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源実朝没後七百年記念行事①〜源実朝公七百年祭

 源実朝は、1898正岡子規の『歌よみに与ふる書』をはじめとする近代のアララギ派による称揚による注目以降、生誕や没後の節目ごとに記念の年として様々な催しが行われてきました。たとえば主だったものでは以下の年があります。

 

・大正8(1919):没後七百年記念

・昭和17(1942)生誕七百五十年記念

・平成4(1992): 生誕七百年記念

・平成31(2019): 没後八百年記念

 

 今回は、今まであまり注目されることのなかった、大正8年の没後七百年関連のイベントを取り上げたいと思います。第一回は鶴岡八幡宮の白旗宮で開催された『源実朝公七百年祭』です。

 

実施の背景・サマリー

・鎌倉の好古の活動の気運の高まり(鎌倉同人会など)

・全国的な〜百年祭の隆盛・同じ会場で頼朝七百年祭開催

・宮中の歌人を中心とした集まり・新派歌人佐佐木信綱は出席の形跡なし

 

1.「源実朝公七百年祭」について

 

() 概要

 

 191932日に開催予定の源実朝公七百年祭について、協会発足と協賛会員を募る告知が、『國學院雜誌 = The Journal of Kokugakuin University 25(1)(294) (19191月発行)に掲載されました。

(国会図書館デジタルコレクションより)

 告知の内容は以下の通りです([ ]括弧内は筆者が調べたものを付記)

 

<趣旨>

「『山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二心われあらめやも』と、その誠忠の真情を詠み出でたる源家三代将軍実朝公は、僅に二十八歳の英才を抱きながら、無惨弑害の哀史を残したるは承久元年正月なりき。…(中略)…来三月二日を卜して、公を祀れる白旗宮(鶴岡八幡宮)に於て盛大なる記念祭を行い、以て公が英魂を慰謝し、公が遺風を追慕せんとす」(筆者が現代仮名遣いに改めた)

 

<七百年祭協賛会役員>

会長: 本多正憲子爵

理事:

 里村勝次郎

 矢野豁(とおる)上賀茂神社宮司?]

 清川来吉[1917年に鎌倉町長、後に初代鎌倉市市長]

 副島知一[鶴岡八幡宮宮司

賛襄: 徳川家達貴族院議長]など60

 

<記念品贈呈>

・金槐集(実朝公歌集絵端書)

・壬生硯(実朝公遺品の模造)

・絵端書(白旗宮、実朝公像、同筆跡)

 

<協賛会員>

特別:(会費3円以上を納めたもの)記念品全てを贈呈

普通(会費1円以上を納めたもの)壬生硯を除く記念品を贈呈

 

<日程>

191932日 鶴岡八幡宮内白旗宮にて

午前10時 神前披講

午後1時  講演会

     [場所: 神奈川県師範学校

      芳賀矢一「実朝公の和歌に就て」

      和田秀松「実朝公に就て」]

 

 ちなみに午後の会場の神奈川県師範学校(現 横浜国立大学教育学部附属鎌倉中学校)鶴岡八幡宮に隣接した土地にあり、白旗宮から近い場所にあります。

 

 告知は『歴史地理』(日本歴史地理学会)にも2回ほど掲載されています。

 

(2) 実施状況

 

 本会の簡単な実施報告的なものは『歴史と地理』(星野書店、19194月号)に記載されています。それによると集まったのは数百人で、午前8時に修祓の儀、10時から全国から集めた献詠の歌や、実朝の「山は裂け〜」の神前披講、午後1時より神奈川県師範学校にて帝国大学教授/國學院大学長の芳賀矢一博士、國學院大学講師史料編纂官の和田英松氏の講演が開かれたとのことです。

 最初から最後まで出席した参加者の記述は見つけられませんでしたが、佐佐木信綱の弟子で白樺創刊にも参加した木下利玄が、たまたま七百年歳の準備の様子を見かけ翌日講演会に参加したことを日記に記しています。

