Topaztan’s blog

映画やドラマの感想や考察をつづっています

『オペラ座の怪人』覚書〜作中の創作オペラの含む意味〜

 先日4Kデジタルリマスター版『オペラ座の怪人』を観に行った(立川シネマシティ)。20年ぶりに大画面で観る本作、DVDでも繰り返し観てるにも関わらず、テレビ画面で観るのと全く違う迫力の画面と、壮大かつ繊細に響き渡る様々な音の洪水に改めて圧倒され、何度も涙腺が刺激された。

 

 さてその感想に入る前に、少し『オペラ座の怪人』と自分との関係を語らせて頂きたいと思う。自分は1988年劇団四季での『オペラ座の怪人』初演年に中学生の時分観に行って大変衝撃を受け、今でいうところの「沼って」しまった。あの絢爛たる舞台、市村正親ファントムと野村玲子クリスティーヌの、緊張感と激情と哀しみに満ちた舞台は今も瞼に焼き付いている。

 それ以来少ない貯金から観劇費を捻出して何回も観に行き、カセットは擦り切れるほど聴き込み、サラ・ブライトマン版のカセットも、アメリカ人の先生が帰省するついでにお願いして買ってきてもらったりした。そんなこんなで、ミュージカル版に馴染んでいた自分は2004年に映画化された時、嬉しさもあったが、ミュージカルの良さが失われてしまってるのではないか…と、かなり疑いの目を持って臨んだ。ところが蓋を開けてみると、映画版ならではの素晴らしさに打ちのめされてしまったー映画化で失われたものもあるが、それを補ってあまりあるものもまた感じた。

 ここまでお読み頂くとわかると思うが、私にとって『オペラ座の怪人』は、ミュージカルにしろ映画にしろ、作品として冷静に分析しながら観る対象とではなく、激しい感情の渦に巻き込まれ陶酔しながら観るものだった。今回のリバイバルでもまさにそのような情緒の乱高下を感じながら観た。

 その一方で、流石にミュージカル初見時から30年以上、映画初見時から20年も経つと、冷静に見られるところも出てきた。色々「ツッコミどころ」がある…というのはもちろんだし、現代的な視点では問題ある描写もあるというのが見えてきたが(たとえば中年男性が幼い少女をグルーミングしていくという筋立て自体が、当時よりもより気持ち悪く非難すべきことに見えるだろう)、その一方で作劇上の妙というか、無意識に受け止めていたサブテクスト的なラインもまた浮かび上ってくるのも感じた。

 今回は、作中の創作オペラに絞って考察していきたいと思う。

 

 

◼️『ハンニバル』〜最強の残虐な敵の登場

 

 『オペラ座の怪人』の過去パートは、架空のオペラ、『ハンニバル』で幕を開ける。これはミュージカルオリジナルの設定で映画でも踏襲されている。なぜハンニバルか、私は今まで全く考えてこなかったが、今回いくつかの意味を見出した。

 まず、ハンニバルをローマ圧制からの解放者としてカルタゴ人が讃え迎え入れるシーンがあるが、これは支配人やラウルをオペラ座の人々が「歓迎」するのとシンクロする筋書きだ。歓迎と無関係なオペラを中断して彼らの就任と歓待シーンを入れるよりも、シームレスな印象になっている。

 またクリスティーヌ含む奴隷娘の踊りが入っているが、鎖に繋がれた半裸の奴隷娘たちは、コーラスガールの地位の低さ、性的に眼差されやすい立場を象徴的に表している。支配人たちの好色な眼差しをマダム・ジリーはピシリと退けるが、残念ながら彼らが彼女らをモノのように扱い芸術的な意味を見出そうとしない態度は、最後までさして変わらない(映画ではアンドレの方がクリスティーヌにはやや同情的だが、プリマドンナの歌ではコーラスガールとパトロンができてる云々と述べる)。それだけに、クリスティーヌに対して歪んでいるとはいえ真摯な愛情を注ぎ、ミューズとして扱うファントムの純粋さが際立つのである。しかし一方でクリスティーヌはファントムにとらわれ鎖に繋がれている状態であるとも言え、それを暗示しているとも見える。様々なことが連想されるコスチュームだ。

(※『ザマの戦い』(コルネリス・コルト、1567年作) パブリック・ドメイン)

 そして一番肝心なのは、ハンニバルは「勝者であり敗者」「残忍な強敵」という点で、ファントムのメタファーともいうべき存在ということだ。歴史上、ハンニバルは確かにたびたびローマに勝利し滅亡の危機にまで追い込むけれども、しかし最後にはローマに追われて自害。ローマ人からは最強の敵であり残忍な存在として記録され、ヨーロッパ世界ではそのような認識で広く知れ渡っている。それは、ひとたびクリスティーヌの尊敬を勝ち得、オペラ座を支配して翻弄し彼女をプリマドンナに押し上げることに成功するも、望んだような愛を遂に得ることはできず残忍な殺人を繰り返し、ついにオペラ座から追われるファントムと見事に重なる。最初にカルロッタがローマ兵の生首という、ちょっとギョッとする小道具を片手に勝利を祝う歌を歌って幕を開けるのも、カルタゴ人の残酷さを示すとともに、これから始まる物語がファントムによる残酷な殺人を含んでいることを示唆していると言えるだろう。

