皆さんこんにちは、トパーズ2号です。
先日『キャプテン・アメリカ ザ・ファーストアベンジャー』(2011年公開)を改めて観ました。
実は私、本作は随分前にとびとびに観ただけだったので内容をあまり覚えておらず、色々新鮮な気持ちで鑑賞できました。とりわけ、アメリカのヒーローの物語でありながら、なかなかに北欧神話テイストの強い映画であったことに驚きました。まあ元々、本作でMCUにおいて初めてコズミックキューブ(テッセラクト)、すなわちオーディンの秘宝でとてつもないパワーを秘めた石が登場し、それを血清を打って超人と化したナチスのシュミット(レッド・スカル)が地球の保管場所から奪い、地球を支配する武器として利用しようと企む…という話なので、当然といえば当然なのですが。それにしても記憶にある以上に北欧神話のモチーフが現れ、なんだか『マイティー・ソー』(2011年)より北欧神話ぽいなあとすら思いました。
私がこの映画で一番驚きまた嬉しかったのは、ワーグナーの楽劇が使われていたことです(出典: https://m.imdb.com/title/tt0458339/soundtrack) 。楽劇『ニーベルングの指環』、つまり、ウォータン(北欧神話ではオーディン)の物語である楽劇の音楽が印象的に使用されており、オーディンの秘宝をめぐる映画の音楽としてまことにふさわしいと思えました。本作以上にオーディンが関わる『マイティー・ソー』では、音楽的にもプロット的にも『指環』の影がほとんどなく(視覚的には『指環』舞台的な雰囲気がかなりあったと思いましたが)、ワーグナーファンの私は少々がっかりしてただけに、嬉しいサプライズでした。
で、確か初見でも、「わ、指環だ!!」と思ったものですが、その時は「ナチだからワーグナー出したんだな」程度の認識しかありませんでした。でも今回改めて見直してみて、これは思った以上によく考え抜かれたチョイスなのでは…と考えるようになりました。
ナチスがらみ&オーディンがらみでワーグナーを出すなら、もっと分かりやすくてポピュラーな部分を出してもよかったはずです。たとえば『地獄の黙示録』で有名になった「ワルキューレの騎行」とか。これなら、そんなにクラシックに詳しくなくてもピンとくる人は多いでしょう。何よりシュミットが各都市の攻撃に使う重要な戦闘機が「ワルキューレ」ですし。
しかし今回選ばれた曲は、確かに指環第二夜『ワルキューレ』から主に取られてましたが、かなりマニアックな部分でした。ワーグナー好きならば、あああの歌か、となりますが、普通は気付きにくい。
しかしあえてそこを選んだところに、何やら隠された意図を感じます。そして実際よく注意を払ってみると、その部分にはシュミットとコズミックキューブの出自や成り行きと、かなりシンクロするものが見てとれるのです。
以下にそれを見ていきましょう。
◼️音楽が示唆する現在と未来〜名剣ノートゥングとしてのコズミックキューブとジークムントに擬せられるシュミット
「ヴェーーールゼ!!ヴェーーーーーーールゼ!!!」
ゾラ博士がシュミットのいる部屋に入ってくると、こう大音量で歌うオペラ歌手の声がレコードから響き渡っていています。シュミットは画家に自画像を描かせている最中で、シュミット自身はシルエットしか見えません。その絵具は真っ赤な色。つまり、あとで判明する、超人になった代償であり証でもある「レッドスカル」としての姿を描かせていたのです。シュミットは博士に絵の感想を求め、傑作です!とお世辞を言わせてます。この空間では、シュミットのナチでのオフィシャルな立場というより、彼の超人として肥大した自我がいっぱいに広がってると思って良さそうです。
さて、この歌は何かといいますと、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』第二夜『ワルキューレ』第一幕第三場に出てくる歌です。ヴェルゼとは北欧神話の主神ウォータン(オーディン)の変名で、歌っているのはその息子ジークムント。ジークムントはウォータンが正妻とは別の人間の女性に生ませた息子なのですが、ウォータンとは生き別れて地上を彷徨っています。だからここは息子が「父よ!父よ!」と、まぶたの父ウォータンに呼びかけているシーンというわけです。
ちょっと長いですが、この歌の背景をもっと詳しくご説明しましょう。
ジークムントは先にも述べたようにウォータンの息子ですが、父が神とは知らず、その名前もヴェルゼだと思っています。幼い頃に敵に襲撃されて、母を失い父と妹と離れ離れになり、ひとりで各地を放浪しています。そして傷ついて倒れ、ある館で介抱されるのですが、その館の主人フンディングはジークムントの敵側の人間と判明。一晩泊めてはくれるものの、夜明けには決闘することになります。丸腰のジークムントはひとり夜中に父に呼びかけて、むかし危難の時に得ると父が約束してくれた剣は一体どこにあるかと叫ぶのです。
Wo ist dein Schwert?