(『木下利玄全集 散文編』国会図書館デジタルコレクションより)

 

 この会の実質的な発案者が誰で、どのような経緯で開催が決まったのかはよくわかっていません。発起人は本多正憲子爵、副島鶴岡八幡宮宮司などとする記事もありますが(『歴史と地理 3(1)(星野書店、1919))私の調べた限りでは彼ら自身が語った七百年祭に関する話は見当たりません。

 とはいえ、役員や献歌をした歌人たちの経歴を調べると、ある程度背景が見えてきました。以下にそれを述べていきます。

 

 

2.役員から読み取る発足の背景

 

◼️会長 本多正憲子爵

 

 会長の本多正憲(18491937)は、安房長尾藩第2知藩事、のち子爵。三島神社宮司をへたあと貴族院議員(18901897)に。東京在住ですが鎌倉に別荘を持ち、鎌倉の古文化振興に尽力した人でした。

 彼は「鎌倉同人会」(大正4年発足)の会員であり、「会員の本多正憲子爵は、歴史、美術等に造詣深く、史蹟保存等については常に有益 な意見を開陳し、極めて熱心なので、委員会で、同氏を委員会顧問に推薦し、承諾を得た」(沢寿郎『鎌倉同人会五十年史』(社団法人鎌倉同人会、1965))とあるように歴史美術に造詣の深い熱心な人物とみなされていました。

 たとえば大正7年に発刊された書籍『鎌倉社寺重宝一覧』は、鎌倉同人会会長の陸奥廣吉伯爵と本多子爵が発議し、編纂は本多子爵が担当することになったのことです。(『〜一覧』には寿福寺の実朝像についての言及もあります)

「鎌倉内の社寺の宝物をことごとく調査して、書籍にまとめて置こうとの議が、陸奥氏、本多氏あたりから起り、早速調査にかかる ことに決し、それの編纂は本多正憲氏が担当することとなった。

また、これと併行して、鎌倉の古文書を蒐集して置くことも提唱され、これは帝国大学史料編纂係に依頼して、同所々蔵の古文書で鎌倉に関係あるものを影写してもらうことになった。」(『鎌倉同人会五十年史』)

 

 また鶴岡八幡宮年表によると、七百年祭の年の916日に「神幸会を執行す、本多正憲子爵、土井利与子爵、小笠原清道等の尽力により流鏑馬神事を鎌倉時代の旧儀に復して執行す」とあり、本多子爵が流鏑馬神事復元にも関わったことがわかります。

 

 これらから考えるに、本多正憲子爵が鎌倉の歴史文化に造詣が深く鎌倉同人会でも重きをなしており、彼が実朝の顕彰祭を発議した、あるいは他の誰かからの発議を受けて代表者になったとしてもおかしくないと思われます。

 

◼️鎌倉古文化への関心の高まり

 

 ではそもそもその本多子爵が所属していた鎌倉同人会とはどういうものだったのでしょうか。

 鎌倉は江戸時代には観光地として栄え多くの寺社がありましたが、維新後の上知令(第一次は1871年、第二次は1875)により寺社領が取り上げられ収入が激減。神仏混習の禁止もあって境内も荒廃し、宝物も数多く流出しました。

 そのような中、明治 18 (1885)、横浜の実業家や地元鎌倉の名士、寺社などが発起人とな り、維新以来困窮した鎌倉の寺社の救済、史蹟の保存などに貢献することを目的に 「鎌倉保勝会」が設立されました。この会についての当時の評価を見ますと、寺社にお金は回り、また後述する鎌倉における歴史の講演会に多額の寄付をしたりと、一定の功績はありましたが、史蹟保存という観点からはあまり活動できていなかったことには批判の声が上がっています。

 その後に登場したのが、大正5(1914)結成の「鎌倉同人会」です。これは明治〜大正にかけて鎌倉に東京や横須賀などから大量に流入した「別荘族」で結成されたもので、目的には史蹟の保全が含まれていました。こちらは史蹟保存・文化財保護などの面でも大いに貢献しました。

