Topaztan’s blog

映画やドラマの感想や考察をつづっています

消された才女/才人、消された物語たち〜『光る君へ』レビュー〜

 2024年大河ドラマ『光る君へ』が佳境ですね。31回以降まひろ(紫式部)は熱心に『源氏物語』を執筆し、宮中で人気になっていく様子が描かれました。その『源氏物語』執筆のきっかけであり対象読者として念頭に置かれている…とドラマ内で描写された一条天皇も、先週亡くなってしまいました。

 『源氏物語』執筆とその影響をドラマなりのアレンジで色々と尺を取って描いおり、王朝人が楽しそうに源氏物語を読んでる姿が実写化されたのはなかなか胸熱です。このドラマのキモと言ってもいいでしょう。でも私は実は、一方で、色々と違和感を持っていました。

 

 まず、源氏物語』執筆に向けての助走期間が妙に短かったのが気になります。習作的な『カササギ語り』は源氏物語とはかけ離れていますし、しかもそれは結婚後書き始められたわけで、それ以前に物語を創作してる様子はありません。彼女があの大伽藍のような源氏物語を書くための腕慣らしをしていた時期がほとんどないのです。脚本として、物語を創るスキルを磨く大変さをあまりに低く見積もっている感を受けます。

 

 上記とも関係しますが、ドラマ世界は、まひろの書く物語以外ほとんど「物語」が存在していません。ドラマの描写ではまひろが突然、宮廷を舞台にした長編小説をゼロから創出したかのような印象を視聴者に与えてしまっています。しかし実際は当時様々な物語が流布し読まれており、それらの影響が『源氏物語』に大きく認められるのです。たとえば源氏物語のインスピレーション元のひとつとなった、宮中の権力闘争舞に関わる作品としては、『うつほ物語』が存在しました。プロットから文章レベルまで、広く影響が指摘されています。

 ドラマはその様々な物語の不在の代わりに、まひろの身に現実に起こった出来事か、道長から聞いたことが物語のネタ元であるとして繰り返し描写しています。一条天皇が興味を持つような物語を書くように道長から要請されたということで、道長から聞いた一条天皇と定子の様子を桐壺帝と桐壺更衣の物語にする…とかがそうですね。しかしそれらの多くは創作で、従来の研究で指摘されてきたような式部の実体験や見聞の反映はほとんど使われていません。

 

 また紫式部以外の当時の文化的な才女たち、才人たちがほとんど登場していないのも、あまりにも不自然です。才女に関しては、まひろ以外の才女は数えるほどで、しかもみんなまひろに指南されたりまひろより感性が劣っているような描写です(道綱母は除く)。しかし実際は学があったり創作をしたりした女性たちが多く存在し、紫式部は彼女らから有形無形の影響を受けながら『源氏物語』を書いていきました。

 ドラマでは、あたかも一条天皇のキサキ二人のサロンだけしか存在しないように描かれていますが、当時は式部が強い対抗意識を持った大斎院選子内親王のサロン、式部と繋がりがあり道長がそれを利用しようとした具平親王のサロンという、当時の文壇を語る上で欠かせない強大なサロンが存在しました。『源氏物語』への影響もあって、具平親王光源氏の有力なモデルのひとりであり、選子内親王朝顔の斎院などのモデルとされています。

 

 そしてドラマのまひろは、身分社会に物申す存在として何度も描写されていますが、『源氏物語』やその他の作品や歌などからは、そのような考え方は見受けられません。ドラマ上でも、その考え方をどのようにインストールするに至ったか定かではありませんでした。ところが実際は、当時ある女性だけがはっきりとそのような主張を書き記しているのです。その女性とは賀茂保憲女(むすめ)といい、陰陽道で有名な賀茂氏の女性で、大変ユニークな考えの持ち主でした。現存する限り、この時代に身分社会を否定する考えを表明した女性としては唯一の存在です。身分社会を声高に批判する貴族女性をドラマで描きたければ、彼女を登場させるべきだったでしょう。

 

 全体に、まひろが突然変異的な天才的存在であり、まひろ一人で偉大なる『源氏物語』を作り上げた…としたいという制作意図が見えるドラマであり、そのため当時存在した豊かな文化や才女・才人たちが消されてないものとなっているという現象が起きてしまっています。文学作品の創作者・享受者の範囲が、あまりにも狭いのです。平安時代の文化について、源氏物語枕草子くらいしかイメージのない人が多い中、ドラマでの描きようによっては当時の平安文化の厚みと担い手の多様さを広く知らしめる機会になり得たはずなのに、大変残念に思っています。

 

 以下に詳しく述べていきます。

 

 

1.習作期間の短かさと源氏物語との繋がりの薄さ

 

 『源氏物語』への助走期間の話ですが、まひろは若い頃からほとんど創作らしい創作をしていません。せいぜい散楽への台本提供が2回、和歌の代筆業。そして結婚後書いたのが『カササギ語り』。これはカササギが人間世界を観察して、男になりたい女、女になりたい男の心情を語ったもののようで、『とりかへばや物語』と、まひろが散楽メンバーのために作った動物説話を合体させたような感じです。これが大評判というのですが、それまでの執筆状況からすると随分飛躍してるなあという印象です。「物語」形式のものの初書きでそんな完成度とは…。さらにそれからまた、いきなり源氏物語執筆へ。しかも桐壺から書き始められた設定です(桐壺から書かれたというのは現在の研究では否定的に捉えられています)。ドラマ中で語られるカササギ語りの素朴な説話風の作風と、宮廷での権力闘争を絡めた男女の恋愛の機微や闇を描いた源氏物語の作風は掛け離れており、こちらも相当な距離を感じます。

 ちなみに『とりかへばや物語』のような男女逆転というか、女も男のように政などに参加したい的な発想は、紫式部の著作には一切出てきません。しいて探すなら、女のような男君、ということで、「紅葉賀」で兵部卿宮(藤壺の兄)と光源氏がお互いを色っぽく思い「女にしてみたら面白いだろうな」と思って眺める、というシーンと通じるものがある…かもしれませんが、男女の役割を取り替えるという発想では全くありません。

 

 全体に、源氏物語』を書くような作家としてはあまりにも物語を書いてないし読んでいない、という印象なのです。私ごとで恐縮ですが、自分は幼い頃から本を読むのが大好きで、いつしか自分でも物語もどきを書くようになりました。チラシの裏とかノートとか、いろんなところに書きまくり、10歳くらいの時は長編小説も書いてました。まあ結局作家にはなってない訳ですし、物書きになる人がみんなそうだとは言いませんが、それに類する、物語を読むこと・書くことへのパッションがまひろからは感じられません。

 

 『紫式部日記』では、出仕前に友人と物語について色々と語り合ったことが書かれています。それが心慰められることであり、出仕してからはそのような友人とも疎遠になってしまったことを嘆いています。友人や語り合った内容がどのようなものかは分かりませんが、『源氏物語』の原型になったものである可能性はありますし、彼女らとの語らいが物語執筆の原動力になったことは想像に難くありません。まひろの友人枠で出てきた「さわ」とはついぞそのような話をしてる様子はありませんでした。

