Topaztan’s blog

映画やドラマの感想や考察をつづっています

松岡映丘と源実朝 〜 近代日本画の中の実朝②

 今回は、実朝の絵としては非常に有名な「右大臣実朝」を描いた松岡映丘について書きたいと思います。

 安田靫彦が実朝の絵を5枚描いていたことは前回の記事でお伝えしましたが、映丘もまた、やはり少なくとも4枚は実朝絵を描いていたことが、今回の調査で判明しました。(金槐和歌集に関連する絵を含めるなら5枚)

 とても有名な割にほとんど研究されている様子のない、知られざる映丘と実朝の関係を追っていきます。

1)松岡映丘の生涯と源実朝

●略歴

 明治14年(1881年)、儒家国学者でもある松岡操の末子・輝夫として兵庫県に生まれました。映丘は幼い時から武者絵に魅了され、狩野派の後土佐派に学び、大和絵の技法や有職故実を研究。東京美術学校を首席で卒業後、母校の教授となり、新興大和絵会、国画院を結成、画壇に大きな影響を与えました。

●実朝との関わり

 映丘自身が実朝について述べた文章はほとんど見つけられませんでしたが、第三者からの言葉はあります。美術評論家の金井紫雲は、「歴史画家としての松岡映丘」の中で、このように述べています。

 

元来、映丘は、その興味を源平時代に置き、従つて歴史画としてはその時代の取材の作が多いので、「平家物語」や「承久記」のあたりには、余程興味を唆られたらしい。延いては実朝の生に同情を有ち、その金槐集の歌には魅せられてゐたので、実朝は比較的多く描いたやうである。歌仙風に衣冠束帯姿の実朝を描き、荒海の波の屏風をめぐらして「月みればころも手さむしさらしなやをばすて山の峰のあきかぜ」の一首を題した作などは、余程掬すべきものがあり、かうした作の継つたものが「右大臣質朝」となつて現はれたのである。

(「歴史画家としての松岡映丘」(『美術と趣味』7(4)(美術と趣味社,1942))より)

 

 映丘は元々源平合戦承久の乱あたりの時代が好きで、また金槐和歌集を愛読していたとのことです。彼が実朝やその歌の、どこがどのように好だったか、またはいかなる経緯で好きになったかは定かではありません。当時は金槐和歌集は古典文学に興味ある人の間では人口に膾炙していたという背景はあるでしょうし、あるいはもしかしたら、「映丘」の名付け親でもある兄の井上通泰(1867〜1941)の影響もあったのかもしれません。通泰は歌人、国文学者として有名で、明治40年には御歌所寄人となっており、明治天皇御集(佐佐木信綱も加わる)の編纂にも携わりました(御所派の人々も実朝の歌を愛好していたことは、鶴岡八幡宮の実朝七百年祭が御所派の人々中心だったことからも窺い知れます)

 

2)松岡映丘の描いた源実朝の絵

大正12年(1923年) 東京会展覧会5/28〜29 美術倶楽部「鎌倉右大臣」

『藝術』1(13)(大日本藝術協會,1923-05) 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 山や松、唐船、小舟が描かれている屏風を前にして座っている、冠をつけた(おそらく)黒い直衣姿の実朝。左には何か小さな卓のようなものが見えます。歌仙絵スタイルに屏風を加えたもので、左手に大きく見える唐船には実朝の宋船の試みの逸話を反映させているのかもしれません。小舟に海人が乗っているのが見えますが、「海人の小舟の綱手かなしも」をイメージしているのでしょうか。

 

昭和4年以前に描かれたもの(『那須の篠原』・『磯のなみ(?)』)

 

 昭和四年の『藝術』7(4) によると、京橋の旅館「春日館」の館主、故人大川千代松のために松岡映丘が描いた絵を各部屋に展示した展覧会が2/3に開かれました。その中で実朝をテーにした部屋があったそうです。

 