「彼ら別荘族は、社会的に著名な高額所得者が多く、その存在は鎌倉町にとって単なる多額納税者以上の意味を持つようになり、また、別荘族自身も鎌倉に関わる志向を持ち始める。

 その中の動きの一つが、別荘族の組織化である。まず、明治 41 (1908)親睦融和が目的の 鎌倉倶楽部が設立されると、大正4(1915)に、鎌倉倶楽部のメンバーである医師の勝見正成を中心に、史蹟保存、衛生・教育の普及、インフラの利便性向上などを目的として設立されたのが、鎌倉同人会である。(中略)これは、個々の社会的地位や影響力により、直接国や財界などに働きかけ、町を側面から援助する ことを目指したものであった。従って、実質的には、町政を含めかなりの影響力を持っていた」

(岸本洋一「近代鎌倉の青年団による史蹟指導標の建碑 ―副団長の記録に見る建碑の詳細―」(京都芸術大学大学院紀要1 70-127, 2021-02-03、京都芸術大学))

 実朝七百年祭を鎌倉で大々的に開催した背景には、そのような鎌倉在住者間での好古の活動の盛り上がりもありそうです。

 

 明治41年には、鎌倉で鎌倉をテーマとした日本歴史地理学会の夏期講演会が、8月に11日間にわたって開催(鎌倉保勝会も百円の寄付)。講演会以外にも史蹟や山野、海などに実地に赴いてフィールドワークするイベントが催されました。女性も含めた182人が全国から集まり、主催者側はまさかの大盛況に大変驚いたそうです。これを見ると、研究者ではない一般市民の歴史への関心が、鎌倉のみならず全国的にも高かったこと、鎌倉に住民以外にも鎌倉という地の歴史に関するイベントに集客力があることが証明されたとも言えます。

 

◼️鶴岡八幡宮の関わり

 

 役員の副島知一は鶴岡八幡宮宮司で、献歌会会場も八幡宮内の白旗宮と、本祭は鶴岡八幡宮と深く関わっています。贈呈品の「壬生硯」は実朝遺品のレプリカとありますが、おそらく鶴岡八幡宮で開催されていた「鎌倉懐古展覧会」の目録の中の「三代将軍実朝公遺物」にある「壬生硯」がモデルでしょう。これを見ても鶴岡八幡宮との関わりの深さが伺えます。

 この白旗宮は実朝を祀ったところであると告知文にもさらりと書かれていますし、現在では実朝ゆかりの神社としてすっかり定着しているので見過ごしてしまいますが、実は白旗宮と実朝は創建当初からの組み合わせではありませんでした。これには維新後の鶴岡八幡宮宮司が深く関わっていたのです。

 白旗宮はもともとは頼家が頼朝を祀るために創建したもので、武衛殿と呼ばれていました。明治時代に荒廃しましたが、それを憂いた鶴岡八幡宮筥崎宮司が、私財を投じ義援金を募って、場所を八幡宮の西から現在の場所(薬師堂跡)に移して新たに立派な社を作り、実朝を祀っていた柳営社と合祀したのです(明治20)。柳営社は承久元年に政子が創建したと社伝で言われているもので、あまり目立たぬ小さな社でした。そのせいもあってか合祀後も書籍でも白旗宮は頼朝の神社という説明が多い状況でした。

 それが実朝七百年忌で白旗宮が会場に選ばれたわけですが、そのように当時としては実朝と白旗宮を結びつける言説は世間では流通していなかった状況を考えると、これは八幡宮側からの提案があったのかもしれないとも見えます。

 いずれにせよ、白旗宮と柳営社が合祀され新しい社殿が作られなければ、実朝を祀るのは鎌倉では目立たぬ荒廃した社殿しかなかったわけで、七百年祭はそこでは行われなかったかもしれません。筥崎宮司の存在なくして、白旗宮での七百年祭はなかったと言えるでしょう。

 

