Topaztan’s blog

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『鎌倉殿の13人』における源実朝像の「新しさ」とは何か ー 従来の実朝像・研究動向との比較 <前編>

土岐善麿源実朝 (青少年日本文学)』(至文堂、昭和19年) の挿絵 羽石光志 画 ※国立国会図書館デジタルコレクションより

 源実朝は、近年著しく評価が変わってきた人物の1人です。たとえば実朝没後800年に編まれた、和歌研究者の渡部泰明氏編の『源実朝 虚実を超えて』(勉強出版、2019)でも、そのような言及がいくつも見られます。「源実朝について、かつては「悲劇の将軍」「文弱の将軍」というイメージが先行しがちであったが、そうした実朝像は大いに改まりつつある。鎌倉時代の基本史料である『吾妻鏡』の読み直しや和歌事績の研究が実朝像の更新に大きな役割を果たしているが、当該期の幕府発給文書研究の深化も見逃すことはできない」(同書 p. 36)、「平成以降の日本史研究において、従来『吾妻鏡』から読み取られてきた実朝像、例えば「幕府政治に背を向け、公家文化に耽溺して和歌や蹴鞠に没頭した文弱な将軍、源氏と北条氏、幕府と朝廷との狭間で懊悩しつつも、個性的で雄大な「万葉調」の和歌を詠んだ孤独な天才歌人」といった把握については大幅に見直されつつある(同書 p. 127)

 そして2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、当初から脚本家が新しい実朝像を描きたいという意気込みを語っていたことが噂され、歴史好きの興味を引いていました。そして実際、ドラマでは様々な新しい知見を踏まえた清新な描写がなされ、また演じた柿澤勇人氏も大変繊細で説得力のある演技をして、大いに話題になりました。実朝への世間の興味を著しく高めた功績は見逃せません。

 しかしその一方で、明らかに最近の研究動向と辻褄の合わない描写もなされたので、「新しい実朝像」に期待した歴史好きの人々の間では困惑の声が上がりました。ドラマの展開上あまり関わりのない瑣末な部分ではなくて、メイン登場人物の意思決定に関わることであり、物語全体に大きなインパクトを与える要素としてその創作がなされたからです。

 ドラマ実朝像は、結局新しかったのか、新しくなかったのか?そもそも比較すべき「従来の実朝像」とはなんだったのかそこで、従来の実朝像や史学での知見よドラマを比較して、何がどのように新しいかったのかどうか、ということを探っていきたいと思います。

 

<サマリー>

実朝像として新しかった点

  • 「京かぶれ」「武芸を蔑ろにする」「東国武者から浮いていて孤独」「政治に対して逃避的で、和歌などの趣味に逃げた」「現実逃避の一環として宋に渡ろうとしたり寺社詣に明け暮れた」という「従来の実朝に対するネガティブな見方」はほとんど描かれていなかった。そこは大変評価すべきポイント
  • 従来は和田合戦以降から無気力になったという説がよくあったが、和田合戦以降にむしろ為政者としての意識を高めて積極的に政治を行うとした描写は、最近の研究とも合致して新しい点
  • 後鳥羽上皇が実朝の官打ちを狙ったなどの古い説を採用せず、有名な義時や広元が官位の上昇を諌める逸話などを入れず、官位の上昇をすごいことではあるがある程度もっともな路線であるという近年の研究とも合致する描写にした
  • 和歌が為政者の重要なツールであることを言明した
  • 各種史料から拾い上げた逸話を上手に使い、また適宜フィクションを入れることで為政者の自覚を高める実朝を段階的に表現しようとしたのは新しい

 

実朝像として古かった点

  • 従来の実朝像で一部あった「為政者の能力としてはイマイチ」というイメージを結局踏襲。やる気はあるけれども能力が追いついてないタイプにされている。吾妻鏡で為政者として毅然とした態度を取るシーンとして描かれているところが、全てやり込められてるシーンに変更・善政として描かれてるものが短慮として描かれる
  • 京文化への傾倒は描かれなかったものの、上皇への傾倒は描かれ、その上皇が悪的な描かれ方をしていたために、結局京都方面から悪影響を受けているような描写に。そして唐突な御所の京遷提案でさらにその印象を強める
  • 「従来の実朝のイメージ」のひとつ、死を予感する・死を受け入れるというイメージを最後の最後で入れてきた
  • 古くからある、義時との不仲説を採用し、実朝VS義時の対立を主軸に実朝将軍期のドラマが描かれた。また実朝が朝廷に取り込まれすぎることで新しい東国の武家政権の独立が妨げられる、ということを危惧して実朝を排除しようとする考え方も、古めかしい階級闘争史観がいまだ反映されているといえる

 

1.「新しい実朝」への期待ー 脚本家・俳優の発言より

 

「新しい実朝像」

 源実朝がどのように描かれるかは、配役が発表された2月の時点で、以下のように俳優自身の意気込みとして述べられました。

 

「鎌倉殿の13人」源実朝役に柿澤勇人 「新しい実朝をつくりたい」3度目の大河出演 (2022217)

https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202202170000514.html

 「先日、実朝が最期を遂げた鶴岡八幡宮に脚本三谷幸喜氏と出掛けたという柿澤は、京の文化に傾倒し「わりと文弱な将軍というイメージだった」という実朝について、「決してそうではなくて、実は蹴鞠(けまり)や和歌に没頭したのも朝廷側とのコミュニケーションを取って、より豊かな国にしようとか、そういった政治も含め、実はすごく賢い人間だったんじゃないのか、という話もしました」。また「宋(中国)に渡る船をつくって最終的にはそれは失敗に終わったんですけど、それも海外に向けての政治みたいなものを考えていたんじゃないのか、など『新しい実朝をつくりたい』という話をさせていただきました」と明かす。」

 

 柿澤氏の演じる実朝の登場は9/4からですが、10月以降になると、脚本家自身が相当思い入れがあること、新しい実朝像、本当の実朝像を描きたいという意欲があったことが、俳優インタビューから明らかになってきます。また俳優自身の役作りに何を参考にしたかも述べられています。

 

柿澤勇人、主演・小栗旬とのエピソードを明かす「非常に頼もしいですし、勉強にもなります」<鎌倉殿の13人>(ウェブ ザ・テレビジョン、2022/10/16

https://thetv.jp/news/detail/1106964/

「実朝という人物のことを僕は今まで深くは知らなかったのですが、三谷さんが実朝に対して思い入れがあり、世間にあまり認知されていない新しい実朝像を描きたいとおっしゃっていたので、とてもプレッシャーを感じました。」

 

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』
源実朝役:柿澤勇人さんインタビュー(Willmedia News2022.10.22)

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』源実朝役:柿澤勇人さんインタビュー - Willmedia News

 

「いただいた資料のほか、時代考証に入ってくださっている坂井孝一先生の本と太宰治の「右大臣実朝」、あとは僕のマネージャーが持っていた「金槐和歌集」を読みました。坂井先生の本は今回の実朝像にとても近いので、かなり読み込みましたね。太宰治の本はフィクションですが、「吾妻鏡」に書かれているような政にネガティブな実朝ではなく、いかに良い将軍だったのかということが書かれていたので、参考にさせていただきました。」

 

・「「鎌倉殿の13人」実朝・柿澤勇人 自身の運転で脚本・三谷氏と鎌倉旅 車中は「覚えてない」理由とは」
スポニチアネックス 2022年11月23日

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/11/23/kiji/20221122s00041000691000c.html

 

「今までの(実朝の)イメージじゃないですっていうことを言っていて、凄く賢い人間だったんじゃないか。もし生きてたとしたら理想の鎌倉殿になっていたんじゃないかっていうようなことを話していました。」

 

ハル王子に擬せられる実朝

 

 脚本家自身のインタビューでは、実朝をどう捉えているのかは、ほとんど表明されていません。

 数少ない実朝像の発言として、実朝と和田義盛シェイクスピア『ヘンリー4世』のハル王子とフォルスタッフになぞらえた言葉があります(それ自体は俳優インタビューにも出てきました)

 

NHK『鎌倉殿の13人』HP 特集 脚本・三谷幸喜さんインタビュー 2022.10.9 より

 

「あとはシェイクスピア。やはり勉強になります。シェイクスピアには、おもしろい物語の要素のすべてがある。例えば、和田義盛と三代将軍・実朝。2人の関係は、『ヘンリー四世』に出てくるフォルスタッフとハル王子に重なります。」

