」(エンタメOVO - Yahoo!ニュース

 

 

15) 実朝の「京志向」「武を軽んじる」について

・ドラマ

 ドラマの実朝は、あまり京への執着・関心を示していません。

 確かに京の上皇を政の手本としようとしますが、あくまでも自分の名付け親の上皇の政治手腕を尊敬してということからです。和歌を愛し定家から添削も受けますが、それによって京に憧れるという描写はありません。しかし44話で唐突に、将来的に御所を京都に遷すという計画を述べています。

 武芸に関しては、確かに少年の頃課せられたスパルタカリキュラムを受けている様子では、どうも武芸系は苦手なのだなとわかりますが、それでその後非難されてはいません(義盛に武家の棟梁なんだからそんな細い体ではとはっぱをかけられる程度です。切的では楽しく弓の競技を見物しており、そういうものに興味がないという描写はありません。

 

・史料・研究との比較

 

 実朝の京への憧憬の証としてよく引き合いに出される京かから御台所を迎える件は、上でも書いたように周囲の大人の思惑が強いものでした。京文化である和歌への傾倒も、やはり上記のように政子のお膳立ての可能性が指摘されており、また和歌は政と直結するもので、為政者として当然の嗜みでした。周囲に「京に馴るるの輩」を置いていたとの記述もありますが、それは政の必要に迫られてのものとも言えます。

 実朝はむしろ京にのぼりたいと願い出た御家人を叱責したこともあります。

 蔵人左衛門尉時広が禁裏奉公のため上洛することを申し出たため、実朝の気色は頗る不快で、殿上の仙藉に交わってからの下向であるのだから、京に帰る必要はないであろう、帰りたいのは関東を蔑ろにするつもりなのか、と叱咤したといいます。これに時広は、京都を中心に考えているのではなく、御拝賀の前駆のために駆けつけた故、まだ十分に朝廷に仕えておらず、幸いに除籍されてはいないので、まげて恩許を蒙って望みを達したい、と義時に泣いて訴え、やっと実朝から上洛を認められたとのことです。

 とはいえ、確かに京風文化を積極的に取り入れる傾向があったのは確かです。たとえば和田合戦で消失した御所の再建の際に、実朝の指図で中門を建てることとなりましたが、これは京の寝殿造の御所と同じく中門廊を構えることにしたもので、京文化が御所の建築にまで及ぶようになった証です。また新御所の障子の絵図の風情が実朝の意にはかなわなかったことから、職者に尋ねるよう京の佐々木広綱のもとに伝えています。左大将拝賀の儀の際には、後鳥羽から下賜された檳榔毛の牛車や、豪華な調度・装束が人びとの眼を驚かせました。

 和歌の名手ということが有名ですが、実は蹴鞠にも興味を示しています。元久二年(1205年)三月一日に若宮別当坊で蹴鞠を遊ぶなどしでおり、 21歳の建暦二年(1212年)になると、実朝はみずから「旬の御鞠」を発案し、メンバーを厳選して「幕府御鞠始」をおこなうようになりました。

 武芸に関しては、諫言を受けたり暴言吐かれたりする逸話が有名ですが、しかし吾妻鏡を見ると相撲や流鏑馬などの武芸を見るのは好きそうな感じで、現代でいうところの見る専だったような印象を受けます。

 

・考察

 従来実朝を描いたものでたいてい触れられていた実朝の「京かぶれ」について、本ドラマでは全く触れていないのは大変画期的であると思いました。ドラマのみ見て従来の実朝像を知らない人は、まさか実朝が京かぶれ的に批判的に言われていたとは全くわからないでしょう。また武芸を怠ってるという非難をされていたともわからないはずです。武芸が不得意でも見るのは楽しいという描写は、吾妻鏡に沿ったものでした。

 その意味で、過去の実朝像は相当払拭されたと言っていいでしょう。

 ただ、上皇の政のやり方に学び親裁を行おうとし、それだけならまだしも知らず知らずのうちに宋船の件で上皇の差金にのり、「自身を揺るぎない鎌倉のあるじ」とするため、上皇の子供を後継とし自身は大御所となる構想を立てると、全て上皇の思うままというか上皇の操り人形のような描写になってしまい、さながら「上皇かぶれ」というべき状態の描写になっていました。

 京志向/武芸蔑ろ的な吾妻鏡の逸話が全てばっさり削除されてたのは大変思い切った描写でしたが、その代わりに別の側面で京からの悪しき影響を受けている描写になってしまっています。

 

16) 官位について

 

・ドラマ

 ドラマでは4344話で実朝の官位昇進が述べられます。

 親王将軍の後見として左大将に昇進し、頼朝の右大将を超えたと仲章に言われます。微妙な表情をしながらもおめでとうございますと言う義時、そして泰時。実朝は従三位に尼御台が叙されたことも告げ、そうなるとできれば太郎にも官位をと望み、仲章に相談して讃岐守に推挙しようとします。しかし仲章に借りを作りたくない義時は反対します。

 またその後、将軍になるのが頼仁親王と決まったあと、一日も早く鎌倉殿を親王にお譲りし、父上も見たことのない景色を見たいと言います。つまりそれは大御所になり、さらに強大な権威を手に入れるということでしょう。

 右大臣昇進自体は直接描かれませんが、それに喜ぶ北条一族は描かれます。浮かれる人々を見て呆れる義時に、身内から右大臣が出たのが嬉しいんですよと語る政子。

 左大将、右大臣昇進を含め、実朝の官位上昇については特に何も言わず、各種儀式を滞りなく進めたい義時ですが、将来的御所を京に遷すという構想を実朝に告げられた途端、強く反発し、見捨てる決心をします。あのお方は鎌倉を捨て、武家の都を別の所に移そうと考えておられる、そんなお人に鎌倉殿を続けさせるわけにはいかんと時房に告げるのでした。

 

史料・研究との比較

 一般的には実朝の朝廷趣味の反映、あるいは実権のない無力さを慰めるため分不相応に官位を欲していたように思われていた実朝の官位の上昇ですが、近年はそのような見方が否定される傾向にあります。

 まず実朝の官位を整理しますと、1203年兄の跡を継いだ実朝は12歳で従五位下でスタート、2年後には五位中将、4年後18歳にして従三位になり公卿に。その後しばらく官職の動きはありませんが(位階は22歳で正二位になっている)、建保四年に25歳で権中納言になって以来急激に官位を上昇させ、右大臣にまで上り詰めました。

 そのような急激な官位上昇について、承久の乱が起きた十数年後に原形が成立した『承久記』には、後鳥羽が実朝を「官打ち」にしたという記述がみられます。「官打ち」とは身にすぎた高い官職を与えて災いが及ぶようにする一種の呪詛であり、この官打ち説に対しては長らく額面通りに受け止められる傾向にありました。

 もっとも実は戦前から、これについて疑う意見が多少は出ていました(高須、1932・n三浦、1922 川田、1941 など)。しかし戦後も引き続き、学術的一般書においてすら官打ち説を肯定的に引用する記述が続きました(上横手、1958 など)

 他の貴族の官位上昇と詳しく比較検討して、官打ち説を否定したものとして有名なのが、1997年の元木泰雄氏の論文です(「五位中将考」( 山喬平教授退官記念会編『日本国家の史的特質 古代・中世』思文閣 版、1997)本論文では、官打説の当否について上皇と実朝の関係を深く分析することについて「本稿ではこの点に立ち入ることを避け」るとしているものの、実朝の家格と昇進の関係を考えると「晩年の実朝の昇進は決して異常と言える程のものではなく、元来摂関家庶子なみに位置付けられた家格から考えると、彼の昇進を『官打ち』とする説にはにわかに従い難い」としています(同書p. 502-503)。詳しく見ますと、実朝は「官職」の面では、公卿昇進の年齢は摂関家庶子なみであったり、権中納言昇進年齢は、他の同職に昇進した公卿たちより年齢が遅かったりするなどのスピード感でしたが、「位階」の面では22歳で正二位になるという摂関家嫡流並みの扱いで、彼の家格を反映してると指摘します。また実朝は五位中将を経験し権中納言中将という地位につきましたが、そのような昇進をした者の多くは摂関家嫡男でありました。建保六年に左大将昇進に固執したのも、左大将が摂関家嫡流が多く就任した官職であったことと関係している可能性も指摘しています。

 それに基づき、岩田慎平氏は実朝はその家格から、彼自身の意志はともかく以前からその昇進ルートは敷かれていて、実朝はそれを大過なく辿っているに過ぎないと指摘します(岩田、2021)。兄頼家は五位中将の地位を認められ、実朝も五位中将を経て中納言中将の地位を得ますが、通例はこのあと大将をへて大臣に就任するわけで、実朝もそのルートに乗ったということになります。野口氏も摂関家に準ずる権威を付与されていたことからすると決して異常というほどのものではなく、後鳥羽院と実朝の蜜月の証と捉えるべきであるとしています(野口、2022)

 もっともそれに対し坂井氏は、官打ち説を後世のこじつけにすぎないとしりぞけるものの、昇進自体については、上皇が「親王を補佐するのにふさわしくなるよう、異例の速さで実朝の官職を上昇させ、年末には右大臣という信じ難い高官に補任した」(坂井、2022)と述べており、かなり異常事態と捉えています。しかしその異例さというのは、「(前任の)良輔の死去という事情があったとはいえ、内大臣任官から二ヵ月も経たないまさに異例中の異例という速さである。太政大臣が名誉職化していた当時の官制体系にあって、右大臣は左大臣に次ぐ、武家ではとうてい到達することのできない想像を絶する高い地位であった(坂井、2020)とあるように、あくまでも「武家としては」ということに着目した場合に、異例さが際立つという表現です。

 いずれの立場にしろ、そのような高い官位を所望するのも、親王将軍の後見ということを見据えたものであり、よく言われていたような実朝個人の憂さ晴らしや名誉心からではないし、まして上皇の官打ちではないという見方が主流です。

 

 そして有名な建保四年の広元・義時の官位を望みすぎることへの諷諫にしても、そのまま受け取るにしてはあまりにも不自然であることが様々に指摘されています。吾妻鏡によれば、建保四年九月十八日、義時は広元を招き、実朝が大将への昇任を内々に思い立った件について、壮年に達してないのにそのような官職の昇進ははなはだ急であること、また、御家人たちも京都に祗候することなく地位が高く重要な官職に補任されていている件も良くないと思っていることを告げ、広元から申し上げてほしいと依頼したというのです。広元はこ現在の官職を辞し、征夷大将軍として年齢を重ねてから大将を兼任するべきではないか、と諫言しましたが、これに対し実朝は、諷諫に感心するが源氏の正統は自分で絶えるため家名をあげたいと答えたことも有名です。

 五味氏は、時期的に建保四年九月頃の記事としてはいささかおかしいという指摘をしています。その頃は実朝は権中納言中将になったばかりで直衣始もまだ行っていない段階だからです。関連記事がなく説話的な内容であることもあり、もしも仮にそのような諷諫があっても宋船が浮かばなくなった事件の後の建保五年九月頃だろうとしています(五味、2016)

 坂井氏はさらに詳しく述べており、この逸話が相当作為に満ちていることを指摘しています(坂井、20192020)。たとえば広元の「摂関の御息子にあらずんば」という発言は、頼朝頼家の代から鎌倉殿が摂関家とほぼ同格ぼ扱いを受けていたことを知ってる広元のものとして不自然であり、「中流貴族レベルの一介の御家人に過ぎない広元が、摂関家と同格である主君の将軍に対し、治天の君後鳥羽が任じた官職を辞任するよう勧めることなど、少なくとも承久の乱以前の朝幕関係の中ではあり得ない」(坂井、2020)と述べます。これは続く「いかでか嬰害・積殃の両篇を遁れ給はんや」、つまり災いから逃れられないという言葉を導き出すためのもので、実朝横死を因果応報的に正当化した吾妻鏡編纂者の作為ではないかというのです。それに対する、実朝の源氏の正統は自分で終わるという言葉も、同様に正当化のための作為ではとしています。さらには吾妻鏡では義時自身の官位上昇に関して口をつぐんでいながら、義時に御家人が高い官位につくことを過分であると非難させることも不自然であると指摘します。鎌倉年代記』や『尊卑分脈』で見ると、この頃の幕府首脳御家人は揃って高い官位や地位を得ており、義時自身、建保5年に、まさに吾妻鏡で彼が非難した、御家人がおいそれとなるのを控えるべき、本来なら在京すべき顕要な職のひとつである右京権大夫に昇任しているのです。この諷諫に作為性があることについては、吾妻鏡の叙述について研究している藪本氏も同意しています(藪本、2022)