◼️明治以降の「〜年祭」の盛況と頼朝七百年祭

 

 そして白旗宮での開催には、さらに前段の出来事があったと思われます。それは明治33(1900)113日、白旗宮で頼朝七百年祭が執り行われていたのです。

 

 江戸時代までも、何百年祭などと区切って祭を行う習慣は日本にありました。しかしそれは、神社の例祭の拡大版のようなものが多かったと思われます。それが明治以降、例祭があったかどうかにかかわらず様々な歴史上の人物、あるいは出来事のの「〜年祭」開催が一気に盛んになりました。ちょっと調べただけでも驚くほどたくさん出てきます。

 七百年祭が告知された國學院ジャーナルを遡ってみても、そのような〜年祭が数多く見られます。豊臣秀吉三百年祭、加藤清正三百年祭、楠正行五百五十年祭、貝原益軒二百年祭、本居宣長百年祭。他にも歴史的有名人ですと、家康公三百年祭も、1915年に本多忠敬子爵が主催して三日間に渡り大々的に行われています。天皇関係では 桓武天皇の遷都からの年数を記念して、1895年に平安遷都千百年紀年祭が国家レベルで執り行われました。全体に規模が大きくイベント性が高くなっています。

 

 そのような中、実際は頼朝没後七百一年にあたった1900年に頼朝七百年祭が挙行され、その後の年は「桜花爛漫」の413日に時期をずらして、鎌倉町全体の祭として毎年例祭が執り行われるようになりました(『鎌倉大観』より)。頼朝七百年祭で講演をした佐藤善次郎曰く数千人が集まったとのことで、多少誇張があるかもしれませんが、かなり大掛かりなイベントだったようです。ちなみにおそらく195256年の間に例祭は528日に移っており、また1961年の記事で頼朝祭、義経祭、さくら祭りなどを鎌倉まつりに統一するという見出しがありましたので(毎日新聞横浜版 昭和36314)413日の祭は鎌倉まつりに吸収されたものと見られます。

 実朝没後七百年を記念する行事、というのも、このような流れの中から生まれたものと言えましょう。

 

3.献詠会

(1) メンバーについて

 

 七百年祭の献詠会で詠まれた歌と歌人の一部は、『わか竹 第十二巻第四号』(大日本歌道奨励会19194)に記載されています。

(国会図書館デジタルコレクションより)

 

 國學院ジャーナルで掲載された趣旨のところで、会員以外からも広く献歌を募ると書いてあるように、これが全てではありません。実際その後に刊行された様々な和歌の書籍には、このメンバー以外の人が七百年祭で詠んだ歌を載せていたりします。こちらのメンバーは役員も含んでおり地位も高く、その中でも主だった人の歌であることは確かと思われます。以下に歌人の名前と、私が調べた範囲での経歴を付記します。(●は御歌所歌人)

 

・中山孝麿侯爵(1853-1919): 明治天皇の従兄弟。貴族院議員で東宮侍従(18891898)東宮大夫などを歴任。この年の11月に亡くなる。明治37歌会始の講師を勤めたこともある。

鍋島直大侯爵(1846-1921) : 岩倉使節団としてアメリカに留学したり駐イタリア王国特命全権公使とな ったりなど。佐賀藩最後の藩主 1911國學院大学学長。死後に『松風集』という和歌集がだされる。明治37歌会始の講師を勤めたこともある。

・三条西實義子爵: 御歌所歌人。三条西家は、藤原北家閑院流嫡流の三条家に連なる。祖父は明治政府参与で明治天皇の和歌師範も務めた。

・大原重明伯爵(1883-1961): 御歌所歌人。歌御会始講頌などを務め、1950年(昭和25年)の歌会始まで披講、講頌の役をほぼ毎年担った。

・入江為守子爵: 大正3年〜昭和元年まで春宮侍従長。大正4年より御歌所長兼任、『明治天皇御集』、『昭憲皇太后御集』編集事業を完成

・前田 利鬯子爵: 加賀大聖寺藩の第14代(最後)の藩主。明治11年御歌会講師になったのをはじめ、御歌会講頭御人数、御歌会始講頌御歌所参候などを努めた。

・松平乗承子爵(18511929): : 三河国西尾藩主松平乗全の五男。博愛社日本赤十字社の前身)の設立に尽力。宮内省御用係など務める。和歌に堪能で、息子の松平乗統が乗承の歌を集めて『千秋亭歌集』を出版している

