Topaztan’s blog

映画の感想や考察をつづっています

ロキは真の力を覚醒させうるか〜英雄/神の冥界下り物語としての『マイティー・ソー』『ソー・ラグナロク』、及びそのリフレインとしてのドラマ『ロキ』

1.はじめに『ソーラグナロク』と『ロキ』の類似性


 6/9からディズニープラスで配信されたマーベルのドラマ『ロキ』は、世界中で大変注目され、大人気となっています。彼は映画では2018年『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』において、これまでで最大のヴィランであるサノスに殺されて退場してしまいましたが、続く『アベンジャーズ/エンドゲーム』で、2012年にNYを襲撃した際に時空を移動できるインフィニティストーンを手に入れて逃げ出してしまい、本来の時間軸とは別のロキが誕生したことが描写されます。

 ドラマはその続きから始まり、時間警察的な存在TVAに捕まったロキが裁判にかけられたあたりで第一話が終了しました。今後はTVAに協力して壊れた時間軸を修正する任務につくか、存在を消されるかの二択を迫られるという話になるとのことです。またこのドラマでは、ロキが出会ったこともない強大な敵に出会うそうです。


 ドラマは息もつかさぬ意外な展開が続きましたが、ロキがTVAに捕まった際に、ロボットによって、今まで着ていた衣装が焼き捨てられ、全裸になるシーンはかなり衝撃でした。それというのも、今までのMCU映画ではロキは基本的に手や顔以外はほとんど素肌を晒さない、首までぴっちりしたある種禁欲的なデザインの衣装を身につけさせられており、兄のソーが惜しげもなく上半身裸の肉体美を晒しまくり、時にはお尻まで剥き出してしまうのとは極めて対照的でした。


 それが今回ロキは全裸、しかも自分で脱ぐのではなく無理やり脱がされる(レーザー光線でですが)、その上首には拘束のための首輪まで装着されている、という、かなり扇情的なシチュエーションでで裸にされため、トレーラーで発表された段階でファンの間に走った衝撃は相当なものでした。すぐに落下させられて、囚人服に着替えさせられるとはいえ。


 私も多くのファンと同じく大変驚いてしまいましたが、それとは別に、本編を見てひとつ気付いたことがありました。ここは単に「お色気サービス」シーンでもなければ、コミカルなお笑いシーンだけということでもなく、「ロキが今までの自分の身分を強制的に剥奪される」ことを象徴的に示したシーンではないかということです。


 そしてそれは『ソーラグナロク(邦題は『マイティー・ソー バトルロイヤル』。以下『ラグナロク』とする)』で、兄ソーが異星サカールにおいてアスガルドの王子としての身分を主張しても一顧だにされず、ソーが激しく嫌がる「髪切り」の儀式を強制的に行われた上に剣闘士奴隷にされることと大変良く似た構図です。

 そもそも考えてみると、TVAのロキの状況は、それ以外にもラグナロクでのソーがサカールにやってきた時の状況ととてもよく似ています。

 以下に主だった類似点をまとめてみましょう。


1)不本意な形で、今まで暮らしていた世界とは異なる価値観や、時間の流れが異なる世界に落下する(ラグナロクサカール ドラマロキ (以下ロキ): TVA)


2)今まで持っていたパワーを封じられそれを発揮することを奪われてしまう(ラグナロク服従ディスク ロキ首輪)


3)これまでの身分や価値観が顧慮されることなく 王子として遇されず、一介の囚われのびとの身となる


4)録音されたナレーションに従ってオートメーション化された服従システムに取り込まれる


5)辱めを受け、ビジュアル的に地位が転落したことを印象づけられる(ラグナロク : 強制的に断髪される ロキ強制的に裸にされ囚人服を着せられる)


6)自分の力で自由を贖う必要に迫られ、試練を受ける(ラグナロクアリーナで剣闘士奴隷としてチャンピオンと戦う ロキ: TVAに協力させられ、時間軸修正のために働く)


 どうでしょう。私はこれは、かなり意図的に『ラグナロク』に似せた結果なのではないかと考えています。また以上の点はトレーラーや事前の関係者の話で充分読み取れましたが、第一話では更なる類似点が見受けられました。

