Topaztan’s blog

映画やドラマの感想や考察をつづっています

知られざる源実朝小説・戯曲①〜岡松和夫『実朝私記抄』

 源実朝を扱った文芸作品は、有名なものとしては太宰治『右大臣実朝』、小林秀雄『実朝』、吉本隆明源実朝』などがあります。以前書いたブログでも書きましたが、戦前〜戦後しばらくは実朝が文学界に大きなプレゼンスがあった時期であり、今でも読み継がれる作品はその頃に書かれました。しかしその後プレゼンスは低下していき、彼をテーマとする、文学好きなら誰でも知るような著名な作品は出てこなくなりました。

 しかしどの時期においても、戦前戦後でもまた現代でも、一部の実朝マニア以外にはあまり知られていない小説や戯曲が、幾つも発表されています。本ブログでは、それらの知られざる作品を少しづつご紹介していきたいと思います。

 

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 最初に取り上げるのは、個人的におすすめの、岡松和夫氏の『実朝私記抄』です。

 

 岡松和夫氏(19312012)は、国文学者であり小説家でもあった人で、1976年に芥川賞を受賞するなどしています。こちらの作品は「短歌研究」19981月号〜20003月号に連載され、20005月に単行本として出版されました。

 

 執筆年代的に、まだ坂井孝一氏や五味文彦氏が打ち出したような「新しい実朝像」が提唱される前であり、そのため東国武士から和歌や仏道への傾倒を理解されなくて浮いてるとか、政治的に母や叔父に比べて権力がなく無力であるとか、官位上昇を諌められるとか、その辺りは昔からの通説通りです。しかし全体に大変考え深く、優しく穏やかな、でも自分の考えは曲げない芯の通った将軍として描かれています。

吾妻鏡は実朝を書く時の第一の資料だろうが、政治の角度から主として記述されているので、高い官職を求めて昇進にこだわる実朝が愚かしく見えてきかねない。愚管抄を書いた天台座主慈円も、実朝を評して「おろか」という言葉を使っている。

 しかし、実朝はそのような批評を超えている。そして、実朝のような将軍の立場なら誰も考えない渡宋を願い、それを実行しかけた」(岡松和夫『実朝私記抄』(講談社2000) p. 260)

 という言葉に、本書の姿勢が現れています。

 

 特に本書の実朝の特徴として大きいのは、栄西との交流に大変比重が置かれているということでしょう。本書では実朝は幼少時から栄西と交流し、結婚後も早速御台所を栄西に引き合わせています。実朝は栄西から宋のことを様々に聞き、早々に宋や仏教への傾倒を強めます。彼は栄西の著した『興禅護国論』も愛読しているという設定です。唐船建設は、陳和卿に会ったあたりに急に思い立った話でなく、そのような少年の頃からの栄西との交流を通しての気持ちが高まった結果として描かれており、宋だけでなくいずれは天竺への行きたいとまで熱望します。実朝は自分を密かに将軍にして僧侶と思い定めており、最後の方にはそれを義時にも告げてもいます。一般に為政者、芸術家としての視点で見られがちな中で、実朝自身の内面を深く仏教に結びつけた視点は珍しいと言えます。

 

 また御台所(作中では定子という名前)と仲睦まじい様子があたたかい描写でなされます。定子も没個性ではなく、蹴鞠を嗜んでいる活発な女性です。それに興味を持った実朝が、定子と女官たちと共に蹴鞠をする会を開いてあげたり、海に関心のある定子を実朝が海辺遊びや船での遠出に連れて行ったりという描写もあります。彼女に関するエピソードの多くは吾妻鏡にはなく創作ですが、私は個人的に持っている実朝御台所についてのイメージととてもそぐわしいものを感じました。大変身分ある京の女性であるにも関わらず、吾妻鏡などの記述からみるとかなり鎌倉に馴染んだらしき様子であり、新しい環境を楽しみ受け入れる積極的な女性だったのではという想像をしているからです。そのような彼女に冗談を言って笑ってくれたので喜んだりする実朝の描写もまたかわいらしいです。