Das starke Schwert,
das im Sturm ich schwänge,
bricht mir hervor aus der Brust,
was wütend das Herz noch hegt?’
ヴェルゼ!ヴェルゼ!
どこにあなたの剣はあるのです?
強き剣、
嵐の中で私が振るう剣、
その剣は、私の胸から現れないのか?
この荒れ狂う怒りが剣にならないのか?
すると館の主人の妻が現れ、居間の中央にそびえるトネリコの樹に突き刺さった剣を指し示します。ジークムントはそれこそが父が約束した剣であることを悟り、今まで誰にも抜けなかったというその剣を引き抜いてノートゥングと命名。そしてその主人の妻も、実は生き別れた妹だったとわかり、二人で手を取り合って館を抜け出します。
この、誰にも抜けない剣を引き抜き英雄の証を立てるというのは、アーサー王とエクスカリバーなどでも有名なモチーフですね。で、ここで注目すべきはその剣が「ウォータン(オーディン)のものである神威あるすごい武器」であり、それが「トネリコの樹に刺さっていた」という点です。
これ、ファースト・アベンジャーでコズミックキューブ、すなわち「オーディンのものであるすごいパワーの石(武器)」が「ユグドラシルの樹(の彫刻)に刺さっていた」ということと見事に呼応すると思うのです。
キューブが隠されているのは、保管場所である教会の壁に彫られた樹の彫刻。その樹がユグドラシル、北欧神話の世界樹であることは、シュミットの口から印象的に明かされます。「ユグドラシル!」と勿体ぶった口調で言った彼は、ユグドラシルについてちょっとウンチクを傾けたあと、その根本にいた蛇の目をポチッと押して、キューブの入ってるらしき箱を引き出します。
方や『ワルキューレ』では、剣がが刺さっていたのはトネリコの樹ですが、『ニーベルングの指環』においてはユグドラシルもまたトネリコであるとされています(ユグドラシルがトネリコというのは伝統的にそうみなされており、『指環』に限った話ではありません)。ある意味ジークムントは象徴的なユグドラシルから剣を引き抜いたとも言えます。もうシュミットとジークムントの相似性は明らかですね。
(出典:Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Die_Walk%C3%BCre)
つまり、シュミットがユグドラシルからキューブを引き抜いた行為は、ジークムントの行為と同一のものであると、この曲の使用は暗示していると言えるわけです。
さらにその線をおしすすめると、ノートゥングがウォータンからジークムントに約束されていたように、キューブはオーディンからシュミットに約束された、英雄の証たるものである…ということにもなります。シュミットは単なる強奪者ではなく、正当な持ち主というわけです。実際はそんなことはないんですけれども、あの曲の使用はシュミットをキューブの正当な持ち主であると歌い上げてるとも読めます。
シュミットは実際、自分がいかに超人になるにふさわしいか、何回も力説します。自分は普通の人間ではないと。そして完全なる超人にしてくれなかったアースキン博士を恨み、完全な超人キャプテン・アメリカに対してはほとんど個人的な憎しみとすら言えるような感情を抱きます。
ですからシュミットがジークムントのこの歌を流していたということは、彼が意識的にしろ無意識的にしろ、自分をジークムントになぞらえ、自分の正当性を強く主張しているシーンと読み取れるわけです。
なお、シュミットが「博士に認められなかった」ことに対して、あたかも父からの承認を得られなかった子供のような反発を感じていることは、ヴェルゼ〜の歌に続いて「父が約束した一振りの剣」という歌が博士の写真が映るシーンで流れてることでも明らかだと思います。
これ、本当はヴェルゼ〜の直前の歌詞なので、順番が逆なのです。それでもあえてそこで流したのは、やはり意図的なものを感じます。血清を作った博士はいわば超人としてのシュミットの父とも言える存在であり、Vater(父)という言葉を博士の写真にかぶせたことはそれを強く感じさせます。シュミットはウォータンがジークムントに危難を救う剣を約束したような、彼を英雄と認める証を博士から欲しかったのかもしれないですね。