 自分は今回の大河で、時代的に珍しいという期待もありましたが、女流作家が主人公ということで、その作家性がいかに形作られるのかもとても楽しみにしていました。それが蓋を開けてみると、作家活動らしきことをほとんどせず、いきなり大評判の作家になっているという設定で、いささかがっかりした次第です。

 

2.実在した豊かな物語のない世界

 

(1) 「物語山脈」の一角としての源氏物語

 

 まひろは幼い頃から漢籍に親しんでる様子が描かれ、また日記文学である蜻蛉物語は読み、和歌を代筆できるほどには歌集など読んでいそうという推測は成り立ちますが、仮名物語を読んでるところは描かれません。倫子サロンで『竹取物語』の話題が出て、かぐや姫は誰も好きではなかったという意見を出しますが、それくらいのものです。竹取物語』が、この大河ドラマで取り上げられる、まひろが書くもの以外の唯一の物語です。

 また中国まで広げても、宣孝の土産の『志怪録』が登場しますが、それは土産の化粧品よりも大喜びするという一瞬のシーンのことで、解説もつきません。とにかく、まひろと物語の接点は驚くほど少ないと言えます。

 

 源氏物語以前の「物語」は、現在まで残っているものは、作り物語は『竹取物語』『落窪物語』『うつほ物語』、歌物語は『伊勢物語』『大和物語』『平中物語』『伊勢集』などくらいです。しかし今は題名や断片的な内容しかわからない「散逸物語」を含めた「物語」は、源氏物語以前に13編、源氏物語前後では26編存在したという研究もあり(神野、2006)、かなりの物語が流通していたことがわかります。それ以外にも、花山院の永観二年に成立した源為憲の『三宝絵詞』に「物語と云て女の御心をやる物也、大荒木の森の草よりもしげく、有磯海の浜の真砂よりも多かれど」とあるように、今名前が残っているものからは想像もできないほど多量に物語が出回っていたことがわかります。そして紫式部もそれらを確実に読んでいました。

 源氏物語』の中には、様々な物語について言及があります。たとえば「蓬生」で末摘花が年代物の物語を絵に描いたものを取り出して無聊を慰めているシーンがありますが、そこでは『竹取物語』と、『唐守(からもり)』『灘姑射の刀自(はこやのとじ)』の題名が挙げられています。両方とも今では散逸した物語ですが、『はこやのとじ』は、「ふとだまの帝」と「てりみち姫」の悲恋物語であることがわかっています。帝の悲しい恋愛譚が描かれているということでも、源氏物語の祖のひとつと言えそうです。また言及はなくとも、継母から疎まれる〜貴公子に連れ出されて寵愛を得る、という若紫の構図や、賀茂祭での車争いというモチーフは『落窪物語』と共通するものがあるという指摘もあります(長谷川、1901など)。

 そして次に述べる『うつほ物語』に至っては、具体的な題名や内容の言及や、文章の引用、さらには物語の構造に至るまで、直接間接的影響が強く認められるのです。

 

(2)源氏物語に大きな影響を与えた「うつほ物語」

<図: 京都大学附属図書館所蔵 奈良絵本宇津保物語より>

 

◼️概要

 

 『うつほ物語』は10世紀後半に成立した、作者不詳の現存する日本最古の長編小説です(男性という説が有力)。『源氏物語』や『枕草子』に言及があり、両作品より以前に書かれたことが確定しています。あらすじは、遣唐使ペルシャに漂着した清原俊蔭が天人・仙人から秘琴の技を伝えられ、その秘技を伝えられた娘は太政大臣の子息との間に子をもうけたものの貧しさをかこち、北山の森の木の空洞 (うつほ)で子供の仲忠を育てながら、父譲りの秘琴の技を教えます。後に父と再会した仲忠は都で評判の源氏の姫君「あて宮」に恋し…という波瀾万丈なものです。

 天人が出てきたりして源氏物語とは毛色の違うファンタジックな話に見えますが、しかし本作は源氏物語の成立に大きな影響を与えたことが昔から指摘されていました。

 

◼️源氏物語への影響

 

 『源氏物語』で『うつほ物語』に直接言及したものは「絵合」で竹取物語と競わせて論評したシーンや、「蛍」であて宮を評したシーンがあります。「若菜 下」の霊琴の奇瑞についての解説や、「末摘花」などの零落した女性の侘び住まいの描写も、うつほの影響があるとされますし、本文自体にもあちこちに引用があることが指摘されています(中野、1981)

 そして個々の登場人物のキャラクター設定や、物語の構図にも、如実に影響が見られるのです。

 

 うつほのヒロイン「あて宮」は住まいが「藤壺」ですが、源氏物語』桐壺帝鍾愛の「藤壺女御」の原型とも言える存在です。あて宮自身は、村上天皇中宮安子をモデルにしているのではと見られています(中野、1981)。

 住まいの視点から見てみましょう。今でこそ源氏物語や彰子以降のキサキの影響で、藤壺(飛香舎)は華やかなキサキの住まいの代表のように思われていますが、そもそも有力なキサキは一条帝以前は、藤壺に住むことはほとんどありませんでした。内裏には「〜殿」と「〜舎」と呼ばれる建物があり、舎は藤壺のようにそこに植えられた花に因んだ優雅な名前が付けられていましたが、狭くて殿より格下と見なされていました。

 

<図: 平安京内裏図>

高橋文二 編『紫式部日記』(桜楓社,1979.)より (国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 その中で安子は例外的に藤壺を長らく住まいにしていましたが、それは村上天皇東宮時代に住んでいた梅壺に近いからと思われます。藤壺のイメージは、安子によって作り出されて『うつほ物語』に投影され、さらに『源氏物語』にそのイメージが受け継がれていると言えるでしょう(栗本、2024)。

 あて宮が藤壺女御と似ているのは他にもあります。両者ともに皇統の血を引く一族出身(皇族・源氏)であり、夫帝の寵愛だけではなく後に東

東宮母としての権威も獲得していたこと、キサキでありながら臣下の男性である物語の男主人公との恋愛ーあて宮は仲忠と、藤壺の女御は光源氏とーとのロマンスが描かれることです。そして所生の皇子が立坊を果たした後、彼女達はかつての想い人の政治的協力を得て、ともに我が子を守り立てていくのです。

 またもうひとり、類似の主要登場人物を挙げてみましょう。桐壺帝のキサキであり主人公サイドの敵役である弘徽殿の女御は、『うつほ物語』の「后宮」が相当します(栗本、2024)。東宮を産んだ弘徽殿の女御(藤原氏の娘)は後宮で権勢を誇るものの、帝の寵愛は桐壺更衣とその息子光源氏、また藤壺女御にあるため、彼らを憎み様々な陰謀を画策します。『うつほ物語』では、やはり藤原氏出身の「后宮」が朱雀帝に入内して東宮を産み権勢を誇りますが、朱雀帝が寵愛するのは源氏出身の仁寿殿女御(ヒロイン「あて宮」の姉)であるため、彼女を憎みます。そして新帝の御代に、あて宮が産んだ第一皇子ではなく自分の姪で藤原氏出身の梨壺が産んだ皇子を帝位につけようと画策するのです。

