Topaztan’s blog

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「主婦」が「趣味」に打ち込む大変さ・マイノリティとしての共感〜『ロスト・キング 500年越しの運命』(ネタバレ感想)

 この映画を観ながら、これは私のことだ、とずっと思い続けていました。歴史上の人物にのめり込み調査する一般人として、また自分の趣味に没頭することのハードルが高い「主婦」として。

 

 物語は、息子の観劇教室に付き合ったフィリッパ・ラングレーが、その演目『リチャード三世』をきっかけにして歴史上のリチャード3世に興味をもち、どんどん調査を進めていって、ついに彼の墓を発見するに至る話です。これは実話を元にしており、映画の制作者もモデルの女性に丁寧に取材したそうです。

 

 この作品は、リチャード3世の墓の発見という華々しい成果も醍醐味ではありますが、それだけではないものがあると思います。おそらくは上記の丁寧な対象への取材を通して生まれた、在野の一般人研究者への温かい眼差しと言いますか。本作は、たとえ何かすごい成果を上げなくても、何かにのめり込み研究をする一般人へのエールであり、特にそのような在野の研究を続けるのが困難な女性への応援歌でもあると感じました。

 そして同時に、障がいを持つ人がその人らしさを無視されがちということにも焦点を当てた作品だと思いました。

 

 以下に詳しく述べていきます。

 

◾️「主婦」が何かに打ち込む後ろめたさ

 

 この作品を見て私が驚いたのは、イギリスでもまだこんなに主婦はこうあるべき、という規範が強いのかということでした。

 たとえば調査に出かけるさい夕飯を用意しないことについて、息子たちは随分不平をいいます。普通用意するだろうと。また主婦はケーキでも焼いてるものだみたいな表現もあります(それを逆手にとって、フィリッパは相手に印象を残す手段としてケーキを焼いて研究者に差し入れします)

 個人的には、12歳前後()の息子2人なのだから、共働きの場合子供たちの夕食くらい自分で用意させたらと思うんですが(冷食レンチンでも)、どうもそういう風には仕込んでなさそうです。息子たちがママにひどい口答えしてもあんまり叱らないし、ちょっと子供に甘いかな〜という印象。もしかしたら、夫婦が別居していること、難病で思うように体が動かせないことで、子供たちに充分なことをできてないという後ろめたさがフィリッパ自身にあるという表現なのかもしれません。モデルの女性がリチャード3世の墓について本格的に調べ始めたのが2004年といいますから、確かに「主婦らしさ」への規範は今よりはるかに強かったのでしょう。

 調査旅行に行く時もそれを夫にひた隠しにし、トマト買いに行ってきたとか、なんかしらの主婦業と絡ませてごまかします。リチャードに対してちょっと不健康な執着なのではというのは、リチャードの幻が言う言葉ですが、彼はフィリッパの潜在意識とも読めます。全体にフィリッパは、大変精力的に調査する一方、こうあるべき主婦、母親像に合致していないということが自分でもとても気になってるし、家族からも言われていて、それがこの映画の大きな特徴になっています。

 

 これは、実は筆者自身が大変当て嵌まる心境で、わかるわかる!!と思いながら見ました。私もフィリッパと同じく、歴史創作物(私の場合大河ドラマ)をきっかけに歴史上の人物(源実朝)について色々調べるようになったもですが、大量の関連書籍も家族には隠すようにしたり、調査のための遠出も目的を明かさずに行ってて、家族には明かしていません。もし明かしたら、そんなものになぜのめり込むのか、主婦としてどうなんだと、家族に思われること必至だからです。フィリッパの夫のように、私の連れ合いもバカにして笑うでしょうし、主婦にふさわしくないと思うでしょう。そして自分自身、一介の主婦のくせになんでこんなに時間を費やしてやってるんだという後ろめたさ、自分の「本分」と関係ないのになという気持ちに常に囚われています。この映画の宣伝で本邦では「歴女」という表現を見かけますが、日本では歴女というと、フットワークが軽くできる独身女性がイメージされると思います。子持ちの「歴女」はまだまだ肩身が狭い状況です。

 

 しかしフィリッパは、しきりに訝しむ夫にリチャードの墓を探し名誉を回復させることは、自分にエネルギーを与えることなのだと伝え、夫もだんだん納得します。そして息子たちにもママに協力するよう働きかけ、ついにはフィリッパが知らないうちに、父子3人で彼女の発掘調査に匿名で寄付するまでに。現実ではなかなかそういうケースは少ないでしょうが、かなり勇気をもらいました。歴史上の人物について調べることが、しがない一介の女性の自分にも生きていく上で不可欠なエネルギーなのだということを、いつか家族に伝えられたらと思います。

