『鎌倉殿の13人』の42回「夢のゆくえ」で、将軍源実朝が宋の工人陳和卿と面会し、その内容が以前実朝が見た夢に一致するという、吾妻鏡でも有名な逸話を元にしたシーンが描かれました。
<ドラマあらすじ>
1216年6月、源仲章が京から宋の国の匠、陳和卿を連れて実朝たちの前に現れます。彼は初対面にもかかわらず、実朝を見て涙を流します。不審がる周囲に対し、彼は前世で実朝は宋の医王山の長老で、自分はその門弟だったと言うのです。
「この光景、以前夢に見たことがある。そなたは私の前に現れ、同じことを言った」
実朝が興奮気味に、いつも書いてるという夢日記を皆に見せて、6年前の建暦元年(1211年)に自分が見た夢と一致してると語ります。
「何か言いたいことがあるのではないか? 船にまつわることで」
と陳和卿を促すと、彼も頷き、
「大きな船を造りましょう。誰も見たことがない大きな船を。それで宋へ渡り、交易をするのです」
と語ります。
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このシーンは、吾妻鏡ではただ6年前に夢に見た内容と同じことが起きたので信仰心を深くした、とのみ描かれており、船のことはこの時点では触れられていません。また実朝が夢日記をつけているというのは創作と思われます。もっとも夢を日記につけるということは同時代に全く例がないわけではなく、高山寺の中興開山として知られる明恵上人(1173年~1232年)が、19歳の頃より、59歳にいたるまで約40年にわたって自ら見た夢を記録した「夢記」があり、本ドラマはもしかしたらそれを参考にしたのかもしれません。
さてこの夢日記の小道具、綴じた紙に色々書きつけてあるのですが、一体何が書いてあるのでしょう…?
美術さんが頑張って作ってくれた日記をぜひとも解読したいな…でも誰かやってんだろうな…と思いましたが、でも私の検索技術では発見できず。
もしかしたら解読した人が既にいるかもですが、私も自分で読んでみようと思います。
◾️右ページ1個目の日記: 吾妻鏡承元四年(1210年)八月十六日を元にしたもの
途中からなので日付は分かりませんが、ぱっと見のキーワードとして「鬼童丸」というのが読み取れます。そうすると、吾妻鏡の承元四年(1210年)八月十六日に、鶴岡八幡宮の放生会で相撲の取り組みがあり、鬼童丸という参加者があったという記述が想起されます。そう思って見てみると、
…次廣瀬四郎、與鬼童丸〔西濱住人〕兩度召决之、遂無勝負、人以爲壯觀
(『吾妻鏡 : 吉川本 第2 』(国書刊行会、1915年)) より※以下、吾妻鏡の引用は同書による
<現代語訳>
次に広瀬四郎と西浜の住人である鬼童丸を召して二度対決させたが、ついに勝負がつかなかった。人々はこれを壮観だと評した。
(五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』(吉川弘文館、2009年))
という吾妻鏡の記述がそのまま書いてあるのがわかります。
このページは建暦元年(1211年)6月のあたりなので、前の年の相撲のことを夢に見た、という設定なのでしょう。
ちなみにこの時の相撲の会には、泰時の郎党岡部平六が出場しています。
◾️右ページ2個目の日記: 吾妻鏡建保四年(1216)六月大十五日を元にしたもの
これが実朝たちが話題にしている夢の話でしょう。全文、読み取れるだけ書き起こしてみます。
六月三日丑刻寝中高僧一人入御夢之中顎口髭⬜︎長高僧頗涕泣中云貴客者昔爲宋朝醫王山長老于時吾列其門弟云々夢中所思再会前世門弟殊喜悦次所申修造唐船可令渡唐御行交易可宜如此夢奈何光新⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎也
<試訳>
六月三日の丑の刻に寝ていた時に、夢の中に高僧が一人やってきた。口髭顎髭が長い。高僧は泣き出していわく、あなたは昔、宋の医王山の長老で、私はその門弟でしたと。夢の中で前世の門弟と再会できてとても嬉しい。唐船を造って唐に渡り交易するのがよいでしょうという。この夢をどうして…
すみません、漢文に詳しくないのでなんとなく訳してみました。