 

 脚本家の中でこの比喩はこの2人の関係性だけにとどまるものなのかどうか、これだけではよくわかりません。ですがハル王子は周囲から遊んでばかりで王のうつわではないと思われていたが、やがてイギリスきっての名君と見なされるヘンリー5世になる展開を思うと、ハル王子自体に実朝との親和性を見出した可能性もなきにしもあらずという期待も感じさせるものではあります。これも、新しい実朝像として期待を抱かせるコメントのひとつでありました。

 

 

2.従来の実朝像とは

 

 では柿澤氏のインタビューにもあったように、「文弱」などのような実朝像は一体どこからきたのでしょうか。そもそも従来の実朝像とは、いかなるものなのでしょうか。そして「新しい」実朝観になったのはいつ頃のことでしょうか。

 

 歴史上の人物についての、学術的ではない一般的なイメージの源泉として、私は以下の4点を考えています。

文芸作品

子供向け教科書類、学習書籍、漫画

③大人向けライト教養書籍

④映像エンタメ(大河ドラマや時代劇、映画)舞台芸術

 

 まず①ですが、現在一般に知られているものとしては正岡子規歌よみに与ふる書』、太宰治『右大臣実朝』、小林秀雄吉本隆明の評論などが挙げられます。

 しかし一般人への影響という点では、②や③の存在も見過ごせません。実朝自身の知名度の低さからすれば、わざわざ実朝の名前を冠した書籍を探して読む人よりも、大括りに日本史を学ぶ中で、鎌倉時代の中の一挿話として実朝について認識する人の方が多い可能性もあります。また後で述べますように、実朝を扱った著名な文芸作品は1970年代を境に途絶えてしまい、その意味でも80年代以降は②③の存在は重要といえましょう。

 ④に関してですが、実朝の場合多くはありません。鎌倉時代初期自体がドラマや映画などのエンタメ系、舞台芸術にあまり取り上げられない傾向があるためです。大河ドラマでは『草燃える』で登場したましたが、私はリアルタイムで見ておらず、今は総集編しかないので、今回は少し触れるにとどめたいと思います。

 ということで、以下で、①、②、③について調べていきたいと思います(④については少し)

 また、⑤として、学術的な一般書での変遷にも触れたいと思います。

 また扱う期間ですが、①〜④については「従来」のイメージということで、ざっくりと大河が始まる5年ほど前までの動きは「最近」のものとして除外したいと思います。また江戸時代まで遡ると流石に古すぎるので明治〜2017年くらいを中心に見ていきます。

 

①文芸作品に見える実朝像

〜死を予感する繊細で聡明な詩人肌の青年〜

A) 正岡子規歌よみに与ふる書(明治31(1898)新聞『日本』に掲載)

古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。

 実朝について論じることは、歌人たちを中心に明治期以降活発になりました(松澤俊二、2019) 。実朝の歌集『金槐和歌集』に関しては、佐々木信綱が父弘綱とともに1891年に「右大臣実朝集」(『日本歌学全書第八編』所収)を刊行して以来、多くの単行本や業書が出版されるようになりました(多田蔵人 2019) 正岡子規は、『歌よみに与ふる書』で万葉調歌人としての実朝像を称揚し、古今和歌集聖典的に扱う御所派歌人らを批判して明治の新しい短歌を樹立しようとし、多くの反響を呼びました。では、子規の描いた、実朝の為政者像のイメージはどのようなものだったでしょうか。

「古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之候。(中略)人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。」(青空文庫より)

 ここで子規は古来の実朝評として「凡庸な人である」という評を一蹴し、北条氏を憚って才能を隠していたか、大器晩成だったのではと述べています。そして歌から推察される人物像として、人間として立派な見識があったのではとしています。つまり(おそらく)政治的には、実力というか才能はあったが、生前は充分発揮できなかったのではないかという見方を示しています。ただ、一見絶賛しているようですが、力を発揮できなかった人物として述べているのに注意が必要です。

 

B) 小林秀雄『実朝』(文学界に1943年2〜6月掲載)

青年にさえ成りたがらぬ様な、完全に自足した純潔な少年の心を僕は思うのである

 『金槐和歌集』は、その後も第二次世界大戦中まで広く読まれた歌集であり続けました。中野重治『歌のわかれ』(昭和14)などを見ても、『金槐和歌集』が幾つもの版で流通しており、旧制高校生の間で一般に読まれているものだったことが伺えます。また戦中は実朝の歌が愛国的な文脈で取り上げられ称揚され、一般に知られるようになるという現象も起きました。「山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」の歌は特にわかりやすく忠君愛国の文脈に読めるので『愛国百人一首』なるものに選ばれたり、合唱曲になったりもしました。国民学校教科書にも「箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよる見ゆ」が選ばれました(敗戦後昭和21年の暫定教科書では項目削除)(田中康二「小学教科書の敗戦 ― 宣長国学の表象をめぐって(その一) 2019)

 そのような中、昭和18(1943)256月の『文学界』に小林秀雄の『実朝』が掲載され、のちに昭和22年刊行の『無常といふ事』にまとめて載せられました。

 これはかなり難解な作品で、しかも号をおうに従って、秀雄の描く実朝像が変化していったことは研究者によってよく指摘されています(源実朝 虚実を超えて』「小林秀雄『実朝』論」)。しかし現代に至るまで多くの人に読まれて実朝像のイメージ作りに寄与してきました。

 一読して印象に残るのは、後半あたりから示される、実朝の秀歌から感じ取れる「深い無邪気さ」「無垢な魂」の持ち主として実朝像でしょう。「青年にさえ成りたがらぬ様な、完全に自足した純潔な少年の心を僕は思うのである」とも。無邪気さという言葉は何回も出てきており、実朝像のイメージとして深く印象づけられます。

 もっとも秀雄は『実朝』の中で、当時の歴史家の見方を否定していますが、(「現代史家の常識は、北条氏の圧迫と実朝の不平不満〜」)、彼が歴史上の実朝の人生について、結局どのような把握をしていたのかは総合的には語られていません、ただ、彼が暗殺の予感を常に抱いていたこと、和田合戦の時義村の翻意がなければ義時に自害させられてただろうということ、などが、最初の方で語られています。

 無邪気な魂の持ち主であり、かつ、常に死の予感を持っていた詩人というのが、『実朝』全体を通して伝わってくる実朝像です。為政者としての評価はあまり語られていません。

 

C) 太宰治『右大臣実朝』(錦城出版、19439)

京都の御所の事となると何でもかでも有難くてたまらない様子で、こんな工合では必ず御所のお方たちに足もとを見すかされ、結局、幕府があなどられ、たいへんな事になります

 「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ」で有名な太宰治『右大臣実朝』ですが、奇しくも小林秀雄の『実朝』と同年に発表されました。太宰は実朝については少年時代から書きたいと思い続けていましたが、資料が整わずなかなか着手できずにいました。それが1941年に実朝時代が含まれる『吾妻鏡』が漢字仮名交じりの書き下し文として岩波文庫から出版され、また翌年、実朝について一般向きの記載のある『鶴岡』臨時増刊源実朝号(昭和十七年八月九日、鶴岡八幡宮社務所発行)を入手したことなどから、満を持して書き進め、19439月に出版しました( 津島美知子『回想の太宰治講談社2021)

 この中では実朝の近侍となった若い御家人の目から見た実朝の姿が描かれており、政務でも見事な裁断をくだす霊感のある素晴らしい人物として描かれています。また吾妻鏡で述べられる義時などとの衝突も、実はそんなに大ごとではなかったのだという見方を示しています。

 しかし和田合戦を契機として、政務に興味をなくしていき、和歌や酒宴に耽溺していくとも描かれます。

…(中略)…こんどはこの和歌に最後の異常の御傾倒がはじまりまして、御政務は、やはりひと任せ、日夜、お歌の事ばかり御案じなされて居られる御様子で、」

 良好な関係であった義時も批判的になります。

「当代は、むやみに京都をお慕ひになつて、以前はこれほどでも無かつたのですが、京都の御所の事となると何でもかでも有難くてたまらない様子で、こんな工合では必ず御所のお方たちに足もとを見すかされ、結局、幕府があなどられ、たいへんな事になります、どうもこのたびの御道楽は、たちが悪い、