 彼女は実朝と共に栄西とも接触しており、それが実朝の死後、渡宋の夢を受け継ぎ、建仁寺の僧で栄西の弟子、明仁道元の渡宋を援助することに繋がります。実朝の夢を定子が継承して次世代につなげる様子はかなり胸熱です。

 道元に関しては、彼の創建した興聖寺の建設にも定子が大いに助力したと本書では述べられていますが、これは実際、興聖寺法堂を実朝御台所が寄進したのではという説があり(寄進者として伝えられる「正覚尼」が、御台所の法名「本覚尼」の書き間違いではなどとしている)、本書ではその説を採用しているのだと思われます。また定子は、実朝の命を受けて渡宋の準備をしていたものの、彼の暗殺を知って出家した葛山景倫とも会って、実朝や道元について色々話したのではないかと、筆者は空想しています。実朝の死後、彼の志が定子を通じて様々に花開いたのではとする描きぶりに、筆者の実朝に対する眼差し、実朝の人生が後々世にも有意なものであってほしいという祈りのような気持ちがひしひしと感じられます。

 

 筆者は吾妻鏡をよく読み込んでるようで、実朝の様々な側面を汲み上げています。たとえば実朝がふらりと出歩くタイプであることもそうです。歌作のために急に出かけたり(お供する者たちからは不評)、自ら作った大慈寺に皆が集まってる様子を見ようと侍に変装して見に行く、なんてことも。お忍びで一人で山内に出かけて周囲を慌てさせた、という吾妻鏡の逸話を彷彿とさせるエピソードですね。

 また二所詣の様子も細やかに描いてます。何人くらいで行ったのかとか、どこでどう寝るかとか、食事の手配はとか、吾妻鏡には出てきませんが確かにどうだったんだろうと読者は考えますよね。私は以前勤めてた会社でそういう手配系をよく担当してたので、二所詣の担当事務方は結構大変だっただろうなと勝手に想像しています。筆者も具体的に旅路を想像しながら書いたのではないでしょうか。

 

 通説通りの描写が多いと書きましたが、義時黒幕説は否定しています(三浦の黒幕説も否定しており、公暁単独説をとっています)。義時は実朝を理解しづらいと思い、唐船について反対したり官位について広元を通じて意見したりし、実朝のための命をかける御家人はひとりもいないと考えますが、でも完全に見限りはしなかったと繰り返しています。実朝には言い表しがたい魅力があり、色々思うところはあれど嫌ったり排除したりというところまでいかなかったという描写です。公暁の陰謀に薄々気づいていながらあえて対策を取らなかったりしますが。実朝の方も、叔父にどこか気ぶっせいなものを感じ、なかなか親しく、あるいは持ち上げるように如才なく振る舞えないのですが、でもなんとか自分をわかってもらおうとコミュニケーションを取ろうとしています。拝賀式の際に最後に交わした会話も宋へ行く件であり、「今の自分には冒険が必要です」というものでした。

 

 泰時は義時よりも実朝に親和的な関係であるようにも描かれており、『鎌倉殿の13人』で二人の関係性が好きになった人には殊に嬉しい描写です。泰時は実朝より9歳歳上ではあるけれども、実朝と同じいわば鎌倉の新人類(古いな今でいうZ世代か)ともいうべき感じで「新時代の子」という表現がされています。義時からすると戦乱を知らない世代、ちょっと自分とは感覚が違う世代という感じです(この世代間の感覚の違い、ジェネレーションギャップ的なことは作中でよく描写されます。実朝の唐船計画に、若い御家人たちもこぞって賛同し共に夢見る様子にもそれが描かれます)。泰時は実朝の思いつきの外出にも特に止めもせず黙って従い、実朝が口にする栄西の話にも好意的に同調します。実朝にとっても、泰時は北条の後継者なので私的に何か話せる相手ではないものの、兄のような相手とも書かれています。二所詣で泰時が供奉した際、宿泊先で、夜、おそらく襖越しに語り合う二人の描写は印象的です。

 