 源氏物語』は天皇の血筋の「源氏」と「藤原氏」の権力闘争と読むことができますが、「源氏」「藤原氏」の権力闘争の構図は『うつほ物語』にすでにはっきり現れているわけです。

 さらに『源氏物語』では「母系家父長による摂関政治よりも父院による院政を理想とする物語の論理が読み取れる」(高橋、2016)という見解は何人もの研究者によって指摘されています。桐壺朝において、左大臣は一人娘である葵の上を東宮や帝に入内させず光源氏と結婚させたことが功を奏し、東宮外戚である藤原氏の右大臣家を凌駕します。入内した娘に皇子を産ませ、外孫である皇子に皇位継承させることで帝と「ミウチ」関係を結ぶという、当時の常識的な政策を展開している藤原氏が実を結ばないという、非現実的な展開なのです。そしてその藤原氏に対する源氏の勝利という結果は、『うつほ物語』も同様なのです(中野、1981)。

 そのような、源氏と藤原氏を対照的に描くばかりか、源氏に勝利させ摂関政治を否定し批判するような作品を、まさに藤原氏に庇護されながら紫式部が描いたというのはすごいことです。ですが『うつほ物語』が先行していることを考えると、読んだ人が、この展開はあのうつほのトレースか…と受け取る可能性があり、現実の藤原氏批判という解釈を回避する効果があったのではないでしょうか。

 

◼️源氏物語の画期性

 

 もっとも『うつほ物語』と『源氏物語』には、大きな違いもあります。源氏はうつほと違い、女性の心情が極めてリアルに細やかに描かれていることがあげられるのです。『うつほ物語』の女性描写の生硬さについてはつとに指摘されており、そこが作者が男性ではないかとされている一因ですが、紫式部自身「蛍」の段でこのように述べています。

「宇津保の藤原の君の女こそ、いとおもりかに、はかばかしき人にて、あやまちなかめれど、すくよかに言ひ出でたるしわざも、女しき所なかめるぞ、一様なめる」

 そして最大の違いは、あて宮と仲忠はプラトニックな関係であり続けたのに対し、藤壺光源氏は密通してしまったところです。そしてそれは主人公たちが深く思い悩むところに大きな特色があります。

「…光源氏は帝の後見役、権力者として、藤壺の宮は母后として隆盛を極めることとなる。その上で、犯した罪の重さに苦しむ彼らを、物語はあえて描写したのである。単純に表向きの栄華だけを描くのでなく、裏に隠された登場人物たちの心奥に潜む深い闇を主題としたことが、「源氏物語』の一つの達成といえよう」(栗本、2024)

 そしてそのような現実を鋭く描く眼差しは、『蜻蛉日記』から受け継いだものであると言えます。

「世の中におほかる古るものがたりのはしなどをみればよにおほかる空ごとだにあり」

と、「古物語」を「空ごと」と断じた道綱母は、それまでの女性の家集のように、歌に断片的な詞書を添えるのではなく、自らの内面や男性の身勝手な振る舞いを容赦なく見据えたものを歌を交えて細やかに描き出す「日記文学」を生み出したのでした。ドラマ内では道綱母は出てきて、まひろがよく『蜻蛉日記』を読んでいたと話すシーンがあるものの、まひろの書くものにどのような影響を与えたのか描かれませんでした。

源氏物語に対して、直接あるいは間接に多大の影響を与えた平安時代の文芸作品に、道網の母の蜻蛉日記がある。蜻蛉日記が王朝文芸精神史上で果たした最も大きな功績の一つは、この日記の作者の精神によっていわゆる古物語が克服されたことであった。(中略) 平安女流文学は、この蜻蛉日記において自照的客観精神の確立を見るのである」(藤村、1966)

 大河ドラマで制作者は、うつほに言及してしまうと、まひろの独自性がなくなってしまい優位性がなくなると考えたのでしょうか。私としては避けてしまわず、あえて取り上げて比較し、どこがインスパイアされて、どこが違っていて画期的かを見せれば、より紫式部の素晴らしさがわかったと思います。『うつほ物語』から、過去〜現在までの宮廷の生々しい権力闘争を描く視点(男性筆者が持っていた視点)を取り入れ、同時に『うつほ物語』までの人物描写に飽き足らず、『蜻蛉日記』で描かれたような細やかかつリアルな女性の心理や男性の振る舞い織り込んで、浪漫的世界と現実世界の深みを融合させた式部の功績を視聴者に伝えるドラマであってほしかった…と思わずにいられません。

 

 

3.ドラマで描かれなかった才女・才人たち

 

 このドラマでは、紫式部清少納言、あとは赤染衛門くらいが突出して教養があり、彼女たちが突然変異のように出現したような印象を受けます。基本的にドラマに出てくる姫君や女房は賢くない女性が多く、倫子サロンの姫君たち、藤原公任の嫡妻(ドラマでは敏子)サロンの姫君たち、はいずれも教養がない描写です。彰子のサロンはもとより、定子のサロンの女房たちもぱっとしない感じでした。高階貴子も漢文の会を提案したりしますが、栄花物語で描かれたような漢文の才については全く触れられていません。それによって、その少数の才女たち、とりわけまひろを輝かせる対比効果を狙っているのでしょう。

 しかし実際は多くの教養ある女性、漢籍に通じた女性存在し、宮廷で活躍してもいました。その中に清少納言紫式部も位置付けることができます。ただし当時の貴族社会での女性の漢籍学習の状況は複雑なものがありました。為時が嘆いたように、いくら高度な漢才を身に付けても女性はそれを十分に発揮する機会がなく学びがいが無いとみなされていました。『源氏物語』の「雨夜の品定め」で語られる「博士の娘」は、夫に漢文を教えるほど漢籍に長けていますが堅苦しい漢語を不自然に多用する奇妙な女として描かれており、文人家庭における女子の漢籍学習環境の特殊性や世間からの批判を自虐的に綴ったものと思われます。しかし漢才を漢字や漢詩文の形で直接表現することは女性は憚られたものの、漢詩名旬を和文化して和歌に詠み込み、漢文学の語彙や題材を仮名文学に引用することが盛んに試みられていました(服藤

東海林、2023)。

 また上記の定子サロン以外には、ドラマ内の文化的な集まりとしては道隆主催や道長主催の漢文の会などがあった程度の感じですが、実は非常に重要な文芸サロン、大斎院選子内親王サロン、具平親王サロンが存在し、当時の文壇に大きな存在感を持っていました。

 

(1)藤原定子サロン

 

 有名な「香炉峰の雪やいかに」のシーンがドラマでも出てきましたが、隆家がどういうこと?とサロンの女房に訊くと首を傾げていて、清少納言だけがわかった、という描写でした。しかし実際には他の女房たちも香炉峰が「わかっていた」ことが『枕草子』に描かれています。

 その段の結びは、「さる言(注・白楽天の詩)は知り、歌などにさへうた」うという言葉で、気の利いた女房ならば当然「知る」だけでなく「歌にまでうたう」ほど馴染んでいると書いてあります。つまりその場の女房たちも自然と白楽天の詩を思い浮かべたわけで、清少納言の場合はそれを聞いて理解しただけでなく、機転を効かせて実際に行動してみせたところに特色があるわけです(今井、2016)。