 確かに建保六年には、実朝が官位上昇を望むと見られる記述があります。建保六年政子が親王下向の交渉のため鎌倉を発ったのが二月四日ですが、その六日後の二月十日には大将昇任という実朝の希望を朝廷に伝えるため大江広元が使者を京都に派遣、さらに二日後には、右大将ではなく必ずそれより上位の左大将にという実朝の意思を伝える使節が上洛しました。政子が京で交渉中に、朝廷に対し矢継ぎ早に使者を派遣して官位に対する要望を伝えているわけです。これを坂井氏は「実朝がその後見になるには、権大納言・右近衛大将を生涯最高の官職、いわゆる極官とする亡父頼朝より高い官職が必要だという実朝の意思表示だった」と見ています(坂井、2014)。五味氏は、その前年に発生していた朝廷の右大将人事の関係(後述)で右大将ではなく左大将を希望したのではとしています(五味、2015)。いずれにしろ重要なこととして、それは実朝ひとりの考えではなく幕府首脳の総意であろうということです。左大将人事の件は政子、時房、広元らが関係しており、実朝個人の趣味や慰めでも、まして自分で源氏が終わるので家名だけでも高めたいという気持ちからでもなく、幕府が一体となって進めた施策であったことが伺えるわけです。

 

 

・考察

 実朝の急激な官位の昇進について、ドラマで

・ありがたく喜ばしいことであるが、特に異常なこととして描かない

・近年の研究で不自然さが色々指摘されている、官位上昇を諌める逸話がばっさりなくなっていた

 となっており、研究成果を踏まえた大きな進展だと思います。坂井氏は官位については異常な昇進であるとしていますが、個人的には、元木氏が実朝と雁行して右大臣に昇進していると指摘している摂家嫡男の近衞家通の昇進と比べてもさほど異常には見えないところから、摂関家に準ずる家格の側面を重視し、先例を無視しがちな後鳥羽上皇の人事の傾向を考えるなら、当時の源氏の棟梁としてはそこまで異常ではないとする見方が妥当かと思います(筆者作成の下図参照)

 また、特に官位に関する諷諫は昔からずっと実朝の逸話として代表的な話とされているものであり、「公家かぶれで孤立した悲劇の将軍、という実朝像の論拠になった記事」(坂井、2019)でした。これを描かないのは大英断と言えます。また左大将への昇進を実朝の官位上昇志向のためでなく「親王将軍の後見」のためと位置づけているのも、近年の研究動向に見合ったものでした。

 むしろ、ドラマでは意識的に、実朝の朝廷に対する官位に関する働きかけを描かないようにしており「官位を欲しがる実朝像」にならないよう周到に描写しています。たとえば左大将昇進については、ドラマでは特に幕府からの働きかけはなかった描写ですが、実は上に書いたように実朝(と幕府首脳陣)が指定し要求した官職でした。そのような経緯を描かないことで、実朝の「官位を望みすぎる」「公家かぶれ」イメージを出さなないようにしてるわけです。 

 またドラマ内で実朝に敵対的に描写されていた義時すらも、一貫して実朝の官位上昇自体には特に不満は抱いていないように描かれていました。身内から右大臣が出ることを北条一族が喜んだ時もはしゃぎぶりに呆れつつも同調していましたし、官位関係で不満をあらわにするのは、泰時の讃岐守推薦に仲章がいっちょがみして恩を売ることに対してです。広元に至っては全くそれを気にする様子もありません。

 

 そのように、自らの慰めのために官位の上昇をしきりに望む、という実朝像にしないということは、和歌や蹴鞠などの貴族趣味に耽溺して政を顧みない、あるいは北条氏に実権を握られてその慰めをそれらの文化活動に見出している、というステレオタイプの実朝像にしないことと共に「従来の実朝像の否定」であると思われます。和歌・官位へのこだわりは、従来実朝の極めて私的な志向として捉えられ、東国武士から浮き上がる要因とされていたものですが、近年の研究により、私的なものでなく公的なものとして、またそれらに積極的に関わることは東国武士の文化に反するものではないと捉えられるようになりました。

(もっとも、義時の諷諫のニュアンスは、ドラマで全く棄却されているわけではありません。若くして高い官位を得ること自体への反対は、泰時の讃岐守推挙への若輩者であるという反対意見に、頼朝と比べて実朝が実績がないとする気持ちは、官位で頼朝を超えたという仲章の言葉への苛立たしげな表情に、それぞれスライドさせて表現していると言えます。)

 

 しかしその一方で、建保五〜六年の実朝の朝廷への官位絡みの働きかけで、実朝のみならず、幕府首脳の官位・地位が上昇したことを描かなかったことで、次々と朝廷に要求を認めさせていった実朝の影響力が描かれなかったのは残念なことです。上にも少し書きましたが、左大将の件は実朝側が強く要求したのですが、実はその前年にも、右大将の人事をめぐっても実朝の意向が大きく影響する事件が起きました。愚管抄によれば、建保五年に、幕府と朝廷の取次役である西園寺公経上皇の右大将人事に不満を持ち、遠縁の実朝にその件を訴えると言ったと上皇に伝えられたために上皇の勘気を被り、籠居という事態が発生しました。その際、公経のライバルの関係者である卿二位について、実朝が「敵に思う」とまで言って激怒したことが伝わったため、卿二位が驚き実朝をはばかって善処し、籠居は解かれたのです。これはドラマで全く描かれませんでした。この事件は従来一般にはあまり重視されなかったもので、取り上げられるとしても、その騒動の結果、上皇と実朝の間に軋轢が生まれたのではという解釈の中に嵌め込まれてきました。近年では、実朝の怒り卿二位の驚きと対処→という動きの中で、卿二位が政子の従三位への働きかけをしたのではないかという、つまり実朝の怒りが結果的に幕府に有利な流れに繋がったのではということが指摘されるようになっています(田端、2005 五味、2015  野口、2022)。これまで実朝の事績としてこの件があまり取り上げられなかったのは、おそらく実朝が朝廷に強気に出るということが、上皇に従順だったり政治に関心がないという既存の実朝像にそぐわなかったためでしょう。

 ドラマでもこの件が描かれなかったのは、朝廷の顔色を伺ってばかり・操られてばかりというドラマ内の実朝像と整合性が取れないためと思われます(煩雑さを避けるためももちろんあると思いますが)。左大将絡みで幕府首脳が一体となって朝廷に要求する動きをしたことを描かななかったのも、同様の意図からでしょう。「官位を望む従来の実朝像」を否定してはいるものの、実朝の対朝廷への影響力の大きさや幕府首脳陣との協調などの様々な新しい知見は、ドラマの流れと矛盾するために描写されなかったわけです。

 ちなみに西園寺公経は実朝の遠縁(頼朝の姉妹・坊門姫とその夫一条能保の間にできた全子を妻)にあたり、上流貴族としてはそれほど家柄は高くなかったものの、幕府と朝廷の取次役として幕府にとって重要な人物でした。彼が養育していた孫が三寅な訳で、ドラマ内で三寅の血縁関係が義時らに飲み込みにくいという表現がなされていたのはいささか実際と異なるように思われます。

 

4.まとめ〜新しい実朝像になっていたか

 全体に、新しい知見を取り入れたり細やかに史料を拾っているのは大変素晴らしい点と言えます。たとえば、実朝についてはどの時代のどの媒体でも言われがちだった「京文化かぶれ」「実権がないのを紛らすため和歌に耽溺・いたずらに官位を望む」が一切描かれませんでした。特に戦後史学や学習漫画等で強調されがちだった「東国武士から理解されず浮く・苦言を言われる」という描写もありません。和歌ひとつとっても、ネガティブな現実逃避の場ではない事、実朝が興味を持つよう和歌を政子が用意したり、その中でも頼朝の歌を実朝が好きになったりなど、研究や史料を細かく拾い上げています。

 また政治への積極性を描き、義時に対抗していこうとする動きを描いたのも新しい点でした。多くの文芸作品などでは和田合戦を契機にやる気をなくしたとか死を意識したとなっていますが、ドラマでは逆に、最近の研究動向で明らかになってきた和田合戦以降将軍親裁を強化する動きを反映しているといえます。義時と対立的であるという描写は古いものですが、そこに接続された政治意欲の向上の描き方は新しいと言えましょう。

 ただその一方で、その「義時と実朝が対立的である」という古い図式を温存したため、そして義時側を「是」とする作劇のために、実朝が「是」ではない側に立たされるということになってしまいました。

 そしてその対立の原因が、朝廷を敵視する義時に対して朝廷を重視する実朝という事になっているのが、史料や研究から大きく外れてるところでした。義時の朝廷敵視が新しい研究ではそうではないということがわかってきています。

 また、義時と実朝の対立のクライマックスになり、2人が完全に決別する最高潮になるべきシーンが、幕府を都に遷すという前触れのない実朝の発案シーンの創出で、ドラマ的に唐突感が拭えませんでした歴史的にも研究者からもありえないという意見が出ています。確かに「新しい」見方ですが、考えようによっては究極の「京かぶれ」(今まで封印してた)描写であって、古い実朝像から起因してるともいえましょう。

 脚本家は、本ドラマの中で新しい説を取り入れながらも、通説も適宜取り入れて大切にするといったことを多くやってきました(鵯越」など)。実朝像も、同じ手法を取り入れて、通説に馴染みがある人も親しめるように作った、と言えるかもしれません。しかしそのように、新しい知見と古い知見の接木は残念ながらぎこちないものになってしまいました。またせっかくかなり積極的に新説を取り入れた成果が、それにより霞んでしまったという結果になってしまったように思います。

 

 その理由として、史学上の「新しい実朝像」は「従来の実朝像」と真逆といっていいほどの評価であることがあります。特に戦後史学の中でかなり否定的だったのがかなり高評価になりました。つまり新しい像は古い像の付け足しや微調整ではなく、全く逆の価値観を示すものであったのです。水と油のようなそれらを混ぜるてドラマを作るのは、かなりな困難があったかと思われます。

 そしてその像の変化の背景には、ダイナミックな中世史学の潮流の変化がありました。従来の実朝像の形成に重要な役割を果たしていた「従来の武士/公家像」の刷新、それに理論的背景を与えていたマルクス主義史観、東国国家論が後退・相対化されたことと、実朝の見直しは不可分であります。

 このドラマにおける武士/公家像、中世世界の枠組みが、まさにその、現代では後退した「従来の史観」で描かれる旧態然としたものであること、義時が東国国家論を深く内面化した人物であり、京都とは隔絶した武家の都を作ると意志しており、そのような義時の思想を是とする描き方であることから、実朝は戦後史観の中でのように、義時と対立する存在に位置付けられ、その評価は必然的に低いものにされざるを得ませんでした。すなわち、あらあらしくも清新な武士が堕落した朝廷から独立し打ち破ることが「是」であり、そのような悪しき朝廷に接近したり取り込まれたりする実朝は未熟であり排除されるのもやむなしというものです。ですから実朝が良い政治をしたという吾妻鏡の描写も、無視されたり悪い政治だったという風に変更されました。それを基調とし、物語のアウトラインとしてるが故に、通説のネガティブさを省いたり政治に意欲を示すという「新しい実朝像」を打ち出してもそれらが旧説のネガティブな要素を打ち消しきれていませせんでした。