 公暁はさらに「ところで将軍家は、このごろ本当に気が違つてゐるのださうぢやないか」と言い、「相州も言つてゐた。気が違つてゐるのだから、将軍家が何をおつしやつても、さからはずに、はいはいと言つてゐなさい、つて相州が私に教へた。祖母上だつて言つてゐる。あの子は生れつき、白痴だつたのです、と言つてゐた。」とまで言います。

  もっともその一方で、若い侍従の意見として

「将軍家が御風流にのみ身をおやつしになつて居られるやうに見えながら、つねに御朝廷と幕府の間に立つて、いかにお心をくだかれて居られたか、真に都所の大別当であらせられたといふ事が、更にはつきりとわかつて来るやうな気が致します。」

 とも述べられています。

 重要な観点として、京への憧れが強いこと、元々為政者として優秀な判断が下せる人であったこと、しかし和田合戦以降は政治に興味を無くし和歌や遊興に耽溺し、周囲から奇異の目で見られたという描かれ方をしているということです。

 

D)永井路子北条政子(講談社、1969年)

 無風流な鎌倉武士の眼には何とも映らない花ひとつをみても、彼は詩興をそそられるのだ。

 永井路子鎌倉時代初期を題材にした『炎環』(1964)直木賞をとり、中世を題材にした歴史小説を次々に発表しています(『絵巻』『北条政子』『つわものの賦』など)。永井氏は鎌倉時代を東国武士の起こした大きな変革の時代と捉え、それに魅せられたのだと述べています(『つわものの賦』(文藝春秋2021)あとがきより)

 実朝について詳しく描写した小説としては『北条政子』『つわものの賦』が挙げられます。後者は小説というにはやや異質な感じで、永井氏自身小説ではなく、明治以降の文筆家が歴史上の個人について書いた史伝、評伝のようなものと述べているように、かなり堅めの内容になっています。国会図書館のデータベースを見てもより多く出版されているのは『北条政子』の方であり、人口に膾炙しているのはこちらの方と思われます。

 その中で実朝は、幼い時から優しい子で、長じても穏やかな性質の将軍として描かれます。

 実朝は自分で都の姫を妻にしたいと主張します。それは「いまなら、さしずめ、まだ見ぬ国の、青い眼の金髪娘と結婚したい、というようなものだ。同じ血が流れているとはいえ、都と鎌倉は、まったくの別世界であったからである」とも。しかし実朝としては、御家人の娘を妻にすることで御家人同士の勢力争いになるという兄の悲劇を繰り返したくないという気持ちと、都の姫ならば風情を理解してくれるかもしれないという期待からそのように望んだのでした。(結局その姫君はそういうタイプではなかったのですが)

 実朝が詩人の魂を持っていることが強調され、(雨垂れに詩情を見出したり())、彼が鎌倉の武士たちと異なる性質を持っていたために孤独で、和歌の世界に親しんだとあります。

「しぜん彼は人々と離れて、彼自身だけの世界を楽しむようになった。彼自身の世界――それは美の世界、和歌の世界である。無風流な鎌倉武士の眼には何とも映らない花ひとつをみても、彼は詩興をそそられるのだ。」その詩人肌から宋船計画も思いついたと述べられます(「詩人らしい空想から、とんでもないことを思いついて」)

 政治家としては「実朝自身も、政治家肌ではないから、ややこしい訴訟を裁決することなどは、すべて四郎義時はじめ幕閣の敏腕家にまかせている」とあり、政治家として特に活躍しなかった描写です。(ただ相模川の橋の件は珍しく自分の意見を述べた例として出てきています)

 聡明ではあったが政治家肌ではなく政務はせず、詩人の魂を持ち周囲の武士とは合わず孤独だったという描写です。

 

E)吉本隆明源実朝(筑摩書房1971)

 反対を押し切って渡宋計画を推進したのを契機に、ほとんど独走体制にはいった。

 太宰治『右大臣実朝』小林秀雄『実朝』によって実朝に興味を持ち、戦後日本の古典詩人について思考を深めてきた吉本隆明(196965日講演より)1971年に『源実朝』を刊行します。その中で実朝を「中世における第一級の詩人」「特異な資質と鋭敏な洞察力をもった人物」としつつ、北条か北条の意を汲んだ者によっていずれ殺されることを予感し続けていた繊細な青年として描き出します。

 「たぶん実朝にとっては〈生〉よりも〈死〉のほうが関心事であった。もう、物心がついたときには兄頼家の惨殺に立ちあっている。頼家の殺されかたからかんがえて、じぶんだけは別のものだとおもえるような条件じゃなにひとつなかったはずである。」「頼家の死にざまは、やがてじぶんの死にざまに通ずることも、よくおもい知ったはずである。」(I 実朝的なもの)

 死を予感する青年像は小林秀雄の実朝像に通じます。しかし死を予感してばかりではなく、その運命にあらがうようなガッツを見せているのは隆明実朝の特徴です。「だが、『吾妻鏡』などの記載をみれば、実朝は北条執権職の指し手のままに動く将棋の駒でなかったことがわかる。」(I 実朝的なもの) (和田合戦と渡宋計画挫折のあと)「かならずしも北条氏のいうがままになっていない」「複雑なよく耐える心をもった人物であって、ある意味では北条時政にもそう手易く御しうるような存在ではなかった」(Ⅺ<事実>の思想)

 そして珍しく、治世後半に無気力になったという説を採用していません。「反対を押し切って渡宋計画を推進したのを契機に、ほとんど独走体制にはいった。建保五年(一二一七年)五月十二日の記載では、寿福寺の二代目長老行勇を、僧侶の分限をこえて政道に口をはさみすぎる、もっぱら仏道の修練をすべきであると叱りとばしている」(I 実朝的なもの)など。

 ただ、実朝が鎌倉や伊豆箱根の社寺に詣て回っていることをかなり不可解なものとして捉えて、そこから実朝を、自らを鎌倉幕府の祭祀権の所有者としてのみ統領の役割を行使し、政治的な統括者は北条氏に任せていたのではないかとしています(Ⅳ 祭祀の長者)。普通の為政者というよりも、祭祀王的な存在に捉えています。

 また公暁をけしかけたのは義時であり、明確に実朝殺害を意図していたとします。義時は、北条氏に代表される武門勢力の隆興、実質的な権力を全国に掌握することを目的としており、権威や学識があり王権と武家の橋渡し的な役割を持っている実朝の存在が邪魔になってきたのではないか、より官位が高まって幕府が王権に組み込まれてしまう前に殺したのではないかと見ています。この辺りは朝廷と幕府を対立的なものとする戦後史学が反映されているようです。

 

 

F) 中野孝次『実朝考―ホモ・レリギオーズスの文学』(河出書房新社1972)

このあまりにも無防備な、秩序の源泉としての役割に埋没しきれるにしてはあまりにも我への執着を欠いた巨大な優しさを置いてみると、まるで武装した戦士のなかにひとりの天使が舞いおりたように見える。

 永井路子と同年の1925年生まれの中野孝次は、カフカギュンター・グラスなどを翻訳紹介した人として、また『清貧の思想』などの著者として有名です。その彼が初めて書いた本が『実朝考』でした。彼はドイツ文学者でしたが、ドイツに在外研究員として滞在していた時に日本文化にめざめ、帰国後日本の古典を読み漁るうちに平安時代から鎌倉時代への転換期に興味を持ち、その象徴として実朝に深く関心を持ったとのことです。

 『実朝考』の中で、実朝と坂東武者は鋭く対立する存在として提示されます。坂東武者は、無学文盲で荒々しくも自由な気風を持った、非常にエネルギーに満ちた存在、京の文化や権威に無縁な天性の反逆者たちとして描き出され(「これら反逆者集団は野蛮(生者の立場の主張)そのものであった。ほとんどが無学文盲だったし、政治的経験もかれらにはなかった。」)、その中で実朝が極めて異質な、浮いた存在であったことが強調されます。

「そんななかで京貴族の女との結婚、京風模倣、京文化への憧憬、要するに依然として強く京へ傾斜した姿勢が、どんなに心もとなく、信頼しえぬものとして感じられたかは察するにあまりある。実朝はその出発の初めから、全面的には坂東に帰属しない、一つの浮いた抽象的存在であることを定められていたのである。」

「京の文化とか権威なぞにはかかわらない、ただ一途に強くあることを求め、それを美徳と讃える、昔ながらの坂東人の気風である。実朝がこんな連中のなかで当初からいかに浮いた存在だったかが、ほとんど感覚的にわかる逸話である。当時の坂東では、すでに文化の必要はいろんな点で痛感されていたにもかかわらず、なおこういう「驍勇」の気風が、おそらく歴史上かつてなかったくらい積極的に肯定されていたのである。これは坂東の力の自覚、反逆のエネルギーが、最もはげしく煮えたぎっていた時期であった。」