 たとえば最初に強い女性戦士に倒されて変顔を晒し、そのまま連行されるというのも一緒でしたし、ロキが裁判官の前で、両腕をグッと広げて魔力を放出しようとするも失敗し嘲笑される姿は、ラグナロクでソーがグランドマスターの前で腕をグッと広げて雷を呼ぼうとするが叶わず嘲笑されるというシチュエーションにそっくりでした。また両者とも、人を溶かす棒で有無を言わさず消されてしまう囚人を目撃してパニックを起こします。また両者とも、拘束のコントローラーをすりとって自分の拘束を解きます。

 他にも色々ありますが、これらにより上記の推測がさらに強化される結果となりました。もうこれでもかというくらい似せていると言っても過言ではありません。そしてもしそうならば、『ラグナロク』と『ロキ』は全体として相似の物語構造になるのではないかと推測されるわけです。


 そしてそれは、英雄や神が、冥界などの異界に下り、一旦今までの自己を剥奪されて試練を受け、また元の世界に生還するという、世界各地で見られる伝説の類型を踏まえているのではないかと考えられるというのが、本論の主張です。そして英雄の冥界下りの構造は、そもそもソーシリーズの始まりから基調としてあったもので、ソーの片割れであるロキの物語の基本構造としてリフレインするに大変ふさわしいものであるということも述べます。以下に詳しく見ていきましょう。

 

2.『ソー』の冥界下りをバージョンアップして語り直した『ラグナロク』〜真の力の覚醒と中断された戴冠式の完成


冥界下りとは


 冥界下りの類型について少し触れておきます。

 神話や英雄研究者として有名なJ・キャンベルは『千の顔をもつ英雄』(1949)において、世界の神話物語には共通したパターンがあるとしました。 英雄は日常生活から危険を冒して超自然的な領域に赴き、そこで超人的な力に遭遇し、決定的な勝利を収め、冒険から帰還するというパターンです。これは「分離ーイニシエーション ー再生」から成る通過儀礼を「1.出立・冒険ー2.イニシエーションー3.帰還」という3つのステージの物語の形に変換したものだと、キャンベルは主張しました。この図式はスター・ウォーズはじめ多くのハリウッド映画に応用されています。キャンベルはこの3つのステージをさらに十数段階のステップに細分化しており、映画や物語の制作や分析に大きな影響を与えています。


 さてその「超自然的な領域」における冒険では、英雄は闇や魔の領域に突入するステップがあります。これは英雄自身の消滅の危機さえ伴うもので、しばしば神話では冥界などの、神や英雄さえも圧倒的に不利にする世界であることがあります。生者の世界と冥界はあべこべの世界として描かれることが多く、そこでは生者の世界の理屈は通用せず、力ある存在である神や英雄もそのパワーを剥奪されて無力になり、場合によっては擬似的な死すら迎えます。(これは「イニシエーション」でよく見られるもので、成年になるためにしばしば子供は一旦死を迎えるように演出されたり、実際に死の危険に瀕するような儀式を受けたりします)。しかし英雄はそこでの試練をのりこえて勝利し、再び生者の世界に、宝(奪われた宝の奪還のケースもある)を携えて帰還します。その宝は、共同体にも恵みをもたらすものであり、共同体における新たな自己、新しく生まれ変わった自己ももたらされるとも言えるでしょう。ちなみにキャンベルに先行する学者らによって、「死んで冥界に赴きまた再生する神」の物語が世界的に存在することは再三指摘されてきました。有名な話ではイナンナの冥界下り、ペルセポネの冥界下り、アエネイアスの地獄極楽巡りなどがすぐに想起されるでしょう。日本ですと、イザナギノミコトの冥界下り、大国主命根の国での冒険などが想起されます。


英雄の冥界下りが基調モチーフとしてあるソーシリーズ


 ソーシリーズにおいては、そのような「冥界下り」という構造が常に意識されていたように思われます。特にシリーズ始まりの物語である『ソー』では、比較的単純なストーリーラインのために、それが明瞭に現れていました。

 ソーは父オーディンによってアスガルドの王に相応しくない者として全ての力を剥奪され、地球に文字通り「落とされ」、そこでの経験を通して王に相応しい自己犠牲の精神を身につけ、一旦仮死状態になるも、オーディンの赦しを得て元々の力を取り戻し、ムジョルニアを手に入れ再びアスガルドに戻ります。この筋書きは、まさしく一旦死んで蘇る神の死と再生の冥界下り物語と言えますし、下降上昇のビジュアルもそれを補強します。