・諏訪忠元子爵(1870-1941): 信濃諏訪藩第9代藩主諏訪忠誠の娘婿で家督を継ぐ。東京帝國大學文科大學國文科を卒業し芝東照宮社司。和歌をよくし、御歌所寄人の阪正臣・鎌田正夫に師事。没後『松の雫』という歌集が夫人の編集にて出版される

・本多正憲子爵:(18491937): 省略

・鶴見数馬(18601926): 陸軍少将。東宮武官も経験

・金子有道(18691938): 皇典講究所で学び1896年(明治29年)物部神社禰宜に就任。1916年(大正5年)御歌所編纂部に嘱託として加わり、『明治天皇御集』『昭憲皇太后御集』の編纂に従事

・阪正臣(18551931)●: 御歌所寄人。書家、古筆研究家でもある。鶴岡八幡宮伊勢神宮などに奉仕後御歌所へ。『明治天皇御集』の浄書を手掛ける。

・武島又次郎(18721967): 御歌所寄人。 国文学者で歌人日本女子大学国学院大学などで教鞭をとる。武島羽衣という雅号でも活動。瀧廉太郎の『花』の作詞をしたことでも知られている。

・池辺義象(18611923):御歌所寄人。国文学者で歌人。この祭典で贈呈された『金槐和歌集』に後書きを書いている。

・副島知一(18741959): 國學院大卒。皇典講究所幹事、熱田神宮宮司など経て1917年より鶴岡八幡宮宮司

・千葉胤明(18641953):1892年〜宮内省御歌所勤務。1908年御歌所寄人になり、『明治天皇御集』編纂に従事。後に歌会始点者。

・加藤義清(18641941): 御歌所寄人であると同時に、近衛師団軍楽隊の楽手

平井正: 陸軍中将

・清川来吉(18641957): 医師、政治家。1917年、鎌倉町町長に初当選、以降再選留任を果たし長期に渡り町政を担う。町民多年の宿望であった市制施行や全市史跡地として指定すべく都市計画法施行に尽力。

 

(2) メンバーの分析と考察

 

◼️御歌所歌人中心の会

 

 この顔ぶれを見ますと、「御歌所」(御製・御歌の添削や歌集編纂、新年歌御会始の選、月次歌御会の執行など、宮中の和歌に関する事務を行う)歌人が大変多いことに気が付きます(19人中10)。それ以外でも、歌会始の講師を勤めたり御歌所歌人に師事したりと、ゆかりの深い人たちがいます。そもそもこれが掲載された『わか竹』という雑誌の発行元は大日本歌道奨励会という宮中の御歌所の団体なので、当たり前といえば当たり前かもしれません。献詠会を御歌所の武島羽衣、阪正臣が主催したという記事もあることから、彼らが中心の会と見ていいでしょう。

 この中で歌人実朝について最も言及しているのは私の調べた限り武島羽衣(本名又次郎。以下羽衣)です。彼は『国歌評釈 巻二』(明治書院、明治3233)源実朝」で16ページに渡り実朝を論じ、『日本文学史(早稲田大学出版部、1907)でも実朝を称賛しました。

 七百年祭の年の『わか竹 第12巻第3号』でも「歌人源実朝」を論じた文章を載せています。没後七百年記念号で、大森金五郎、三浦周行などの錚々たるメンバーを揃えた『歴史地理 三十三巻三号』の実朝特集にも、『わか竹』に載せたのと同じ実朝論を寄稿していますし、彼が歌人の中で実朝関係の論者としてかなり認識されているのは確かなようです。その中で武島は実朝を「生れながらにして天才の歌人であった」としており、歌風を二期に分け、定家に学んでいた前期と万葉集に倣った後期に分類し後期を高く評価しています。もし歌人側から七百年祭起案に関してなんらかのアクションがあったとしたら、武島羽衣だったかもしれません。