 もっとも、実朝自身は野心家でも権力渇望者でもなかったが、知性が高く公正な判断を下せる存在だったとしています。

「実朝がその生涯に下したいくつかの政治的処置は、どれもこの人の判断力の公正と知性を証明するものであって、兄頼家が土地訴訟の解決として地図の真中に一本黒々と線を引いたというような乱暴なのとは、まるで質が違う」

 その一方で、京への従順な姿勢を示すことは、そのような坂東武者に対する政治的配慮に欠け、政治家として不適格というしかないとも述べます。また殺すか殺されるかという殺伐とした鎌倉の中で、人に死を命じたりせず優しい心の持ち主である実朝の異質さについて、彼を戦士の中に舞い降りた天使のようだとも評します。

 また建保二年(1214)以降は吾妻鏡の記事が著しく減ることについて、実朝の存在感が低下したためと推測。自らの死を思い定めていたともします。

「建保二年(二十三歳)以後、吾妻鏡は、鎌倉での実朝の位置と、その心の姿を示すように、急激に記事を減少させる。そしてその数少ない記録が示す詩人の日常の外見は、ほとんど余生の生に似ている。」

 これは和田合戦(1213)以降意欲を低下させたとする『右大臣実朝』の説と似通ったものがありますし、小林秀雄吉本隆明の描く死を予感する青年像とも繋がります。

 

 

*****

 さて、上記を見ますと、実朝は少なくとも戦前〜戦後しばらくまでは、魅力的な文芸作品の題材であったことがわかります。それはやはりなんと言っても、歌人としての素晴らしさが喧伝されていたというのが大きいでしょう。金槐和歌集の出版物が多く流通することによって、歌人としての実朝が強く人々に印象づけられていました。金槐和歌集の出版物については実朝生誕750年記念の雑誌『鶴岡』にまとめてありますが、http://yanenonaihakubutukan.net/kinkaisyu.html、各系統の本が様々に出版され、手に取りやすい価格帯でも多く出された様子がわかります。そしてそれらの多くには、簡単な実朝伝がついており、それらによっても実朝のイメージが形作られていったと思われます。そしてそれらは歌人実朝を称揚するものが多いのですから、当然ながら為政者実朝にも同情的な眼差しでした。たとえば佐々木信綱が昭和6年に出した『金槐和歌集: 校註 改訂5版』の序言では、悲劇の最期を遂げた薄倖の三代将軍という書き出しから始まり、一度言い出したら意志を曲げない凛とした強さがあったが温厚で情にあつかった、浪漫的な詩的心情を有し詩人の天分があった、決して意志薄弱ではなく「世の紛乱はあまりに力強く」、若い実朝には如何ともし難かったのだといった相当肯定的な論調です。

 

金槐和歌集: 校註 改訂5版』(明治書院1931年 p. 1-2) (国立国会図書館デジタルコレクションより)

 戦中になると実朝はさらに勤皇歌人としても持ち上げられるようになり、大衆へも一層浸透していきました。日中戦争勃発翌年の1938年には山は裂け〜の和歌が銃後の歌として合唱曲になったり、また奇しくも1942年が実朝生誕750周年にあたり、実朝関係の各種イベント(実朝ゆかりの白旗神社で実朝の誕生日に実朝祭が実施され始める・歌碑が建立されるなど)が行われ、その前後で実朝伝や実朝研究書もいくつか出版されるようになりました(大塚久『将軍実朝』(高陽書院、1940)田英夫源実朝(青悟堂、1942)など)

 終戦後は、当然ながら勤皇歌人という梯子は外されたわけですが、直ちにプレゼンスが下がるぼどではなかったようです。大佛次郎は戦前から連載していた『源実朝』を出版し(六興出版社、昭和21)歌人木俣修も『実朝物語』(同和春秋社、昭和33)を出すなどしました。

 しかし1972年の『実朝考―ホモ・レリギオーズスの文学』以降は、たまに実朝を題材にした書籍は出るものの、目立った文芸書は出ていません。戦中派が高齢化するにつれ、だんだん実朝も文芸界でのテーマとしての存在感は希薄になっていったようです。

 

②子供向けの教科書、学習書籍、漫画に見える実朝像

 

戦前:〜北条氏に実権を握られて不満に思うも、股肱の忠臣を粛清されて和歌や官位で慰めを得る〜

戦後:〜和歌に耽溺する・官位を望むなどの姿が御家人から批判的に見られる〜

 

 

明治時代〜戦中、戦後直後の教科書類>
(国立国会図書館デジタルコレクション・国立教育政策研究所教育図書館近代教科書デジタルアーカイブより。なお筆者が現代仮名遣いに改めた)

A ) 本多浅治郎 『新編日本歴史教科書』(内田老鶴圃、1902年(明治35))

北条義時の奸譎はその父に過ぎたり、…(中略)…義時、最、之を忌憚し、故らに義盛を激して兵を挙げしめ、己れ幕府に據りて実朝を奉じ、遂に義盛以下、和田氏の族を滅ししかば源氏は全、孤立せり。

 実朝は資性温雅にして心を文学に傾け、和歌を藤原定家に学びて奥旨を極めければ、その作、後世に誦せらるるもの多し。蓋、源氏の運命久しからざるを知り、優遊自適の間に一生を託したるなりという。又、切に栄達を願い、官位並び進みて正二位右大臣に至り、拝賀の礼を鶴岡に挙げぬ。…(中略)…公暁暗中より踊り出て父の仇なりとて実朝を弑せり」(p. 31-32)

B) 西浦泰治 『日本歴史教科書』(普及社、1902(明治35))

「義時は父にもましたる奸人にて、和田義盛を滅して、文武の権を統べたれば、実朝は、有為の人ながら、如何ともすること能わず、源氏の運命を覚りて、和歌を弄び、せめて顕官を得て、父祖の栄とせんことを欲し、右大臣に昇るや、例により拝賀の礼を鶴岡八幡宮にて行い、姪なる僧公暁に刺されたり」(p. 77)

藤岡継平『日本史: 統一中等歴史教科書 訂正』(六盟館、1917(大正6))

「実朝は漸く義時の専横を悪みたれども、頼朝以来の功臣は大抵除かれて、もはや如何ともする能わざるを悟りて、頻りに官位の昇進を望み、遂に右大臣に拝せられ、順徳天皇の承久元年、その拝賀の礼を鶴岡八幡宮にて行えり。時に頼家の子公暁、父の仇なりとて実朝を弑し、公暁もまた義時の為めに殺されたれば源氏は僅か三代二十八年にして亡びたり。(筆者註:山は避け〜といでていなば〜の2首が掲載)(p5-6)

D)『新制日本史 上巻/三省堂編纂所編』三省堂1934(昭和9))

「将軍實朝は義時の専横を嫌っていたが、頼るべき源氏の一族・功臣は既に滅ぼされていたから、如何ともすることができなかった。やがて、実朝は右大臣に昇り、順徳天皇の承久元年、拝賀の礼を鶴岡八幡宮に行ったが、終って社前の階段を下る時、僧公暁に弑せられた」(p. 100-101)

E) 龍肅 『新日本歴史 中学校初学年用』(至文堂、1941(昭和16))(龍肅は東大史料編纂所長で岩波文庫吾妻鏡の訳注を出している)

「将軍実朝は北条氏の擅権を憎んだが、力が及ばなかったので、文芸を事として自らを慰め、源氏の家名を挙げるため、頻りに官位の上昇を望んで、右大臣に進んだ。順徳天皇の承久元年に実朝は、鎌倉鶴岡八幡宮で拝賀の儀を行った時、八幡宮別当公暁(頼家の子)のために殺された。かくて源氏の血統は絶えた」(p. 53-54)

F)『日本の歴史. /文部省著』(中等學校教科書、1946年(昭和21年))

「このように北条氏の勢威が強大であったため、実朝もまた義時に制せられたので、思いを文学に寄せ、またしきりに官位の累進を望んで、わずかにその心をまぎらしていた。まもなく実朝もまた、義時にそそのかされた頼家の遺児に殺されたので、源氏の正当はわずか三代で絶えてしまった」(p. 56)

G)『日本歴史. /文部省[編]』(師範学校教科書株式会社、1947年(昭和22年))