 また一方で、従来の実朝像の踏襲として、死を予感し死を受け入れる悲劇の若き貴公子という、文芸作品で強調されてきた従来の実朝像がありますが、これはドラマ内での実朝評価を多少なりとも上げる結果になりました。主人公義時と逆の価値観を持ち、視聴者にも消されてもやむなしと思われてもいたしかたない実朝の死を、そのような悲劇性、崇高性によって彩り、視聴者が悲しく惜しいものとして受け止めるように作られていましたためです。これは、ドラマ内で否定的に描かれていた登場人物が、死に際に視聴者の同情や感情移入を一気に高めるように描かれるという、本ドラマの法則というべき作劇手法にも則っています。もっとも、その「死を予感する」内容を、戦前の教科書類や一部文芸書などで描かれていた、頼家のように北条氏から排除されるかもしれない、ではなく、恨みから公暁に殺されるかもしれないとしたことは、大きな変更でした。また頼家の死を知り公暁の恨みを知るタイミングを拝賀式直前にしたことは、ドラマ上の仕込みが足りなく唐突かつ不自然に見えました。その方向で描きたければ、もっと早くから色々と伏線が仕込まれていればと思えてなりません。

 高橋昌明は『武士の日本史』(岩波書店2018)の中で、「儀式や享楽に明け暮れ、無為と退廃のなかで未来を見失った都の貴族を、地方で農業経営や開発にいそしみながら、たくましく成長してきた新興勢力の武士が圧倒し、やがて貴族に代わって、鎌倉時代という新しい武家の世を開いたとする見方」は、中世史の学界では今では過去のものになったにも関わらず、「一般にはなおこの理解が日本人の常識であり、ほとんどあらゆる歴史小説、テレビドラマなどの当然の基調になっている」(p. 11)と指摘しています。また、『論点 日本史学(ミネルヴァ書房2022)では、戦前からある「文弱な女々しい貴族と健全で勇ましく男らしい地方武士という図式」と整合性のある「地方の武士が都市に巣食う古代貴族を倒して新時代を開いてゆく」という日本中世史理解、すなわち在地領主制論が戦後唱えられ、階級闘争史観に基づくこのような武士理解が今日に至るまで続く通説的理解を形成した、と述べられています(31武士論 p. 70)。そのように史学者側からは、古い武士観がいまだに強固に通説として流通し、エンタメなどで繰り返し描かれていることを指摘する声が様々にあがっています。今回のドラマの実朝像も、残念ながらその武士像に基づいた作劇によって描かれていますが、それだけに、昔から連綿として続くそのような武士像のレガシーから逃れるのは、エンタメ作者にとっては並大抵でなく大変なのだろうなあと実感しました。本ドラマで新しい実朝像もいくつか提示してくれたことを喜びつつ、もし今後さらにドラマなどで取り上げられる際には、刷新された武士/公家像も踏まえてくれたらさらにいいなあと思う次第です。

<了> 

 

参考文献一覧(研究書系)

石井進著作刊行会編『石井進の世界① 鎌倉幕府(山川出版社2005)

・岩城卓二・上島享・河西秀哉他編著『論点 日本史学(ミネルヴァ書房2022)

・岩田慎平『北条義時-鎌倉殿を補佐した二代目執権 (中公新書 2678)(中央公論新社2021)

・上杉和彦『源頼朝鎌倉幕府(吉川弘文館2022)

・奥富敬之『鎌倉北条氏の基礎的研究』(吉川弘文館1980)

上横手雅敬人物叢書 北条泰時(吉川弘文館1958)

川田順『評釈日本歌集』(朝日新聞社1941 )

・黒田俊雄『黒田俊雄著作集5 中世荘園制論』(法蔵館1995)

五味文彦本郷和人()『現代語訳吾妻鏡7〉頼家と実朝』(吉川弘文館2009)

五味文彦本郷和人()『現代語訳吾妻鏡8承久の乱(吉川弘文館2010)

五味文彦本郷和人()『現代語訳吾妻鏡 別巻 鎌倉時代を探る』(吉川弘文館2016)

五味文彦源実朝 歌と身体からの歴史学(KADOKAWA2015)

五味文彦吾妻鏡の方法 事実と神話にみる中世』(吉川弘文館2018)

・坂井孝一『源実朝 東国の王権を夢見た将軍』(講談社2014)

・坂井孝一『承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱 (中公新書)(中央公論新社2018)

・坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか 』(PHP研究所、2020年)

・坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人びとNHK出版新書 679(NHK出版、2022)

・関幸彦『戦後 武士団研究史(教育評論社2023)

・高須梅渓『国民の日本史; 第五編 鎌倉時代 後編』(早稲田大学出版部、1923)

・高橋昌明『武士の日本史』(岩波書店2018)

・田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち (歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館、2005年

・永原慶二『20世紀 日本の歴史学(吉川弘文館2003)

・野口実・長村祥知・坂口太郎『公武政権の競合と協調 (3) (京都の中世史 3)(吉川弘文館2022)

・三浦周行『日本史の研究』(岩波書店1922

・三木麻子『コレクション日本歌人 051 源実朝(笠間書院2012)

元木泰雄「五位中将考」( 山喬平教授退官記念会編『日本国家の史的特質 古代・中世』思文閣 版、1997)

元木泰雄源頼朝 武家政治の創始者中央公論新社2019)

・安田久元『人物叢書 北条義時(吉川弘文館1961)

・藪本勝治『日本史研究叢刊44 吾妻鏡』の合戦叙述と〈歴史〉構築』(和泉書院2022)

・山本みなみ『史伝 北条義時: 武家政権を確立した権力者の実像』(小学館2021)

・山本みなみ『史伝 北条政子: 鎌倉幕府を導いた尼将軍 (NHK出版新書 673)(NHK出版、2022)

・山本幸司『日本の歴史09 頼朝の天下草創』(講談社2001)

・渡辺泰明編著『源実朝―虚実を越えて (アジア遊学 241)(勉強出版,2019) (菊池紳一、坂井孝一、高橋典幸、山家浩樹、渡部泰明、久保田淳、前田雅之、中川博夫、小川剛生、源健一郎、小林直樹、中村翼、日置貴之、松澤俊二 著)

 

『鎌倉殿の13人』における源実朝像の「新しさ」とは何か ー 従来の実朝像・研究動向との比較 <前編>

土岐善麿源実朝 (青少年日本文学)』(至文堂、昭和19年) の挿絵 羽石光志 画 ※国立国会図書館デジタルコレクションより

 源実朝は、近年著しく評価が変わってきた人物の1人です。たとえば実朝没後800年に編まれた、和歌研究者の渡部泰明氏編の『源実朝 虚実を超えて』(勉強出版、2019)でも、そのような言及がいくつも見られます。「源実朝について、かつては「悲劇の将軍」「文弱の将軍」というイメージが先行しがちであったが、そうした実朝像は大いに改まりつつある。鎌倉時代の基本史料である『吾妻鏡』の読み直しや和歌事績の研究が実朝像の更新に大きな役割を果たしているが、当該期の幕府発給文書研究の深化も見逃すことはできない」(同書 p. 36)、「平成以降の日本史研究において、従来『吾妻鏡』から読み取られてきた実朝像、例えば「幕府政治に背を向け、公家文化に耽溺して和歌や蹴鞠に没頭した文弱な将軍、源氏と北条氏、幕府と朝廷との狭間で懊悩しつつも、個性的で雄大な「万葉調」の和歌を詠んだ孤独な天才歌人」といった把握については大幅に見直されつつある(同書 p. 127)

 そして2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、当初から脚本家が新しい実朝像を描きたいという意気込みを語っていたことが噂され、歴史好きの興味を引いていました。そして実際、ドラマでは様々な新しい知見を踏まえた清新な描写がなされ、また演じた柿澤勇人氏も大変繊細で説得力のある演技をして、大いに話題になりました。実朝への世間の興味を著しく高めた功績は見逃せません。

 しかしその一方で、明らかに最近の研究動向と辻褄の合わない描写もなされたので、「新しい実朝像」に期待した歴史好きの人々の間では困惑の声が上がりました。ドラマの展開上あまり関わりのない瑣末な部分ではなくて、メイン登場人物の意思決定に関わることであり、物語全体に大きなインパクトを与える要素としてその創作がなされたからです。

 ドラマ実朝像は、結局新しかったのか、新しくなかったのか?そもそも比較すべき「従来の実朝像」とはなんだったのかそこで、従来の実朝像や史学での知見よドラマを比較して、何がどのように新しいかったのかどうか、ということを探っていきたいと思います。

 

<サマリー>

実朝像として新しかった点

  • 「京かぶれ」「武芸を蔑ろにする」「東国武者から浮いていて孤独」「政治に対して逃避的で、和歌などの趣味に逃げた」「現実逃避の一環として宋に渡ろうとしたり寺社詣に明け暮れた」という「従来の実朝に対するネガティブな見方」はほとんど描かれていなかった。そこは大変評価すべきポイント
  • 従来は和田合戦以降から無気力になったという説がよくあったが、和田合戦以降にむしろ為政者としての意識を高めて積極的に政治を行うとした描写は、最近の研究とも合致して新しい点
  • 後鳥羽上皇が実朝の官打ちを狙ったなどの古い説を採用せず、有名な義時や広元が官位の上昇を諌める逸話などを入れず、官位の上昇をすごいことではあるがある程度もっともな路線であるという近年の研究とも合致する描写にした
  • 和歌が為政者の重要なツールであることを言明した
  • 各種史料から拾い上げた逸話を上手に使い、また適宜フィクションを入れることで為政者の自覚を高める実朝を段階的に表現しようとしたのは新しい

 

実朝像として古かった点

  • 従来の実朝像で一部あった「為政者の能力としてはイマイチ」というイメージを結局踏襲。やる気はあるけれども能力が追いついてないタイプにされている。吾妻鏡で為政者として毅然とした態度を取るシーンとして描かれているところが、全てやり込められてるシーンに変更・善政として描かれてるものが短慮として描かれる
  • 京文化への傾倒は描かれなかったものの、上皇への傾倒は描かれ、その上皇が悪的な描かれ方をしていたために、結局京都方面から悪影響を受けているような描写に。そして唐突な御所の京遷提案でさらにその印象を強める
  • 「従来の実朝のイメージ」のひとつ、死を予感する・死を受け入れるというイメージを最後の最後で入れてきた
  • 古くからある、義時との不仲説を採用し、実朝VS義時の対立を主軸に実朝将軍期のドラマが描かれた。また実朝が朝廷に取り込まれすぎることで新しい東国の武家政権の独立が妨げられる、ということを危惧して実朝を排除しようとする考え方も、古めかしい階級闘争史観がいまだ反映されているといえる

 

1.「新しい実朝」への期待ー 脚本家・俳優の発言より

 

「新しい実朝像」

 源実朝がどのように描かれるかは、配役が発表された2月の時点で、以下のように俳優自身の意気込みとして述べられました。

 

「鎌倉殿の13人」源実朝役に柿澤勇人 「新しい実朝をつくりたい」3度目の大河出演 (2022217)

https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202202170000514.html

 「先日、実朝が最期を遂げた鶴岡八幡宮に脚本三谷幸喜氏と出掛けたという柿澤は、京の文化に傾倒し「わりと文弱な将軍というイメージだった」という実朝について、「決してそうではなくて、実は蹴鞠(けまり)や和歌に没頭したのも朝廷側とのコミュニケーションを取って、より豊かな国にしようとか、そういった政治も含め、実はすごく賢い人間だったんじゃないのか、という話もしました」。また「宋(中国)に渡る船をつくって最終的にはそれは失敗に終わったんですけど、それも海外に向けての政治みたいなものを考えていたんじゃないのか、など『新しい実朝をつくりたい』という話をさせていただきました」と明かす。」

 

 柿澤氏の演じる実朝の登場は9/4からですが、10月以降になると、脚本家自身が相当思い入れがあること、新しい実朝像、本当の実朝像を描きたいという意欲があったことが、俳優インタビューから明らかになってきます。また俳優自身の役作りに何を参考にしたかも述べられています。

 

柿澤勇人、主演・小栗旬とのエピソードを明かす「非常に頼もしいですし、勉強にもなります」<鎌倉殿の13人>(ウェブ ザ・テレビジョン、2022/10/16

https://thetv.jp/news/detail/1106964/

「実朝という人物のことを僕は今まで深くは知らなかったのですが、三谷さんが実朝に対して思い入れがあり、世間にあまり認知されていない新しい実朝像を描きたいとおっしゃっていたので、とてもプレッシャーを感じました。」