第二室八量、掛物は金槐集で有名なるもののふのやなみつくろふこての上に、あられたばしる那須の篠原」の歌意を描いた尺五縱もので、中村鶴心堂の表装、中廻り茶地大内桐金欄 置物は鶴ヶ岡式箱に菊の蒔繪ある小手箱、床脇地袋棚に花籠に海棠の投入があつた。此部屋には別に壁の間に紙本白描の衣冠せる実朝の立ち姿、歌仙絵の形式を取り入れて描写せるもので、背景には磯の浪を描けるはこれは金槐集の「大海の磯もとどろによする浪われてくだけてさけて散るかも」の歌意を取扱ったものだろう。此幅の前に黒塗文台の金澤本萬葉集の複製拈葉本二冊が置かれて居る。

『藝術』7(4),大日本藝術協会(1929-02. 国立国会図書館デジタルコレクション)(太線強調は筆者による)

 

 実朝の歌の歌意を描いた掛軸と実朝自身を描いた絵、鶴岡八幡宮式の菊の蒔絵がある小箱(国宝の籬菊螺鈿蒔絵硯箱のレプリカでしょうか)、金澤本万葉集の複製と、まさに実朝にゆかりのあるものばかり。旅館のあるじも実朝が好きだったのしょうが、すでに亡くなっていますので、しつらいは映丘が指示したのでしょう。

 ここに書かれている2点の絵、「もののふの矢並つくろう〜」の歌意を描いた掛軸と、紙本白描の衣冠姿の実朝絵については、上記の記事に写真が添付されておらず実物がわかりませんが、ヒントになりそうなものはあります。

 まずもののふの〜」の絵は、題名が『那須の篠原』で馬上の武士を描いたものであることが、豊田豊『豊田豊美術評論全集』第1巻 (芸術清談)(古今堂,昭和16)で判明しています。その中で大川氏の春日館で開かれた、「映丘氏作画鑑賞会」で『那須の篠原』という尺五の馬上の武士の絵があったと語られているのです。そしてやはり那須の篠原』という題名で馬上の武士が描かれている絵が、現在愛知県美術館に所蔵されていて、上記の春日館展示の絵はこちらであった可能性があります。

 (愛知県美術館HPより パブリックドメイン)

 美術館のサイトには金槐和歌集との関連は書いていませんし制作年代不明とありますが、弓矢を装備した狩の装束の武士、霰のようなものがパラパラ降ってきている絵柄は、「もののふの〜」にぴったりです。ただ、昭和3年版が尺五であるのに対し愛知県美術館版はサイズが違うので、断定はできません。しかし中廻り茶地大内桐金欄という特徴は一致しているので、同じである可能性は高く、今後の研究が待たれます。

 また実朝を描いた絵については、そのものズバリではありませんが、これに似ているのではないかと私が見当をつけているものがあります。昭和2年にかかれた「磯のなみ」です。

『松岡映丘画集』,(国画院,昭和16)国立国会図書館デジタルコレクション

 

 理由としては、「衣冠せる実朝の立ち姿」「背景には磯の浪を描ける」というポイントの他に、その人物の顔が、後で述べる昭和五年の「鎌倉の右大臣」と酷似しているという点が挙げられます(下がり眉で口髭顎髭)。この人物を、ひとり大自然に向き合い、割れて砕けて裂けて散る波を見つめる実朝と見てもとても自然な絵です。これをもし実朝とすると、昭和五年「鎌倉の右大臣」へ至る道筋が見えてきます。

 

昭和5年(1930年) 「鎌倉の右大臣」

『松岡映丘画集』(国画院,昭和16)国立国会図書館デジタルコレクション

 

 波と岩が描かれた屏風を前にした黒い衣冠束帯姿の実朝。大正20年の「鎌倉右大臣」と、構図が酷似しています。装束は直衣から笏を持った正装の束帯に変わり、屏風の絵は波と岩のみになっており、唐船など色々描かれていた大正20年版とは変化しています。屏風の変化は、先にあげた「磯のなみ」を大正20年の鎌倉右大臣と合体させたと考えるとわかりやすいように思います。実朝の人生や歌を散りばめたのではなく、あえて「大海の 磯もとどろに〜」の歌を想起させる絵のみを配したことにより、より実朝の内面性にフォーカスされているように思えます。