「子義時ついで執権となり、和田氏を滅ぼして後は侍所の別当も兼ねたので、これから義時は幕府の文武の実権を一手に握ることになった。三代将軍実朝は源家の久しくないことを知り、政務を避けて、もっぱら風流を友とし、すすんで顕官を顕そうと心がけた。承久元年右大臣拝賀の儀を鶴岡社頭に行った際、義時に使嗾された頼家の子公暁の凶刃に斃れ、…(中略)源氏の正統はわずか三代二十七年にして絶えた」(p. 121)

学習書籍

A) 友納養徳『小国民の日本史 中』(モナス、1926(大正15))

「実朝は頼朝の末子でずいぶんかわいがられ、おとなしいおっとりした人で和歌が上手であった。当時有名な藤原定家を師としたが、常にその才能を褒められていた。(歌数首)

実朝は実権を北条氏に奪われて何もする仕事はなく、また北条氏の我ままをにくんではいるが何とも手がつかないので、只こうして歌を作ったり官位をのぼせてもらったりして、せめてもの心やりにしていた。

中略…(公暁による暗殺の説明の後)世人は、何でも義時が公暁をそそのかして実朝を殺させたに違いない、と噂したが、前後を考え合わせて見れば、或はこれが真であったかもしれない」(p. 16-19)

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 繊細な詩人の魂を持ち死を予感する青年、という文芸作品の実朝とやや力点の置き方が違い、北条の専横を嫌う・しかし如何ともし難い・和歌で心慰める・家名をあげるために官位の上昇を望むという、鎌倉幕府の機構の中における実朝の悩ましい立場の描写が多いパターンです。功臣が滅ぼされてるため実朝が孤立したという書き方も多く、また直接そうであると書かなくても、実朝の説明の前に、畠山重忠や和田一族を北条氏が排した話を載せ、将軍を支えるべき勢力が一掃されてることを示して実朝の無力さを示すパターンもよくあります。概して実朝に同情的な書き振りが目立ちます。

 また実朝暗殺は義時の教唆によるものとするものが何冊もありました。そもそも後鳥羽上皇たちを流罪にした義時は尊王思想や皇国史観からすればかなり悪どい人物で、承久の乱自体が非難がましく描かれる傾向にありました。1903年以来用いられた国定教科書では、承久の乱の義時の上皇天皇に対する所業を無道ここに極まれりとまで書いています(藪本 2022)。そこからの逆算のような感じで、義時に実権を奪われた挙句間接的に殺害された実朝に同情的な雰囲気があったと感じます。

 北条の専横を憎むということがよく書かれますが、これは言い換えれば本当は実権を握りたかった、意欲があったということにもなります。またいくつかの教科書では有能な資質があったと描写されています。それらからは、実朝を多少なりとも為政者として評価しようという姿勢が伺えます。

 官位を上昇を心の慰めとしたこと、源氏が長くないと悟ることは、吾妻鏡の建保四年九月十八日条の、官位上昇に対する義時&広元の諫言及びそれに対する返答「諫諍の趣、尤も甘心すと雖も、源氏の正統、この時に縮まりをはんぬ。子孫あへて相継ぐべからず。然ればあくまで官職を帯び、家名を挙げんと欲す」を参照していると思われます。

 

近年の教科書、学習書籍、学習漫画

 

教科書

 本来なら戦後の検定教科書以降の教科書の記述もざっくり集めたかったのですが都合により調べることができず、1996年の中学教科書と2009年の高校教科書一種類づつしか入手できませんでした。しかしそこで驚くべき()ことがわかります。

A)『中学社会 歴史的分野』(日本書籍1996)

3代将軍実朝も暗殺され、源氏の将軍はたえた。」

B) 『高校日本史B(山川出版、2009)

「頼朝の妻政子の父である北条時政は、将軍をしりぞけて、その弟の実朝を3代将軍とした。

…(中略)1219(承久元)年、3代将軍実朝が暗殺されると、1221(承久3)年、上皇北条義時追討の命令を下し、幕府を倒そうとした」(p. 75)

なんと実朝は太字でもなく、何をしたとかどんな人か全く触れられていないのです。

(ただ「文学の革新」の項目で少し述べられてはいます。

「武士出身の西行の『山家集』や3代将軍源実朝の『金槐和歌集』などの新鮮な歌集も作られた」(p. 84))

 つまり、1948年から2000年前後あたりまでの間に、いつの時点からか実朝が教科書でほとんど教えられることがなくなってしまったわけです。

 文芸作品でも72年以降有名な作品が出ていないこととも合わさり、ここでも一般人にとって実朝が遥かに馴染みない存在になってしまったことが伺えます。

 そのような中、学習書籍や学習漫画では詳しく描写されることもありました。

 

学習書籍

A) 酒寄雅志()NHKにんげん日本史 源頼朝(理論社,2004(2008年第三版))

「実朝は飾りものであることを自覚していたのでしょう。政治には無関心で、京都の貴族の世界に憧れ、和歌の世界に身を委ねます。」(p. 104)

学習漫画

A)学習漫画 日本の歴史 人物事典』(集英社,2001(2007年第14))

「しかし実権を母の政子と北条義時に握られていたため、和歌やけまりにばかり熱中しました。」(p. 100)

B)『小学館版学習まんが 少年少女日本の歴史 第七巻』(小学館,1982(2001年増補版第8(通算53))

 ※学習漫画としてはおそらく一番実朝について詳しく描いています

 和田義盛三浦義村が、流鏑馬などの武芸に興味がなく和歌や学問にしか興味を持たない実朝を憂う。北条が外戚として勢力を伸ばすことを心配。一方、源仲章に都の様子を聞き、和歌が盛んと聞いて煌びやかな都に憧れを示します。(p. 50-51)

 後鳥羽上皇は仲章に鎌倉の様子を聞き、実朝によく学問を教えるように言います。(p. 54)

 大人になった実朝は「わたしはもう、生きていく気力がない」「しかし将軍とは名ばかりではないか」と、実権のなさから無気力を顕に。

(同書 p. 54。和田合戦の後、生きていく気力がないと嘆く実朝。全体に浮かない顔で描かれています)

 そこで良い政治をすれば上皇様も応援してくれるという仲章の言葉を聞いて、御家人の訴えを直接聞こうとします。一方で政治を忘れて宋へ渡ろうとします。しかし設計ミスのためか浮かばず、実朝はガックリします。

(同書p. 55。実朝の意欲を示すところは言葉のみで小さなコマです)

 その後義時と広元が実朝について会話しています。「朝廷と仲良くなさる実朝様にも困ったものだ。「こんなに急に官位が上がるとは」「広元どのは長老じゃ。将軍をおいさめしてほしい。」

「あまり官位が早く上がるのは、不吉だと言われております。できるだけひかえられては

実朝は「わたしには子もないし、これだけが楽しみじゃ。わたしの心もわかってくれ」と悲しそうな顔で言います。

 実朝暗殺については、義村黒幕説を匂わせています。

C) 山本博()『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史5 【電子特別版】いざ、鎌倉 鎌倉時代(KADOKAWA,2016)

 (世の中は〜の歌を詠んだ後に家臣から藤原定家が誉めていたことを言われて)

実朝「あの歌人が認めたとなるとこれは政治よりよほど才能があるかもな」(p. 125)

実朝「上皇様には「実朝」の名を頂いたご恩もあるし ぜひお会いしたいものだ(京の都はさぞ美しくて上品なところだろうな…)

ナレーション「義時に政治の実権を握られていた実朝は、朝廷や公家への憧れを強めていった」(p.126)

ナレーション「だが、京都の文化にあこがれる実朝を快く思わない御家人は少なくなかった」

御家人たちのセリフとして、朝廷と仲良くするのはいかがなものかとか、頼朝様が築いた武家政権が揺らぐ恐れもあるとか、急な官位の上昇は実権のない実朝が朝廷の権威を借りて御家人をおさえるつもりなのではということが述べられます。

 実朝暗殺については、真実はわからないとしつつも義時や義村の黒幕説も紹介しています。

(同書より。いかにも悪そうな義時の微笑み)

D) 高橋典幸・星井博文・幡地英明『学習まんが 日本の歴史6 鎌倉幕府の成立』(集英社,、デジタル版2016)

 御家人が、実朝様にも困ったものだ、歌人として優れていても将軍の仕事を軽んじられてはと嘆き、その対策として結婚して身を固めることを言うシーンがあります。(p. 63)