 

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』
源実朝役:柿澤勇人さんインタビュー(Willmedia News2022.10.22)

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』源実朝役:柿澤勇人さんインタビュー - Willmedia News

 

「いただいた資料のほか、時代考証に入ってくださっている坂井孝一先生の本と太宰治の「右大臣実朝」、あとは僕のマネージャーが持っていた「金槐和歌集」を読みました。坂井先生の本は今回の実朝像にとても近いので、かなり読み込みましたね。太宰治の本はフィクションですが、「吾妻鏡」に書かれているような政にネガティブな実朝ではなく、いかに良い将軍だったのかということが書かれていたので、参考にさせていただきました。」

 

・「「鎌倉殿の13人」実朝・柿澤勇人 自身の運転で脚本・三谷氏と鎌倉旅 車中は「覚えてない」理由とは」
スポニチアネックス 2022年11月23日

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/11/23/kiji/20221122s00041000691000c.html

 

「今までの(実朝の)イメージじゃないですっていうことを言っていて、凄く賢い人間だったんじゃないか。もし生きてたとしたら理想の鎌倉殿になっていたんじゃないかっていうようなことを話していました。」

 

ハル王子に擬せられる実朝

 

 脚本家自身のインタビューでは、実朝をどう捉えているのかは、ほとんど表明されていません。

 数少ない実朝像の発言として、実朝と和田義盛シェイクスピア『ヘンリー4世』のハル王子とフォルスタッフになぞらえた言葉があります(それ自体は俳優インタビューにも出てきました)

 

NHK『鎌倉殿の13人』HP 特集 脚本・三谷幸喜さんインタビュー 2022.10.9 より

 

「あとはシェイクスピア。やはり勉強になります。シェイクスピアには、おもしろい物語の要素のすべてがある。例えば、和田義盛と三代将軍・実朝。2人の関係は、『ヘンリー四世』に出てくるフォルスタッフとハル王子に重なります。」

 

 脚本家の中でこの比喩はこの2人の関係性だけにとどまるものなのかどうか、これだけではよくわかりません。ですがハル王子は周囲から遊んでばかりで王のうつわではないと思われていたが、やがてイギリスきっての名君と見なされるヘンリー5世になる展開を思うと、ハル王子自体に実朝との親和性を見出した可能性もなきにしもあらずという期待も感じさせるものではあります。これも、新しい実朝像として期待を抱かせるコメントのひとつでありました。

 

 

2.従来の実朝像とは

 

 では柿澤氏のインタビューにもあったように、「文弱」などのような実朝像は一体どこからきたのでしょうか。そもそも従来の実朝像とは、いかなるものなのでしょうか。そして「新しい」実朝観になったのはいつ頃のことでしょうか。

 

 歴史上の人物についての、学術的ではない一般的なイメージの源泉として、私は以下の4点を考えています。

文芸作品

子供向け教科書類、学習書籍、漫画

③大人向けライト教養書籍

④映像エンタメ(大河ドラマや時代劇、映画)舞台芸術

 

 まず①ですが、現在一般に知られているものとしては正岡子規歌よみに与ふる書』、太宰治『右大臣実朝』、小林秀雄吉本隆明の評論などが挙げられます。

 しかし一般人への影響という点では、②や③の存在も見過ごせません。実朝自身の知名度の低さからすれば、わざわざ実朝の名前を冠した書籍を探して読む人よりも、大括りに日本史を学ぶ中で、鎌倉時代の中の一挿話として実朝について認識する人の方が多い可能性もあります。また後で述べますように、実朝を扱った著名な文芸作品は1970年代を境に途絶えてしまい、その意味でも80年代以降は②③の存在は重要といえましょう。

 ④に関してですが、実朝の場合多くはありません。鎌倉時代初期自体がドラマや映画などのエンタメ系、舞台芸術にあまり取り上げられない傾向があるためです。大河ドラマでは『草燃える』で登場したましたが、私はリアルタイムで見ておらず、今は総集編しかないので、今回は少し触れるにとどめたいと思います。

 ということで、以下で、①、②、③について調べていきたいと思います(④については少し)

 また、⑤として、学術的な一般書での変遷にも触れたいと思います。

 また扱う期間ですが、①〜④については「従来」のイメージということで、ざっくりと大河が始まる5年ほど前までの動きは「最近」のものとして除外したいと思います。また江戸時代まで遡ると流石に古すぎるので明治〜2017年くらいを中心に見ていきます。

 

①文芸作品に見える実朝像

〜死を予感する繊細で聡明な詩人肌の青年〜

A) 正岡子規歌よみに与ふる書(明治31(1898)新聞『日本』に掲載)

古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。

 実朝について論じることは、歌人たちを中心に明治期以降活発になりました(松澤俊二、2019) 。実朝の歌集『金槐和歌集』に関しては、佐々木信綱が父弘綱とともに1891年に「右大臣実朝集」(『日本歌学全書第八編』所収)を刊行して以来、多くの単行本や業書が出版されるようになりました(多田蔵人 2019) 正岡子規は、『歌よみに与ふる書』で万葉調歌人としての実朝像を称揚し、古今和歌集聖典的に扱う御所派歌人らを批判して明治の新しい短歌を樹立しようとし、多くの反響を呼びました。では、子規の描いた、実朝の為政者像のイメージはどのようなものだったでしょうか。

「古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之候。(中略)人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。」(青空文庫より)

 ここで子規は古来の実朝評として「凡庸な人である」という評を一蹴し、北条氏を憚って才能を隠していたか、大器晩成だったのではと述べています。そして歌から推察される人物像として、人間として立派な見識があったのではとしています。つまり(おそらく)政治的には、実力というか才能はあったが、生前は充分発揮できなかったのではないかという見方を示しています。ただ、一見絶賛しているようですが、力を発揮できなかった人物として述べているのに注意が必要です。

 

B) 小林秀雄『実朝』(文学界に1943年2〜6月掲載)

青年にさえ成りたがらぬ様な、完全に自足した純潔な少年の心を僕は思うのである

 『金槐和歌集』は、その後も第二次世界大戦中まで広く読まれた歌集であり続けました。中野重治『歌のわかれ』(昭和14)などを見ても、『金槐和歌集』が幾つもの版で流通しており、旧制高校生の間で一般に読まれているものだったことが伺えます。また戦中は実朝の歌が愛国的な文脈で取り上げられ称揚され、一般に知られるようになるという現象も起きました。「山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」の歌は特にわかりやすく忠君愛国の文脈に読めるので『愛国百人一首』なるものに選ばれたり、合唱曲になったりもしました。国民学校教科書にも「箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよる見ゆ」が選ばれました(敗戦後昭和21年の暫定教科書では項目削除)(田中康二「小学教科書の敗戦 ― 宣長国学の表象をめぐって(その一) 2019)

 そのような中、昭和18(1943)256月の『文学界』に小林秀雄の『実朝』が掲載され、のちに昭和22年刊行の『無常といふ事』にまとめて載せられました。

 これはかなり難解な作品で、しかも号をおうに従って、秀雄の描く実朝像が変化していったことは研究者によってよく指摘されています(源実朝 虚実を超えて』「小林秀雄『実朝』論」)。しかし現代に至るまで多くの人に読まれて実朝像のイメージ作りに寄与してきました。

 一読して印象に残るのは、後半あたりから示される、実朝の秀歌から感じ取れる「深い無邪気さ」「無垢な魂」の持ち主として実朝像でしょう。「青年にさえ成りたがらぬ様な、完全に自足した純潔な少年の心を僕は思うのである」とも。無邪気さという言葉は何回も出てきており、実朝像のイメージとして深く印象づけられます。

 もっとも秀雄は『実朝』の中で、当時の歴史家の見方を否定していますが、(「現代史家の常識は、北条氏の圧迫と実朝の不平不満〜」)、彼が歴史上の実朝の人生について、結局どのような把握をしていたのかは総合的には語られていません、ただ、彼が暗殺の予感を常に抱いていたこと、和田合戦の時義村の翻意がなければ義時に自害させられてただろうということ、などが、最初の方で語られています。

 無邪気な魂の持ち主であり、かつ、常に死の予感を持っていた詩人というのが、『実朝』全体を通して伝わってくる実朝像です。為政者としての評価はあまり語られていません。

 

C) 太宰治『右大臣実朝』(錦城出版、19439)

京都の御所の事となると何でもかでも有難くてたまらない様子で、こんな工合では必ず御所のお方たちに足もとを見すかされ、結局、幕府があなどられ、たいへんな事になります

 「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ」で有名な太宰治『右大臣実朝』ですが、奇しくも小林秀雄の『実朝』と同年に発表されました。太宰は実朝については少年時代から書きたいと思い続けていましたが、資料が整わずなかなか着手できずにいました。それが1941年に実朝時代が含まれる『吾妻鏡』が漢字仮名交じりの書き下し文として岩波文庫から出版され、また翌年、実朝について一般向きの記載のある『鶴岡』臨時増刊源実朝号(昭和十七年八月九日、鶴岡八幡宮社務所発行)を入手したことなどから、満を持して書き進め、19439月に出版しました( 津島美知子『回想の太宰治講談社2021)

 この中では実朝の近侍となった若い御家人の目から見た実朝の姿が描かれており、政務でも見事な裁断をくだす霊感のある素晴らしい人物として描かれています。また吾妻鏡で述べられる義時などとの衝突も、実はそんなに大ごとではなかったのだという見方を示しています。

 しかし和田合戦を契機として、政務に興味をなくしていき、和歌や酒宴に耽溺していくとも描かれます。

…(中略)…こんどはこの和歌に最後の異常の御傾倒がはじまりまして、御政務は、やはりひと任せ、日夜、お歌の事ばかり御案じなされて居られる御様子で、」

 良好な関係であった義時も批判的になります。

「当代は、むやみに京都をお慕ひになつて、以前はこれほどでも無かつたのですが、京都の御所の事となると何でもかでも有難くてたまらない様子で、こんな工合では必ず御所のお方たちに足もとを見すかされ、結局、幕府があなどられ、たいへんな事になります、どうもこのたびの御道楽は、たちが悪い、

 公暁はさらに「ところで将軍家は、このごろ本当に気が違つてゐるのださうぢやないか」と言い、「相州も言つてゐた。気が違つてゐるのだから、将軍家が何をおつしやつても、さからはずに、はいはいと言つてゐなさい、つて相州が私に教へた。祖母上だつて言つてゐる。あの子は生れつき、白痴だつたのです、と言つてゐた。」とまで言います。

  もっともその一方で、若い侍従の意見として

「将軍家が御風流にのみ身をおやつしになつて居られるやうに見えながら、つねに御朝廷と幕府の間に立つて、いかにお心をくだかれて居られたか、真に都所の大別当であらせられたといふ事が、更にはつきりとわかつて来るやうな気が致します。」

 とも述べられています。

 重要な観点として、京への憧れが強いこと、元々為政者として優秀な判断が下せる人であったこと、しかし和田合戦以降は政治に興味を無くし和歌や遊興に耽溺し、周囲から奇異の目で見られたという描かれ方をしているということです。

 

D)永井路子北条政子(講談社、1969年)

 無風流な鎌倉武士の眼には何とも映らない花ひとつをみても、彼は詩興をそそられるのだ。

 永井路子鎌倉時代初期を題材にした『炎環』(1964)直木賞をとり、中世を題材にした歴史小説を次々に発表しています(『絵巻』『北条政子』『つわものの賦』など)。永井氏は鎌倉時代を東国武士の起こした大きな変革の時代と捉え、それに魅せられたのだと述べています(『つわものの賦』(文藝春秋2021)あとがきより)

 実朝について詳しく描写した小説としては『北条政子』『つわものの賦』が挙げられます。後者は小説というにはやや異質な感じで、永井氏自身小説ではなく、明治以降の文筆家が歴史上の個人について書いた史伝、評伝のようなものと述べているように、かなり堅めの内容になっています。国会図書館のデータベースを見てもより多く出版されているのは『北条政子』の方であり、人口に膾炙しているのはこちらの方と思われます。