 また、定子サロンにば清少納言以外にも漢籍に詳しく当意即妙な受け答えをする代表的な女房がいました。宰相の君と呼ばれる女房です(彰子サロンの宰相の君とは別人です)。八七段「かへるとしの二月廿五日」では、白氏文集の句をふまえて、藤原斉信とやりとりをしたので人々に感心されました。彼女は藤原顕忠の孫娘で上臈でしたが、能書家で定子の代筆を務めたりもしており、定子サロンの中で特に歌才ある女房として認められていたようです。彼女は定子が零落後も最後まで残った女房の一人でした(山内、1969)。

 ドラマだけを観ると清少納言だけが学識や機智に富み、彼女だけが定子を支えていたようですが、多くの教養あり男性貴族にも当意即妙な返しをする女房たちがいて、そこが彰子サロンと著しく違うところでした。サロンの魅力は一人か二人の女房が担うのでなく、女房全体の対応力にかかっており、紫式部自身、彰子サロン全体でそのような力量がないことを嘆いていました。ドラマではそのあたりの、知識と機智で男性貴族を惹きつける女性集団としての定子サロンがあまり描かれず、兄の伊周が定子サロンに男性貴族を呼び集めて様々な遊びをしているのが特徴のように描かれていたのが残念でした。

 

(2)大斎院選子内親王サロン

 

 選子内親王(946〜1035年)については、ドラマで名前だけ出てきました。まひろの弟惟則がそこの女房、中将の君に懸想して侵入し怪しまれたものの、和歌を詠んで斎院に許された…というエピソードです。これは12世紀成立の『俊頼髄脳』に収められた逸話を元にしていると思われます。しかしドラマの中では、斎院とは何か、選子内親王とは誰か、当時どういう位置付けだったのか全く説明されていませんでした。

 

◼️略歴

 

 選子内親王村上天皇(円融天皇の父)の第十皇女で、中宮の藤原安子を母として産まれました。安子は権勢を持ったキサキでしたが選子を産んでまもなく亡くなり、選子は12歳で賀茂斎院に卜選されました。以来、円融、花山、一条、三条、後一条と五代57年にわたって斎院であり続け、大斎院と呼ばれ尊崇を受けました。賀茂斎院とは、上賀茂・下鴨の両賀茂神社に奉仕した皇女です。

 女房たちの歌を含んだサロン全体の家集ともいうべき『大斎院前御集』(984〜986年(選子21〜−3歳))『大斎院御集』(1014〜1018年(選子51〜55歳))などが遺されています。

 

◼️紫式部の対抗心と影響

 

 『紫式部日記』を読むと、式部が斎院サロンに対して大変対抗心を持っていたことが読み取れます。

 式部はたまたま目にした、斎院の女房の「中将の君」の手紙(おそらく惟則宛と思われる)に、斎院こそが和歌などの趣きのわかる随一の人だ、と自慢げに書いてあるのを読んで、紫式部日記中で猛然と反論しています。すなわち斎院がたの歌がすぐれてよいとは思えないし、仕えている女房たちだって、中宮の女房より個々人で優れているとは思えない。斎院という神聖な場所が情趣に富んでいて、そこで風流な生活を送っているのに比べ、こちらは世俗的なことで忙しいので風流に浸っている暇はないのだ…などなど。また色めかしいことを彰子が嫌う風潮があり、女房たちも引っ込み思案なのだとも。

 式部がこれだけ厳しい口調で長々と批判するということは、それだけ大斎院のサロンが文化的にも女房の質的にも非常に存在感があって、彰子サロンを霞ませかねない魅力があったということでしょう。御集を見ましても、斎院と女房が深い教養を持って冗談を言い合うような自由な空気があったことを感じさせます。どちらかと言うと、彰子サロンより定子サロン的な雰囲気があったのかもしれません。

 

 紫式部は大斎院サロンが浮世離れした情趣に浸れる場のように描いていましたが、実際は『小右記』に斎院殿舎の破損が著しいが修理の費用がない(1014年)という記事があったり、冬の夜に炭の備えが切れて代わりに板を燃やそうとするなどの記述が『前御集』にあったりするので、必ずしも安定して豊かだった訳ではなさそうです。しかしそのような中でも選子の才覚によって人里離れた斎院の地が、男性貴族が風流を求めて出入りする地になったことは、御集に多くの女房が男性貴族と交わした贈答歌が含まれていることや小右記にある記事などでも伺われます(目加田、1978)。

 そもそも式部がライバル視しているものの、選子と道長、彰子の関係は良好で、選子は盗賊侵入などの問題が起きれば道長を頼っていました。選子が賀茂祭などでも当意即妙に道長と交流したことが歴史物語の『大鏡』でも描かれています(岡崎、1965)。

 式部も色々書いてはいても、結局様々な局面で『源氏物語』の中で大斎院をモデルにしにています。六条御息所斎宮と暮らす野宮の「をかしういまめきたること多くしなして」、風流好みの殿上人たちが出入りしている、とある描写もそうですし、また光源氏が恋慕するも、彼の色好みや彼が愛した女性たちの様子を見て拒み続け、友人関係になる朝顔斎宮もそうです。『源氏物語』が現実の事象からインスパイアされていることを強調するドラマならば、選子サロンのことも取り上げて然るべきではなかったでしょうか。

 

◼️物語の蒐集・写本センターとしての大斎院サロン

 

 源氏物語の製本を彰子サロンで行ったのは『紫式部日記』に出ていますし様子がドラマで出てきましたが、『大斎院前御集』では選子内親王のサロンで「歌司」「物語司」などの役職が設けられ、女房たちの手で組織的な盛んに歌集や物語の蒐集・書写が行われていた様子が読み取れます。古くなった物語は里下りした女房に下賜されたりもしていました。

 そのように多くの物語を集めていたことや、「司」や役職まで設けて図書作りをしていたことは、紫式部が出仕した前後の時代にも継続されていたかは定かではありません。ただ鎌倉時代初期成立の『無名草子』には、大斎院が何かつれづれを慰める物語はないかと彰子に尋ねたことがきっかけで紫式部の『源氏物語』が作られた、という逸話が残っています。それ自体を史実と認められるような証拠は存在しませんが、大斎院がに彰子サロンに物語を求めても不思議ではないと後世理解されていたというのは興味深い逸話です。

 「物語」の享受のされ方、流通の仕方として、大斎院の図書センターぶりを描くとよりわかりやすかったと思われます。

 

(3)具平親王サロン

 

<図: 菊池容斎前賢故実』巻第5,雲水無尽庵,1868)国立国会図書館デジタルコレクション>

 

◼️略歴

 

 具平親王(964〜1008年)は村上天皇第七皇子で、醍醐天皇の孫にあたる荘子女王を母として生まれました。選子内親王の異母弟にあたります。

 政治的立場は強くなかったものの、当代随一の文化人で、漢詩や和歌はもちろん、陰陽道、医師・書道、管弦にも大変通じていました親王の六条の邸宅では同好の士が多数集まって詩を詠みかわしたりする酒宴などが催され、文壇の中心的存在でありました。親王の師である慶滋保胤が中心となる念仏結社の歓学会では、仏道を学ぶとともに漢詩も詠まれるようになりました。