 結婚後も、義政が世継ぎができない件で「姫もそっちのけで和歌に夢中らしい。和歌で国を治めるつもりだ」と嘆くシーンがあります(そこから実朝排除の牧氏事件へ)。しかしそのあと、都から送られた新古今和歌集を一緒に見て話を弾ませる夫婦の様子も描かれ、仲が良かった描写もあります。御台所の姉が上皇に仕えてる話から、上皇にお会いしてみたいと言う実朝の姿も描かれます。上皇は姉を通じて上皇に憧れる実朝の話を聞いて、実朝を通じて幕府の横暴を止められるかもしれないと思案します。

 (ちなみに世継ぎができないと義政が嘆くのはいささかおかしな話だと私は思います。牧氏事件は実朝13歳の時なので、世継ぎ問題浮上には早い時期なので)

 

*****

 北条に実権を握られていて実朝に実権がなく、和歌やけまりに耽溺した、都の宮廷に憧れていたというのは戦前からの特徴を引き継いでいますが、政治に向いていない、興味がないという描写が強まり、厭世的に描かれることもあるのが新しい点です。また戦前にはテンプレ的にあった「北条の専横を憎む」描写がなく、北条に対抗しようという気概が描かれなくなります。そのかわり、武を怠ることや京かぶれであることを御家人に批判的にみられたり、官位の上昇を諌める描写が入ります。官位の件は先に述べた義時&広元の諫言、武を怠るは建暦三年九月二十六日条、頼朝期以来の勇士である長沼宗政が、実朝を「当代は、歌・鞠を以て業となし、武芸廃るるに似たり」と批判したという記事からきていると思われます。

 戦中までの文芸書や教科書類と違って、為政者としての評価が中心であり、かなり消極的な人物だったり、批判的に描かれている傾向があります、たとえ歌人として優れていても、為政者として無気力だったり逃避的であったりするのはいかがなものかという感じです。後鳥羽上皇が、同じように和歌などに才能を発揮しつつもパワフルな為政者として描かれるのとは対照的です。

 このような評価のネガティブ化は、⑤で述べますが、戦前戦後での史観の変化によるところが大きいと思われます。

 

大人向けライト教養書籍

 社会人向けには様々な日本史の本が出ていますが、ベストセラーと銘打って今でも書店で買い求めやすいものとしては、以下のものがあります。

後藤 武士『読むだけですっきりわかる日本史 (宝島社、2008) 2020年時点で38版、150万部のベストセラー(帯文より)

 その中で実朝については、将軍をしたがらなかった、政も戦でも大して成果を上げられなかった、その代わり京文化に憧れ、金槐和解集を作ったが、それは首相が政治をせずCDリリースしたようなもの、と書いてあります。

 また意外なところでは、日本史以外にも古典の教養書籍などでも実朝が出てきたりします。たとえば『人生の教科書 情報編集力をつける国語 (筑摩書房.2007)の中で、橋本治が実朝を評した文章が載っています。曰く、都かぶれで、123歳にして自ら都出身の妻を望むが、それは今の子供がナイキの靴を欲しがるようなものだと述べます。また「『自分の現実』にソッポを向いて『ススんだ都会の文化』である和歌に生きがいを見出すしかなかった」とも。お飾りの将軍で周囲に理解者が誰もおらず、深い孤独を抱えており、和歌でしか自分を訴えることができない元祖おたく青年だったとまで評します。

 面白おかしくかしく描かれていますが、これまで学習漫画等で見てきたような、お飾りであるために政治に興味がなく和歌に熱中した実朝像を踏襲していることには変わりありません。

 

映像エンタメ(大河ドラマや時代劇、映画)舞台芸術

 実朝は、江戸時代の歌舞伎などの伝統演劇において登場してもあまり存在感がない描かれ方であったことが指摘されています(日置 2019)。ただ明治以降はいくつか実朝が主で活躍する歌舞伎が書かれています。

 明治36年、福地桜痴が『東鑑拝賀巻』を書き三月歌舞伎で上演されました。これは義時が公暁に頼家殺害は実朝の命であると信じ込ませ、公暁が実朝を暗殺する物語で、義時の狡猾さ、北条氏によってあやつられて死んでいく頼家、実朝、公暁の悲運が強調されます。大正時代になって、坪内逍遥が戯曲『名残の星月夜』を書いて上演されました(『牧の方』『義時の最期』の三部作のひとつ)。本作品では、宋船での渡宋計画は表向きで、上皇と結託して北条を滅ぼそうと企てたと噂されますが、結局政子に懇願され渡宋を止めます。昭和には武者小路実篤1931年『実朝の死』を著し、19332月に歌舞伎座で『実朝と義時』に改題して上演されました。しかしいずれも現在まで続く歌舞伎のレパートリーになっておらず、少なくとも戦後は一度も上演されていません(歌舞伎公演データベースより)。戦後も何回か実朝登場の歌舞伎が上演されていますが、同様にあまり話題になりませんでした。

 能楽では高浜虚子土岐善麿が実朝を題材に新作能を書きました。虚子は正岡子規の弟子にあたる歌人であり、土岐は斎藤茂吉と論争や交流のあった歌人であることを考えると、これらは舞台芸術の潮流に位置付けるよりもむしろ歌壇から発生した作品と見ることもできます。

 また彼の生きた鎌倉初期という時代自体が、テレビや映画などの映像作品になることも長らくありませんでした。大河『草燃える』は、そのような中、大変貴重な実朝の映像作品です。総集編で実朝は、頼朝の血筋の源氏が次々と殺されているので、自分や子供が殺される未来しか見えないので子供を作らないと主張していました。本編でどのように描かれたかわかりませんが、幕府内で立場が強い存在であればそのような発想にはならないと思うので、やはり将軍といえど実権があまりない状態として描かれてたと推察されます。

 

 

⑤学術的一般書

 何をもって学術的かつ一般の書籍というべきか判断に迷うところでありますが、その中からいくつかピックアップして、変遷を辿っていきたいと思います。

 

<戦前>

A) 黒板勝美国史の研究 各説』(文会堂、1918)

(筆者註: 和田合戦の後義時は)是より文武の権ともに掌握に帰するに至りしも、実朝の母政子は猶簾中に政を聞きて尼将軍と称せしが故に義時も専横なるを得なかった。されども実朝は将軍の虚位を擁して諷詠自ら遣るに過ぎなかったので、或は和歌の会或は蹴鞠の遊びをなし、また政を顧なかった。そして宋人陳和卿の説により、一時は渡宋の志を立つる程であったが、また一方に於いては頻りに官職を望み、その昇進の速かなる、大江広元に諷諫さるる程であった」(p. 313)

B) 大森金五郎『武家時代之研究 第三巻』(富山房、1937)

「されば実朝は文学のみに耽り、政治の事に就いては全く無頓着であったかと云うと、決してそういう譚ではない。政治上に就いても一廉の見識を有って居たように思われる。中略(筆者註: 相模川の橋の件や寿福寺の行勇叱責の件をあげる)…兎も角も英発の資を抱いて居たに相違ないが、当時は母の政子や北条義時などが相談して事を行い、万事実朝の思うようにならなかったから、一層彼は和歌風流に心を入れ、又青年に有り勝ちなる名誉心に駆られたような形跡も著しく見える。…(中略)…一種の悲観的言説も往々発表される事があった。」(p. 403-404)

C) 松本彦次郎『鎌倉時代史 二版』(日本文学社、1938)

(相模川の橋や止雨の歌の逸話をひいて)実朝は一般国民にも厚い同情を注いだことはこれによってもわかる。吾妻鏡は北条氏の政治上の逸話を伝えることを忘れないけれども、実朝に関しては遊芸の記事のみを多くあげているのはどういう譚だろうか。…(中略)…政治家の残された逸話は善良政治そのものの証拠であるなら、実朝の政治は長沼宗政の一言によって、全部帳消しにならないものでもない。…(中略)…方代勝事記は彼の治世十六年間を「倹なるをすすめ、奢なるものをしりぞけられ」と、彼の一生を平和時代であったことを賛美している」(p. 89)

 

  黒板勝美は実権がなく政治を顧みず、和歌や官位に慰めをみいだいしたという表現ですが、頼朝研究で有名な大森金五郎は、そのような説を否定し聡明で見識があったことを述べています。松本彦次郎はさらには政治家として善良で有能だった、長沼宗政の批判もそれだけで実朝の実績が帳消しになるものでもあるまいと述べています。松本氏はアララギ派俳人であったことを差し引いても、史料を批判的に読み込みつつ肯定的に記述しています。皇国史観派ではない実証主義の史学者も実朝を比較的肯定的に描いてるといえます。