ドラマ当日の、建保四年(1216)六月大十五日に陳和卿に会った時の吾妻鏡の原文を見てみますと、かなり被っているのがわかります。被っているところを太字にしてみました。
召和卿於御所、有御對面、和卿三反奉拝、頗涕泣、將軍家憚其礼給之處、和卿申云、貴客者、昔爲宋朝醫王山長老、于時吾列其門弟云々、此事、去建暦元年六月三日丑刻將軍家御寢之際、高僧一人入御夢之中、奉告此趣、而御夢想事、敢以不被出御詞之處、及六ケ年、忽以符号于和卿申状、仍御信仰之外無他事云々
<現代語訳>
(陳)和卿を御所に召して(実朝が)対面された。和卿は三度拝礼すると、たいそう涙を流した。将軍家(源実朝)が和卿の礼に困惑されたところ、和卿が申した。「あなたは前世の昔、宋朝の医王山の長老で、その時に私は門弟になっていました」。このことは、去る建暦元年六月三日の丑の刻に実朝が眠られていた時、高僧が一人が御夢の中に現れてそれと同じ内容を告げた。そして(実朝は)この御夢のことを全くお言葉に出されなかったところ、六年が過ぎてにわかに和卿の申したことと合致した。そこで信仰されるばかりであったという。
(五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010年))
長い口髭と顎髭があるとか、船を造って交易するという意見が追加されているのがわかります。
追記: ちなみに吾妻鏡の1211年6月3日前後を見ると、6月2日に実朝急病、御所の南庭で陰陽師による属星祭→6月3日寅刻に夢告あって霊験あり、それは前日の祭のおかげであると実朝は信じて陰陽師に馬を賜る、という記事があります。こちらの、寅刻の病が癒える霊験の夢告と丑刻の高僧の夢は、時間的にバッティングはしてないので両立し得ない話ではないですが、おそらくこれをドラマ小道具の夢日記に盛り込むと結構煩雑になるので、こちらは削除されたのではないかと思われます。あくまでも6月3日の夢は高僧の件のみにフォーカスさせたい、という意図を感じます。
◾️右ページ3個目の日記: 吾妻鏡建保二年(1214年)二月大十四日を元にしたもの
吾妻鏡で似たような記述を探すと、1214年2月14日の夢で同じようなものがあります。
二月大十四日己酉、霽、將軍家被催烟霞之興、令出杜戸浦給、長江四郎明義儲御駄餉、於彼所有小笠懸、壯士等各馳(施)其藝、漸及黄昏、待明月之光棹孤舟、自由比濱還御云々
<現代語訳>
「将軍家(実朝)が、よい景色を見たいと思いたたれ、杜戸浦に出かけられた。長江四郎義明がお食事を用意した。その場で小笠懸が行われ、壮士らがそれぞれ射芸を披露した。やがて日暮れになって、明月の光を待ち、一隻の船で由比ヶ浜から帰られたという。
(五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010年))
「將軍家被」が「夜夢云」になっている以外吾妻鏡通りですね。何気ない、御家人たちとの楽しい交流の一コマです。日付がだいぶ先のことなので、将来起こることの夢を見た、ということになります。完全に予知夢だったのか、それとも夢に見たことが楽しかったので、実朝が企画して同じことをさせたのか…色々想像が広がります。
個人的には、夢に見たことを企画したにしては、2年半以上も経ってるので不自然と言えば不自然だなあと思うので、予知夢だった説を取りたいです。もし予知夢だとするなら、実朝は1214年にたまたまこのことが起きて、日記を見返してハッとして、自分の夢が予知夢だったこと気づく…という経験をしたとも考えられます。そうだとすればなおさら、夢の高僧の件を予知夢だとすんなり受け止めたことに納得性が高まります。
吾妻鏡での実朝は、しばしば予知夢や予言をするシャーマン的な存在として描かれています。それはドラマの中では活かされず、彼の夢へのこだわりや夢を信じる心は、現代的な眼差しでやや嘲笑的に描かれていました。ですが小道具を通じて、ドラマの実朝ももしかしたら本当に予知夢ができるタイプかもしれない…それが陳和卿を信じる気持ちの後押しをしたのかもしれない、と密かに示唆していると考えると、ドラマもまた違った見方ができるかもしれません。
◾️左ページ2個目の日記: 吾妻鏡建保元年十二月三十日を元にしたもの
あまり読めないですが、