 

◼️「心よせある人」具平親王

 

 紫式部の書いたもので、具平親王との関わりを示すものが一箇所だけあります。『紫式部日記』の中の、道長が生まれたばかりの敦成親王のおしっこをかけられても喜んでる描写の次に唐突に挟まれている、以下の記述です(寛弘五年、1008年)。

「中務が宮わたりの御ことを、御心に入れて、そなたの心よせある人とおぼして、かたらはせたまふも、まことに心のうちは思ひゐたる事おほかり。」

 中務宮とは具平親王のことで、道長が式部が親王の「心よせある人」であると思って自分に語らってくる態度に、複雑な思いをしている…という文章です。道長は当時、頼通と具平親王の娘の隆姫との結婚を切望していました。道長はその前から、具平親王が心服していた師である慶滋保胤の四十九日を大々的に行って大江匡衡に諷誦文を作らせた(長保四年、1002年)りしており、親王との関係を深めようとしていました(天野、2023)。道長は式部と親王家との関係性を利用して、縁談を押し進めようとしていたと思われます。

 『紫式部日記』にはその後の展開の記述がありませんが、実際に頼通と隆姫は結婚し、子供はできなかったものの親王の息子を養子に迎えています。

 道長は何を根拠に「心よせある者」と思ったのかは史料に出てきませんが、たとえば『紫家七論』(江戸時代の国学者である安藤為章の注釈書)では式部の従兄(おじ為頼の子供)である伊祐の子頼成が、実は具平親王落胤であったことをを指摘しています。ご落胤の話は『権記』伏見本の書込での記述を元にしており、後世の加筆の可能性もありますが、もし真実であれば、式部にとって大きな影響をもたらしたと考えられます。

 

◼️紫式部具平親王の関係

 

 そもそも紫式部の一族は、ドラマ内では皇族とは縁のない中流貴族のような描写でしたが、実際は具平親王と遠縁にあたりました親王の母の荘子女王と父為時とおじ為頼の祖母が姉妹という関係もあり、またもちろん秀でた文化人同士ということもあり、二人は親王と公私共に親しく交流していました。為時は自らを「藩邸の旧僕」と名乗っていて、親王の家司を務めていたのではという研究もあります。為頼は妻の死にあたり荘子女王から見舞いの歌を受け取っており、また親王は為頼が亡くなったことについて哀悼歌を作っています。

 その為頼は、越前に赴く式部にあたたかい歌を贈り、式部を案じる式部の祖母の歌も代わりに歌いました(『為頼集』より)(伊藤、1980)。ドラマと違い、紫式部は父母と弟だけでなく、おじを含む親戚にも囲まれて育っていました(服藤 東海林、2023、上原、2023など)。そのような中、上にも挙げたように為頼は式部をかわいがり、式部もまた為頼の影響を強く受けました。式部は為頼の歌を「源氏物語』の各巻で印象深く用いています。

 そのように父・おじが深く関わっていた具平親王に、紫式部も少女時代に女童として出仕していたのではないかという説があります(福家、1987など)。たとえば『紫式部日記』には、式部が若い頃から箏の琴の名手であったことが書かれていますが、箏の琴は皇族伝来の由緒ある楽器と奏法で、為時のような身分では本来関わらないはずです(伊井、2024)。『源氏物語』では明石の姫君が箏の琴の名手として描かれていますが、それは「延喜の御手(醍醐天皇)」から相伝されたためであるとしています。そのため、その他各種楽器や有職故実の知識と共に、具平親王の教えがあったのではという指摘があります(伊井、2024)。『源氏物語』を書く上で必要な大量の紙の支援者問題についても、倉本氏は道長説を推していますが、少なくとも初期源氏物語具平親王パトロンとなった可能性があります。

 

◼️源氏物語のエピソードとの関連性

 

 光源氏のモデルは、源融源高明(明子の父)、藤原伊周など様々な人物が挙げられていますが、その中に具平親王の名前もあります。光源氏は学問にも様々な文芸、芸術に卓越していますが、具平親王もまさしくそれら諸芸に卓越した存在でした。また彼は六条にあった広壮な屋敷に住み、六条の宮とも呼ばれていました。『源氏物語』の四季折々の草花が咲く六条院は、古註ではうつほ物語の長者たねまつや、源順の河原の院がモデルではないかと言われていきましたが、当時の読者には四季の種々の花の咲き乱れる千種殿とも、桃花園とも言われた六条の具平親王邸がまず想起されたのではという指摘があります。親王が源氏であり、生まれてまもなく生母を亡くしているのも共通しています。

 具体的なエピソードでもモデルになったらしきものがあります。夕顔頓死の物語が、『古今著聞集』「後中書王具平親王雑仕を最愛の事」で紹介されている具平親王のエピソードとの関連が認められているのです。ある月明かりの夜に具平親王が遍照寺に連れ出した寵愛する雑仕女は、物の怪に襲われて急死し、それを嘆き悲しんだ親王は、遺児と共に親子三人の姿を「大顔」の車と呼ばれた牛車の窓の裏に描いて偲んだというのです。

 夕顔が「なにがしの院」の廃屋で物怪に取り憑かれてなくなるエピソードのモデルは、旧来宇多上皇と京極御息所の逸話が元であると言われてきました。上皇が御息所を連れて元源融の邸宅であった「河原院」で一夜を明かした時、その院の元の主の源融の霊が現れて御息所を求め、御息所が気絶したという話(『江談抄』)です。しかし女性が身分高い御息所な上に、現れたのが男の霊で女を求める、女は気絶しただけで蘇生した、という宇多上皇の話より、身分低い相手が死んでしまった具平親王の逸話の方がはるかに「夕顔」と似ているといえます。あるいは式部は、あえてその両方の逸話を取り混ぜたのかもしれません。

 また親王の母の荘子女王は1008年まで存命でしたが、その逸話も『源氏物語』に取り入れられた可能性があります。村上天皇の女御時代、姉の恵子女王と春秋の優劣を競う歌合をしたことがあり(応和三年 宰相中将伊尹君達春秋歌合)、秋好中宮と紫の上の和歌を交えた春秋優劣論と様々な点で似ているのです(野本、2013)。

 

 具平親王紫式部については、親王経由で彰子への出仕を斡旋されたとか、いや彰子への出仕は道長サイドにつくということなので親王側から裏切りとみなされたとか、そもそも親王は式部が密かに憧れ慕っていた相手だった…など、様々な憶測がなされています。

 個人的には、抜きん出た教養人の具平親王と、幼い頃から学問好きだった式部は共鳴するものがあり、式部は様々なことを親王から吸収して、ある種の憧憬を持っていた可能性はあると考えています。『源氏物語』に流れる「反摂関家・親源氏」の政治的な枠組みも、具平親王やそのサロンの影響を受けている可能性も指摘されていることを考え合わせると、ますますそのように感じられます。