 

<戦後〜2000年代>

D) 石井進『日本の歴史 鎌倉幕府(中央公論社1956)(引用は石井進著作刊行会編『石井進の世界① 鎌倉幕府(山川出版社2005)に拠った)

「しかしもっぱら京にあこがれ、…(山は裂けの歌を引きつつ)後鳥羽上皇に忠誠を誓い、文事をたのしむ実朝のすがたは、東国生えぬきの武士たちにとって、けっして好ましいものではなかった」

…(「当代は歌・鞠を以って業となし、武芸は廃するに似たり」の長沼宗政の言葉を引きつつ)…いかにも御家人たち一般の不満の声を聞く思いがする。こうまで言われるようになっては、鎌倉殿としての権威はもう台なしである」

「だが、もはや幕府がかれ一人の力ではどうにも動かしようがないという事実に気づいているこの『ひとりさめている者』、若いインテリ将軍はますます現実からの逃避に熱中するばかりであった」(p. 228)

E) 上横手雅敬人物叢書 北条泰時(吉川弘文館1958)

  「実朝の実権は頼家以上に弱められ、彼に残されたのは、政治から逃避し、官位の上昇と文雅の道に憂さを晴らす事であった」(p. 15-16) また愚管抄の実朝批判の文章も引き合いに出しています。「慈円は『愚カニ用心ナクテ、文ノ方アリケル実朝ハ、マタ大臣ノ大将ケガシテケリ。マタ跡もナク失せセヌルナリケリ』と述べ、実朝が武士の本分を忘れ文弱であったことを、源氏滅亡の原因と認めている。実朝が学問を好めば好むほど貴族的となり、御家人から浮き上がってしまった事実を考えると、この評は当っている。」(p. 16)

 本書は実朝の「官打ち」説もその通りであると載せており、全体に為政者としては低い評価を与えています。

F) 安田元久人物叢書 北条泰時(吉川弘文館1961)

「政治の実権を握られた将軍実朝が、歌道・蹴鞠に耽溺するようになっていた。」「…(京都から坊門前大納言信清の女を妻に迎えてからは、実朝の周囲に一層公家社会の気運がみなぎり、全く公家化した実朝はしきりに官位の上昇を望むようになった。そうした事情から、鎌倉武士の将軍に対する信頼は次第に失われる傾向にあった」としています(p. 161)。しかしそれは執権政治の確立を望む義時にとって好都合だったとし、官位を望むのを諌める逸話も本当は広元単体でだったのではとしています。また実朝は上皇と義時の間に立って「浮草の如き自己の運命を自覚」していたとし(p. 173)、彼の存在が京都と鎌倉の衝突を回避していたとも。しかし執権政治を望む義時の教唆で公暁によって暗殺されたとしています。

 

G) 山本幸司『日本の歴史09 頼朝の天下草創』(講談社2001)

 この中では、従来の実朝が文弱で為政者として低い評価を与えられてきたことに対して異をとなえられている点が注目されます。吾妻鏡の記述から、御家人に対して毅然とした態度でのぞんだこと、治者としての自覚があり公平性があったことなどを指摘。また京に憧れてばかりいたように思われているが、東国への愛着があったこと、また予見能力や天水の支配者としての能力などから御家人たちか畏怖される存在であっただろうとも述べています。ただし政治への意欲のピークを建暦から建保あたりまでのこととし、和田合戦以降はそうではないような書き振りなこともまたポイントです。また将軍権力の集中化への傾向や政治権力への欲望が欠如していたとも。和田合戦以降意欲をなくす実朝像は、太宰の『右大臣実朝』を思わせます。

 なお、実朝の禁忌の歌や宋船計画などから、死を予感していた、あるいは積極的に死を願っていたという解釈もしています。著者は実朝の歌や行動にニヒリズムを見出し、「実朝の方は公暁の襲撃を恐らく予知していながらあえてそれを防がなかった、あるいはもっといえば自ら進んで公暁の刃の下に身を投げたに近いと私には見える」(p. 150)とまで述べています。

 

  石井進上横手雅敬、安田元久といった6070年代を牽引した歴史家のの著作を見ますと、戦前の論調と明らかに異なり、一転してかなり批判的論調です。上横手氏の義時史伝では、武士の政権を築こうとする義時とは実朝必然的に相容れなかったという見方を示しています。

 2000年代初頭の山本幸司の著作では全体に、従来型の見方と新しい見方の過渡期のような感じで、実朝の有能さは認めながらも、和田合戦以降を評価せず、死の予感に囚われていたという、文芸書で強調されるような見方も示しています。

 

2014年〜>

H) 坂井孝一『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』(講談社2014)

I ) 五味文彦源実朝 歌と身体からの歴史学(KADOKAWA2015)

  潮目が明確に変わったものとしては、坂井孝一氏、五味文彦氏の上記の著書あたりからです。

 これらは、今までの文弱で実権がなく政治に意欲を持たなかった将軍というイメージを完全に覆し、果敢に積極的に政治に取り組む実朝像を打ち出したエポックメイキング的な書籍でした。上にも挙げた『源実朝 虚実を超えて』(2019)においても、そのような実朝像の見直しが潮流となっていることが様々な著者から示されています。

 そしてこれまで、たとえ実朝に為政者としての能力を認める人であっても、和田合戦以降は政治的に無気力になるような捉え方をする傾向がありましたが、むしろ和田合戦を契機として為政者としての自覚を強め、権力基盤の強化を図ったと、逆ベクトルの見方を提示しています。

 また従来は実朝の夢想的な性格、あるいは厭世な気持ちの現れとして捉えられてきた渡宋計画も、積極的な意味合いで評価されるようになりました。また死を予感するような禁忌の歌も偽作が指摘されるようになり、無気力で厭世的な実朝像は払拭されました。

 もっともさらに近年なると、あまりにも強く打ち出された「非文弱将軍像」からの揺り戻し的な動きも出てきており、「やっぱり文弱将軍説」も出てきます。山本みなみ氏は、五味氏や坂井氏の提唱した実朝像に真っ向から対立するような、どちらかというと昔ながらの見方に近い、北条氏に押さえつけられたり和歌に耽溺しすぎたという実朝像を主張しています(山本、2021)。なかなか興味深いところです。

 しかしその「非文弱将軍」批判の中でも、実朝への朝廷への傾倒自体は否定的に見るのではなく、むしろ朝廷に充分奉仕できないということで北条氏から将軍としてまとめていく力を不安視されたという見方をしています。従来の実朝像で基本であった、朝廷への傾倒が「悪」であるという捉えら方がもはやされていないのは重要です。そのこと自体はもちろん坂井氏らにも認識されていましたが、山本氏の場合は「不安視した」ということにより力点が置かれている感じです。また坂井氏らと同じく、義時と実朝は対立関係でなく協調関係が基本であったという見方をしており、それも昔からある義時が実朝を排除しようとしたという見方を廃しています。

 ともかく、学術的一般書では、現在ではどのようなの立場にしろ、実朝と朝廷の協調関係はダメなことではなく、むしろ武士の長としてそれを遂行するために様々なことを義時と共に行った将軍として評価されてることがスタートラインであり、そこから、実朝のやったことや力量は充分か不十分か、義時と実朝の力関係の強弱がどうだったのかどうか、という議論になっていると見ることができます。

 

*****

 こうしてみると、戦前ー戦後ー2014年以降の三つの時期で、史学の中で実朝の見方が大きく変わっていったのが分かると思います。そしてそれは義時や武士の見方の変化とも密接に関わってきました。

 このような変化の背景として、まず中世史の見方の枠組みが変化していったことが挙げられるでしょう。

 戦前は実朝は、通説的な、実権がなく和歌に逃げた的な見方をされることもありましたが、実証史学の立場からは吾妻鏡の読み込みから比較的有能な資質が見出される傾向がありました。また北条氏、とりわけ実朝暗殺の黒幕と見做される義時がかなり否定的な描かれ方であることが多く、そのためいわば評価の天秤が実朝に傾きがちであったということもできると思います。