 その中で実朝は、幼い時から優しい子で、長じても穏やかな性質の将軍として描かれます。

 実朝は自分で都の姫を妻にしたいと主張します。それは「いまなら、さしずめ、まだ見ぬ国の、青い眼の金髪娘と結婚したい、というようなものだ。同じ血が流れているとはいえ、都と鎌倉は、まったくの別世界であったからである」とも。しかし実朝としては、御家人の娘を妻にすることで御家人同士の勢力争いになるという兄の悲劇を繰り返したくないという気持ちと、都の姫ならば風情を理解してくれるかもしれないという期待からそのように望んだのでした。(結局その姫君はそういうタイプではなかったのですが)

 実朝が詩人の魂を持っていることが強調され、(雨垂れに詩情を見出したり())、彼が鎌倉の武士たちと異なる性質を持っていたために孤独で、和歌の世界に親しんだとあります。

「しぜん彼は人々と離れて、彼自身だけの世界を楽しむようになった。彼自身の世界――それは美の世界、和歌の世界である。無風流な鎌倉武士の眼には何とも映らない花ひとつをみても、彼は詩興をそそられるのだ。」その詩人肌から宋船計画も思いついたと述べられます(「詩人らしい空想から、とんでもないことを思いついて」)

 政治家としては「実朝自身も、政治家肌ではないから、ややこしい訴訟を裁決することなどは、すべて四郎義時はじめ幕閣の敏腕家にまかせている」とあり、政治家として特に活躍しなかった描写です。(ただ相模川の橋の件は珍しく自分の意見を述べた例として出てきています)

 聡明ではあったが政治家肌ではなく政務はせず、詩人の魂を持ち周囲の武士とは合わず孤独だったという描写です。

 

E)吉本隆明源実朝(筑摩書房1971)

 反対を押し切って渡宋計画を推進したのを契機に、ほとんど独走体制にはいった。

 太宰治『右大臣実朝』小林秀雄『実朝』によって実朝に興味を持ち、戦後日本の古典詩人について思考を深めてきた吉本隆明(196965日講演より)1971年に『源実朝』を刊行します。その中で実朝を「中世における第一級の詩人」「特異な資質と鋭敏な洞察力をもった人物」としつつ、北条か北条の意を汲んだ者によっていずれ殺されることを予感し続けていた繊細な青年として描き出します。

 「たぶん実朝にとっては〈生〉よりも〈死〉のほうが関心事であった。もう、物心がついたときには兄頼家の惨殺に立ちあっている。頼家の殺されかたからかんがえて、じぶんだけは別のものだとおもえるような条件じゃなにひとつなかったはずである。」「頼家の死にざまは、やがてじぶんの死にざまに通ずることも、よくおもい知ったはずである。」(I 実朝的なもの)

 死を予感する青年像は小林秀雄の実朝像に通じます。しかし死を予感してばかりではなく、その運命にあらがうようなガッツを見せているのは隆明実朝の特徴です。「だが、『吾妻鏡』などの記載をみれば、実朝は北条執権職の指し手のままに動く将棋の駒でなかったことがわかる。」(I 実朝的なもの) (和田合戦と渡宋計画挫折のあと)「かならずしも北条氏のいうがままになっていない」「複雑なよく耐える心をもった人物であって、ある意味では北条時政にもそう手易く御しうるような存在ではなかった」(Ⅺ<事実>の思想)

 そして珍しく、治世後半に無気力になったという説を採用していません。「反対を押し切って渡宋計画を推進したのを契機に、ほとんど独走体制にはいった。建保五年(一二一七年)五月十二日の記載では、寿福寺の二代目長老行勇を、僧侶の分限をこえて政道に口をはさみすぎる、もっぱら仏道の修練をすべきであると叱りとばしている」(I 実朝的なもの)など。

 ただ、実朝が鎌倉や伊豆箱根の社寺に詣て回っていることをかなり不可解なものとして捉えて、そこから実朝を、自らを鎌倉幕府の祭祀権の所有者としてのみ統領の役割を行使し、政治的な統括者は北条氏に任せていたのではないかとしています(Ⅳ 祭祀の長者)。普通の為政者というよりも、祭祀王的な存在に捉えています。

 また公暁をけしかけたのは義時であり、明確に実朝殺害を意図していたとします。義時は、北条氏に代表される武門勢力の隆興、実質的な権力を全国に掌握することを目的としており、権威や学識があり王権と武家の橋渡し的な役割を持っている実朝の存在が邪魔になってきたのではないか、より官位が高まって幕府が王権に組み込まれてしまう前に殺したのではないかと見ています。この辺りは朝廷と幕府を対立的なものとする戦後史学が反映されているようです。

 

 

F) 中野孝次『実朝考―ホモ・レリギオーズスの文学』(河出書房新社1972)

このあまりにも無防備な、秩序の源泉としての役割に埋没しきれるにしてはあまりにも我への執着を欠いた巨大な優しさを置いてみると、まるで武装した戦士のなかにひとりの天使が舞いおりたように見える。

 永井路子と同年の1925年生まれの中野孝次は、カフカギュンター・グラスなどを翻訳紹介した人として、また『清貧の思想』などの著者として有名です。その彼が初めて書いた本が『実朝考』でした。彼はドイツ文学者でしたが、ドイツに在外研究員として滞在していた時に日本文化にめざめ、帰国後日本の古典を読み漁るうちに平安時代から鎌倉時代への転換期に興味を持ち、その象徴として実朝に深く関心を持ったとのことです。

 『実朝考』の中で、実朝と坂東武者は鋭く対立する存在として提示されます。坂東武者は、無学文盲で荒々しくも自由な気風を持った、非常にエネルギーに満ちた存在、京の文化や権威に無縁な天性の反逆者たちとして描き出され(「これら反逆者集団は野蛮(生者の立場の主張)そのものであった。ほとんどが無学文盲だったし、政治的経験もかれらにはなかった。」)、その中で実朝が極めて異質な、浮いた存在であったことが強調されます。

「そんななかで京貴族の女との結婚、京風模倣、京文化への憧憬、要するに依然として強く京へ傾斜した姿勢が、どんなに心もとなく、信頼しえぬものとして感じられたかは察するにあまりある。実朝はその出発の初めから、全面的には坂東に帰属しない、一つの浮いた抽象的存在であることを定められていたのである。」

「京の文化とか権威なぞにはかかわらない、ただ一途に強くあることを求め、それを美徳と讃える、昔ながらの坂東人の気風である。実朝がこんな連中のなかで当初からいかに浮いた存在だったかが、ほとんど感覚的にわかる逸話である。当時の坂東では、すでに文化の必要はいろんな点で痛感されていたにもかかわらず、なおこういう「驍勇」の気風が、おそらく歴史上かつてなかったくらい積極的に肯定されていたのである。これは坂東の力の自覚、反逆のエネルギーが、最もはげしく煮えたぎっていた時期であった。」

 もっとも、実朝自身は野心家でも権力渇望者でもなかったが、知性が高く公正な判断を下せる存在だったとしています。

「実朝がその生涯に下したいくつかの政治的処置は、どれもこの人の判断力の公正と知性を証明するものであって、兄頼家が土地訴訟の解決として地図の真中に一本黒々と線を引いたというような乱暴なのとは、まるで質が違う」

 その一方で、京への従順な姿勢を示すことは、そのような坂東武者に対する政治的配慮に欠け、政治家として不適格というしかないとも述べます。また殺すか殺されるかという殺伐とした鎌倉の中で、人に死を命じたりせず優しい心の持ち主である実朝の異質さについて、彼を戦士の中に舞い降りた天使のようだとも評します。

 また建保二年(1214)以降は吾妻鏡の記事が著しく減ることについて、実朝の存在感が低下したためと推測。自らの死を思い定めていたともします。

「建保二年(二十三歳)以後、吾妻鏡は、鎌倉での実朝の位置と、その心の姿を示すように、急激に記事を減少させる。そしてその数少ない記録が示す詩人の日常の外見は、ほとんど余生の生に似ている。」

 これは和田合戦(1213)以降意欲を低下させたとする『右大臣実朝』の説と似通ったものがありますし、小林秀雄吉本隆明の描く死を予感する青年像とも繋がります。

 

 

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 さて、上記を見ますと、実朝は少なくとも戦前〜戦後しばらくまでは、魅力的な文芸作品の題材であったことがわかります。それはやはりなんと言っても、歌人としての素晴らしさが喧伝されていたというのが大きいでしょう。金槐和歌集の出版物が多く流通することによって、歌人としての実朝が強く人々に印象づけられていました。金槐和歌集の出版物については実朝生誕750年記念の雑誌『鶴岡』にまとめてありますが、http://yanenonaihakubutukan.net/kinkaisyu.html、各系統の本が様々に出版され、手に取りやすい価格帯でも多く出された様子がわかります。そしてそれらの多くには、簡単な実朝伝がついており、それらによっても実朝のイメージが形作られていったと思われます。そしてそれらは歌人実朝を称揚するものが多いのですから、当然ながら為政者実朝にも同情的な眼差しでした。たとえば佐々木信綱が昭和6年に出した『金槐和歌集: 校註 改訂5版』の序言では、悲劇の最期を遂げた薄倖の三代将軍という書き出しから始まり、一度言い出したら意志を曲げない凛とした強さがあったが温厚で情にあつかった、浪漫的な詩的心情を有し詩人の天分があった、決して意志薄弱ではなく「世の紛乱はあまりに力強く」、若い実朝には如何ともし難かったのだといった相当肯定的な論調です。

 

金槐和歌集: 校註 改訂5版』(明治書院1931年 p. 1-2) (国立国会図書館デジタルコレクションより)

 戦中になると実朝はさらに勤皇歌人としても持ち上げられるようになり、大衆へも一層浸透していきました。日中戦争勃発翌年の1938年には山は裂け〜の和歌が銃後の歌として合唱曲になったり、また奇しくも1942年が実朝生誕750周年にあたり、実朝関係の各種イベント(実朝ゆかりの白旗神社で実朝の誕生日に実朝祭が実施され始める・歌碑が建立されるなど)が行われ、その前後で実朝伝や実朝研究書もいくつか出版されるようになりました(大塚久『将軍実朝』(高陽書院、1940)田英夫源実朝(青悟堂、1942)など)

 終戦後は、当然ながら勤皇歌人という梯子は外されたわけですが、直ちにプレゼンスが下がるぼどではなかったようです。大佛次郎は戦前から連載していた『源実朝』を出版し(六興出版社、昭和21)歌人木俣修も『実朝物語』(同和春秋社、昭和33)を出すなどしました。

 しかし1972年の『実朝考―ホモ・レリギオーズスの文学』以降は、たまに実朝を題材にした書籍は出るものの、目立った文芸書は出ていません。戦中派が高齢化するにつれ、だんだん実朝も文芸界でのテーマとしての存在感は希薄になっていったようです。

 

②子供向けの教科書、学習書籍、漫画に見える実朝像

 

戦前:〜北条氏に実権を握られて不満に思うも、股肱の忠臣を粛清されて和歌や官位で慰めを得る〜

戦後:〜和歌に耽溺する・官位を望むなどの姿が御家人から批判的に見られる〜

 

 

明治時代〜戦中、戦後直後の教科書類>
(国立国会図書館デジタルコレクション・国立教育政策研究所教育図書館近代教科書デジタルアーカイブより。なお筆者が現代仮名遣いに改めた)

A ) 本多浅治郎 『新編日本歴史教科書』(内田老鶴圃、1902年(明治35))

北条義時の奸譎はその父に過ぎたり、…(中略)…義時、最、之を忌憚し、故らに義盛を激して兵を挙げしめ、己れ幕府に據りて実朝を奉じ、遂に義盛以下、和田氏の族を滅ししかば源氏は全、孤立せり。

 実朝は資性温雅にして心を文学に傾け、和歌を藤原定家に学びて奥旨を極めければ、その作、後世に誦せらるるもの多し。蓋、源氏の運命久しからざるを知り、優遊自適の間に一生を託したるなりという。又、切に栄達を願い、官位並び進みて正二位右大臣に至り、拝賀の礼を鶴岡に挙げぬ。…(中略)…公暁暗中より踊り出て父の仇なりとて実朝を弑せり」(p. 31-32)