 しかしそのような間柄が想像されるからこそ、道長紫式部がソウルメイトである設定が中心のこのドラマでは、親王は邪魔な存在だったのかもしれません。脚本家があまり知らなかった可能性もありますが…

 

(4)賀茂保憲女〜身分社会への痛烈な批判

 

◼️略歴

 

 賀茂保憲は名高い陰陽師で、ドラマにも出てくる安倍晴明の師です。息子には、晴明と並び称され父から暦道を伝授された光栄、権天文博士にも任じられた光国、筑紫守や豊前守を歴任した光輔がいます。しかし娘は兄たちと違い宮中に出仕することなく、家居の女として生涯を過ごしました。生没年もわからず、生きた時代は10世紀後半だろうとされています。

 ですが彼女は、創作に対して非常にエネルギーを持っていました。方丈記にも匹敵する長い仮名散文を序に持つ特異な家集『賀茂保憲女集』を著し、孤独な生活の中で培った様々な思索や感情を綴ったのです。佐佐木信綱は序文について「比喩が豊富で、象徴的ともいふべき文体である。もしこの保憲の娘が、物語か随筆に筆を染めていたらば、或は清紫以外にわが国の文学史を飾ったであらうと思はれる程である」と、清少納言紫式部と並べて絶賛しています(佐佐木、1927)。明治書院の和歌文学体系の賀茂保憲女歌集の解説では、さらに思想面に踏み込んで「『保憲女集』内部に見える自閉性、閉塞性は否むべくもないが、一方で、彼女の視野の広さは当時にあって、かなり革新的なものといえる。特に序文には(中略) 自然界に向けたまなざしや彼女の思想の根底にある平等感は、現代にも通じる不変性を提示している。視野の広さと自己認識の確かさは、平安時代を代表する女性達、藤原道綱母清少納言紫式部和泉式部らにもけっしてひけをとらない」とまで書かれています(武田、2000)。

 

◼️「人間は皆平等」観を打ち出す

 

 出仕もしない家居の女性ながら「漢文や暦に関する知識は並々でないことが、家集中から窺われる」(天野、2023)ことももちろん驚くべきことですが、特に注目されるのは、その「彼女の思想の根底にある平等感」でしょう。

「…泥の中に生ふるを、遥かにその蓮いやしからず。谷の底に包ふからにその蓮いやしからず、宮の内の花といへども、咲くことは隔てなし。

東の山に秋の紅葉照らず、西の山に春の花開けずはこそあらめ、空にすむ月の影、はかなき水に映らずはこそあらめ。大きなる川、小さき川も、波のさま隔てなしと思へど、より劣れる人の、優れたる才あらはるること難しといへど、人にまさりたる人の、劣りする才は劣りたる言の葉のおもしろきにはあらず。」

現代語訳: 泥の中に生えていても、蓮が下賤ということはない。蓮の花は、谷の底に咲いていても宮廷に咲く花にも遜色はないのだ。文芸も、身分の貴賤によって優劣をつけるのはおかしい。身分が劣った人に優れた才能があっても、それが現れることは難しく、身分高ければ劣った才能で、おもしろくも何ともない言葉でも持ち上げられる。」(本文・現代語訳ともに天野、2023)

「身分階層によって定まる社会の不合理を、こうまではっきり言った文章は類を見ない。先に見た曽称好忠らによって始められた不遇を訴える「百首歌」に影響されたとはいうものの、彼らが比喩をもって身分社会の現状をいい、沈淪の身を哀嘆するのに対して、保憲女はもっと直截に、劣った才能も、身分あるゆえにもて囃される社会をおかしいと言っている。これは、男性歌人たちの「百首歌」が、多くは訴える先方のある奏状の意味合いで作られていることとの違いなのだ。」

と天野氏は述べています。

 

◼️ドラマのまひろの主張との比較

 

 ドラマでは、まひろが一条天皇の前で白居易『白氏文集』第四巻『新楽府』の「澗底松 」の一節「高者未だ必ずしも賢ならず、下者未だ必ずしも愚ならず」を引用して、身分によって賢愚は決まらない、という主張を述べています。これを天皇に向かって紫式部のような立場の女房が直言することは不自然ですが、その主張自体は、紫式部以前から日本でも不遇をかこつ文人に親しまれているものでした。

 「澗底松」全文を読むとわかりますが、繰り返し主張されるのは、素晴らしい人材がその低い生まれのために見過ごされていることがあるし、凡庸な者も高貴な生まれにいる、というもので、賀茂保憲女のように「どの身分でも人間は同じだ」とまで言い切っていないのです。

 ドラマで貴族ではない庶民にも教育を施したり、身分など関係ないとたびたび主張するまひろですが、そのような発想は賀茂保憲女のような人物にこそふさわしいと感じられます。

 

◼️紫式部への影響

 

 このようなある種激烈な内容を持つ『賀茂保憲女家集』ですが、『源氏物語』に影響を与えていたことが判明しています。

 賀茂保憲女家集の中の「まれの細道」「霧迷う」という個性的な表現が、宇治十帖の中で印象深く使われていることが指摘されているのです(天野、2023)。

 紫式部賀茂保憲女は直接の接触は記録にありませんが、先に述べた具平親王の師でありその供養を道長が行った慶滋保胤が保憲女のおじであることから、具平親王サロンを介した歌集の入手の可能性はあります。保胤が姪の歌集を為時に紹介し、それを為時が娘に見せた…ということも想像してしまいます。

 もっとも宇治十帖が書かれたのは源氏物語の中でも後の方と思われるので、紫式部の若い頃の交友圏であった具平親王サロン経由であるとすると、その影響の発現が遅い気がします。ですが従来直接の交流がなかったとされる紫式部清少納言を親しい友達にしたドラマ脚本ならば、二人を結びつけることも容易にできたのではないでしょうか。

 

4.考察

 

 ではなぜ、そのように、紫式部を作りあげた先人の物語や、同時代の才女才人の存在を無視したドラマ作りになってしまったのでしょうか。またなぜ、『源氏物語』がまひろの体験や道長からきいた「現実」(創作が含まれる)のパッチワーク的なものとして描かれるようになってしまったのでしょうか。

 

 私の見るところ、脚本家大石氏の「小説」への意識が大いに関係していると思われます。そしてさらに、今回の考証を務めておられる先生方の「物語」軽視の姿勢も見逃せません。

 

(1) 大石氏の小説観

 

 そもそも脚本家の大石氏は「小説」というジャンルにあまりいい印象を持っていない感じのことを言っています。

 

「光る君へ」脚本家・大石静に聞く物語の力 | Vogue Japan

 

私は脚本家で、小説家になりたいんじゃないということも、そのときしみじみわかりました。台詞を書きたいんです。小説だと「にっこりしたけど、心の中では違うこと考えてた」と文章で説明ができるんですけど、脚本の台詞でそこまで書くと説明的になりすぎてしまう。人間って思っていることの2割ぐらいしか表に出さなくて、8割ぐらいを隠して生きてる。だから、脚本はこの表層の2割を描きながら、裏の8割を感じさせるように書かなきゃならない。テクニック的には断然脚本のほうが難しいものだとも気づきました。それなのに脚本家のほうが格下に見られてるのは悔しいなと思ったりもします。

 