 そして『ラグナロク』は、その意味で『ソー』と一緒の構造であることが見て取れます。ラグナロクでもソーはサカールに「落とされ」、その異界で全ての力を封じられ剥奪された状態になり、そこでの経験を通して再び力を取り戻し、アスガルドに帰還するからです。というよりも、ラグナロクが完全に『ソー』の「語り直し」であることはまず間違いありません。そして私が見るに、ソーと相似の物語構造にしたのは、単なる1作目へのオマージュやましてや焼き直しではないと思っています。そこで触れられていたテーマに対するアンサー、中途半端になっていた物語を完遂させた姿にバージョンアップしたもの、を示したものと考えられるのです。


 『ラグナロク』は非常にコミカルでポップな感じであり、ケネス・ブラナーが演出しシェイクスピア劇のような重々しさすらあった『ソー』と対照的で、ソーシリーズの雰囲気や伝統をぶち壊しにしたと批判されることもあります。しかし実は大変『ソー』を大切にした作品であり、ある意味非常に古典的な英雄譚であると言えると思います。思えば最初の方でムスペルヘイムで竜退治をするソーを描いたことは、これから古典的な英雄譚が描かれることを予感させるものだったのかもしれません。


不充分な、あるいはあえて完遂されなかった冥界下り物語『ソー』


 『ソー』における「冥界下り物語」は、先に述べたように構造としては典型的でしたが、個々の要素を見ると実は不十分な面がありました。

 たとえば「力の剥奪」です。ムジョルニアを持ち上げる力も、アスガルドの衣装も奪われ地球に落ちたとき、病院で少し拘束されたとはいえ、ソーはすぐに解放されます。そして彼は地球人の青年の服を着こなした魅力的な姿で描かれます。立ち居振る舞いや語彙がふるめかしいのでそれが地球人を困惑させるものとしてコミカルに描写されますが、一方でそれは彼が地球においても王子であり続ける証でもあります。高貴な佇まいや態度に、地球人ジェーンも戸惑いながらも感服し愛を感じてしまいます。また北欧神話としてのアスガルドの知識は地球でも存在するということも示されます。ですから彼は地球で「辱め」を少し受けるとはいえ、彼はある程度自由に動けますし、彼の根本的な優位性はゆるぎません。地球は魔の世界でも圧倒的に不利な世界でもないのです。そもそも地球はアスガルドの支配領域ですしね。


 「宝を携えての帰還」「新たな自己の獲得」という点ではどうでしょう。

 ロキによって派遣されたデストロイヤーに単身立ち向かい、自分の命も顧みずデストロイヤー越しにロキを説得しようとし友を助ける行為がオーディンの心を動かして、ムジョルニアを持つ者の器であると承認され、たちまち衣装も力も元のものを取り戻し、アスガルドに帰りました。確かに「宝を携えての帰還」です。

 しかし「新たな自己」という点ではなかなか微妙です。まず、彼は確かに「謙虚になった」「すぐにパワーを振りかざして相手を服従させようとしなくなった」わけですが、なぜそこに至る心境になったかは曖昧です。ソーは力ずくでヨトゥンヘイムを服従させようとする短絡的で非政治的な頭の持ち主であり、父オーディンに歯向かう頑固者ですが、そのような点が、地球での出会いや地球ならでは出来事によって直接的に改められたとは見えません(せいぜいセルヴィグとのバーでの語らいが少し影響したと言える程度です)。むしろ直接の理由は、どんなに頑張ってもムジョルニアを持てなかったこと、そしてソーのせいでオーディンが死にソーが追放されたというロキの嘘を信じこんだために見えます。言い換えれば、己の無力を実感し、しでかしたことの重大さに気づいたことがショックだったから、否応なしに謙虚になったというのが真相に見えるのです。


 そして何より「父からの承認」で「元の自分の力を取り戻す」という構図がどうも引っかかります。単に「父親の定めた枠内に収まり素直になっただけの子供」という立場にも見えてしまいます。

 しかも、王位継承の式典(戴冠式ではなく王位継承者と認める儀式?)は、結局ソーがまだ自分は王になる資格はないということを最後に告げたので、中断されたままです。

 また彼はムジョルニアという「宝の獲得」を行いましたが、それによって弟ロキを宇宙空間に失うという大きな喪失体験もします。ロキは単なる倒すべき憎い敵ではなく、ソーにとっては直前まで普通の家族でしたし、獲得のもたらした喜びが彼の喪失によってある程度相殺されてしまっているのは否めません。ロキの裏切りや悪の行為の裏には、正しい側とされるオーディンやソーの日頃の態度や、そもそも出生の秘密を隠していたアスガルド王家の問題もあるので、単純に敵をやっつけてよかったねとならず、ほろ苦い後味を残します。

