近代日本画では歴史画と呼ばれる、日本の歴史に題材をとった作品群がありますが、源実朝もしばしば画題として取り上げられています。有名なのは松岡映丘の、右大臣拝賀式のために牛車から降りようとしている絵(「右大臣実朝」(昭和7年))でしょうが、他にも色々な画家が描いています。
中でも小林古径、前田青邨らと並ぶ大家として知られる安田靫彦(1884ー1978)は、何作も実朝を描き残しています。今回は彼の知られざる実朝の絵を見ていきましょう。
(1) 画題としての実朝への興味
大正4年(1915)に歌人佐佐木信綱が発表した『画題としての実朝』(『文と筆』所収)によると、安田がこの頃から実朝へ強い関心を持っていたことが伺われます。本作では美術蒐集家で三溪園を作った原三溪と、安田靫彦、佐佐木信綱が、鎌倉の海を前にして語らった様子が描かれていますが、そこで安田が実朝について話題を出し、それを受けて佐佐木信綱が様々なアイディアを出した…という記述があります。
「画家(註: 安田)はふと言ひ出した。此鎌倉の海に対して思ひ浮べられるのは実朝の生涯てある、もし実朝を画題に選ぶとしたらばどういふ所がふさはしからうか、と。それからは予は多くる人となった。」
(佐佐木信綱 著『文と筆』,(広文堂書店,大正4)より)
鎌倉の海といえば実朝を思い浮かべるとは、相当思い入れがありそうです。ちなみにこのエッセイはいくつか教科書や副読本に採用されており、かなり広く読まれたのではないかと思われます(『現代文鑑』(1924)『改訂女子新国文』(1926)『 新定国文読本』(1928、1932)(『実朝の片影』と改題)など)
安田は佐佐木信綱と親交があり、佐佐木信綱主催の和歌同人『心の花』にも寄稿しています(佐佐木信綱『ある老歌人の思ひ出 : 自伝と交友の面影』,(朝日新聞社,1953))。信綱は金槐和歌集を1890年に父弘綱と共に校訂しており、その後も金槐和歌集の校訂本を出すなど実朝の文献学的研究で重要な役割を果たしています。安田もその影響を受けていた可能性がありますし、またそもそも新派歌人の中で高い評価を得ていた実朝に元から深い関心を持っていたことも考えられます。
(2) 実朝を題材とした作品
安田は私が確認できただけでも、5作品を残しています。
出典: 大阪三越呉服店美術部 編『三越絵画展覧会集』大正7年 秋之巻(芸艸堂,大正7-10.)国立国会図書館デジタルコレクション
佐佐木信綱との談話のエッセイから三年後のこの作品が、私の知る限り最初の実朝絵になります。おおらかな筆致で、烏帽子姿で横顔を見せて佇む実朝を描いています。
●昭和8年(1933)、東京会新作画展(11/21〜23)「鎌倉右大臣」
写真は残念ながら見つかりませんでしたが、評は残されています。
「安田靫彦氏の「鎌倉右大臣」は白描歌仙風に取り扱った極めて雅品の高い作、流麗な猫線は言ふまでもないが讃歌の文字の麗はしさにも驚く」(『塔影』9(10),塔影社,1933-12)
●昭和14年(1939)、東京会展(5/15〜17)「鎌倉右大臣」
出典: 『藝術』17(15)(大日本藝術協會,1939-05)国立国会図書館デジタルコレクション
白い直衣姿で、黒い卓を前に座っている実朝。上に盃のようなものがあります。
『塔影』15(7月特別號)(7)(塔影社,1939-07)で「直衣の線猫の表現的な簡潔性、顔容のふくらみある氣品などは宴玲純な畫境をそのままに示すもの。技巧がどうのこうのとはいはせぬ品格の高さは靱彦氏の内的心意生活が如何に熟術人としての研れた境地にあるかを物語つてゐる」と評されています。
●昭和15年(1940)、神戸三越東都十大家展(4/17〜21)「鎌倉右大臣」
出典: 『塔影』16(6)(塔影社,1940-06)国立国会図書館デジタルコレクション
白い直衣姿の簡潔な作品です。前年も鎌倉右大臣のタイトルで描いており、連続して描いていることが注目されます。
ちなみにこの年1月から、吾妻鏡に着想を得た代表作『黄瀬川陣』(頼朝と義経対面)の構想に着手し、7月に義経側の左隻、翌年9月に頼朝側の右隻を完成させています。
●昭和21年「鎌倉右大臣」
出典: 『安田靫彦の書』(中央公論美術出版,1979.5)国立国会図書館デジタルコレクション
昭和15年神戸三越出展の作品と似た感じの実朝の絵に、金槐和歌集の歌「けさみれば やまもかすみて ひさかたの あまのはらより はるはきにけり」が添えてあります。
凛々しく気高い青年貴公子ぶりが、少ない色味と簡明な筆遣いでくっきりと描き出されています。
(3) まとめ
全体に白描歌仙風に衣装は簡潔に描き、顔をしっかり描くやり方で、微妙に変化を加えながら折々に実朝を描いており、強い関心が伺えます。
昭和21年の作品を見ますと、佐佐木信綱が『画題としての実朝』で書いているような「沈痛憂鬱」の人というよりも、しっかりとした意志を持った威厳ある若々しい為政者として描き出そうとしているようにも見えます。
衣装などの考証を大事にしていた安田は、当時読みやすい版が次々と出版されていた吾妻鏡(例: 大正15年には日本古典全集本、昭和7年には新訂増補国史体系など)を丁寧に読み込み、自分なりの実朝像を作り上げていったのではと思われます。
なお、安田の弟子たちも実朝を描いており、たとえばそのひとりである羽石光志も、土岐善麿『源実朝』 (青少年日本文学)』(至文堂、昭和19年) の挿絵や、木俣修『実朝物語』(同和春秋社、昭和33年)の挿絵などで実朝を描いています。昭和19年の『源実朝』の口絵は、昭和14年の安田の「鎌倉右大臣」の構図を思わせ、気品ある貴公子としての佇まいが印象的です。
歴史画の題材としては決してメジャーではない実朝ですが、安田靫彦や弟子たちには好まれ、美しい作品が生み出されていったのでした。
<了>