小説を書くことへの苦手感は他のインタビューでも言っており、かなりなもののようです。【受賞インタビュー】脚本家・大石静氏が語る『大恋愛』「見る人をこんなに幸せにするコンビはいない」 3ページ目 | ORICON NEWS

 

 

 また大石氏はこうも言っています。

 

作家の私小説みたいなコンセプトの物語が好みで、島崎藤村の姪っ子に手を出してしまった自分を書いた『新生』、林芙美子の『浮雲』も好きですね。絶対的な自己否定がしみじみと伝わってくるところが好きです。

 

 つまり、実体験に基づく私小説が好きであると言っているわけです。虚構よりも現実に沿ったものが良い、という大石氏の価値観が透けて見えます。

 

 上記のことを総合しますと、大石氏の考えによれば、紫式部は主に実体験や見聞に基づいて『源氏物語』を書いたのであり、またそれこそが『源氏物語』の素晴らしさであって、それまでの物語文化は重要ではないという判断なのでしょう。小説は脚本よりも「簡単」なのだから、その念入りな習作的なものも特に必要でないという考えかもしれません。

 

「光る君へ」脚本家・大石静さんに聞く、紫式部はどんな人?|私の源氏物語【巻の二】

 

男女のあらゆる恋を並べつつ、その行間には政権批判や文学論、人生哲学までも込められています。ゼロから物語を構築しつつ、奥が非常に深いのです。

 

 この「ゼロから」という表現にも、紫式部が乗っかっていた「巨人の肩」の透明化がはっきり伺えます。

 

 そして本ドラマが、そういう文化的な蓄積や交友関係ではなく、道長とまひろが「ソウルメイト」であるという設定を中心に据えれば、道長とまひろのドラマ内の経験、道長がまひろに語ったことが源氏物語のインスピレーションの全てになってしまうのもやむなしといったところなのでしょう。

 

(2) 仮名文学をネガティブに扱う考証

 

 また物語の軽視について、考証の倉本一宏氏の考えもかなり影響しているのではと感じます。

 

 倉本氏は繰り返し『源氏物語』をはじめとする女性の文学が、平安時代の理解を歪めてきたと主張しています。

「まれに平安時代の愛好者がいても、ほとんどは『源氏物語』や『大鏡』『今昔物語集』などの文学作品からイメージする平安貴族像を、実際の彼らの姿だと考える人がほとんどでした(小説や映画の陰陽師の姿を史実だと考える人すらいました)。

平安貴族は遊宴と恋愛にうつつを抜かし、毎日ぶらぶらと暮らしている連中で、しかも物忌や怨霊をじて加持祈禱に頼っている非科学的な人間であると信じられてきたのです」

(倉本一宏『平安貴族とは何か : 三つの日記で読む実像』 はじめに より)

 

倉本一宏さん 「光る君へ」の時代考証を担当する歴史学者は語る……古記録を読み解けば貴族の真実が浮かび上がる(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース

 

 「文学作品だけでは、平安貴族が恋愛と遊宴にばかり熱中していると誤解される。古記録を読み解くことで、政務や儀式にいそしんだ貴族の真実の姿が浮かび上がる」

 

 平安時代の文学作品は平安貴族への悪しきイメージ作りを助長するというネガティブなことを繰り返し述べている学者さんが、平安時代の文学の最高峰である『源氏物語』の作者を主人公にしたドラマの考証をするというのはなんとも皮肉なものを感じます。

 ドラマ全体を見ますと、倉本氏が広めたいと思っている、政務に勤しんでいた貴族像を描こうとしているは大いに読み取れます。平安時代に全く興味も知識もなかった脚本家氏に、その領域で適切なアドバイスをし、それが反映されていたのだとわかりますし、大変素晴らしいことです。しかし一方で、政治パートに比して物語関連の描写の貧弱さも否応なしに感じ取れるものであり、その分野についての提案がどの程度あったのか少々疑問にも感じます。ドラマ作りで考証のアドバイスが活かされないケースが多々あり、実際倉本氏もこれこれこういう知見が活かされなかった…ということをよく発信しておられるので、一概に全く提案がなかったとは言えませんが、考証のそちらの領域への関心の薄さや低い扱いが反映されているようにも見えます。そもそも倉本氏は古記録を中心とした分野の専門家であり、倉本氏ひとりをメインの考証に据えた時点から、物語方面にチカラを入れない方向性は定まっていたとも言えます。

 

(3) ドラマ全般で女性文化・女性一般への蔑視

 

 それだけでなく、このドラマは全体的に女性文化を下に見る意識を非常に感じるドラマです。

 

 ドラマでは『源氏物語』の「雀の子」などのよく知られたエピソードを、ドラマ内でまひろの身に起きたこととリンクさせたりしますが、『源氏物語』の中の美意識については頓着していません。たとえば紫式部は衣装について非常に細やかな意識を持っており、形状や色彩でその人の社会的立場や人となりなどを表していますが、残念ながらその意識はあまりドラマの衣装には反映されていないようです。

 また漢文の素養も和歌の素養もなく、勉強嫌いで、政治などの難しい話は人任せ、噂話は大好き…などの「愚かな女」がたくさん登場してまひろの引き立て役になりますが、「女は一般にそういうものだ」という意識を非常に強く感じます。脚本を読みましても、そういう「一般の女」の描き方の悪意があるのが読み取れます。

 実資が内侍所に調査に行った時の女房たちのヒソヒソ話は

 「ぶれー」「ぶれー」「ぶれー」

 「イヤな奴う〜」

 と、平仮名などで幼稚な感じに描かれ、倫子サロンで赤染衛門び真面目に学ぶように嗜められた姫君たちは

 姫達「は~い(キャッキャツやホホホホ~と、

それぞれ意味不明に笑う)」

 箸が転んでもおかしい年頃の女の子達。

 と、いかにも頭の軽い若い娘たちといった塩梅に描かれます(いずれも 月刊「ドラマ」3月号(映人社、2024)より)。映像よりむしろ脚本の文章の方が悪意を感じさせるものです。

 

 またドラマで物語がほとんど登場しなかったのに対して、漢文は大変多く登場するのが非常に不均衡です。頻繁に描かれる男性貴族の漢籍の学びや作文会、まひろの手紙における漢文からの引用、また先にも挙げた、白氏文集の引用で一条天皇を感心させるというくだりなど、漢籍関係は山ほど出てきます。和歌は男性も作るものとして物語に比べれば多少出てきますが、解説なしのものも多く、漢文には劣ります。漢文文化>仮名文化(和歌>物語)という価値観を感じさせるのです。