 

 

◼️『イル・ムート』〜正式な伴侶を騙す女

 

 音楽的にもロココ調の舞台的にも、いかにもモーツァルトのオペラ風の『イル・ムート』は、寝取られ男(コキュ)を嘲笑うストーリーで、やはりミュージカルオリジナルだ。

 伯爵夫人は、夫の伯爵に隠れて密かに若く美しい小性と恋愛している。イギリスに赴こうとする伯爵の方も、メイド(実は女装した小姓)にセクハラしてこちらを連れていきたいなんて言うので、全然いい夫ではないのであるが。その伯爵はおそらく妻の行状に疑いを持ってて物陰からのぞいていて、二人の不倫を目撃するが何も言えない(Il Mute もの言えない人)…といったストーリーが展開される。これらの女装した小姓、小姓と伯爵夫妻のあれこれ、などの要素はモーツァルトの『フィガロの結婚』からインスパイアされてると思われる。一見、オペラ座の怪人の筋書きと何の関係もなさそうだ。

(※『フィガロの結婚第1幕:伯爵の登場でスザンナの椅子の背後に隠れるケルビーノ(19世紀、作者不詳の水彩画 )パブリックドメイン))

 しかしここでのポイントは、ファントムがクリスティーヌ役にと考えていた伯爵夫人は、正式な夫であるが醜い伯爵を疎んじて、若く美しい男にのり替えようとする…という図式にある。

 つまりこれは本来伴侶になるべきファントムを捨てて、若く美しいラウルを選ぶクリスティーヌという、ファントム視点の物語に重なるのである。もちろん本来伴侶になるべきというのはファントムの勝手な思い込みだが。

 実際、カルロッタの降板で伯爵夫人役に抜擢されてクリスティーヌがその衣装を身につけかけた時、ブケー殺害事件が起きて、彼女は殺人も厭わないファントムに恐怖を感じ、彼から決定的に離れてラウルを選んでしまう。ファントム視点ではそのようなクリスティーヌは伯爵夫人なみの裏切り者で、オペラ座屋上で愛を告白しあっている二人を、物陰からただ黙って密かに眺めるしかない自分は、まさに伯爵自身だ。

 ちなみにこれは舞台よりも映画版でくっきり表現される。舞台では表されない衣装を替えているシーンが映画版で示されることにより、クリスティーヌと伯爵夫人の同一性が強調される。

 

 

◼️『ドン・ファンの勝利』〜天使と悪魔、あるいはキリストと堕天使

 

 こちらはこれまでの2作品と異なり、オペラの内容が本筋そのものになってくる。ファントムが、彼自身がクリスティーヌと共に歌うことを前提として書いたもので、彼の感情が強く表現されているからだ。しかし本筋を補強し予測させるサブテクストも入念に埋め込まれている。

 

 まず音楽面だが、不協和音を使った前衛的なもので、観客はざわめいて不愉快そうな反応をしている。これは舞台では、映画版では省かれた練習シーンで、カルロッタたちが音楽に不平を言ってるところで表されている。この、音楽の先進性ゆえに理解されず一般人の反感をかう、ということや、不協和音を使った音楽自体は、ストラヴィンスキーの「春の祭典」思い起こさせるものだ。背景で踊られるバレエは流石にニジンスキー風ではないが、しかしやはり古典的なバレエの振付からは逸脱している。「春の祭典」は生贄の乙女の物語であり、クリスティーヌ演じるアミンタが「生贄の羊」と呼ばれることと呼応し、クリスティーヌが様々な意味で生贄になっていることを強調している。

 他にもpassion play 受難劇というワードなど、その官能的雰囲気とは裏腹にキリスト教モチーフが出始め、観客を驚かせる(だから某字幕翻訳者もはじめ「情熱のプレイ」と訳してしまったのだろうが)。思えば最初から音楽の「天使」というキリスト教モチーフが中心要素として出てきてるのだから驚くこともないのだが、天使という言葉があまりにもポピュラーになりすぎてるので逆に意識されづらかったというのはあるだろう(ファントムは自らを音楽の天使と名乗ってクリスティーヌもそれを信じ、ラウルはクリスティーヌを「エンジェル」と呼ぶ)。生贄の羊sacrificed lamb は、コミュニティ共通の利益のために犠牲になる人という意味もあるが、人間の罪を贖うために犠牲になったキリスト自身も想起させる。最終的には、本当に天使…というかキリスト教的な自己犠牲と慈愛の精神を持っていたのはクリスティーヌであったことを踏まえれば、彼女のことを「生贄の羊」と表現するのはそのような意味も含めていいかもしれない(ルルー原作では、ラウルたちを救うためにファントムの伴侶となることを決めたクリスティーヌは「キリストの学び」を読んでいる)。