六月九日夜夢云以昨日供養經……義村遣三浦被沈海底云々
と書いてあるのが見えます。
吾妻鏡で似たような記述を探すと、1213年12月30日の夢に行き当たります。
以昨日供養經巻、仰左衛門尉義村、遣三浦被沈海底云々、依有御夢想告也
<現代語訳>
昨日供養した経巻を左衛門尉(三浦)義村に命じて三浦に遣わし、海底に沈められたという。夢のお告げがあったからである。
(五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』(吉川弘文館、2009年))
吾妻鏡では夢のお告げによって、おそらくは和田一族の供養のために、実朝自ら写経した円覚経の経典を三浦の海に沈めさせたとありますが、夢を見た時期は明記されていません。読者はなんとなくその供養のあった日に近いなのかなと思ってしまいますが、この夢日記からすると、和田合戦よりだいぶ前に見た夢にインスパイアされたということに。
供養のためにお経を海に沈めるという、何か不穏な、心ざわめく夢告が最後に置かれているのも、実朝の夢日記らしい構成のように感じます。
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以上、小道具の夢日記を解読してみました。
まとめると、以下のようになります。
吾妻鏡の逸話を巧みに使い、高僧の夢の当該部分だけれなく、全体にいかにもそれらしいものを散りばめて、説得力あ夢日記になっているのが判明したかと思います。担当の方の調査力想像力に本当に感服です。もっとも自分のことに「御」とか「給」をつけるのかな…?とは思いましたが、私は古文に詳しくないので、もしかしたらそこはOKなのかもしれません。
※ちなみに、日記の元のなる吾妻鏡はおそらく吉川本から主に採ったのではと筆者は推測しています。
というのも、承元四年(1210年)八月十六日の記事の鬼童丸、吉川本が出る前の吾妻鏡では「鬼童」と書かれているのです。
明治29年の『校訂増補吾妻鏡』(大日本図書)は北条本を底本に諸本を用いて校訂したもの、明治36年の『国史体系 吾妻鏡』は北条本を底本にし諸本を用いて校訂したものですが、両方とも当該部は「鬼童」とあります。それが『吾妻鏡 : 吉川本』(国書刊行会、大正4年)では「鬼童丸」となっていたのです。吉川本は明治44年に東京帝国大学史料編纂掛に貸与されるまでは吉川家に秘蔵されており、近世にはその存在が知られてなかったもので、構成や本文テキスト共に独自性が高いものです。(なお寛永版を底本として吉川本や国史体系を対照して校訂した『日本古典全集 吾妻鏡』(大正15年)でも「鬼童」です)(「其門弟」の「其」が、同様な出現です)
本ブログの現代語訳で採用している五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』シリーズは、黒板勝美編『新訂増補 国史体系』(国史体系刊行会、昭和7年)を底本にしていますが、この本は北条本を底本にし、吉川本・伏見宮本・前田本など、明治以降発見された諸本含め厳密に対校したもので、現在広く『吾妻鏡』のテキストとして用いられているものです。ここでは「鬼童丸」とされており、吉川本の記述が採用されているのがわかります。しかしこちらは前後を見ると「与鬼童丸」となっており、『校訂増補吾妻鏡』および小道具の方では「與鬼童丸」となっているのと異なるので、小道具の方は『校訂増補吾妻鏡』の方を参照したと思われます。
参考文献:
五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡1 頼朝の挙兵』(吉川弘文館、2007年)
五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』(吉川弘文館、2009年)
五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010年)
国書刊行会『吾妻鏡 : 吉川本 第2 』(国書刊行会、1915年)
「神奈川県立の図書館」HP 「かながわの歴史文献55 1.史書 #1 吾妻鏡」
藪本勝治『日本史研究叢刊44 『吾妻鏡』の合戦叙述と〈歴史〉構築』(和泉書院、2022年