 漢文は男の世界のものであるという前提がある中で、漢文ばかりが描かれ、その漢文を会得したごく少数の才女が称揚されるというのは、あからさまな男性文化優位の世界観なわけです。いわば名誉男性化した、ごく一部の優秀な女性だけが素晴らしく、女性ならではの人生の困難や、女性としての観察や考え、文化などは、全く描くに足りぬという態度が透けて見えます。第3話で、先ほど挙げた倫子サロンでのろくに学ばない姫君たちのシーンの後、道長や公任らが漢籍を学ぶシーンを接続して「姫達のどかなあそびと対照的に、関白の屋敷では休日であっても上級貴族の子息たちが国家を率いていく者としての研鑽を積んでいた」というナレーションがあります。その前段階と思われる脚本では、「姫達のどかなあそびと対照的に、こちらは上級貴族たる藤原氏の子息たちの学びの場である。彼らは、深夜まで内裏で働き、休日はこのような場所で、国家を率いてゆく者としての研鑽を積んでいた」(月刊「ドラマ」3月号(映人社、2024))と、より露骨に「怠惰で愚かな女と賢く勤勉な男」という対比が強いです。このドラマを貫く「漢籍🟰男性貴族&男性貴族社会の文化🟰賢い・真面目で重要なものである」「女性貴族&女性貴族社会の文化🟰愚か・しょせん遊びであり取るに足らぬものである」という思想が如実に表れたプロットと言えましょう。

 

 女性ならではの悩みは、全く描かれなかった訳ではありません。たとえばドラマの最初の方で、女性が嫡妻でなく「妾(しょう)」になることについて、藤原道綱母のセリフなどでいくつかのシーンで描かれていました。しかし今までの経緯を見ると、正直きちんと描けているとは言えない状態です。そのあたりの苦しみを描いたはずの道綱母蜻蛉日記』がろくに紹介されず、倫子サロンでは同書について、夫がなかなかきてくれない悲しみよりもむしろ高位の男性に愛された自分を誇っているという解釈をまひろが述べます。しかしまひろの「妾」状態の女性への思いは、ドラマ中で二転三転しよくわからない感じなので(道長の妾になることを拒むも、結局妾状態になり、でも彼からの愛は自信満々に信じてる)、いずれにせよ当時の不安定な立場の女性の苦しみがまるで見えてこないのです。

 

 『源氏物語』は、漢籍の素養が散りばめられている「から」すごい的な描写がドラマではなされています。しかし正直漢文の素養が物語に読み取れることは、それまでの男が書き手だった『うつほ物語』などでも見受けられることであり、女の作者が「女なのに」知識があるからスゴイ、というのは、一面的な評価にとどまると言えます。現実の人間の悩み、あるいはずるさ、などの細やかな考察や描写が織り込まれていることの意義が描かれなかったこと自体、所詮、物語はくだらないものという当時の意識をトレースした作劇になってしまっていると思います。

 

*********

 

 『源氏物語』は、従来の物語にあった宮廷絵巻や貴公子の恋愛譚に、『蜻蛉日記』で開拓されたような現実的な人間の悩み苦しみの深い描写を結合したところに画期性があります。そして式部の血脈にはドラマで描かれなかった高貴な身分の人々との繋がりがあり、そこから得られた教養や様々な逸話の情報も大いなる血肉となりました。また紫式部清少納言などの有名なごく一部の女性が教養深かったわけではなく、様々なサロンで教養ある女房が活躍していて、その文化が源氏物語にも照射しているのです。

 そういったことをドラマでは全くないこととして、まひろひとりの考えで同時代の(自分を含めた)モデル小説のように『源氏物語』が成立したと描いているため、文学的な厚みや奥行きのないものになっている感はあります。またここでのテーマと直接関わらないので割愛しましたが、そもそも『源氏物語』は醍醐天皇村上天皇などの昔の天皇の御代をイメージさせるものが横溢しており、書かれた当時からいわば時代小説として享受されていたという側面がありますが、それも全く描かれていません。書かれた当時の文化の厚み、それ以前の歴史の厚み…それらをほんの少しでも描いていれば、ドラマ自体もぐっと深みをましたと思われます。また「光る君へ」を「フェミニズム大河」と評する意見も散見しましたが、仮名文化の深みをしっかりと描き出していれば、描かれなかった多くの才女たちがきちんと登場し、まひろの引き立て役でなく正当に描かれていれば、その称号にふさわしいものになったのにと、思わずにいられません。

<了>

参考文献

◼️紫式部

上原作和紫式部伝 : 平安王朝百年を見つめた生涯』(勉誠社、2023)

斎藤正昭紫式部伝 : 源氏物語はいつ、いかにして書かれたか』(笠間書院、2005)

 

◼️源氏物語

伊藤博 著『源氏物語の原点』(明治書院、1980)

・栗本賀世子『源氏物語の舞台装置 : 平安朝文学と後宮』(吉川弘文館、2024)

・高橋麻織『源氏物語政治学 : 史実・准拠・歴史物語』(笠間書院、2016)

・藤村潔『源氏物語の構造』[第1](桜楓社、1966)

 

◼️王朝物語

・神野藤昭夫『知られざる王朝物語の発見 : 物語山脈を眺望する』(笠間書院、2008)

・中野幸一『うつほ物語の研究』(武蔵野書院、1981)

・長谷川福平「源氏物語に於ける落産物語の重なる影響」『國學院雜誌』7(6)(80)(國學院大學、1901)

・三谷栄一『物語史の研究』(有精堂出版、1967)

 

◼️藤原定子

・今井久代「 『枕草子』「雪のいと高う降りたるを」段を読む」『日本文学 / 日本文学協会 編』 65(1)、2016

・目加田さくを, 百田みち子 共著『東西女流文芸サロン : 中宮定子とランブイエ侯爵夫人』(笠間書院、1978)

・山内 益次郎.「宰相の君について--枕草子人物考」『国文学研究 / 早稲田大学国文学会 [編]』(通号 39) 、1969

 

◼️選子内親王

・岡崎和子「大斎院選子の研究」(古代学協会 編『摂関時代史の研究』,(吉川弘文館、1965)

・服藤早苗、東海林亜矢子 編著『紫式部を創った王朝人たち : 家族、主・同僚、ライバル』(明石書店、2023)

 

◼️具平親王

・藍美喜子「紫式部と六条の宮・具平親王」『甲子園短期大学紀要』16巻、1997

・川口久雄 『平安朝日本漢文学史の研究』中 (王朝漢文学の中興)(明治書院、1982)

竹鼻績「藤原公任の研究 : 公任集作歌年次考」『山梨県立女子短期大学紀要』4、1970

・野本あや「『源氏物語』少女巻の春秋優劣歌と『宰相中将伊尹君達春秋歌合』 : 「岩根の松」「つくりごと」の先例をめぐって」『物語研究』13,、2013

・福家俊幸「紫式部具平親王家出仕考」学術文献刊行会 編『国文学年次別論文集中古3』(朋文出版、1987)

 

◼️賀茂保憲

・天野紀代子『賀茂保憲女 : 紫式部の先達』(新典社、2021)

・小塩豊美「『賀茂保憲女集」の和歌―『紫式部集』との関連について」『筑紫語文 』(5), 筑紫女学園大学日本語日本文学科、1996

佐佐木信綱 『和歌に志す婦人の爲に』,(實業之日本社、1927)

・武田早苗、佐藤雅代、中周子校註『賀茂保憲女集 . 赤染衛門集 . 清少納言集 . 紫式部集 . 藤三位集』(明治書院、2000)

・中島朋子「『賀茂保憲女集』と初期百首歌」『筑紫語文』(3),筑紫女学園大学日本語日本文学科、1994