 ところが戦後になるとガラリとそこが変わりました。まず義時が属する「武士」が称揚され、古く退廃した貴族階級を打ち破る清新な存在として捉えられるようになりました。50年代前後に見られる研究状況は、公家政権との対比の中で、武家としての幕府勢力が階級的成長を遂げる政治過程を、追及しようとするものであった。」「この段階の基本認識は、公家政権とは新興の武家に克服されるべき古代支配者階級なのであり、これを圧倒する過程の中に新興武家勢力の歴史的役割を見出そうとした。別言すれば階級闘争史観による領主制論に依拠した観点であった。」((関、2023)  また東国の独特さや独立的傾向について論じる論文も増えていきました。

 実際、たとえば1958年出版の『人物叢書 北条泰時』では「泰時の生まれた東国社会は、退廃した京都とは対照的に、貧しくとも素朴で健康なものであったろう」(p. 3)「当時の社会において過去を代表するものは寺社・貴族であり、未来を代表するものは地頭・御家人であった」(p. 117)といった描写になっていて、それが実朝観にも反映されています。そのような貴族ー武士観、また東国武士観は、古くは『平家物語』の貴族的平氏VS武勇に優れた源氏という描写や、江戸時代の新井白石の史観に強く現れています。それは戦前にも影響を及ぼした考え方ですが、戦後のマルクス主義史観での中世観の中で、いわば理論的な裏打ちがなされ、より強固にその図式が打ち出されるようになったと言えます。そのような中、武士らしくなく京文化に憧れたり、朝廷に接近する実朝は必然的にダメな存在に位置付けられました。

 しかし1963年には権門体制論が黒田俊雄によって提唱されて、そのような貴族ー武士観への批判がなされました。中世において武士は公家・寺社と共に天皇を支える権門のひとつであるという見方を打ち出し、中世を古代的な公家政権と封建的な武家政権の対抗時代とみなして、後者による前者の圧倒の過程として位置付ける当時の通説を批判したのです。これにより、実朝が朝廷の官位に固執したり上皇に接近したりということを持って、武家の棟梁にあるまじき無能な為政者である、という見方が修正される下地ができました。

 しかしこの権門体制論の受容は速やかにはなされませんでした。6070年代は様々な批判が起きましたが、1983年発表の『日本の中世国家』で佐藤進一の東国国家史観が華々しく打ち出されたことにより、80年代は武士の京都の公家に対する東国武士の独立性が共通認識化されました。たとえば1988年に出版された関幸彦『武士団研究の歩み 第2: 戦後編』(新人物往来社)では、権門体制論については中世に統一的な国家を想定したものとして批判的に眺め、それに対して佐藤進一の論や、それを継承した石井進の論を、複数の国家を想定した新しい見方を提示したものとして称揚する記述でした。

 それが2000年代あたりになると少しずつ変わってきます。2003年出版の永原慶二『20世紀日本の歴史学(吉川弘文館)では、権門体制論を「重要かつ新鮮な視覚を提起している」と好意的な書き方をしています(ちなみに永原氏は幕府のあり方をめぐり黒田氏と論争している)2018年になると、『日本史のミカタ』(祥伝社)本郷和人は、自分は東国国家論を支持するけれども、中世研究者の8割は権門体制論を支持しているのではと語っています。同年に出版された『日本史の論点』(中央公論新社2018)では「1970年代に領主制に拠る研究者の多くから批判され、武家政権論の代表者たる佐藤進一も厳しく斥けたものの、最新岩波講座(201315)では依然として権門体制論が一定の力を保っている旨を指摘されている」と、不満げな書き方ながら有力な説であることを認めています。こうしてみると、坂井氏や五味氏の実朝論が出版された20145年あたりは、かなり権門体制論が普及してきた時期とみていいでしょう。

 もっとも権門体制論がただちに実朝見直しに結びつく訳ではありません。実際権門体制論提唱者の黒田氏自身は、実朝を昔ながらの無力で和歌などに現実逃避する将軍という見方を示しています。「いまや幕府の政治や実権はまったく将軍実朝の手からはなれ、ことごとく執権の指導下にあった。…(中略)…それだけに実朝の関心は当然政治からはなれ、京都の文化にあこがれ、官位の上昇のみを望み、ついには渡宋の計画にさえ着手するにいたった」(黒田俊雄「荘園社会」(『体系・日本歴史2『荘園制社会』』日本評論社1967)より)。実朝見直しはそれに加えて、武士そのものの研究の深化や、寺社の重要性の発見などを待たねばなりませんでした。

 武士の見直しについては90年代以降盛んになりました。鎌倉幕府成立以前から東国武士が在京活動を展開して中央権力と深い繋がりを持ったり、京を結集の核とする広域的な武士の移動やそれに伴うネットワークがあったことなどの研究が活発になり、東国VS京都という図式が否定されるようになりました。また同じく90年代以降、朝廷や幕府の宗教政策についての議論や実証研究が深まり、朝廷や幕府がいかに仏法隆盛を政の要として重視していたかが明らかになってきました。これは治世の後半の寺社への注力を現実逃避的行動と見做さなくなったことにつながります。

 また当時の発給文書の研究が進んだことも大きいでしょう。たとえば『鎌倉遺文』は竹内理三氏がほぼ独力で鎌倉時代の文書を網羅的に集め編集したもので、1971年から1995年の25年をかけて編纂されました。その功績は計り知れなく、たとえば五味氏の発給文書に注目した実朝論の一部も鎌倉遺文に依っていいます。

 権門体制論の隆盛、武士や寺社についての見直し、鎌倉時代の古文書の整備、それらが総合して初めて実朝見直しに至ったと言えましょう。

 

 

3.ドラマと史料類との異動・考察

後編https://topaztan.hatenablog.com/entry/2023/04/19/145745に続きます

 

参考文献一覧(研究書関係) 

 

石井進著作刊行会編『石井進の世界① 鎌倉幕府(山川出版社2005)

・岩城卓二・上島享・河西秀哉他編著『論点 日本史学(ミネルヴァ書房2022)

・岩田慎平『北条義時-鎌倉殿を補佐した二代目執権 (中公新書 2678)(中央公論新社2021)

・上杉和彦『源頼朝鎌倉幕府(吉川弘文館2022)

・奥富敬之『鎌倉北条氏の基礎的研究』(吉川弘文館1980)

上横手雅敬人物叢書 北条泰時(吉川弘文館1958)

・黒田俊雄『黒田俊雄著作集5 中世荘園制論』(法蔵館1995)

五味文彦本郷和人()『現代語訳吾妻鏡7〉頼家と実朝』(吉川弘文館2009)

五味文彦本郷和人()『現代語訳吾妻鏡8承久の乱(吉川弘文館2010)

五味文彦本郷和人()『現代語訳吾妻鏡 別巻 鎌倉時代を探る』(吉川弘文館2016)

五味文彦源実朝 歌と身体からの歴史学(KADOKAWA2015)

五味文彦吾妻鏡の方法 事実と神話にみる中世』(吉川弘文館2018)

・坂井孝一『源実朝 東国の王権を夢見た将軍』(講談社2014)

・坂井孝一『承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱 (中公新書)(中央公論新社2018)

・坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人びとNHK出版新書 679(NHK出版、2022)

・関幸彦『戦後 武士団研究史(教育評論社2023)

・高橋昌明『武士の日本史』(岩波書店2018)

・永原慶二『20世紀 日本の歴史学(吉川弘文館2003)

・野口実・長村祥知・坂口太郎『公武政権の競合と協調 (3) (京都の中世史 3)(吉川弘文館2022)

・三木麻子『コレクション日本歌人 051 源実朝(笠間書院2012)

元木泰雄源頼朝 武家政治の創始者中央公論新社2019)

・安田久元『人物叢書 北条義時(吉川弘文館1961)

・藪本勝治『日本史研究叢刊44 吾妻鏡』の合戦叙述と〈歴史〉構築』(和泉書院2022)

・山本みなみ『史伝 北条義時: 武家政権を確立した権力者の実像』(小学館2021)

・山本みなみ『史伝 北条政子: 鎌倉幕府を導いた尼将軍 (NHK出版新書 673)(NHK出版、2022)

・山本幸司『日本の歴史09 頼朝の天下草創』(講談社2001)

・渡辺泰明編著『源実朝―虚実を越えて (アジア遊学 241)(勉強出版,2019) (菊池紳一、坂井孝一、高橋典幸、山家浩樹、渡部泰明、久保田淳、前田雅之、中川博夫、小川剛生、源健一郎、小林直樹、中村翼、日置貴之、松澤俊二 著)