 

◾️フィリッパ自身とリチャードが重なる構図

 

 また本作では、明確にフィリッパとリチャードが直結する者として語られ、それも本作の通奏低音となっています。

 フィリッパはME (筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群)という難病(ぱっと見ではわからない)を患い健康人と同じように活動できず、また若くもない女性なので、努力して成果を出しても勤め先に評価されません。また一介のアマチュア女性として、リチャード発掘に関してもたびたび軽んじられます。それは、敗者の王としてその業績が全く評価されず、背中に障がいを持っていたことを性格の悪さに結びつけられていたリチャード3世とオーバーラップします。イギリスの王でありながらフィリッパに通じるマイノリティ性があると言えるのです。

 学生たちに頼まれてリチャード三世発掘プロジェクトのスピーチをする際に、フィリッパが、これは正当に評価されず、実力を発揮できなかった人物の物語ですと語りますが(ちょっとうろ覚え)、この言葉はリチャードを指してもいるし、フィリッパを指している言葉でもありましょう。

 

 作中でたびたび、〜と感じる、という表現をするフィリッパが、冷笑されるシーンがあります。フィリッパに理解ある女性市長からも、「感じる」というような表現を女性がすると聞いてもらえなくなると言われます。しかし彼女のその軽んじられた「感情」、直感が、アカデミア側からは無視されて調査される予定のなかった骨を調べさせ、ついにリチャード3世の骨とわかったのです。

 ちなみに彼女の「感情」を、大学側の女性も男性と一緒に冷笑する描写があるのが興味深いです。同じ「女性」という属性ですが、彼女はアカデミアに所属している強者であり、市井のいち女性であるフィリッパとは理解も階級も異なります。その彼女も、もしリチャード3世の墓が発見されたら面白い、という彼女自身の「感情」を口にしたら、たちまち研究者の男からバカにされてしまうのですが

 

 女性であること、かつ若くないこと、「主婦」であること、アカデミア外の人間であること、障害を持っていることマジョリティの価値観で作り上げられている社会で、何重にも軽んじられる要素満載のフィリッパですが、その脆弱性とみなされる特質のひとつ「感情」で成功を掴むのは、マイノリティの逆襲の物語として痛快なものがあります。

 

◾️「在野の研究者が大発見」の危うさの回避

 

 もっとも一方で、このような「在野の研究者が大発見を!」というのは、結構疑念を呼び覚ます要素でもあります。

 最近ですと、日本では『土偶を読む』という非専門家の書いた書籍が大ヒットした件が記憶に新しいです。硬直した専門家にはできない大発見をしたのだ、ということが『土偶を読む』では主張されていたわけですが、専門家の視点では相当に疑わしいものであり、検証する書籍『「土偶を読む」を読む』まで出版されました。結論ありきの資料の恣意的な選択や、これまで研究で積み重ねられてきた編年や類例研究が丸っと無視されていることなどが指摘されています。

 さて今作でのフィリッパですが、実はそのような素人の危険性についてはかなり回避してる描写です。専門書の著者に地道にアポを取ったり、zoomみたいなので顔を合わせて質問したり、講演会で人脈を築いたりします。専門家の意見や知識を軽んじておらず、むしろ専門家のアドバイスをもとにリチャードの墓の場所を絞り込んでいきます。最後の決め手は彼女の「感情」「直感」でありますが、そこに至るまでの過程が説得力あるものになっているため、荒唐無稽感が薄れています。

 

◼️わが国の「在野の研究家」の扱い

 

 わが国は、正直在野で地道に研究活動をする一般人という存在が相当軽んじられていると感じます。若者しか大学に在籍する風潮にないし、大学に在籍したりアカデミアに所属したりしなければ研究するなんて意味がない、馬鹿馬鹿しいことだという風潮も強い。

 専門家に執拗にくってかかる愚かな素人の一言居士、というのは確かにネットでもよく見られますし、講演会にやってきて長々自説をぶつ素人研究家、というのもよく聞きます。しかしそういう「困った」人々にばかりフォーカスが当たる一方で、普通に学問や研究に興味ある人々までバカにする、わざわざあまり最新知識にアクセスできない人を探し当てては、知識を教えるのでなく嘲笑する、という知識人も見かけます。

 アカデミアとは関わりはなくても、そのような在野で研究する人々の裾野の広がりが、学問を発展させることに寄与するのだと私は信じますし、それが一般の人の生き甲斐になるのは全くおかしなことではないのだ、という認識も是非とも広まってほしいと思います。この映画は、そのような人々が存在するのだ、と世間に知らしめたという意味でも大切な映画だと思います。