Topaztan’s blog

映画やドラマの感想や考察をつづっています

源実朝没後七百年記念行事②〜実朝を主人公にした歌舞伎演目の上演

 実朝没後七百年祭は、歌舞伎の世界でも行われ、少なくとも3箇所、2演目で実朝を題材にした歌舞伎が上演されました。

 

◉大正84月 場所: 明治座

 

<演目>

実朝公七百年祭記念狂言山崎紫紅『実朝公』(新作)

 鎌倉八幡宮の場

 

<配役>

 源実朝 升三

  ほか

 

・当時の明治座外観

 

大正時代の明治座|明治座 150th Anniversary|明治座

 

<ポスター(番付)

 寿福寺の実朝坐像の写真が使われています。他にも実朝の墓、鶴岡八幡宮の隠れ銀杏の写真が載っており、歌舞伎のポスターとしてはかなり珍しいのではないでしょうか。

(松竹大谷図書館web site)

 

<パンフレット(筋書)

 不明

 あらすじもよくわかりません。情報持ってる方がいらしたら教えてください!

 

 この公演を扱った劇評(「四月の劇壇」島田青嶺(早稲田文学』[第2期],(162),[早稲田文学社],1919-05-01. 国立国会図書館デジタルコレクション)でもこの演目だけ言及されてないので、あんまり印象に残らない演目だったのではと思われます。

 

 

◉大正85月 場所: 浪花座

 

<演目>

実朝公七百年祭記念狂言 六代鶴屋南北『鎌倉右大臣』(新作)

 序幕 鎌倉由比ヶ浜辺の場

 大詰 鎌倉営中の場

    鶴岡八幡社の場

 

<配役>

 鎌倉右大臣実朝 中村福助

 北条右京大夫義時 中村市

 北条武蔵守泰時  中村成笑

 阿闍梨公暁    中村魁車

  ほか

 

<ポスター(番付)

(松竹大谷図書館web siteより)

<パンフレット(筋書)

 5月らしい鯉のぼりの鱗があしらわれた表紙。

 

 (筆者所蔵)

 

<あらすじ>

 

・鎌倉由比ヶ浜辺の場

 北条政子に実権を握られていた実朝だったが、義時・泰時父子が源氏の世を奪おうと企てたので身辺に危険を感じ、宋に渡って難を逃れようと唐船を建設させる。由比ヶ浜で、泰時は渡宋を阻止しようと陳和卿に働きかけるが取り合われない。そこに公暁が現れるが、義時は公暁に、実朝が将軍職を奪うために頼家を殺させたと告げ、公暁の復讐心をけしかける。

 義時が去ったあと義時の手下にその件について水を向けられるが、公暁は法師の身に仇はないと叱りつける。そこへ唐船を見ようとやってきた実朝一行。公暁との会話で、自分が唐に渡れば将軍職は御身の手にと実朝が言いかけるが、その時唐船が沈んだという知らせが来る。義時の陰謀である。

・鎌倉営中の場

 鎌倉御所で 夜な夜な鬼神が現れ、営中を悩ます。拝賀式の夜も現れ、戦いのどさくさの中、公暁を想う渚(公氏の妹)が切られる。鬼神の正体は公暁で、誤って襲ってしまったことを詫びる。渚は拝賀式で、父上を討った義時が御剣役であると告げて死ぬ。

 それを柱の陰で見ていた実朝は、我が身の運命もやがてはこれと悟る。様々な不吉な現象から拝賀式の延期を周囲はすすめるが断り、結髪の公氏に髪を一筋与え、「出でていなば〜」の歌を吟じて従容として立ち上がる。

・鶴岡八幡社の場

 拝賀式の折、義時は腹痛を訴えて御剣役を仲章に譲って立ち去る。それと知らぬ公暁は物陰から仇討ちの機会を伺う。

 死に際に、義時の罠にかかったか、かくて源氏もこの春と共に影もなく散り失せるのだと嘆く実朝。立ちすくむ公暁の周りを北条の手下が取り囲む。

 

 