 ただ、右側に中村柴舟が書いた実朝の歌の賛がありますが、その歌は、「大海の〜」ではなくて、「月みれば 衣手さむし さらしなや 姨捨山の みねの秋風」となっています。なぜこの歌が選ばれたのかは分かりません。

 

昭和7年(1932年)第13回帝展 11/23〜12/11「右大臣実朝

 さてこちらが、かの有名な実朝が拝賀式の際に牛車から降りようとしてる絵です。画稿も残っていますが、構図は同じです。

『松岡映丘画集』(国画院,昭和16.9) 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 これは今まで映丘が実朝絵で描いてきた、座っている、あるいは佇んでいる、スタティックな実朝と全く異なり、まさに牛車から降りようとしている瞬間を捉えているという特徴があります。昭和5年の実朝絵と同じ笏を持った束帯姿ですが、印象の違いに驚かされます。また雪の日、檳榔毛の牛車、束帯姿は、実朝が殺される承久元年一月二十七日右大臣拝賀式の日であることを暗示しており、今までの、特に時期の指定がない絵とは異なる具体性と緊張感もあります。一見静かな絵柄ながら、実朝が肉体的にも運命的にも動き出す瞬間を捉えた、ドラマ性の高い作品と言えるでしょう。また作品的にも今までよりかなり大型の大作であり、この大転換は一体何に起因するのか、大変興味深いものがあります。

 

 実朝関係の世間での昭和7年近くの動向を見てみますと、まず昭和4年佐佐木信綱が定家本の金槐和歌集を発見し、翌年その複製や校註を出版、新聞などでも話題になったというのがあります。昭和6年には武者小路実篤が戯曲『実朝の死』を発表、また少年少女向けに林勇『少年 右大臣源実朝』が出版され、昭和7年八月には実朝を描いた坪内逍遥の戯曲『名残の星月夜』が春陽堂文庫で文庫化されるなど、実朝関連はかなり活況を呈していた時期でした。こうした盛り上がりを受けて、元々興味があって描き続けていた実朝という題材を、大作で描いてみようと思うようになった可能性はあります。

 

 次に構図を見てみましょう。私は絵巻や大和絵に詳しくないのですが、牛車から誰かが降りかけるという構図は、かなり珍しいものに感じます。映丘の作品でも、昭和三年の「蘆刈」で牛車から人が少し覗いてる図がある程度です。

 私は個人的に、この構図のインスパイア元になったもののひとつとして、こちらの故実叢書 輿車図考 附図」の「檳榔毛車」があるのではと考えています。

故実叢書編輯部 編『故実叢書』第5(吉川弘文館[ほか],昭和3)国立国会図書館デジタルコレクション

 

 この絵では束帯姿の人物が、すでに降り立った姿で描かれていますが、車の描かれている角度といい色彩といい、右大臣実朝の檳榔毛車とかなり似ています。降り立った人物の時間を少し巻き戻せば、実朝の絵になるでしょう。

 

  出展当時の評を見ますと、大いに注目を集めましたが、実朝について評者がどのような知識があるかでかなり感じ方が分かれているようです。おそらく吾妻鏡の実朝の記述に馴染みない人々からは、歴史画として何か典拠があるものでないとか、身を屈めて牛車から降りる姿が右大臣にしてはせせこましいという意見まででました。好意的な評でも、充分画意を汲み取れているものばかりではありませんでした。

 

「右大臣実朝」は、映丘氏として今までに見ない傑出したものである。電車の中でも、懐中にしのばせた金槐集をとり出して、愛読おかなかつた、その作者が実朝を描してくれたことは心うれしくおもふ。神護寺の隆信筆と云はるる頼朝像を参照したと思はるる顔面、衣冠束帯の、色彩まで殆んど同型のもので、頼朝像のやうに顎髭のないところが違ふだけであるが、歴史的像を描く場合は、さういふ事は当然ゆるさるべきである、この実朝は文学青年らしい匂もあり、廿八才の年格好でもあるが、加茂真淵が激賞した(中略)雄渾豪宕にして俊潁な歌人とは思へないが、情の実朝はでている。金槐集には雪の歌も少くないので、そのいづれの場面を描かれたものか、わからないが、あまり説明的に堕せず、ヒントを主感的に進めて行つた点は、画面的効果をはつきりさせたものである。