B) 西浦泰治 『日本歴史教科書』(普及社、1902(明治35))

「義時は父にもましたる奸人にて、和田義盛を滅して、文武の権を統べたれば、実朝は、有為の人ながら、如何ともすること能わず、源氏の運命を覚りて、和歌を弄び、せめて顕官を得て、父祖の栄とせんことを欲し、右大臣に昇るや、例により拝賀の礼を鶴岡八幡宮にて行い、姪なる僧公暁に刺されたり」(p. 77)

藤岡継平『日本史: 統一中等歴史教科書 訂正』(六盟館、1917(大正6))

「実朝は漸く義時の専横を悪みたれども、頼朝以来の功臣は大抵除かれて、もはや如何ともする能わざるを悟りて、頻りに官位の昇進を望み、遂に右大臣に拝せられ、順徳天皇の承久元年、その拝賀の礼を鶴岡八幡宮にて行えり。時に頼家の子公暁、父の仇なりとて実朝を弑し、公暁もまた義時の為めに殺されたれば源氏は僅か三代二十八年にして亡びたり。(筆者註:山は避け〜といでていなば〜の2首が掲載)(p5-6)

D)『新制日本史 上巻/三省堂編纂所編』三省堂1934(昭和9))

「将軍實朝は義時の専横を嫌っていたが、頼るべき源氏の一族・功臣は既に滅ぼされていたから、如何ともすることができなかった。やがて、実朝は右大臣に昇り、順徳天皇の承久元年、拝賀の礼を鶴岡八幡宮に行ったが、終って社前の階段を下る時、僧公暁に弑せられた」(p. 100-101)

E) 龍肅 『新日本歴史 中学校初学年用』(至文堂、1941(昭和16))(龍肅は東大史料編纂所長で岩波文庫吾妻鏡の訳注を出している)

「将軍実朝は北条氏の擅権を憎んだが、力が及ばなかったので、文芸を事として自らを慰め、源氏の家名を挙げるため、頻りに官位の上昇を望んで、右大臣に進んだ。順徳天皇の承久元年に実朝は、鎌倉鶴岡八幡宮で拝賀の儀を行った時、八幡宮別当公暁(頼家の子)のために殺された。かくて源氏の血統は絶えた」(p. 53-54)

F)『日本の歴史. /文部省著』(中等學校教科書、1946年(昭和21年))

「このように北条氏の勢威が強大であったため、実朝もまた義時に制せられたので、思いを文学に寄せ、またしきりに官位の累進を望んで、わずかにその心をまぎらしていた。まもなく実朝もまた、義時にそそのかされた頼家の遺児に殺されたので、源氏の正当はわずか三代で絶えてしまった」(p. 56)

G)『日本歴史. /文部省[編]』(師範学校教科書株式会社、1947年(昭和22年))

「子義時ついで執権となり、和田氏を滅ぼして後は侍所の別当も兼ねたので、これから義時は幕府の文武の実権を一手に握ることになった。三代将軍実朝は源家の久しくないことを知り、政務を避けて、もっぱら風流を友とし、すすんで顕官を顕そうと心がけた。承久元年右大臣拝賀の儀を鶴岡社頭に行った際、義時に使嗾された頼家の子公暁の凶刃に斃れ、…(中略)源氏の正統はわずか三代二十七年にして絶えた」(p. 121)

学習書籍

A) 友納養徳『小国民の日本史 中』(モナス、1926(大正15))

「実朝は頼朝の末子でずいぶんかわいがられ、おとなしいおっとりした人で和歌が上手であった。当時有名な藤原定家を師としたが、常にその才能を褒められていた。(歌数首)

実朝は実権を北条氏に奪われて何もする仕事はなく、また北条氏の我ままをにくんではいるが何とも手がつかないので、只こうして歌を作ったり官位をのぼせてもらったりして、せめてもの心やりにしていた。

中略…(公暁による暗殺の説明の後)世人は、何でも義時が公暁をそそのかして実朝を殺させたに違いない、と噂したが、前後を考え合わせて見れば、或はこれが真であったかもしれない」(p. 16-19)

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 繊細な詩人の魂を持ち死を予感する青年、という文芸作品の実朝とやや力点の置き方が違い、北条の専横を嫌う・しかし如何ともし難い・和歌で心慰める・家名をあげるために官位の上昇を望むという、鎌倉幕府の機構の中における実朝の悩ましい立場の描写が多いパターンです。功臣が滅ぼされてるため実朝が孤立したという書き方も多く、また直接そうであると書かなくても、実朝の説明の前に、畠山重忠や和田一族を北条氏が排した話を載せ、将軍を支えるべき勢力が一掃されてることを示して実朝の無力さを示すパターンもよくあります。概して実朝に同情的な書き振りが目立ちます。

 また実朝暗殺は義時の教唆によるものとするものが何冊もありました。そもそも後鳥羽上皇たちを流罪にした義時は尊王思想や皇国史観からすればかなり悪どい人物で、承久の乱自体が非難がましく描かれる傾向にありました。1903年以来用いられた国定教科書では、承久の乱の義時の上皇天皇に対する所業を無道ここに極まれりとまで書いています(藪本 2022)。そこからの逆算のような感じで、義時に実権を奪われた挙句間接的に殺害された実朝に同情的な雰囲気があったと感じます。

 北条の専横を憎むということがよく書かれますが、これは言い換えれば本当は実権を握りたかった、意欲があったということにもなります。またいくつかの教科書では有能な資質があったと描写されています。それらからは、実朝を多少なりとも為政者として評価しようという姿勢が伺えます。

 官位を上昇を心の慰めとしたこと、源氏が長くないと悟ることは、吾妻鏡の建保四年九月十八日条の、官位上昇に対する義時&広元の諫言及びそれに対する返答「諫諍の趣、尤も甘心すと雖も、源氏の正統、この時に縮まりをはんぬ。子孫あへて相継ぐべからず。然ればあくまで官職を帯び、家名を挙げんと欲す」を参照していると思われます。

 

近年の教科書、学習書籍、学習漫画

 

教科書

 本来なら戦後の検定教科書以降の教科書の記述もざっくり集めたかったのですが都合により調べることができず、1996年の中学教科書と2009年の高校教科書一種類づつしか入手できませんでした。しかしそこで驚くべき()ことがわかります。

A)『中学社会 歴史的分野』(日本書籍1996)

3代将軍実朝も暗殺され、源氏の将軍はたえた。」

B) 『高校日本史B(山川出版、2009)

「頼朝の妻政子の父である北条時政は、将軍をしりぞけて、その弟の実朝を3代将軍とした。

…(中略)1219(承久元)年、3代将軍実朝が暗殺されると、1221(承久3)年、上皇北条義時追討の命令を下し、幕府を倒そうとした」(p. 75)

なんと実朝は太字でもなく、何をしたとかどんな人か全く触れられていないのです。

(ただ「文学の革新」の項目で少し述べられてはいます。

「武士出身の西行の『山家集』や3代将軍源実朝の『金槐和歌集』などの新鮮な歌集も作られた」(p. 84))

 つまり、1948年から2000年前後あたりまでの間に、いつの時点からか実朝が教科書でほとんど教えられることがなくなってしまったわけです。

 文芸作品でも72年以降有名な作品が出ていないこととも合わさり、ここでも一般人にとって実朝が遥かに馴染みない存在になってしまったことが伺えます。

 そのような中、学習書籍や学習漫画では詳しく描写されることもありました。

 

学習書籍

A) 酒寄雅志()NHKにんげん日本史 源頼朝(理論社,2004(2008年第三版))

「実朝は飾りものであることを自覚していたのでしょう。政治には無関心で、京都の貴族の世界に憧れ、和歌の世界に身を委ねます。」(p. 104)

学習漫画

A)学習漫画 日本の歴史 人物事典』(集英社,2001(2007年第14))

「しかし実権を母の政子と北条義時に握られていたため、和歌やけまりにばかり熱中しました。」(p. 100)

B)『小学館版学習まんが 少年少女日本の歴史 第七巻』(小学館,1982(2001年増補版第8(通算53))

 ※学習漫画としてはおそらく一番実朝について詳しく描いています

 和田義盛三浦義村が、流鏑馬などの武芸に興味がなく和歌や学問にしか興味を持たない実朝を憂う。北条が外戚として勢力を伸ばすことを心配。一方、源仲章に都の様子を聞き、和歌が盛んと聞いて煌びやかな都に憧れを示します。(p. 50-51)

 後鳥羽上皇は仲章に鎌倉の様子を聞き、実朝によく学問を教えるように言います。(p. 54)

 大人になった実朝は「わたしはもう、生きていく気力がない」「しかし将軍とは名ばかりではないか」と、実権のなさから無気力を顕に。

(同書 p. 54。和田合戦の後、生きていく気力がないと嘆く実朝。全体に浮かない顔で描かれています)

 そこで良い政治をすれば上皇様も応援してくれるという仲章の言葉を聞いて、御家人の訴えを直接聞こうとします。一方で政治を忘れて宋へ渡ろうとします。しかし設計ミスのためか浮かばず、実朝はガックリします。

(同書p. 55。実朝の意欲を示すところは言葉のみで小さなコマです)

 その後義時と広元が実朝について会話しています。「朝廷と仲良くなさる実朝様にも困ったものだ。「こんなに急に官位が上がるとは」「広元どのは長老じゃ。将軍をおいさめしてほしい。」

「あまり官位が早く上がるのは、不吉だと言われております。できるだけひかえられては

実朝は「わたしには子もないし、これだけが楽しみじゃ。わたしの心もわかってくれ」と悲しそうな顔で言います。

 実朝暗殺については、義村黒幕説を匂わせています。

C) 山本博()『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史5 【電子特別版】いざ、鎌倉 鎌倉時代(KADOKAWA,2016)

 (世の中は〜の歌を詠んだ後に家臣から藤原定家が誉めていたことを言われて)

実朝「あの歌人が認めたとなるとこれは政治よりよほど才能があるかもな」(p. 125)

実朝「上皇様には「実朝」の名を頂いたご恩もあるし ぜひお会いしたいものだ(京の都はさぞ美しくて上品なところだろうな…)

ナレーション「義時に政治の実権を握られていた実朝は、朝廷や公家への憧れを強めていった」(p.126)

ナレーション「だが、京都の文化にあこがれる実朝を快く思わない御家人は少なくなかった」

御家人たちのセリフとして、朝廷と仲良くするのはいかがなものかとか、頼朝様が築いた武家政権が揺らぐ恐れもあるとか、急な官位の上昇は実権のない実朝が朝廷の権威を借りて御家人をおさえるつもりなのではということが述べられます。

 実朝暗殺については、真実はわからないとしつつも義時や義村の黒幕説も紹介しています。

(同書より。いかにも悪そうな義時の微笑み)

D) 高橋典幸・星井博文・幡地英明『学習まんが 日本の歴史6 鎌倉幕府の成立』(集英社,、デジタル版2016)

 御家人が、実朝様にも困ったものだ、歌人として優れていても将軍の仕事を軽んじられてはと嘆き、その対策として結婚して身を固めることを言うシーンがあります。(p. 63)

 結婚後も、義政が世継ぎができない件で「姫もそっちのけで和歌に夢中らしい。和歌で国を治めるつもりだ」と嘆くシーンがあります(そこから実朝排除の牧氏事件へ)。しかしそのあと、都から送られた新古今和歌集を一緒に見て話を弾ませる夫婦の様子も描かれ、仲が良かった描写もあります。御台所の姉が上皇に仕えてる話から、上皇にお会いしてみたいと言う実朝の姿も描かれます。上皇は姉を通じて上皇に憧れる実朝の話を聞いて、実朝を通じて幕府の横暴を止められるかもしれないと思案します。

 (ちなみに世継ぎができないと義政が嘆くのはいささかおかしな話だと私は思います。牧氏事件は実朝13歳の時なので、世継ぎ問題浮上には早い時期なので)

 