 

(国会図書館デジタルコレクション)

 

  興味深いのは、この会には『歌よみに与ふる書』などで実朝を称揚した正岡子規が主催した根岸短歌会の参加者など、実朝に造詣の深い民間歌人の歌の掲載がなく、そもそもそのような人たちは呼ばれてすらいなかったのではないかという疑いが持たれることです。それもそのはずで、新派歌人は御歌所をはじめとする旧派歌人を、先行する和歌を模倣するだけで没自己の時代遅れのものだと厳しく批判しており、正岡子規などは旧派の聖典である古今和歌集を「くだらぬ集に有之候」と断じています。旧派歌人の中にはそのような新派の批判に強く反発する者もありました。武島又次郎はその一人であり、「いわゆる新派の歌人が古歌に類せる意味の歌を見てはこれは古くさしとか新しみがないとか罵倒するのは甚だ道理を得ぬ」等と反論し、論戦が繰り広げられていました。明治33年には、信綱が主催する竹柏会がまとめ役になって新派旧派を取り持つ親睦会が何回か開かれましたが、かえってそこで新旧の対立が決定的になり、そのような会合すら否認されるようになりました。

 そういう経緯もあり、武島が主宰のひとりであったであろう献歌会に新派歌人がいないというのは、その意味で納得がいきます。

 

◼️佐佐木信綱不在の謎

 

 しかし佐佐木信綱まで呼ばれた形跡がないのはなかなか不思議です。彼は確かに旧派歌人ではありませんでしたが、中立的な立場で両者の橋渡しをしていました。そして何より御歌所寄人であり、明治天皇御集と昭憲皇太后御集の編纂に携わっています(編纂後大正11年に寄人を辞す)。そして言わずもがなですが、彼は金槐和歌集1890年に父弘綱と共に校訂しており(『日本歌学全書 第5編 金葉和歌集(博物館、1890))、その後も金槐和歌集の校訂本を出していて実朝の文献学的研究で重要な役割を果たしています。彼自身、幼少時から実朝の歌に親しみ、『画題としての実朝』など実朝に関するエッセイも書いており、それらは国語の教科書にも採用されています(新定国文読本などに『実朝の片影』として)

 そして七百年祭の関係者は信綱の知り合いだらけです。入江為守、阪正臣、千葉胤明、池辺義象とは御歌編集者として毎月顔を合わせて活動していましたし、武島羽衣は信綱主催の雑誌にたびたび寄稿していました。午後の講演を行った芳賀矢一とは長年の知己で、信綱は芳賀の推薦で東大や國學院大の講師を勤めたり、共著を出したりしています。芳賀がドイツ留学を経て推し進めた文献学について信綱は大きく影響を受けており、『国文学の文献学的研究』(岩波書店、1935年)には芳賀の著作の影響が色濃く認められます。

 そのように御歌所歌人である上に、金槐和歌集を校訂した経験があり実朝に関する文章を発表しており、七百年祭関係者と知り合いの多い信綱が、記念祭で実朝を顕彰した歌を捧げた形跡がないというのはいかにも不自然です(もちろん、呼ばれたけれど欠席したという可能性も考えられますが) 。先に挙げた木下利玄の日記では、彼は信綱のところにたびたび行っており、もし信綱が参加していればなんらかの言及があるはずですが全くありません。木下自身七百年祭の設営の様子を前日にちらっと見ている程度で午前中の献歌会には行っておらず、午後の講演を聴いただけです。信綱の自伝(佐佐木信綱 作歌八十二年』など)でも、大正83月やその前後に七百年祭の記述はありません。

 