 政子との関係は、はじめ良好だったものの徐々にこじれていったとしています。しかしこじれたとはいえ、それほど険悪な感じでもありません。通じない母心に苛立ったり、でも穏やかに意見したり、などの描写は、世によくある、現実的な母親と将来の夢に突っ走る若者の関係のようです。そもそも政子との関係に限らず、全体に人物評、人物間の関係に、白黒の判断をはっきりつけず、揺れ動く細かな心情を描く静かな筆致は、いかにも文学的です(ある意味プルースト的な描写とも感じます)。それが多少難解にも感じられますが、生身の人間同士の描写として、大変リアルなものがあるなとも思いました。

 

 また作中で、時折作者自身の声としての文章が入るのですが、そこで実朝を戦時中の若者と重ねていることをかなり強めに語られており、戦中派の人にとっての実朝像の一端を見る思いがしました。

「筆者は実朝を書こうと決めた時、何よりも数え年二十八歳という若い死を書きたいと思った。病死ではない。実朝は殺されたのだが、その死は自分では殆ど避けようがないものだった。

 そういう若い日本人の運命を歴史上に求めた筆者は、決して古代にその例をさかのぼらせようとは思わなかった。筆者が考えたのは第二次世界大戦中に軍隊に動員された学徒たちである。その青年たちと実朝の運命がはっきりと重なるのだった。

 小説の途中でこのような現代に結びつけた感想など記すべきではないのかもしれない。しかし、筆者は二十歳の実朝を書いている。戦争の頃の二十歳の避けようのない兵役への連想がどうしても起ってくる。

 実朝はどんどん自由を失ってゆき、内面だけを変化させていった」(同書 p. 127-128)

 戦場に出た訳ではなく儀式の最中に暗殺された実朝と、兵役に駆り出されて戦場で亡くなった若者は一見似ていないように見えます。しかしじわじわと自由な発言を許されない環境に置かれ、夢を実現することもなく若くして否応なしに死に至らしめられる、というのは、終戦時に14歳だった筆者として共通のものを感じたのでしょう。先に述べました、実朝の生が無駄であってほしくない、その志を誰かが受け継いでいってほしいという願いは、そような死んでいった若者たちへ手向ける気持ちと重なるのではないでしょうか。

 第二次世界大戦中に青少年時代を過ごした作家たちにとって、実朝は様々な意味でその時代に、また我が身に引きつけて考えざるをえないものがあったようです。視点は異なりますが、中野孝次(1925-2004)も『実朝考ーホモ・レリギオーズスの文学』(1972年発表)で、戦時中の若者の気持ちに実朝の歌がいかに響くものであったかを熱く語っています。

「死がぼくらの空を覆っていた十代の終りに、ぼくらの耳にひびいたのは、そういう語るすべのない地点で呟かれたある人間の声だけだった。た。それが死の前での生をみたすにたる唯一の言葉だった。(中略)ぼくらに生きる力を与えてくれるのは、そういう「兄弟」の声のひびきだ。ぼくは実朝のいくつかの歌のなかに、その種の絶対的孤独のなかにいる人の声調を聞く。」(中野孝次『実朝考ーホモ・レリギオーズスの文学』(講談社2020)電子書籍)

 同書と『実朝私記抄』では実朝や周囲の人物への見方が異なる点も色々ありますが、第二次世界大戦という経験なしには書かれなかった作品という意味で共通しているものを感じます。中野孝次は『ホモ・レリギオーズス』の後書きの中で「自分の戦争体験を表に出し、その自分から見た実朝を語るという方法をとった」と述べていますが、『実朝私記抄』もまた、そのような戦争体験が大きく影を落としたものでした。

 

 

 本書の表紙は中国の仏塔を描いたもので、宋に渡る夢を追い求めた実朝を描いた本書の表紙として大変似つかわしく思います。どの仏塔かちょっと判断できませんが(作中に出てきた天台山や阿育王山、大慈寺とは関係ない様子)、それが逆に、実朝が夢見た(想像した)宋の寺のようでもあり、鉛筆と水彩の夢幻的な雰囲気とマッチしていると思いました。

 

 

参考文献

・岡松和夫『実朝私記抄』(講談社2000)

中野孝次『実朝考ーホモ・レリギオーズスの文学』(講談社2020)電子書籍

・守屋茂「深草興聖寺の開基正覚尼について」『印度學佛敎學硏究』通号 511977