 

 クリスティーヌがキリストと重ねられる一方で、ファントムの方は堕天使、悪魔と重ねられる。オペラ全体の筋書ははっきりとはわからないものも、断片的なセリフを見る限り、ドン・ファンが従者とつるんでアミンタという娘を騙して手に入れようとしているというもので、従者とドン・ファンの入れ替わり、身分の低い娘を誑かそうとする、などの要素が、モーツァルトドン・ジョバンニ』を想起せる。『ドン・ジョバンニ』では、ドン・ジョバンニ(ドン・ファン)が最終的に騎士団長の石像に連れられて地獄に堕ちてしまうのだが、ドン・ファンを演じていたファントムもクリスティーヌに舞台の上で素顔を晒されて、怒り狂いながら地下室という「地獄」に赴く(Down that path into darkness deep as hell)。ドン・ジョバンニの筋書きを知っている者は、このオペラのドン・ファン…すなわちファントムがそのように破滅するだろうこと、堕天使となって地獄に堕ちてしまうことを予期する。ちなみに地獄のイメージは映画版ではオペラ座が大火災になるところで舞台版より強調される。また騎士団長はドン・ファンに誘惑されそうになった娘アンナを守ろうとして死んだこと、死後も大きな影響を及ぼしたことを考えると、死んだ父に愛されその死後も影響を受け続けているクリスティーヌのことが連想されるし、騎士団長の石像をからかったドン・ファンと、クリスティーヌの亡き父への思慕を利用し墓地でもなりすましたたファントムに、共通する冒涜的な感じを嗅ぎ取ることもできるだろう。

(※『ドン・ジョバンニ』の「石の客」(アレクサンドル・エヴァリスト・フラゴナール) パブリック・ドメイン)

 キリスト的な、また天使的な存在であるクリスティーヌと堕天使ファントムが、役柄上を飛び越えて魂レベルで響き合い、情熱的な愛を交わし合う様子は大変背徳的でセダクティブだ。舞台版と映画版で演出がかなり異なっているが、言うまでもなく映画版の方が生々しく愛し合う。

 まず初めに、クリスティーヌを初めて地下室に連れてきた時に歌ったMusic of the nightの冒頭部分がリフレインされ、観客はこの『ドン・ファンの勝利』が、あの地下室の再現であり「やり直し」であることに気付かされる。ただそれに続く音楽は、あのゆったりとした調べではなく、ずっと肉感的で直接的だ。地下室との対比は映画ではより強調されており、燃える炎の表象で様々に彩られた舞台は、あの蝋燭で照らされた静かな世界よりも激しく心が燃え上がっていることを示す。舞台上ではすっぽりとマントを頭から被ったファントムは、死神のようでもありまた音楽の精霊のようでもあるが、映画ファントムは仮面をつけてるとはいえ鍛え上げられた肉体のラインをしっかり晒しており、より人間的であると共に雄々しさと危険な野生みがほとばしっている。クリスティーヌを後ろから抱きしめ体の線をなぞる仕草は地下室でもしていたが、今回はその時よりもずっと激しく、支配的であり、彼の様々な振る舞いはまさしく数多の女性を陥落させてきた色男ドン・ファンそのものだ。

 だが変わったのはファントムだけではない。地下室ではファントムに完全に幻惑され、催眠術にかかったように彼に導かれ主導権を奪われていた彼女だが、ドン・ファンの勝利』ではクリスティーヌは自覚的に同等に彼に相対する。歌も一方的にファントムに歌われていた地下室と違い、完全に半分づつをになっており、私たちがひとつになるまでいったいいつまで待てばいいのかと歌い上げる。彼の魔力と官能的な力に負けてうっとりと身を任せる瞬間もあるが、彼がオペラ座屋上でクリスティーヌとラウルが歌った愛の歌をリフレインして愛を懇願する時にははっきりと目覚め、仮面を剥がす。それは様々な意味を含んでいるが、彼が何者か知りたいという不安と好奇心がないまぜになった状態で仮面を剥がした地下室とは違って、彼女は「自立した女性」として意志を持って行動していること、天使のふりをした仮面を脱ぎ捨てて素顔で向き合ってほしいという彼女の願いが込められていることも感じさせる。彼女はかつての師匠を乗り越え、導かれる側が導く側になる。

 

 映画では、舞台と違って、一旦別れた後もう一度クリスティーヌがファントムの元に戻ってきて、ファントムが無理やり婚約指輪にしようとした指輪をそっと彼の手のひらに握らせる。そして映画最後に、何十年後かのクリスティーヌの墓地には、ファントムがかつて彼女に贈り続けていた黒いリボンのついた薔薇にその指輪が添えられているのが見える。ファントムにとって、クリスティーヌの心の欠片のような指輪が生きる支えになっていたこと、彼女との思い出が救いになっていたことを感じさせるものだ。舞台版にはない、堕天使ファントムが天使に救済される物語の完結である。

 

<了>