 これは憶測ですが、信綱と元々の寄人たちになんらかの距離感があったためそのような感じになったのではないかということです。信綱と御歌所の関係は、もともと少々複雑でした。彼は少年期に師事した高橋正風から2回も御歌所歌人になるよう勧められていたのですが、都度固辞しました。彼は信念として「どこまでも民間にあって斯道につくすのを天職として終始一貫したい。しかして、新しい歌の道を進んでいきたい」(『信綱文集』(改造社、昭和7))としていたために恩師からの誘いも断ったのですが、高崎の死後、明治天皇昭憲皇太后の御歌の編集のために、山県有朋から民間歌人代表として御集の編纂者に推薦されました。その際寄人になるのが条件だったわけですが、そのような経緯から寄人になることを大いに躊躇いました。

 そのような悶着があったため、彼自身御歌所の行事から距離を置いていた可能性はあります。寄人になるよう入江為守から言われたのが1917年11月で、翌月の『わか竹』に歌を寄人として寄稿しているものの、それ以降『わか竹』に寄稿している形跡がありません(それまでは何回かあり)。また山県有朋の推薦の言葉も、「あなた方従来の寄人だけで不満足というわけでは無いが、御用が御用であるから民間歌人の代表として佐々木を加えられたらよかろう」(井上通泰 明治天皇御集編纂に就て』(教化団体聯合会、1927)p. 15)というもので、個人的にはその言い方ではちょっと角が立つんじゃないかなあとも。御集御歌の選択については「随分はげしく言い争いもした」と信綱は回想しています。

 

 いずれにしろ旧派歌人の集まりという色がとても濃厚で、派閥を横断した実朝を愛する人の集まりという感じではなかったということでしょう。本来なら、新派も旧派も共に実朝を尊敬しその歌に意義を認めているのだから、その死の七百年の区切りを共に偲ぶことができたらよかったと、私自身は思うのですが、はからずも歌壇の派閥の分断が浮き彫りになった祭になってしまったようです。

 

 

4.贈呈品について

 

(1) 金槐和歌集

 

 贈呈品の金槐和歌集は、このようなものが配布されました。

(国会図書館デジタルコレクションより)

 斎藤茂吉の解説によると、類従本系統、賀茂真淵の評などを頭註とし、池辺義象の「金槐和歌集のあとに」を後書きにしています。

 池辺義象は先に挙げたように御歌所寄人かつ献詠会メンバーです。彼は1890年に『源実朝論』を「明治会」通常会にて講演し、実朝を清直剛毅の士として讃えています。

 

(2) 壬生硯

 

 先にも書きましたが、鶴岡八幡宮の回廊で開催されていた「鎌倉懐古展覧会」の目録の中の「三代将軍実朝公遺物」にある「壬生硯」がモデルと思われます。

(国会図書館デジタルコレクションより)

 壬生硯とは聞きなれない言葉ですが、ネットオークションに出品されたものを見ますと壬生忠岑硯」と呼ばれるもののようです。これは江戸時代に松平定信が命じて作らせた日本の博物誌『集古十図』にその形が記載されていて、出品写真と合致します。

(松平定信編『集古十図: 文房 文房一』

国会図書館デジタルコレクションより)

 特徴として、左上を除く三方がカットされた外形、不定形の墨池、右側に筆置きスペースなどがあります。ちなみに外箱の写真もオークション写真にありましたが、木の箱で、載っています。「箱ハ長柄ノ橋ノ杭ヲ以テ作レリ」という鎌倉懐古展覧会目録の記述にも見合ったものです。

 それにしてもその壬生忠岑硯を実朝が愛用していたとはなかなか信じ難いものがあります。これは壬生寺から江戸時代に発掘されたもので、硯のふちに忠岑という刻印があるものです。実朝は特に忠岑と関係ありませんし、忠岑の硯の複製品?となぜ結び付けられたのかよくわかりません。

 明治になって宝物が大量に流出し、筥崎宮司が再び苦労して収集した宝物の多くがこの展覧会で展示されたけですが、それを見ますと、結構あやしげなものが含まれています。今の視点でいうとせいぜい「伝」とつけられるものでしょう。これらを現在の鶴岡八幡宮八幡宮が所持しているのかわかりませんが、しかし当時は少なくとも実朝の遺品と信じられていたようです。

 

(3) 絵葉書

 

 この時配布された絵葉書については、残念ながら全く手がかりがありません。どなたかご存知の方がいらっしゃればご一報ください!!