*****

 北条に実権を握られていて実朝に実権がなく、和歌やけまりに耽溺した、都の宮廷に憧れていたというのは戦前からの特徴を引き継いでいますが、政治に向いていない、興味がないという描写が強まり、厭世的に描かれることもあるのが新しい点です。また戦前にはテンプレ的にあった「北条の専横を憎む」描写がなく、北条に対抗しようという気概が描かれなくなります。そのかわり、武を怠ることや京かぶれであることを御家人に批判的にみられたり、官位の上昇を諌める描写が入ります。官位の件は先に述べた義時&広元の諫言、武を怠るは建暦三年九月二十六日条、頼朝期以来の勇士である長沼宗政が、実朝を「当代は、歌・鞠を以て業となし、武芸廃るるに似たり」と批判したという記事からきていると思われます。

 戦中までの文芸書や教科書類と違って、為政者としての評価が中心であり、かなり消極的な人物だったり、批判的に描かれている傾向があります、たとえ歌人として優れていても、為政者として無気力だったり逃避的であったりするのはいかがなものかという感じです。後鳥羽上皇が、同じように和歌などに才能を発揮しつつもパワフルな為政者として描かれるのとは対照的です。

 このような評価のネガティブ化は、⑤で述べますが、戦前戦後での史観の変化によるところが大きいと思われます。

 

大人向けライト教養書籍

 社会人向けには様々な日本史の本が出ていますが、ベストセラーと銘打って今でも書店で買い求めやすいものとしては、以下のものがあります。

後藤 武士『読むだけですっきりわかる日本史 (宝島社、2008) 2020年時点で38版、150万部のベストセラー(帯文より)

 その中で実朝については、将軍をしたがらなかった、政も戦でも大して成果を上げられなかった、その代わり京文化に憧れ、金槐和解集を作ったが、それは首相が政治をせずCDリリースしたようなもの、と書いてあります。

 また意外なところでは、日本史以外にも古典の教養書籍などでも実朝が出てきたりします。たとえば『人生の教科書 情報編集力をつける国語 (筑摩書房.2007)の中で、橋本治が実朝を評した文章が載っています。曰く、都かぶれで、123歳にして自ら都出身の妻を望むが、それは今の子供がナイキの靴を欲しがるようなものだと述べます。また「『自分の現実』にソッポを向いて『ススんだ都会の文化』である和歌に生きがいを見出すしかなかった」とも。お飾りの将軍で周囲に理解者が誰もおらず、深い孤独を抱えており、和歌でしか自分を訴えることができない元祖おたく青年だったとまで評します。

 面白おかしくかしく描かれていますが、これまで学習漫画等で見てきたような、お飾りであるために政治に興味がなく和歌に熱中した実朝像を踏襲していることには変わりありません。

 

映像エンタメ(大河ドラマや時代劇、映画)舞台芸術

 実朝は、江戸時代の歌舞伎などの伝統演劇において登場してもあまり存在感がない描かれ方であったことが指摘されています(日置 2019)。ただ明治以降はいくつか実朝が主で活躍する歌舞伎が書かれています。

 明治36年、福地桜痴が『東鑑拝賀巻』を書き三月歌舞伎で上演されました。これは義時が公暁に頼家殺害は実朝の命であると信じ込ませ、公暁が実朝を暗殺する物語で、義時の狡猾さ、北条氏によってあやつられて死んでいく頼家、実朝、公暁の悲運が強調されます。大正時代になって、坪内逍遥が戯曲『名残の星月夜』を書いて上演されました(『牧の方』『義時の最期』の三部作のひとつ)。本作品では、宋船での渡宋計画は表向きで、上皇と結託して北条を滅ぼそうと企てたと噂されますが、結局政子に懇願され渡宋を止めます。昭和には武者小路実篤1931年『実朝の死』を著し、19332月に歌舞伎座で『実朝と義時』に改題して上演されました。しかしいずれも現在まで続く歌舞伎のレパートリーになっておらず、少なくとも戦後は一度も上演されていません(歌舞伎公演データベースより)。戦後も何回か実朝登場の歌舞伎が上演されていますが、同様にあまり話題になりませんでした。

 能楽では高浜虚子土岐善麿が実朝を題材に新作能を書きました。虚子は正岡子規の弟子にあたる歌人であり、土岐は斎藤茂吉と論争や交流のあった歌人であることを考えると、これらは舞台芸術の潮流に位置付けるよりもむしろ歌壇から発生した作品と見ることもできます。

 また彼の生きた鎌倉初期という時代自体が、テレビや映画などの映像作品になることも長らくありませんでした。大河『草燃える』は、そのような中、大変貴重な実朝の映像作品です。総集編で実朝は、頼朝の血筋の源氏が次々と殺されているので、自分や子供が殺される未来しか見えないので子供を作らないと主張していました。本編でどのように描かれたかわかりませんが、幕府内で立場が強い存在であればそのような発想にはならないと思うので、やはり将軍といえど実権があまりない状態として描かれてたと推察されます。

 

 

⑤学術的一般書

 何をもって学術的かつ一般の書籍というべきか判断に迷うところでありますが、その中からいくつかピックアップして、変遷を辿っていきたいと思います。

 

<戦前>

A) 黒板勝美国史の研究 各説』(文会堂、1918)

(筆者註: 和田合戦の後義時は)是より文武の権ともに掌握に帰するに至りしも、実朝の母政子は猶簾中に政を聞きて尼将軍と称せしが故に義時も専横なるを得なかった。されども実朝は将軍の虚位を擁して諷詠自ら遣るに過ぎなかったので、或は和歌の会或は蹴鞠の遊びをなし、また政を顧なかった。そして宋人陳和卿の説により、一時は渡宋の志を立つる程であったが、また一方に於いては頻りに官職を望み、その昇進の速かなる、大江広元に諷諫さるる程であった」(p. 313)

B) 大森金五郎『武家時代之研究 第三巻』(富山房、1937)

「されば実朝は文学のみに耽り、政治の事に就いては全く無頓着であったかと云うと、決してそういう譚ではない。政治上に就いても一廉の見識を有って居たように思われる。中略(筆者註: 相模川の橋の件や寿福寺の行勇叱責の件をあげる)…兎も角も英発の資を抱いて居たに相違ないが、当時は母の政子や北条義時などが相談して事を行い、万事実朝の思うようにならなかったから、一層彼は和歌風流に心を入れ、又青年に有り勝ちなる名誉心に駆られたような形跡も著しく見える。…(中略)…一種の悲観的言説も往々発表される事があった。」(p. 403-404)

C) 松本彦次郎『鎌倉時代史 二版』(日本文学社、1938)

(相模川の橋や止雨の歌の逸話をひいて)実朝は一般国民にも厚い同情を注いだことはこれによってもわかる。吾妻鏡は北条氏の政治上の逸話を伝えることを忘れないけれども、実朝に関しては遊芸の記事のみを多くあげているのはどういう譚だろうか。…(中略)…政治家の残された逸話は善良政治そのものの証拠であるなら、実朝の政治は長沼宗政の一言によって、全部帳消しにならないものでもない。…(中略)…方代勝事記は彼の治世十六年間を「倹なるをすすめ、奢なるものをしりぞけられ」と、彼の一生を平和時代であったことを賛美している」(p. 89)

 

  黒板勝美は実権がなく政治を顧みず、和歌や官位に慰めをみいだいしたという表現ですが、頼朝研究で有名な大森金五郎は、そのような説を否定し聡明で見識があったことを述べています。松本彦次郎はさらには政治家として善良で有能だった、長沼宗政の批判もそれだけで実朝の実績が帳消しになるものでもあるまいと述べています。松本氏はアララギ派俳人であったことを差し引いても、史料を批判的に読み込みつつ肯定的に記述しています。皇国史観派ではない実証主義の史学者も実朝を比較的肯定的に描いてるといえます。

 

<戦後〜2000年代>

D) 石井進『日本の歴史 鎌倉幕府(中央公論社1956)(引用は石井進著作刊行会編『石井進の世界① 鎌倉幕府(山川出版社2005)に拠った)

「しかしもっぱら京にあこがれ、…(山は裂けの歌を引きつつ)後鳥羽上皇に忠誠を誓い、文事をたのしむ実朝のすがたは、東国生えぬきの武士たちにとって、けっして好ましいものではなかった」

…(「当代は歌・鞠を以って業となし、武芸は廃するに似たり」の長沼宗政の言葉を引きつつ)…いかにも御家人たち一般の不満の声を聞く思いがする。こうまで言われるようになっては、鎌倉殿としての権威はもう台なしである」

「だが、もはや幕府がかれ一人の力ではどうにも動かしようがないという事実に気づいているこの『ひとりさめている者』、若いインテリ将軍はますます現実からの逃避に熱中するばかりであった」(p. 228)

E) 上横手雅敬人物叢書 北条泰時(吉川弘文館1958)

  「実朝の実権は頼家以上に弱められ、彼に残されたのは、政治から逃避し、官位の上昇と文雅の道に憂さを晴らす事であった」(p. 15-16) また愚管抄の実朝批判の文章も引き合いに出しています。「慈円は『愚カニ用心ナクテ、文ノ方アリケル実朝ハ、マタ大臣ノ大将ケガシテケリ。マタ跡もナク失せセヌルナリケリ』と述べ、実朝が武士の本分を忘れ文弱であったことを、源氏滅亡の原因と認めている。実朝が学問を好めば好むほど貴族的となり、御家人から浮き上がってしまった事実を考えると、この評は当っている。」(p. 16)

 本書は実朝の「官打ち」説もその通りであると載せており、全体に為政者としては低い評価を与えています。

F) 安田元久人物叢書 北条泰時(吉川弘文館1961)

「政治の実権を握られた将軍実朝が、歌道・蹴鞠に耽溺するようになっていた。」「…(京都から坊門前大納言信清の女を妻に迎えてからは、実朝の周囲に一層公家社会の気運がみなぎり、全く公家化した実朝はしきりに官位の上昇を望むようになった。そうした事情から、鎌倉武士の将軍に対する信頼は次第に失われる傾向にあった」としています(p. 161)。しかしそれは執権政治の確立を望む義時にとって好都合だったとし、官位を望むのを諌める逸話も本当は広元単体でだったのではとしています。また実朝は上皇と義時の間に立って「浮草の如き自己の運命を自覚」していたとし(p. 173)、彼の存在が京都と鎌倉の衝突を回避していたとも。しかし執権政治を望む義時の教唆で公暁によって暗殺されたとしています。

 

G) 山本幸司『日本の歴史09 頼朝の天下草創』(講談社2001)

 この中では、従来の実朝が文弱で為政者として低い評価を与えられてきたことに対して異をとなえられている点が注目されます。吾妻鏡の記述から、御家人に対して毅然とした態度でのぞんだこと、治者としての自覚があり公平性があったことなどを指摘。また京に憧れてばかりいたように思われているが、東国への愛着があったこと、また予見能力や天水の支配者としての能力などから御家人たちか畏怖される存在であっただろうとも述べています。ただし政治への意欲のピークを建暦から建保あたりまでのこととし、和田合戦以降はそうではないような書き振りなこともまたポイントです。また将軍権力の集中化への傾向や政治権力への欲望が欠如していたとも。和田合戦以降意欲をなくす実朝像は、太宰の『右大臣実朝』を思わせます。

 なお、実朝の禁忌の歌や宋船計画などから、死を予感していた、あるいは積極的に死を願っていたという解釈もしています。著者は実朝の歌や行動にニヒリズムを見出し、「実朝の方は公暁の襲撃を恐らく予知していながらあえてそれを防がなかった、あるいはもっといえば自ら進んで公暁の刃の下に身を投げたに近いと私には見える」(p. 150)とまで述べています。

 

  石井進上横手雅敬、安田元久といった6070年代を牽引した歴史家のの著作を見ますと、戦前の論調と明らかに異なり、一転してかなり批判的論調です。上横手氏の義時史伝では、武士の政権を築こうとする義時とは実朝必然的に相容れなかったという見方を示しています。