(こちらは劇中で歌っていたジョン・ヴィッカーズと同じ指揮者カラヤンが共演した「父が約束してくれた一振りの剣」です。ヴェルゼ…ももちろん含みます。劇中と歌詞の順番が違ってるのがわかると思います)
しかしこのウォータンが息子のために用意した剣、選ばれし英雄の証は、その歌に続く物語を知ってる者にはかなり不吉な存在でもあります。
ジークムントは、妻を奪って逃げ去った彼にカンカンになって追ってきたフンディングと決闘するわけですが、そのノートゥングで戦う際、なんと他ならぬウォータンにより粉砕され、ジークムントは殺されてしまうのです。その事情はここでは置いておきますが、とにかく「神から与えられ、選ばれし者のみが手にする武器で敵をやっつけると思われてたのに、結局役に立たず持ち主が倒される」という、かなり不吉な剣というわけです。
なので、この曲について知ってる人は、シュミットはこのキューブを神から与えられた武器のように思ってるんだな…でも結局このキューブ使いこなせずに倒されちゃうんだな、ということが、なんとなく予見できてしまうのです。ひとつの音楽の使用で、現在の状況と未来の予言(予感)を同時にしてしまうという素晴らしいシーンと言えるでしょう。
この「最後には倒されてしまう」ということは、続いて『神々の黄昏』での「葬送行進曲」の出だしが使われてることでも、重ねて暗示されてると思います。
この葬送行進曲で悼まれるのは、ジークムントではなくその息子ジークフリートです。ジークフリートは、父が残したその名剣の破片を使って、新しく鋳造した二代目ノートゥングをふるって戦い、勝利を収めていきます。しかし彼も結局、指環の呪いから逃れることができず、ノートゥングをふるう暇もなく背後から槍で突かれて死んでしまいます。親子二代にわたって、「神の剣を手に入れたのに倒されてしまう」。神器コズミックキューブが持ち主を破滅させることを、こうして念入りに意識させていると言えましょう。
またこれは意図したかどうかよくわからないのですが、奇しくも「ラグナロク(神々の黄昏…『ニーベルングの指環』第四夜と同じですね)」という題名のマイティー・ソーの3作目でも、やはりコズミックキューブがでてきますが、続くインフィニティ・ウォーではそれを所持していたために持ち主であるロキが死ぬという展開に。コズミックキューブは人間の英雄のみならず神さえも破滅させるわけですね。
ちなみにシュミットとジークムントの相似性は、実は神威ある武器云々だけにとどまらないものがあると私は見ています。
ジークムントは確かに神の子で英雄ですが、世間の価値観と合わず、どこへ行っても迫害されてきたと述べており、アウトローです。
そしてシュミットも、ナチの中で浮いた存在であることが、他のナチ将校との会話から窺い知れます。彼の研究は将校たちからバカにされ、ヒトラーもあまり買ってはいないようです。彼もまたナチの中のアウトローであり、周囲の価値観とのズレに苦しみ戦っているわけです。
ジークムントとはそのように色々共通点のあるシュミットですが、一点かなり違うところがあります。ジークムントは、フンディングの妻に不本意ながらなっている女性ジークリンデと愛し合い、それが生き別れの妹と判明するというドラマチックな恋愛展開があり、それが彼の悲劇のきっかけともなっているのですが、シュミットには女性の影は皆無です。そして映画では、ジークリンデについて歌った部分は巧妙に省かれています。父が約束した一振りの剣〜と、ヴェルゼ〜の間に、ein Weib sah ich, wonnig und hehr: から始まるかなり長いジークリンデに関する歌詞があるのですが、映画内ではサクッと切り取られています。
この部分の切り取りにも、シュミットとジークムントの対比を完全なものにしようとする製作側の意図のようなものを感じてしまいます。
◼️では、キャプテン・アメリカは?