 

 

 

*********

 

 以上、白旗宮で開催された実朝七百年祭について調べてみました。

 鎌倉に興っていた史蹟や歴史を記念する気運、明治時代に盛んになっていた〜百年祭のイベント、なかんずく同じ会場での頼朝七百年祭の実施、新派旧派の歌壇の確執などなど、当時の世情を色濃く反映したイベントであったことが判明しました。まだまだわからないことが多いですが、今後も情報収集していきたいと思います。

 

 

 

参考文献

 

井上通泰 明治天皇御集編纂に就て』(教化団体聯合会、1927)

岸本洋一「近代鎌倉の青年団による史蹟指導標の建碑 ―副団長の記録に見る建碑の詳細―」『京都芸術大学大学院紀要』2021-02-03

木下利玄『木下利玄全集 散文篇』(弘文堂、1940)

國學院大学編『國學院雜誌 = The Journal of Kokugakuin University 25(1)(294) (19191)

近藤喜博『日本の神: 神道史学のために』(桜風社、1968)

斎藤茂吉源実朝(岩波書店1943)

相良国太郎『鎌倉案内』(1888)

佐々木孝浩『芳賀矢一 「国文学」の誕生』(岩波書店2021)

佐佐木信綱『文と筆』(広文堂書店、1915)

佐佐木信綱『信綱文集』(改造社1932)

佐佐木信綱『ある老歌人の思ひ出: 自伝と交友の面影』(朝日新聞社1953)

佐佐木信綱『作歌八十二年』(日本図書センター1999)

佐佐木弘綱 佐佐木信綱共編『日本歌学全書 第8編 林下集 上,下,拾遺(藤原実定)源三位頼政集(源頼政) 山家集 上,下(西行) 金槐和歌集源実朝)』(博物館、1890)

佐佐木幸綱佐佐木信綱(桜楓社、1982)

佐藤善次郎『鎌倉大観』(松林堂、1902)

末永茂世『倭主礼草・稜威集』(湯浅俊太郎、1908)

鈴木健一佐佐木信綱 本文の構築』(岩波書店2021)

大日本歌道奨励会編「源実朝公七百年祭奉納和歌」『わか竹』第12巻第4号 1919

武島羽衣(又次郎)『国歌評釈 巻2』(明治書院1900)

武島又次郎『日本文学史 ([早稲田大学三十九年度文学教育科第二学年講義録])(早稲田大学出版部、1907)

武島羽衣(又次郎)歌人源実朝」『わか竹』第12巻第3号、1919

恒川平一『御歌所の研究』(1939)

東京高等師範学校附属中学校国語漢文研究会 編纂『新定国文読本参考書 3(目黒書店、1928)

日本歴史地理学会『日本歴史地理学会主催鎌倉講演会記事』(1909)

筥崎博尹 編『鎌倉懐古展覧会目録』(1891)

松沢俊二「「新」・「旧」歌人と初学者たちのニーズ 短歌入門書から見る大正期」『日本文』65 5 号、2016

源実朝金槐和歌集(源実朝公七百年祭協賛会、1919)

宮本誉士「明治の御歌所歌人 明治短歌史における旧派と新派―」明治聖徳記念学会紀要〔復刊第 49 号〕平成 24 11

平凡社編『神道大辞典 三巻 第二巻』(平凡社1941)

三浦勝雄編『鎌倉: 史蹟めぐり会記録』(鎌倉文化研究会、1972)

『歴史と地理』(星野書店、19194月号)