 

 これらは、シリーズものとして続けるために、あえてそうした部分もありますが、それゆえに英雄譚としての物語構造が完結しないもどかしさがあります。


「剥奪」も「獲得」も徹底していた『ラグナロク』〜 中断された王位継承の完成


 翻って『ラグナロク』を見てみますと、「元々の力の剥奪」「辱め」「存在の危機」というところからして、ラグナロクの方が遥かに徹底しているのがわかります。

 サカールでソーは謎の連中に捕まって拘束されますが、すぐに解放されるどころかそのまま支配者グランドマスターの剣闘士奴隷にされてしまいます。ソーは自分のちからを封じられ、アスガルドの名前を出しても、グランドマスターは「アス()バーグ?」と冗談で返して、まともに取り合ってもらえません。アスガルドという権威がここまで無視され尊重されない状況というのも、ソーシリーズでは初めてでしょう。しかも逆らえば首に装着された「服従ディスク」を発動して昏倒させられ、酷い場合は「処刑棒」で溶かして殺されてしまいます。まさしく魔の領域であり、神といえども消滅の危機の連続と言えるでしょう。


 「元々持っていた力の剥奪」としては、偉大なオーディンの後ろ盾が彼の死によってなくなってしまったことも大きい。しかもオーディンの長子だと思い込んでいたのが、実は姉がいて幽閉されていたという驚愕の事実が発覚。これまで信じていた「因って立つところの真実」の瓦解であり、これも力の剥奪につながります。


 そのように「剥奪」が徹底していた一方、「宝や新たな自己の獲得」も、よりくっきりとした形を取っていました。

 力を取り戻すプロセスは『ソー』の時より明確で、成長のきっかけが何なのか視聴者にも明らかにされています。最初はハルクとの戦い。そこで絶体絶命になり瀕死になった時、一瞬今までにない、ムジョルニア抜きの雷神の力を発揮しかけます。どうもソーには、自力で雷を呼べそうだということが暗示されますが、ここでは一旦頓挫します。しかし彼は、そのようにムジョルニアもなく取り立てパワーがあると自覚してもない時に、ヘイムダルの力を借りて民の窮状を知って、何がなんでも自分が助けなければならないと悟ります。かっと見開いた彼の瞳がヘイムダルと同じ金色になるシーンは思わずゾクゾクしました。まさに神話的な物語に相応しいシーンです。

 彼はそのために、今までいがみ合っていたハルクやヴァルキリーも頑張って説得します。その説得ぶりは不器用ながら、今までのソーだったらあり得ない知略や気遣いの表現などを駆使しており、まさに「新しい自己」を感じさせるものでした。『ソー』でウォリアーズスリーやシフなどの元々の仲間が、説得の必要なくすんなり協力してくれたのとは鋭い対比をなします。


 そして弟ロキへの態度や扱いも明らかに変化しています。突き放しつつも、自分と異なるロキの本性を認めるに至ります(それまでのソーはどちらかというと、ロキに対して自他の境界線が曖昧だったように見えました)。弟に騙されることもありません。『ソー』ではシールドの囚われの身なってる時に現れた弟の言葉を信じ込みますが、サカールでは剣闘士部屋に囚われてる時に現れた弟の言葉は全く信じませんし、『ソー』で騙された分身の術にももう騙されることもありません。これらもまた『ソー』との意識的な対比でしょう。

 最後のきっかけが、ヘラとの戦いで絶体絶命になる時です。その時確かに幻の父に背中を押されましたが、しかし彼の能力は父から承認され与えられたものでなく、彼自身がもともと持っていたものを「覚醒」させたものであるのが重要です。「覚醒」シーンが、父から言葉をかけられる幻を見る前のハルク戦ですでに少し起こっていたのは象徴的です。彼は内面的にも外面的にも、一旦死んで自ら生まれ変わった雷神ソーとして、大いに活躍するわけです。