破滅しなかった英雄—成功したジークフリートとしてのキャップ
さてここまで考察していくと、「ではキャプテン・アメリカは『指環』で何に相当するのか?」という問いもたててみたくなります。
指環音楽に関しては、これ以外のシーンでは使われないので、無理にキャップもその解釈に入れ込まなくていいかもしれません。しかし指環音楽が使われたのがキューブとシュミットの関係を示すシーンであり、キューブがノートゥングになぞらえうる存在となれば、そのキューブに関わるキャップもまたその解釈の流れに沿って分析してみるのも悪くない試みかと思います。
映画の筋をもう一度振り返ってみましょう。
オーディンが地上に残したすごいパワーがあるコズミックキューブを、地球を支配するためにシュミットが奪う→純真無垢な戦士であるキャプテン・アメリカがそれを阻止しようとする→シュミットがコズミックキューブを手にして消滅する→コズミックキューブがキャプテン・アメリカもろとも海底に沈む
キューブ=ノートゥングを中心に見ていきますと、キューブの所有は紆余曲折を経てシュミットからキャップに移行し、キャップはいわばシュミットの後継者となることがわかります。しかしキャップはそれを用いることなく、自らの身体と共に水底に沈めます。
つまり、この映画は支配の力の源たるモノ(キューブ)の所有をめぐる物語であり、最終的にそれがヒーローとともに水底に沈められる話であるとまとめることができます。
このあらすじとニーベルングの指環を比較してみると、似たようなストーリーラインが実は指環の中にもあることに気づきます。そう、ニーベルングの指環そのものと、ジークフリートです。
ラインの黄金から鍛えた世界を支配する力の指環は、悪辣なアルベリヒ→ウォータン→巨人ファフナー と持ち主を変えていき、最終的に英雄ジークフリートに所持されます。しかしジークフリートは殺され、彼の遺体と共に指環は焼かれます。それを氾濫してきたライン川が飲み込み、指環は再びラインの水底に沈むのです。
こうしてみると、キャップはジークフリート、キューブはニーベルングの指環であるとも読み解くことができるでしょう。
キャップの特質も、考えてみるとジークフリートに大変近しいものがあります。キャップの大きな特徴である、血清によって増強された逞しい肉体を持つ金髪碧眼の白人の青年像は、ナチスが礼賛したアーリア人の理想像たるジークフリートに重なります。また恐れを知らず、純潔である点(彼が女性との付き合いが慣れておらずぎこちないことは繰り返し描写されます)も、ジークフリート的な要素と言えます(むしろジークフリートを通り越してパルジファル的とも)
キャップはしかしジークフリートとは決定的に異なる点もあります。まず、ジークフリートのように憧れの女性と結ばれたり、ギービヒ家の宮廷に出入りして世俗化したりしません。憧れの女性ペギー(ペギーもジークフリートの恋の相手ブリュンヒルデと同じく女戦士ですね)とも、ついに結ばれることなく、また世俗の権威にも取り込まれません。そしてジークフリートは指環を手放すことを頑として拒むのですが、キャップは自らの意思でキューブを手放します。そして彼はジークフリートのように死ぬことなく、水底から救い出されて蘇るのです。
キャップはいわば裏返しのジークフリート、こうあるべきだったジークフリートと言えそうです。(ニーベルングの指環のジークフリートは結構ひどい男です) 。キューブをノートゥングに見立てる場合でも、シュミット=ジークムントからの後継者ということで、やはりキャップはジークフリートの立場であると言えそうです。
ナチスドイツのアイコンたるジークフリート的な特徴と映画内での位置付けを持った青年が、同時にいわば善のジークフリートとしてナチスドイツ(に所属していたヴィラン)を打ち破るという筋書きは、大変アイロニーに満ちていると思われます。
このように『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』は、短いながらも『ニーベルングの指環』の曲を駆使して様々な読み方を提供するという、なかなか素晴らしい映画と音楽のコラボレーションだったと思います。
その後のMCUではワーグナーの曲は使ってないようで残念ですが、またドラマや映画で使われる機会があるといいなあと思います。