(『白日』第6年(12),白日荘,1932-12.山口林治「帝展の逸品考」より)

 

 上の評は、傑出したものと褒めつつも、単に金槐和歌集の雪の日の情景のひとつだろうとしています(映丘が金槐和歌集の愛読者であったことも引き合いに出してる)。

 

  こちらの評はしっかりと画題を捉えた評で、実朝の後れ毛さえも注目し、公氏に髪を一すじ与えた逸話も想起しています。

 

第三室における松岡映丘氏の『右大臣実朝』は、恐らく今年の帝展出品中の最大収穫の一つであらう。大和絵の本格的たると共に、此作の内容に蔵する悲壮な事実を物語る絵画として、何人も凝視を怠つてはならぬ。承久元年の正月実朝は右大臣となった拝賀の礼を、鎌倉八幡宮にて行はんとして、その朝侍臣に梳らせた時に戯れに抜け毛をかたみだと言つて渡した。さうして愈々邸を出る時に、例の梅花の歌を読んだ。其時公暁の為に討れる予感が実朝の頭脳には森々と襲って来ていたのである。映丘氏の此作は、実朝が今や車を降らうとしている処を描いたものだが、それを凝視すると、実朝の顔にはさうした悲壮な予感が現はれているばかりか、髪の毛にも一筋の後れ毛が見える。恐らく歴史画として是程に深い内容を蔵した作品は近来少いと言へるであらう。

(『藝術』10(13)(大日本藝術協會,1932-11)より)

 

 映丘は吾妻鏡の実朝の死のあたりをよく読み込んでおり、いわば「わかっている」人に向けて描いたとも言えるでしょう。

 また面白いのが、何人かは実朝の顔や姿を神護寺の頼朝像に依拠しているのではという指摘をしていることです。確かに似ているところもありますが、これまで映丘が描いてきた実朝像を見てきた目には、神護寺の絵と違う点も目につきます。神護寺の頼朝は、眉がキリリとあがり、ちょっときつめな感じですが、「右大臣実朝」の実朝はこれまでの映丘版実朝と同じく下がり眉で、穏やかな感じです。さらに今までの実朝の顔よりも写実性と個性がグッと出ており、評にもあるように微かな予感がよぎる繊細な表情を捉えています。

 

 

 本作は時とともに評価は大変高くなっていき、やがて昭和の歴史画を代表するるものになります。

 

鎌倉三代将軍実朝を描いた歴史画で、昭和七年の帝展に出品され現代に於ける歴史画の大家としての貫録を示したもので七年度帝展日本画中すぐれたものの一つとして多くの推重を受けた。此作品は今後歴史像画を描かうとするものには好個の典範となるべきもので、鎌倉時代の服飾等も確な調査のもとに表現されてゐるから安心して此れを参考にすることが出来ると思ふ。

(アトリヱ社 編『日本画新技法講座』第4巻(アトリヱ社,昭和8-9)より)

 

 翌年の帝展出品作「右大臣実期」は映丘生涯の大傑作であり、我国の歴史画としても画期的作品として後世の規範たるべき名品であった。それは実朝が鶴ヶ岡八幡宮の社前でまさに車を降りんとするところを描いた画である。右大臣の装束束帯、檳榔毛の車、霏々として雪は降りかかる。多感潁才の実朝が、やがて身に逼る暗い運命から何物か予感を受けたのか、受けなかったのか、一抹の陰影が上品な眉字の間を掠め去る其の瞬間を捉へたもので、単に歴史を描いたといふよりも遥かに深みある人間の運命が躍動している。

(村松梢風 著『本朝画人伝』巻5(中央公論社,昭和16-18)より)

 

 このように歴史画の傑作として有名になったこの実朝の絵は、いきなりポンと描かれたのではなく、これまで見てきたように映丘がその10年近く前から実朝を描き続け、さまざまに試行錯誤を繰り返してきた集大成であったということが見えてきました。近代歴史画における多くの歌仙絵的な実朝絵と一線を画すこの絵は、映丘の実朝に対する深い理解と愛の結実だったように思えるのです。

 

<了>