筆者感想: 義時父子が悪人に描かれてるものの、実朝も公暁も愚かではなく描かれてるのは好感が持てますが、公暁が実朝まで殺そうと思うに至った経緯がこのあらすじではよくわからず。初めは実朝を恨んでなさそうだったのにそして渚が切られて死ぬまでを物陰で見てる実朝というのもなんだか謎な展開。とにかく自分の死を予知する実朝、運命に翻弄される公暁、を描きたかったんだなと感じました。

 

 

◉大正86月 場所: 神戸中央劇場

 

<演目>

 実朝公七百年祭記念狂言 六代鶴屋南北『鎌倉右大臣』

 

<配役>

(浪花座と同じ)

 

<ポスター(番付)

 

<パンフレット(筋書)

 不明

 

<あらすじ>

(浪花座と同じ)

 

 

 

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余談 『名残の星月夜』について

 

 七百年祭の翌年大正9年に、坪内逍遥作の『名残の星月夜』(戯曲自体は大正6年に中央公論に連載)が上演されたのは知っている方も多いと思いますが、これについて逍遥は興味深いことを述べています。

 大正9510日付の逍遥のエッセイ「『名残の星月夜』上演所感」(『それからそれ3版』(実業之友社、大正10))によれば、

「で、『名残の星月夜』の如きは、実は、昨年の春以来、今度までに前後三回の申し込みが歌舞伎座からあつたのを、前二回は、あたまから断つてしまつた」(※強調は筆者)

 とあるのです。本エッセイによると逍遥は、これまで自作の戯曲の上演にあたって演出にも携わってきましたが、自分の希望がほとんど叶えられず上演自体に忌避感を持つようになっていたそうです。そんなわけで『名残の〜』もなかなかGOサインを出さなかってのですが、三回目の申し込みの時、逍遥の希望が色々通りそうだったので上演許可を出したそうです。つまり歌舞伎座としては七百年祭の年に本当は上演したかったので大正8年春から何回かプッシュして、翌大正9年にようやく実現したということなのでしょう。

 

 『早稲田文学』[第2期],(162),[(早稲田文学社],1919-05-01.)では、演劇研究家の河竹繁俊

B  それは兎も角としても、あの『星月夜』などは何故早くやつて見ないのだらう。今年は實朝公の七百年忌だといふから、キットあれをだすだらうと心待ちにしてると、明治座で紫紅氏のが出てゐる。坪内先生の、あの詩に富んだ「星月夜」は、やはり上演されないのかしら。

A  さうさ、秋あたりにはやつて貰ひたいネ。少し位の冒険はしても、あの作位へ飛んでやつてもらひたいものだ。」

などというやりとりまで作って、『名残の星月夜』上演待望論を語らせています。もっとも河竹は逍遥の弟子筋にあたり、逍遥の推薦で河竹黙阿弥の娘の養子になったりまでしているので、多分にヨイショ的な意味も含まれていたのでしょうが。しかし実朝の歌舞伎が付け焼き刃でなく既に著名な作家の手で出来上がってるのであれば、それを上演したらいいのではないかと思うのは誰しも考えることだったでしょう。

 そのように歌舞伎座からの3回もオファーがあり、身内からも待望論が語られた『名残の星月夜』ですが、残念ながら練習にほとんど時間が取れず、いわゆるゲネプロ的なこともできず、いきなり本番になってしまったという経緯もあって完成度が高くなく、評判はあまり芳しくなかったようです。特に唐船の上の尼御台所と実朝の対話のシーンでは野次が飛び、やむを得ず後日セリフ量をカットしたとか。

 七百年祭の時に上演許可を出していれば、もしかしたら準備期間も取れて、もう少しいい状態で上演できたのかなと思ってしまいました。

 

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 以上、七百年祭の年の実朝関連の歌舞伎情報でした。七百年記念の行事や寄稿文についてまとめていた斎藤茂吉も歌舞伎関連には言及しておらず、あまり知られていないのですが、今後舞台写真などの情報が松竹のサイトなどにあがってくればいいなあと思っています。