 2000年代初頭の山本幸司の著作では全体に、従来型の見方と新しい見方の過渡期のような感じで、実朝の有能さは認めながらも、和田合戦以降を評価せず、死の予感に囚われていたという、文芸書で強調されるような見方も示しています。

 

2014年〜>

H) 坂井孝一『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』(講談社2014)

I ) 五味文彦源実朝 歌と身体からの歴史学(KADOKAWA2015)

  潮目が明確に変わったものとしては、坂井孝一氏、五味文彦氏の上記の著書あたりからです。

 これらは、今までの文弱で実権がなく政治に意欲を持たなかった将軍というイメージを完全に覆し、果敢に積極的に政治に取り組む実朝像を打ち出したエポックメイキング的な書籍でした。上にも挙げた『源実朝 虚実を超えて』(2019)においても、そのような実朝像の見直しが潮流となっていることが様々な著者から示されています。

 そしてこれまで、たとえ実朝に為政者としての能力を認める人であっても、和田合戦以降は政治的に無気力になるような捉え方をする傾向がありましたが、むしろ和田合戦を契機として為政者としての自覚を強め、権力基盤の強化を図ったと、逆ベクトルの見方を提示しています。

 また従来は実朝の夢想的な性格、あるいは厭世な気持ちの現れとして捉えられてきた渡宋計画も、積極的な意味合いで評価されるようになりました。また死を予感するような禁忌の歌も偽作が指摘されるようになり、無気力で厭世的な実朝像は払拭されました。

 もっともさらに近年なると、あまりにも強く打ち出された「非文弱将軍像」からの揺り戻し的な動きも出てきており、「やっぱり文弱将軍説」も出てきます。山本みなみ氏は、五味氏や坂井氏の提唱した実朝像に真っ向から対立するような、どちらかというと昔ながらの見方に近い、北条氏に押さえつけられたり和歌に耽溺しすぎたという実朝像を主張しています(山本、2021)。なかなか興味深いところです。

 しかしその「非文弱将軍」批判の中でも、実朝への朝廷への傾倒自体は否定的に見るのではなく、むしろ朝廷に充分奉仕できないということで北条氏から将軍としてまとめていく力を不安視されたという見方をしています。従来の実朝像で基本であった、朝廷への傾倒が「悪」であるという捉えら方がもはやされていないのは重要です。そのこと自体はもちろん坂井氏らにも認識されていましたが、山本氏の場合は「不安視した」ということにより力点が置かれている感じです。また坂井氏らと同じく、義時と実朝は対立関係でなく協調関係が基本であったという見方をしており、それも昔からある義時が実朝を排除しようとしたという見方を廃しています。

 ともかく、学術的一般書では、現在ではどのようなの立場にしろ、実朝と朝廷の協調関係はダメなことではなく、むしろ武士の長としてそれを遂行するために様々なことを義時と共に行った将軍として評価されてることがスタートラインであり、そこから、実朝のやったことや力量は充分か不十分か、義時と実朝の力関係の強弱がどうだったのかどうか、という議論になっていると見ることができます。

 

*****

 こうしてみると、戦前ー戦後ー2014年以降の三つの時期で、史学の中で実朝の見方が大きく変わっていったのが分かると思います。そしてそれは義時や武士の見方の変化とも密接に関わってきました。

 このような変化の背景として、まず中世史の見方の枠組みが変化していったことが挙げられるでしょう。

 戦前は実朝は、通説的な、実権がなく和歌に逃げた的な見方をされることもありましたが、実証史学の立場からは吾妻鏡の読み込みから比較的有能な資質が見出される傾向がありました。また北条氏、とりわけ実朝暗殺の黒幕と見做される義時がかなり否定的な描かれ方であることが多く、そのためいわば評価の天秤が実朝に傾きがちであったということもできると思います。

 ところが戦後になるとガラリとそこが変わりました。まず義時が属する「武士」が称揚され、古く退廃した貴族階級を打ち破る清新な存在として捉えられるようになりました。50年代前後に見られる研究状況は、公家政権との対比の中で、武家としての幕府勢力が階級的成長を遂げる政治過程を、追及しようとするものであった。」「この段階の基本認識は、公家政権とは新興の武家に克服されるべき古代支配者階級なのであり、これを圧倒する過程の中に新興武家勢力の歴史的役割を見出そうとした。別言すれば階級闘争史観による領主制論に依拠した観点であった。」((関、2023)  また東国の独特さや独立的傾向について論じる論文も増えていきました。

 実際、たとえば1958年出版の『人物叢書 北条泰時』では「泰時の生まれた東国社会は、退廃した京都とは対照的に、貧しくとも素朴で健康なものであったろう」(p. 3)「当時の社会において過去を代表するものは寺社・貴族であり、未来を代表するものは地頭・御家人であった」(p. 117)といった描写になっていて、それが実朝観にも反映されています。そのような貴族ー武士観、また東国武士観は、古くは『平家物語』の貴族的平氏VS武勇に優れた源氏という描写や、江戸時代の新井白石の史観に強く現れています。それは戦前にも影響を及ぼした考え方ですが、戦後のマルクス主義史観での中世観の中で、いわば理論的な裏打ちがなされ、より強固にその図式が打ち出されるようになったと言えます。そのような中、武士らしくなく京文化に憧れたり、朝廷に接近する実朝は必然的にダメな存在に位置付けられました。

 しかし1963年には権門体制論が黒田俊雄によって提唱されて、そのような貴族ー武士観への批判がなされました。中世において武士は公家・寺社と共に天皇を支える権門のひとつであるという見方を打ち出し、中世を古代的な公家政権と封建的な武家政権の対抗時代とみなして、後者による前者の圧倒の過程として位置付ける当時の通説を批判したのです。これにより、実朝が朝廷の官位に固執したり上皇に接近したりということを持って、武家の棟梁にあるまじき無能な為政者である、という見方が修正される下地ができました。

 しかしこの権門体制論の受容は速やかにはなされませんでした。6070年代は様々な批判が起きましたが、1983年発表の『日本の中世国家』で佐藤進一の東国国家史観が華々しく打ち出されたことにより、80年代は武士の京都の公家に対する東国武士の独立性が共通認識化されました。たとえば1988年に出版された関幸彦『武士団研究の歩み 第2: 戦後編』(新人物往来社)では、権門体制論については中世に統一的な国家を想定したものとして批判的に眺め、それに対して佐藤進一の論や、それを継承した石井進の論を、複数の国家を想定した新しい見方を提示したものとして称揚する記述でした。

 それが2000年代あたりになると少しずつ変わってきます。2003年出版の永原慶二『20世紀日本の歴史学(吉川弘文館)では、権門体制論を「重要かつ新鮮な視覚を提起している」と好意的な書き方をしています(ちなみに永原氏は幕府のあり方をめぐり黒田氏と論争している)2018年になると、『日本史のミカタ』(祥伝社)本郷和人は、自分は東国国家論を支持するけれども、中世研究者の8割は権門体制論を支持しているのではと語っています。同年に出版された『日本史の論点』(中央公論新社2018)では「1970年代に領主制に拠る研究者の多くから批判され、武家政権論の代表者たる佐藤進一も厳しく斥けたものの、最新岩波講座(201315)では依然として権門体制論が一定の力を保っている旨を指摘されている」と、不満げな書き方ながら有力な説であることを認めています。こうしてみると、坂井氏や五味氏の実朝論が出版された20145年あたりは、かなり権門体制論が普及してきた時期とみていいでしょう。

 もっとも権門体制論がただちに実朝見直しに結びつく訳ではありません。実際権門体制論提唱者の黒田氏自身は、実朝を昔ながらの無力で和歌などに現実逃避する将軍という見方を示しています。「いまや幕府の政治や実権はまったく将軍実朝の手からはなれ、ことごとく執権の指導下にあった。…(中略)…それだけに実朝の関心は当然政治からはなれ、京都の文化にあこがれ、官位の上昇のみを望み、ついには渡宋の計画にさえ着手するにいたった」(黒田俊雄「荘園社会」(『体系・日本歴史2『荘園制社会』』日本評論社1967)より)。実朝見直しはそれに加えて、武士そのものの研究の深化や、寺社の重要性の発見などを待たねばなりませんでした。

 武士の見直しについては90年代以降盛んになりました。鎌倉幕府成立以前から東国武士が在京活動を展開して中央権力と深い繋がりを持ったり、京を結集の核とする広域的な武士の移動やそれに伴うネットワークがあったことなどの研究が活発になり、東国VS京都という図式が否定されるようになりました。また同じく90年代以降、朝廷や幕府の宗教政策についての議論や実証研究が深まり、朝廷や幕府がいかに仏法隆盛を政の要として重視していたかが明らかになってきました。これは治世の後半の寺社への注力を現実逃避的行動と見做さなくなったことにつながります。

 また当時の発給文書の研究が進んだことも大きいでしょう。たとえば『鎌倉遺文』は竹内理三氏がほぼ独力で鎌倉時代の文書を網羅的に集め編集したもので、1971年から1995年の25年をかけて編纂されました。その功績は計り知れなく、たとえば五味氏の発給文書に注目した実朝論の一部も鎌倉遺文に依っていいます。

 権門体制論の隆盛、武士や寺社についての見直し、鎌倉時代の古文書の整備、それらが総合して初めて実朝見直しに至ったと言えましょう。

 

 

3.ドラマと史料類との異動・考察

後編https://topaztan.hatenablog.com/entry/2023/04/19/145745に続きます

 

参考文献一覧(研究書関係) 

 

石井進著作刊行会編『石井進の世界① 鎌倉幕府(山川出版社2005)

・岩城卓二・上島享・河西秀哉他編著『論点 日本史学(ミネルヴァ書房2022)

・岩田慎平『北条義時-鎌倉殿を補佐した二代目執権 (中公新書 2678)(中央公論新社2021)

・上杉和彦『源頼朝鎌倉幕府(吉川弘文館2022)

・奥富敬之『鎌倉北条氏の基礎的研究』(吉川弘文館1980)

上横手雅敬人物叢書 北条泰時(吉川弘文館1958)

・黒田俊雄『黒田俊雄著作集5 中世荘園制論』(法蔵館1995)

五味文彦本郷和人()『現代語訳吾妻鏡7〉頼家と実朝』(吉川弘文館2009)

五味文彦本郷和人()『現代語訳吾妻鏡8承久の乱(吉川弘文館2010)

五味文彦本郷和人()『現代語訳吾妻鏡 別巻 鎌倉時代を探る』(吉川弘文館2016)

五味文彦源実朝 歌と身体からの歴史学(KADOKAWA2015)

五味文彦吾妻鏡の方法 事実と神話にみる中世』(吉川弘文館2018)

・坂井孝一『源実朝 東国の王権を夢見た将軍』(講談社2014)

・坂井孝一『承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱 (中公新書)(中央公論新社2018)

・坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人びとNHK出版新書 679(NHK出版、2022)

・関幸彦『戦後 武士団研究史(教育評論社2023)

・高橋昌明『武士の日本史』(岩波書店2018)

・永原慶二『20世紀 日本の歴史学(吉川弘文館2003)

・野口実・長村祥知・坂口太郎『公武政権の競合と協調 (3) (京都の中世史 3)(吉川弘文館2022)

・三木麻子『コレクション日本歌人 051 源実朝(笠間書院2012)

元木泰雄源頼朝 武家政治の創始者中央公論新社2019)

・安田久元『人物叢書 北条義時(吉川弘文館1961)

・藪本勝治『日本史研究叢刊44 吾妻鏡』の合戦叙述と〈歴史〉構築』(和泉書院2022)

・山本みなみ『史伝 北条義時: 武家政権を確立した権力者の実像』(小学館2021)

・山本みなみ『史伝 北条政子: 鎌倉幕府を導いた尼将軍 (NHK出版新書 673)(NHK出版、2022)

・山本幸司『日本の歴史09 頼朝の天下草創』(講談社2001)

・渡辺泰明編著『源実朝―虚実を越えて (アジア遊学 241)(勉強出版,2019) (菊池紳一、坂井孝一、高橋典幸、山家浩樹、渡部泰明、久保田淳、前田雅之、中川博夫、小川剛生、源健一郎、小林直樹、中村翼、日置貴之、松澤俊二 著)