 それと同時に、『ソー』で取りこぼした宝も得ました。「王位」と「弟」です。

 ソーは式典が中断されて以来、王たる者とは何かという問いを一作目から問い続け逡巡していたわけですが、父のいないアスガルドの危機で、それは「民を守ること」であるという、シンプルでありながら大変重要な答えを自然に会得しました。同様にアスガルドの危機を迎えながらも、アスガルド人が最後の1人になっても戦うと言ったダークワールドのオーディンはえらい違いです(それだけに、ソーの見た幻のオーディンが、アスガルドは場所でなくて人だと言ったのには大変違和感がありました。ダークワールドのオーディンの発想はその逆だからです)。民の集う広間で威厳を持って静かに質素な王座に就くソーは、黄金の宮廷で無邪気にムジョルニアを振り回していた王子の中断された儀式をやっと完結させるものでありました。

 また『ソー』では失ったムジョルニアを取り戻すものの同時に弟を失ったの対し、『ラグナロク』ではムジョルニアを取り戻せないものの、失った弟が自ら還ってくるという、対比構造があります。この対比により、ソーにとって本質的に大事なものは、ムジョルニアという父の権威ではなく自分の潜在的なパワーであり、また弟であったことが証明されました。長い長い回り道でしたね。

 英雄は長い旅路を経て、失うべきものを失い、得るべきものを得たという、見事な英雄譚の完成がここにあります。


.では『ロキ』は?〜『ラグナロク』よりもさらに「死後の世界」をイメージさせる世界観〜イニシエーションを経た覚醒の時は来るか


 さて、そのような英雄譚として完成を迎えた『ラグナロク』を大変意識しているらしきドラマ『ロキ』の、『ラグナロク』との類似点をもう一度振り返ってみましょう。


1)不本意な形で、今まで暮らしていた世界とは異なる価値観や、時間の流れが異なる世界に落下する

2)今まで持っていたパワーを封じられそれを発揮することを奪われてしまう

3)これまでの身分や価値観が顧慮されることなく 王子として遇されず、一介の囚われのびとの身となる

4)録音されたナレーションに従ってオートメーション化された服従システムに取り込まれる

5)辱めを受け、ビジュアル的に地位が転落したことを印象づけられる

6)自分の力で自由を贖う必要に迫られ、試練を受ける


 1)5)までは、全て『ラグナロク』の冥界下りにおける「力の剥奪」に呼応しているのがわかります。TVAはサカールと同様、魔の領域であり、現世のロキが知っていた世界や共同体の常識が全く通じないところで、自らよりも遥かに強大な力に従うしかありません。ロキを含めた全宇宙が血眼になって探し求めていたインフィニティ・ストーンが、なんのパワーも発揮できずガラクタ扱いというのは、価値の逆転現象として象徴的です。  

 そして『ロキ』はラグナロクよりもさらに露骨に容赦なく、ロキが現世で持っていたものを剥奪していきます。

 たとえば5)ですが、髪切りよりも全裸にされる方が遥かに辱め度合いは高いですし、持てるものを全て奪う感も強い。ロキは「アスガルドのレザーだ」と強調しており、それを奪われるというのは端的にアスガルドの王子というアイデンティティが失われることを視覚的に示してると思われます。

  私はこれを見て真っ先に「イナンナの冥界下り」を想起しました。シュメールの女神イナンナは、身につけていた飾りであり神力であるものを、冥界への7つの門を潜るたびに1つづつ剥ぎ取られていき、最後には裸になってしまうのです。この全裸にさせられるということだけでなく、何段階もの階層を経て冥界を下っていくのも、TVAで描かれてますね。ロキはいくつもの扉を潜って(あるいは落とされて)、持っていたものを奪われながら裁判所に向います。テッセラクト、衣装、王子として特別扱いされる権利魂があるかどうか判別される機械は、明らかに「門」ですし。

 TVAの「冥界性」と言えるものは、その他の点でもサカール以上であるといえます。もうひとつには連れてこられた者の「平等性」があります。サカールでソーが戦闘能力を評価され高値をつけられたような差別化すら行われない、徹底した「平等な」扱いを受けます。ロキがその消滅を目にして驚いた地球人のボンボンはモルガン・スタンレーの役員の息子らしいですが、彼が特別扱いを主張しても聞き入れられません。これは死の前では全ての生き物が平等であることを印象づけられます。

 極め付けがロキが裁判にかけられるシーンです。

 一般的な裁判と違い、弁護人もおらず、高圧的な裁判官が有罪か無罪かをほぼ一方的に、現世の行状をもとに言い渡されます(しかもその基準はよくわからない)。これは世界的なトポスとして見られる「死後裁判」を彷彿とさせます。先程引用したイナンナも、全裸で到着した冥界で裁判にかけられ、死刑になって冥界の女王によって殺されます。ロキもまた、現世の衣装を剥ぎ取られて裁判にかけられ、「リセット」判決を受けるのです。

 またTVAは大変お役所的な、システム重視なイメージで描かれています。これは私見ですが、死後の世界がしばしば役所的な手続きを経るイメージで語られがちなのとも関係してるかもしれません。2020年に公開されたピクサーの『ソウル(邦題『ソウルフル・ワールド』)』では、死後の世界の魂たちについて描かれていますが、そこでもオートメーション化されたシステムの中に、死者の魂が事務的に放り込まれ、様々にテストを受けさせられたりして振り分けられていきます。

 そして一旦TVAに捕獲されたら「元のタイムラインに戻れない」不可逆性も、死そのものです。


 現世の「ロキ」はこのように、様々な意味で一旦死を迎える、ということが、『ラグナロク』の引用とその増幅によって、強く印象づけられるのです。

 

 ではその次に来るのは何でしょうか。

 6)はまさしくイニシエーションそのものであり、『ラグナロク 』でソーが経た瀕死状態からの再生と「覚醒」が待っていることが予想されます。考えてみるとロキは「悪戯の神」として描かれていますが、それが物語に大きく作用するところは今まで描かれませんでした。また魔術師としての彼もあまり描かれていません。ある意味ロキは空っぽです。彼は第一話で、しきりに自分は王になるのだと主張しましたが、TVAの職員メビウスによって、何者にもなれない、周囲を刺激したり傷つけたりするしかできない存在でしかないと言われましたが、確かに彼はソーのサイドキックでしかない人生でした。

 その何者にもなれないロキが、ソーラグナロクで示したような劇的な本性の覚醒を行うとしたら、大変胸熱です。第一話で「私の物語だ」「いやあなたの物語ではない」というやりとりを、ロキとTVAの裁判官がしていますが、もしかしたら彼は自ら物語を生み出す神として覚醒するのでしょうかソーが自ら雷を生み出す神として覚醒したように。


 そしてロキは「Homeに帰りたい」と繰り返し言っていますが、そのHomeは、『ラグナロク』でも重要な意味を持ちます。ソーはサカールから故郷アスガルドに戻っても、ヘラを倒すためにアスガルドを焼き払い崩壊させてしまうことになります。しかしアスガルド人がいるところがHomeであるとされ、そこにソーが戻って、民を載せた移民船の中で戴冠します。ロキもまた、元のタイムラインに戻れなくても彼がHomeと感じられるどこかに行けるのかもしれません。「覚えておけ、ここがHomeだ」と言ったオーディンの姿が第一話で出てきたのはそのHome獲得の予兆であると思いたいものです。

 考えてみると、勝利と獲得を続けてきたソーに比べて、ロキは喪失の連続でした。アスガルド人として、家族の一員としての立場を奪われ、ソーに敗れ、帰る場所を失って宇宙を彷徨いサノスの手先になってまた敗れメビウス言うように負け続きの人生です。EGで分岐しない正史ロキは、ダークワールドでの共闘やかりそめの王座などを経て、ラグナロクでようやく民と兄のそばを「戻るべき故郷」に定めたわけで、やっと立つべき場所を獲得したわけですが、ドラマのロキは失ってばかりのままです。

 そのドラマロキが、ソーの英雄としてのアイデンティティ確立物語であった『ラグナロク』をリフレインし、みずからも新たな自己をと故郷を獲得するとするならば、一つの救いであると言えるでしょう。たとえ戦いで負け続けの人生で、元の故郷の誰も自分の活躍を知らず、彼らに認められなくても、立派に素晴らしい宝を得たと言えるのではないでしょうか。なんなら、結局は元々の共同体での承認を得ることに落ち着いた正史ロキよりも、より広がりのあるアイデンティティを得られるかもしれません。(6/15 18:50追記 そしてソーが結果的にサカールに革命を起こすことに加担してサカールを転覆させたように、ロキもTVAを転覆させることになるかもしれませんね。TVAは結構独裁的で胡散臭い機関に見えますから、その可能性も充分ありそうです)

 そうなれば、多くの人間負け続けで表舞台に立つことのない人生を生きる人間にとって、大きな励ましになると思うのです。ロキは正史の中でも、様々な意味で周縁的な存在であり、マイノリティであって、現実のマイノリティに大きな共感をよんできました。本ドラマもそうなることを願って、第二話以降も楽しんでいこうと思います。